新羅慶州奉徳寺鐘 請求番号221/90/1~4

資料情報

新羅慶州奉徳寺鐘 / 4枚 / 朝鮮慶州奉徳寺鐘銘同天女 / 柏林社書店より昭和46年12月17日購入


(個別の内容は、左の画像と共に表示)

解説

『新羅慶州奉徳寺鐘』は、朝鮮半島南東部、慶尚北道慶州市の仁旺洞にある国立慶州博物館の野外展示場に現存し、韓国政府から国宝第29号に指定されている古鐘である。

この鐘は、その鐘銘冒頭に「聖徳大王神鍾」とあるように、新羅第33代の聖徳王(?-737)の冥福を祈るために造られたもので、子の景徳王(?-765)が黄銅12万斤を喜捨して巨鐘の鋳造をのぞんだが失敗し、まだ完成を見ないうちに崩じたので、その子である恵恭王(758-780)が遺志を継いで、恵恭王7年(771)に遂に完成し、奉徳寺に奉納された。その経緯は、『三国遺事』巻3、塔像第4、奉徳寺鐘にも記されている。

大きさは高さ333.0cm、口径227.0cm、厚さ22.7cm、重さは19トンという大鐘の製作は、実に30年もの歳月を費やした難事業だった。失敗が続いたことを思い悩んだ鋳工の下典が、幼い姪を人柱に立てて鐘を作り直し、ようやく鋳造に成功したが、そのために鐘の響きは「エミレ(お母さんよ)!」と聞こえるという哀しい伝説も語り継がれ、別名「エミレの鐘」とも呼ばれている。

朝鮮王朝時代に書かれた『東京雑記』によると、聖徳大王の願刹である奉徳寺に納められた鐘は、近くを流れる北川の氾濫により、奉徳寺が廃寺となったため、朝鮮世祖5年(1460)に霊妙寺へ移されたが、この寺もまた廃され、慶州邑城南門の鳳凰台下に運ばれて、軍を徴するとき、朝夕の城門開閉のときに用いられたという。大正4年(1915)10月に、朝鮮総督府博物館慶州分館の鐘閣に移動し、それを慶州博物館が引き継ぎ、1975年の新館完成に伴い、東部洞の旧館から、仁旺洞の新館に移された。

刻文は、撞座と飛天の間にあり、文・詞ともに陽刻、撰文は、文・詞とも朝散大夫前太子司議郎翰林郎の金弼奥(金弼粤・金弼奚とも)、文字は、文が翰林台書生大奈麻の金蓀□(金□晼とも)の楷書、詞が大奈麻の姚端(洪端とも)の行書である。文の内容は、鐘を製作した経緯について、詞は4字50句で書かれている。

拓本に貼られた付箋には、「東研購入(四六、一二、一七 本郷柏林社書店)四、五〇〇円 表装後登録とのこと。」とあり、東京都文京区本郷にある柏林社書店から、昭和46年12月17日に4,500円で購入したことがわかる。柏林社書店は、美術史家の大村西崖の甥である古屋幸太郎氏が、大正8年に創業した美術書を中心に取り扱う古書店である。

昭和46年は、末松保和先生の学習院大学在任期間(昭和22年~50年)中にあたり、本拓本購入も、末松先生によるものと考えられる。

(吉田)

請求番号221/90/1 / 登録番号283890 / 縦88.9cm×横87.5cm / 朝鮮慶州古鐘銘 / 文

請求番号221/90/2 / 登録番号283891 / 縦88.0cm×横88.7 cm / 朝鮮慶州古鐘銘 / 詞

請求番号221/90/3 / 登録番号283892 / 縦136.2cm×横68.4 cm / 朝鮮慶州古鐘天女 / 右向き

請求番号221/90/4 / 登録番号283893 / 縦136.0cm×横68.6 cm / 朝鮮慶州古鐘天女 / 左向き