新羅慶州鍪蔵寺阿弥陀如来造像事蹟碑 請求番号221/47

資料情報

新羅慶州鍪蔵寺阿弥陀如来造像事蹟碑 / 1枚 / 朝鮮慶州鍪藏寺阿弥陀如来造像事蹟碑 / 1枚目 / 請求番号221/47 / 登録番号157311 / 縦121.5cm×横90.7 cm / 朝鮮慶州鍪藏寺阿彌陀如来造像事蹟碑 / 碑陽

解説

『新羅慶州鍪蔵寺〔むぞうじ〕阿弥陀如来造像事蹟碑』は、大正3年(1914)5月9日、朝鮮半島南東部、慶尚北道慶州市の暗谷洞にあった鍪蔵寺廃跡付近で発見された。発見したのは、朝鮮総督府出張員の金漢睦・中里伊十郎の両名だが、これは当時総督府事務官を務め、金石文の調査にも携わっていた小田幹治郎の指示によるところが大きい。

この石碑は、かの有名な書聖、王羲之の字を集刻したこと、『三国遺事』巻3、塔像第4、鍪蔵寺弥陁殿に碑文の一部が引用されたことで良く知られてはいたが、つとに倒壊し、長らく所在がわからなかった。朝鮮英祖38年(1760)には、慶州府尹の洪良浩が部下を派遣してこれを探し当て、純祖17年(1817)には、書家で金石学者でもある金正喜が碑身の断石2片を再発見したが、その後また所在不明になってしまった。総督府による発見は、それから約100年を経たものであり、螭首・亀趺と金正喜が発見した断石2片(大石・中石)に加え、新たにもう1片(小石)が確認された。ただし、この3片は碑身を構成する要素のごく一部に過ぎない。大石は碑身の中下部右辺、中石は上部左辺、小石は下部右辺にあたると考えられ、本研究所所蔵の拓本もその配置で取られている。

碑文は、新羅哀荘王期(800-809)に、先代の昭聖王の冥福を祈るため、昭聖王妃の桂花夫人が阿弥陀如来像を造り、鍪蔵寺の奥に弥陀殿を建てて安置したことを伝えている。大奈麻の位にあった金陸珍による撰文である。

大正4年(1915)、碑身の断石3片は京城(現在のソウル)の総督府博物館へ移され、その後、景福宮勤政殿の廻廊に陳列された。現在は国立慶州博物館に保管されている。

(吉田)