周礼注疏(十三経注疏) 請求番号391/110

書誌情報

重栞宋本十三經注疏附校勘記 / (淸)阮元 撰・校勘記、(淸)盧宣旬 摘録 / 同治12年(1873) / 刊行 江西書局 / 刊本 / 177冊 / 10行字数不等 / 左右双辺 / 有界 / 黒口 / 双魚尾 / 断句無 / 縦25.6cm×横14.8cm / 框高17.0cm / 旧蔵印無 / 寄贈者 原德三氏

解説

『重栞宋本十三経注疏附校勘記』は、清の阮元〔げんげん〕が『宋本十三経注疏』に校勘記を付して刊行したものを、江西書局が全180冊本として重修刊行したもの。十三経注疏とは、『易経』・『書経』・『詩経』や『周礼〔しゅらい〕』『論語』・『孟子』など十三種から成る経書の集成。

本書は3冊の欠本があるものの、旧蔵者であった大谷湖峯〔おおたに・こほう〕による覚書が随処に記されているという点で価値を有する。例えば、『周礼注疏』第1冊中には、「楊鍾羲〔ようしょうぎ〕」と書かれた名刺とおぼしき白い紙が挟まっており、また同書の封面裏の朱筆による書き入れからは、大谷湖峯が昭和8年(1933)に北京の七略盦学舎で行なわれていた楊鍾羲(1865~1940)の講読会に参加する際に使用していたテキストが本書であったことがわかる。書中には「楊先生某月某日講讀了」といった書き込みも散見される。一緒に講義を受けていた「酔軒先生」とは、中国文学研究において著名な橋川時雄(1894~1982)の号。

大谷湖峯

大谷湖峯について詳しい足跡は分らないが、『駒沢大学学報』第1輯(1940)には、彼の書いた論文「葛洪の著書に関する研究 道蔵成立研究の一節として」が残っている。『同学報』付記によると、彼は昭和3年(1928)に駒沢大学東洋学科に卒業論文を提出し、その後、駒沢大学研究生として昭和5年(1930)に「仁の硏究」と「仁の史的研究」、昭和10年(1935)に「日本陽明学派の展開」というテーマで発表を行なっている。これはちょうど彼の北京留学前後の足跡と見ることができよう。

楊鍾羲

楊鍾羲については、橋川時雄編『中国文化界人物総鑑』(中華法令編印館、1940)にポートレイト入りで紹介されている。それによると、彼は光緒15年(1889)に清朝の進士となって諸官を歴任し、民国12年(1923)以降は隠居生活を送っていたようである。橋川の「北京の学芸界」(『橋川時雄の詩文と追憶』)には「八旗文学の泰斗として『雪橋詩話』の著者楊鍾羲も昨年逝世、晩年その品格はわが邦人にも慕はれていた」という記述が見える。

橋川時雄

酔軒先生こと橋川時雄については、詳細な記録が残っている。「橋川時雄年譜」(今村与志雄編『橋川時雄の詩文と追憶』汲古書院、2006)によると、橋川がはじめて中国に渡ったのは大正7年(1918)であり、大正11年(1922)には北京の順天時報社に入社している。楊鍾羲の講義が行なわれていた昭和8年(1933)には、東方文化事業総委員会総務委員署理として、『続修四庫全書提要』の編纂事業に携わっていた。当時の様子は、「橋川時雄回想録」(『橋川時雄の詩文と追憶』)にも詳しく述べられているが、楊鍾羲の講読会に参加していたことは、年譜にも回想録にも記されていない。ただ、『続修四庫提要』の執筆者の一人として楊鍾羲の名が挙がっていることから、楊と橋川の間に公私にわたる関係のあったことが推察される。

(廣瀬・松野)

(刊記)