物理教育学会誌54巻3号(2006年9月)の「企画」欄への寄稿
「科学的な機構の位置づけ」の部分に誤解を避けるための加筆(2007年8月)
さる2006年3月に愛媛大学・松山大学で開催された第六十一回物理学会年次大会において、「『ニセ科学』とどう向き合っていくか?」というテーマのシンポジウムが開かれた[1]。 不穏な天候にもかかわらず、ジャーナリストや人文系研究者などの非会員を含む三百数十人が参加し、定員が三百人弱という会場を埋め尽くす大盛況だった。 また、シンポジウムの最後の討論では、幅広い参加者たちが活発に発言し、予定時刻を大幅に延長して熱い議論が続いた。 物理と社会にかかわる問題について大学院生を含む一般の会員が真摯に議論しあえる機会がもてたことは、きわめて有意義だった。以下では、このシンポジウムの基調になる考えを説明し、また、シンポジウムでの講演や討論などを通じて浮かび上がってきたいくつかの論点を整理したい。 より具体的な「ニセ科学」の実例や、「ニセ科学」批判の実際については、菊池、天羽の寄稿を参照されたい。
科学哲学者のポパーは、具体的な方法を特定することはせず、「反証可能性」という一般的な性質によって科学を規定することを提唱した。 ごく大ざっぱに言えば、提唱した命題を、実験・観測によって明確に「反証」できる道が開かれていることが、科学の条件だという考えである。 ポパーのこの考えは一世を風靡したようだが、冷静に具体例を検討すれば、何をもって「反証」とするかはきわめて微妙な問題であることがわかる。 今日では、ポパーの試みが科学の特徴付けの決定版と言えないことは、多くの専門家の認めるところである(たとえば、[2]を参照)。
結局のところ、科学というのは、(科学哲学者にしろ偉大な科学者にしろ)誰かの決めた規準に則って進めていくような性質のものではない。 われわれの周りの世界をより深く理解するため、あらゆる工夫をこらしながら進歩していく、動きのある営みが科学だというのが現場の科学者にとって(少なくとも私にとって)自然な見方だ [注:もちろん、そういう理想を言うだけでは、何も生み出さない科学者がでてくるとか、科学が(社会にとって)有害な方向に進むといった弊害を生むおそれがあるのは事実だろう。 しかし、それは、科学の特徴付けという根本的な問題とは切り離して検討すべき課題である。]。
科学的な主張の真偽も、決して、ある時に決定的な実験が行われて確定してしまうというようなものではない。 ある主張が正しいか否かは、様々な実験や観測の結果との一致、また、関連する他の様々な理論との整合性などを通じて、時間をかけて判断されるものだ。 さらに、科学の理論には、つねに成立のための条件や制約がある。 ある理論が、どういう範囲でどのレベルまで信頼できるかについても、科学の長い歴史の中で、ゆるやかに変化しながら確立していくのである。 よく言われるように、科学の世界に「絶対」という事はない。 ある「確からしい」主張が、実験や観察や理論的考察に鍛えられながら、「より確からしい」主張になり、さらに時を経て「ほぼ確実な」主張になっていったものの蓄積が、科学の成功している部分なのである。
相対主義というのは、何らかの主張の真偽や成否は、絶対的には決まらず、文化的・社会的な背景に応じて決まるとする考えの総称である。 実際、「麺類を食べるときに音をたててよいか」といった問いには絶対的な答えなどない。答えは、明らかに、文化的・社会的な背景に依存する。 しかし、科学と非科学の境界が確実でないという事実から一気に飛躍して、科学も、神話も、「ニセ科学」も、それぞれが適切な文化的・社会的背景のもとでは「真実」であると主張するのは、行きすぎた相対主義であり、明らかな誤りである。
