新羅焼片耳付広口壺

資料情報

史料館番号:史料館252/『標本原簿』名称:百済焼/『標本原簿』番号:154/製作地域:朝鮮半島/製作時期:三国時代/陶製/口径9.4cm×胴12.0cm×底3.7cm×高10.6cm/数量:1点

解説

新羅土器(新羅焼)は朝鮮半島南部の嶺南地方の古墳で出土する灰青色硬質土器(陶器)を示す。精選された胎土を使い、1,000度以上の高熱を出す登窯〔のぼりがま〕で焼成した土器である。轆轤〔ろくろ〕を利用し、大量生産がなされた。新羅土器の基本器形には高い脚のついた高坏〔たかつき〕と長い頸を有する長頸壺〔ちょうけいこ〕がある。新羅土器は原三国時代後期(3世紀)には見られ、洛東江を境に新羅群(慶州土器)と伽耶群に大別される。長頸壺については、新羅群は台の付いたものが多いが、伽耶群はほとんど無台円底とされる。伽耶の土器は日本の須恵器の誕生に直接的な影響を与えたと考えられている。

本品は無台円底の長頸壺で、把手を有する。底部のラベルには「慶州両班裴基潤氏邸内出土 昭和2.8.10 有馬喬雄寄贈」とある。慶州は古代新羅の都である。旧制学習院歴史地理標本室の原簿には「百済焼」とあり、昭和10年(1935)10月24日に有馬華子氏の寄贈によるとある。華子氏の夫は大正天皇の侍従で、明治41年(1908)には、皇太子の韓国訪問に随行した有馬純文〔すみあき〕氏。純文・華子夫妻の子、喬雄氏は大正7年(1918)生まれで、寄贈時には9歳で、初等科に在籍していた。

(村松)