閩中游草 請求番号154/236

書誌情報

閩中游草 不分巻 / (日本)久保得二(天隨) 撰 / 1931年序 / 私家版(久保得二)/ 刊本 / 1冊 / 10行21字 / 四周双辺 / 有界 / 黒口 / 単魚尾 / 断句無 / 縦28.1cm×横19.5cm / 框高18.5cm / 旧蔵印無 / 飯塚敏夫旧蔵書

解説

閩とは福建省のことで、久保得二(1875~1934)が昭和5年(1930)12月に福建省を巡って記した紀行詩集。

作者の久保得二は漢学者。明治8年(1875)7月23日、高遠藩士の子として東京に生まれた。号は天随、兜城山人、青琴、黙龍、虚白軒、秋碧吟廬主人。仙台の第二高等中学校を出て、明治29年(1896)に東京帝国大学漢学科に入学。明治31年(1898)に『帝国文学』編集委員となる。大学生時代には高山樗牛、土井晩翠らと親しく、明治32年(1899)4月、高山樗牛とともに尽力し、初め出版を断られていた土井晩翠の処女詩集『天地有情』を博文館より出版させた。同年7月に東京帝国大学漢学科を卒業し、10月に大学院に進学。その後、『帝国文学』などに評論・随筆・紀行文などを投稿し、漢籍の評釈や漢詩の訳註も行なっていた。明治38年(1905)4月からは法政大学講師を4年ほどつとめた。それ以後は複数の機関の嘱託を兼任しており、大正4年(1915)7月から数年間逓信省嘱託、大正5年(1916)から13年(1924)までは陸軍経理学校嘱託をつとめ、また大正5年7月には内閣文庫の階上に設けられた大礼記録編纂委員会の嘱託となったことで、同文庫の蔵書を閲覧する機会にめぐまれた。大正8年(1919)末には宮内省図書寮嘱託、翌年秋には同編修官となり、図書寮在任中には大東文化学院で毎週土曜日に作詩法を講義し、のちの台湾赴任の頃まで続けた。また、大正14年(1925)春頃から3箇月で「西廂記の研究」を書き上げ、9月に華北の旅から帰って2,3箇月を費やして補訂し、11月末に東京帝国大学に提出し、昭和2年(1927)11月7日に文学博士を授けられた。その間の昭和2年4月には随鷗吟社の主幹佐藤六石が逝去したため同社の主事となり、昭和9年(1934)までつとめた。昭和3年(1928)3月に台北帝国大学が新設されると、翌年4月11日に台北帝国大学教授に任ぜられ、文政学部で中国文学講座を担当し、中国文学史をはじめ、『桃花扇』『琵琶記』『鷗北詩話』などを教えた。昭和9年(1934)6月1日、自宅のあった台北市昭和町付近に落雷があり、その大音響の衝撃で脳溢血により死去。徳富蘇峰に日本有数の漢学家と評された。死後、その蔵書894種7427冊は台北帝国大学が購入し、同年10月31日に台北帝国大学に納められ、現在は国立台湾大学図書館本館の久保文庫となっている。また、自筆稿本、校訂本、印譜、編著書等は平成2年(1990)に四男の久保亮五の寄贈で早稲田大学中央図書館に入っている。なお、昭和6年(1931)6月1日に建てられ、碑面の文字を市村瓉次郎が揮毫した久保家の墓が、多磨霊園11区1種3側3番にある。

本書で扱われている福建省の旅には、台北帝国大学に勤めていた昭和5年(1930)12月、同大学臨時講師であった市村瓉次郎に誘われ、同僚教授飯沼龍遠とともに出発し、福州と廈門を巡った。福州では、台北の郷紳であった林文訪の屋敷を訪ね、林文訪を通じて詩人の陳衍に会っている。また、梁代の道士である王覇を祀った西禅寺、晋代に灌漑用に掘られた西湖、漢代に何氏九兄弟(九仙)が仙人になる修行をしたという于山、同じく何氏九兄弟がそこから烏を射たという烏石山、山頂に太鼓のような巨石がある鼓山、もと王審知の邸宅であった閩王廟など、福州付近の名勝史跡を巡っている。その後、廈門を訪れ、共同租界であった鼓浪嶼、鄭成功が水軍の訓練をしたとされる水操臺、それに福建の名刹・南普陀寺などに立ち寄ってから、台湾の基隆に戻っている。全20日の行程で、この間に詠まれた漢詩が本書に収められている。

序は陳衍と林竹影がそれぞれ記している。飯塚氏より本研究所が譲り受けた。

(島)

(表紙)