相対主義的な主張は、口当たりがよく、また表層的には個性を重んじる「進歩的な」香りがするためか、社会に広く受け入れられやすいようだ。 反科学や「ニセ科学」を助長する「理論的基盤」となっている感がある。
極端な相対主義の悪影響は、実は、理科教育の場にも及んでいる。 これは「ニセ科学」以上に深刻な問題である。 注意を喚起するため、「これからの理科教育」という本[3]から少し長目に引用しよう。
たとえば、「物質は原子や分子から成り立つ」という命題は、「物質が客観的事実として原子や分子という実在から成り立っている」ということを直接的に述べているのではなくて、「原子や分子という理論的構成物の存在を仮定して物質という世界の成り立ちを考えてみる」という一つの世界理解の仕方であるということを示している。・・・ここで重要な観点は理科でも取り扱われるさまざまな科学概念、科学理論や法則、体系というものは、そういう意味で、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としないという点にある。(p. 2-3、強調は引用者)ここに述べられているのは、要するに「科学とは人が(勝手に)作ったものだ」という考え(社会構築主義的科学観)である。 もちろん、「自然界に実在する」というのは厳密にどういう意味かなど自明でない問題があるのは事実だが [注: 科学哲学の専門家が、科学哲学者どうしの議論の中でさまざまな概念の厳密化のために努力するのは、まったく構わない。 しかし、それを安直に理科教育などの現場に持ち込むのは間違いである。]、理科教育を論じるレベルであれば科学的な概念が「自然界に実在する」ことを疑う余地はほとんどない。 それを敢えて強調することは、理科教育への弊害しかないと私には思える。
実際、同書の以下の記述はその感想を裏付けている。
たとえば、冷水の入ったガラスビンの周りに結露する水滴の由来についても多様な考えが存在していることが知られている。あの水滴はビンの中からしみ出してきたといったものである。このような考えはビンの外側の水面の高さまでしか水滴が現れないことや、ビンを傾けると新たに水滴が現れることなどの観察事実を根拠にしている。もし、事実を根拠に論理的に推論することのみを科学的であるとするならこのような考えも理論的なものであるとしなければならない。我々の考え、すなわち結露したものとしてみる水滴は、「水蒸気」という科学概念や結露という科学理論に依存したものである。五感のどれを使っても知覚不可能な水蒸気は、物質として認識されたものではなく蒸発や結露といった現象の解釈から受け入れられた観念と見るべきであり・・・(p. 94-95)これは、言うまでもなく、きわめて稚拙な論説である。 「水滴はビンの中からしみ出してきた」という考えは、たとえば水のかわりに油を入れてみたり、周囲の湿度をコントロールしたりといった、客観的な実験・観察でいとも容易に論駁できる。 「科学は人間の構築物」といった不自然な考えをふりまわしたところで、何も得るものはないことを示す好例であろう。
実は、極端な相対主義を思わせる考えは、教育指導要領にも浸透しているとの指摘をシンポジウムの会場で受けた。 これはきわめて深刻な事態だと思われる。 いったい、なぜ、これほどに相対主義がはびこるのかは、検討を要する問題である。 堅実で地に足のついた知識を身につけそれに基づいて発言することの困難に比べたとき、物事を相対化して権威をあっさりと否定する論法の安易さが一部の人たちにとって魅力的に映るのかも知れない。 あるいは、「科学は万能で誤らない」という誤解をもっていた人が「科学は決して万能ではない」という事実を知ったとき、一気に極端な相対主義に走るということもあるのかも知れない。
