高麗軍威麟角寺普覚国師静照塔碑 請求番号221/45/1~2

資料情報

高麗軍威麟角寺普覚国師静照塔碑 / 2枚 / 王羲之集字麟角寺碑拓本朝鮮義興麟角寺普覚国師靜照塔碑 / 封筒裏面に「朝鮮總督府裁判所封筒六號」の印あり


(個別の内容は、左の画像と共に表示)

解説

『朝鮮軍威麟角寺普覚国師静照塔碑』は、朝鮮半島南東部、慶尚北道軍威郡の古老面華北里華山にある麟角寺に現存し、韓国政府から宝物第428号に指定されている。

普覚国師とは、高麗時代の禅僧、『三国遺事』の撰者としてもよく知られる一然のことで、麟角寺は、その一然が忠烈王15年(1289)に84歳で入寂するまでに常住した寺である。一然の訃報を聞くと、王はこれを悼み、喪事を監護させ、普覚と諡し、同年10月に麟角寺の東崗に静照という名の塔を建てた。本碑は、それから6年の歳月をかけ、忠烈王21年(1295)に完成する。

碑文は一然の生涯を伝える最も重要な資料であるが、これは門人の雲門寺住持の大禅師清珍が作った一然の行状がもとになっている。清珍が行状を作り王に奏上すると、王はすぐに立碑を命じ、重臣で名文家でもあった閔漬(1248-1326)に撰文させた。碑陽の撰文は、まず仏法の真理を説き、それを弟子たちに伝えた一然を称賛する。続いて、一然の生涯を叙述し、弟子たちと問答した内容や著書を詳細に記録する(ただし、『三国遺事』の書名は碑文の中に見えない)。最後に、一然を讃える長編の銘で締め括る。文字は、王命を受けて門人の竹虚が、かの有名な書聖、王羲之の楷書を集字したものを用いている。

また、陰記は門人の宝鏡寺住持の大禅師山立によるもので、一然の行跡と門人たちの姓名を列挙する。門人は総勢170名で、大禅師や禅師の法位を持つ高僧が41名、在家信徒のうち高官が23名。当時の宗教界における一然の影響力の大きさが窺い知れる。

石材は水成岩を用いたために雨に弱く、さらに、王羲之の文字を得るために幾度も拓本を採られたことで、碑面は著しく剥落し、過半数の文字が石から読み取れなくなってしまった。本研究所所蔵の拓本は断片大小2枚あり、大きいものは碑陽右辺を、小さいものは碑陰右辺をそれぞれ採拓している。写し出された文字は鮮明だが、前者は、剥落や石のくぼみにより解読不能な箇所も多い。しかし、碑陽を遺漏なく収録した韓国学中央研究院所蔵の拓本(金錫昌から購入したもの)や、江原道平昌郡月精寺の僧侶が1836年頃に謄写した写本などから、碑陽の文字は完全に復元、碑陰もほぼ復元できている。

2枚の拓本が収められていた灰色の封筒の裏面には、「朝鮮總督府裁判所封筒六號」と押印されている。裁判所と拓本、一見何の接点も持たないように見えるこの2つの事柄を繋ぐ人物が一人いる。それは、小田幹治郎(1875-1929)である。彼は、韓国統監の伊藤博文の要請を受けて、韓国の法整備のために慣習調査を行った梅謙次郎の弟子にあたり、梅の死後、その任務を引き継ぎ、『韓国慣習調査報告書』をまとめあげたことでも知られる。

小田はもともと長野で裁判所判事をしていたが、明治40年(1907)、韓国政府の聘用に応じ、朝鮮半島北部の平安北道裁判所の法務補佐官として、現地の行政官に対して裁判事務に関するサポートを行う任務に就いた。その後、43年(1910)、韓国併合に伴い、朝鮮総督府の事務官に任じられ、初めのうちは法曹出身の立場から、上述の古法旧慣の調査にあたっていたが、金石文の調査や、朝鮮総督の寺内正毅の特命を受けて海印寺の大蔵経の整理にも着手。大正4年(1915)に中枢院書記官、7年(1918)に中枢院調査課長を歴任し、中枢院が取り扱う古蹟の調査・博物館の経営・朝鮮語辞典の編纂・『朝鮮金石総覧』の刊行・朝鮮史の編纂などの事業を実際上主管していた人物と言われている。この拓本も、あるいはどこかで小田の目に留まったものかもしれない。

(吉田)

請求番号221/45/1 / 登録番号157308 / 縦101.6cm×横68.4cm / 朝鮮義興麟角寺普覺國師靜照塔碑(一)王羲之集字麟角寺碑拓本 / 碑陽右辺

請求番号221/45/2 / 登録番号157309 / 縦68.5cm×横37.1cm / 朝鮮義興麟角寺普覺國師靜照塔碑(二)王羲之集字麟角寺碑拓本 / 碑陰右辺