これに対して、「水に『ありがとう』という文字を見せると、美しい結晶ができる [注:菊池の寄稿を参照。また、http://d.hatena.ne.jp/hal_tasaki/20051217 も参照。 ]」とか「ゲルマニウムは32度以上になると電子を放出し体の電気的なバランスを整える [注:たとえば、http://www.mm-socks.co.jp/chioclean/chioclean.html 参照]」といった「一見すると科学的な主張」が正しくないことは、やはり疑う余地がない。 これらの主張は無根拠に見えるだけでなく、これまでの長い歴史の中での経験の蓄積とまったく相容れない(あるいは、矛盾する)からだ。
成功している科学を「白の」主張、ほぼ確実に誤ったものを「黒の」主張とすると、両者のあいだには、広い「グレーゾーン」があり、様々な信頼度の主張が連続スペクトル的にずらりと並んでいる。
ここで「ニセ科学」と呼ぶのは、このスペクトルの末端近くに位置する「ほぼまっ黒な」主張たちのことである。 現時点で研究の対象になっており、未だに真偽の微妙な主張は「ニセ科学」ではない。 また、真摯に研究した結果、けっきょくは間違いだったと判明した科学の仮説も、もちろん、「ニセ科学」とは呼ばない。
日本の現代社会でも、様々な「ニセ科学」が生まれ、無視できない悪影響をもたらしている。 いくつかの具体例を、これまで積極的に「ニセ科学」批判に取り組んできた菊池、天羽両氏の寄稿から知ることができるだろう。
シンポジウムの討論の際に、「電子レンジに使われている2.45 GHzという電磁波の周波数は、水の分子振動の吸収ピークである」という全く誤った主張をもとに環境問題が議論されているという例が出された。 実際は、2.45 GHzという周波数は電波法で決められたものに過ぎず、これは幅広い吸収ピークの裾に位置するに過ぎないという。 しかし、この主張が「ニセ」であることを看破できる物理学者は会場の中でも少数派だったと思われる。
もちろん、科学は実験・観察から得られた経験事実をもとに構築される。 だが、蓄積した膨大な経験事実を総合的に理解できる段階に達すると、直接に実験・観察を行わずに、新しい実験や観察の結果を予見できるようになるのだ。 この段階で、科学の知見と大きく矛盾するような予想が出されれば、科学者は実験を新たに行わなくても、その予想が非常に高い確率で誤っているだろうと結論することができる [注: もちろん、その科学者の結論が誤りで、誤っていると考えられた予想が正しいという可能性もある。 科学者は、その予想が「どの程度、あり得ないか」を判断することで、そういった可能性の度合いも大まかに見積もることができる。 「水に『ありがとう』」の物語が真実である可能性は限りなく低い。 万が一、それが本当だということになるなら、これまでの科学の知見のほとんどがデタラメだったということになり、「物質は分子からできている」「地球は丸い」といった初歩的なレベルに立ち返って科学の大革命をしなくてはならないだろう。]。 言ってみれば、過去の膨大な実験結果が、その予想が誤りだということを裏付けているからだ。
たとえば、「今、君が『馬鹿野郎』と言ったために、十年後の今日には太陽が昇らないだろう」と主張する人がいたとしよう。 十年後の今日に実際に太陽が昇るか否かを確認するまでは、この主張を否定することはできないだろうか? 少なくとも、過去の長い年月にわたって、人が何と言おうと太陽が昇り続けたこと(そして、その背景にある天文学的・力学的な仕組みもかなりよく理解されていること)を知っていれば、この主張は確かめるまでもなくほぼ確実に誤りだと断定するのがまっとうな考えではないだろうか?
科学者はaの範疇のものだけを認め、bの範疇のものは「非科学的」とみなすという誤解がしばしばあり、それが「ニセ科学」批判と混同されることもあるようだ。 もちろん、経験事実こそが科学の出発点なのだから、科学者がbを排除することはあり得ない。 むしろ、効果が経験的に確かめられているにもかかわらずその機構がわからないものは、科学者にとって重要な研究対象になるのだ。 たとえば、漢方薬の中には、臨床実験で効果があることが明確に示されているものの、機構が解明されていないものも少なくないそうだ。
シンポジウムの討論で、科学者の中にも、bとcの(原理的な)区別が納得できていない人が少なくないということを感じた。 そもそも物理学における発展の多くは、まず機構のわからない現象が発見され(bの段階)、それが後に理論的に解明される(aの段階)ことで行われるのだから、こういった点が曖昧な物理学者がいることは、いささか驚きであった。
上で(理想化して)分類したa, b, cのような状況があったとき、これらの方法や製品を宣伝しようと思う人は、(やはり理想化すれば)以下のいずれかの道をとることになる。
シンポジウムの後、私は、とある代替医療の専門家と長いメールをいくつかやりとりした。 彼は、科学や医療のあり方、科学哲学などついて深い知識をもった方であり、彼の関わる医療を上のbに相当するとお考えになっている(私自身は、知識がないので何とも言えないが、基本的にそれが正しいだろうと感じた)。 しかし、その代替医療の外向きの宣伝においては、もっぱらb2に分類される戦略がとられ、さまざまな擬似科学用語の並ぶ説明が行われているという。 彼自身は、このような傾向に疑問を抱いているのだが、「効果はありますが、メカニズムは未だ解明されていません」と正直に伝えるのでは説得力を欠き商業的に不利になるという事情があり、多少(というか、相当)不確かでも、それらしい「科学風味」の説明をつけることが歓迎されているそうだ。
これは、「ニセ科学」批判を行う科学者の側も常に注意しなくてはならない点で、多数派のc2の中にb2が混ざっている可能性を指摘し続ける必要がある。 もちろん、最終的にはb2のような戦略をとらずとも「効果はあるが、機構は未知」と堂々と言える空気を作り出すことをも目指すべきなのだろう。
さらに、新聞記事やweb上での情報を読まれた多くの方々からシンポジウムに賛同する旨のメールをいただいた。企業の研究所に長年つとめながら「ニセ科学」の蔓延に苦い思いを抱いていた方や、企業が研究所にもちこんだ「ニセ科学」製品の性能評価に携わったことのある方からのお便りは貴重だった。 お隣の中国の大学の先生とジャーナリストからメールをもらったのには大いに驚いた。 何人かの方たちと意見を交換する中で痛感したのは、彼らが物理学の専門家による適切な情報発信を求めていることだった。明らかに「ニセ科学」と考えられる製品説明への批判記事を書こうとしたとき、拠り所とすべき専門家による情報が圧倒的に不足しているという新聞記者のご意見もあった。
物理学の専門家への期待は、われわれが思っていた以上に大きいようである。 しかし、多くの場合「ニセ科学」を批判するには、相手の主張を丁寧に分析し周辺分野の知見を詳しく調べる必要がある。これは、様々な負担やリスクに比べると見返りの少ない大変な仕事である(これについては、とくに天羽の寄稿を参照)。できれば、多くの物理学者がそれぞれの「得意分野」を分担しあう共同体制を作るのが望ましい。
批判の範囲についても熟考が必要だ。 「サンタクロースは非科学的」などと発言することに意味はないが、「水に『ありがとう』という文字を見せると美しい結晶ができる」とする小学校の道徳の授業を看過できないというのは多くの科学者の共通の感想だろう。 それでも、「そのような些細な話を批判する暇があったら、×××のような大きな話を批判すべきだ」といった意見は絶えない。 結局、何をどう批判していくかは、個々の科学者の判断によるしかないと思うのだが、なかなか万人をなっとくさせる答えはないようだ。 このような「優先順位問題」については、菊池の寄稿をご覧いただきたい。
個々の科学者が独自に批判を行うだけでは限界がある上にリスクが大きすぎるから、物理学会なりが組織的に批判活動を行えないか --- と、シンポジウムに出席したジャーナリストのお一人が質問・提言された。 しかし、物理学会において、歴然たる「ニセ科学」としか思えない発表が行われていることからもわかるように [注: 物理学会では、学会員が事前の審査なしに研究発表を行う。 また、新たに会員になるためには、会員二人の推薦をもらいさえすればよい。 ]、物理学会は何らかの主張の是非を統一的に決定し権威づけるという役割はもっていない。 また、過度の権威主義は、権威の逆利用など無数の弊害を生むおそれがあり、望ましいものではない。 理事会による「ゆるやかな権威付け」によって、批判の社会的影響力を高めることなど、いくつかの方策を考えていくべきだろう。 物理学会会長(当時)の佐藤勝彦氏による「ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ」というコメント(朝日新聞、2006年1月4日(九州版)5日(関東版・関西版)夕刊)が実質的に生きてくることを期待したい。