黒木のなんでも掲示板田崎晴明ホームページ

「黒木のなんでも掲示板」における田崎の掲示

三原色、色覚、聴覚、味覚

東北大学数学科の「黒木のなんでも掲示板」に私が投稿した記事を共通のテーマでまとめた抜粋です。 原則として初出のままの形ですが、どうしても必要な他の人の記事の引用や注釈を加えたり、掲示板を離れると意味がわからないような部分を削除し、これだけで筋が通るように配慮しました。 各記事の Id ヘッダー行の # から始まる文字列をクリックすると、もとの黒木掲示板のその記事自身にジャンプしますので、前後の様子などを知りたいときにご利用下さい。 (このページでは、記事は上から下に書いた順番に並んでいますが、元の掲示板に行くと、下にあるものほど古いという逆向きの(掲示板では普通の)順番になるのでご注意下さい。)

Id: #a19980819142245
Date: Wed Aug 19 14:22:45 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 三原色

お久しぶりです。 少し東京を離れていました。 昨日は中央高速を走りながら、渋滞になりかけのいやああな感じの 1/f ノイズ(らしきもの)、地方の気体状態的走行と都内の液体状態的走行の差などを味わいつつ、菊池さんや早川さんのことを思い出しておりました。

ところで、三原色の教え方については、ぼくも長年引っかかっています。

そもそも、光や色に三原色がある(正確に言えば、全ての単色光を再現する三原色は存在しないそうですが)というのは、一重に我々人間の視覚の仕組みに由来するいわば生物学的な事実です。 しかし、子供の読む理科の本などでは、三原色の存在が光の基本的な性質といっしょくたにされて説明されているような気がします。 案外、ある程度の理科、科学の知識のある人でも、このあたりを混乱している(混乱させられている)人は多いかも知れません。

念のために、少し説明します。

これは、 赤い光りです。 (カラーディスプレーでご覧下さい。) 実際のブラウン管のことはよくわからないのですが、これはある周波数を持った単色光(やや数学的な注意:目に入ってくる光りの作る電場が、時間と共に一つの周波数のサイン関数として振動する)だとしていいでしょう。 緑の光りもまた、ある周波数を持った単色光です。 ここで、赤い光り緑の光りを同時に光らせて、混ぜてやると、なんと黄色の光りに見えます。(実際に、color 指定で、二つの光りを混ぜています。)これは、単色光ではないことに注意して下さい。二つの単色光が混ざったものです。(やや数学的な注意:目に入ってくる光りの作る電場は二つの異なった周波数で振動するサイン関数の和です。これは、単一の周波数のサイン関数では表されません。)

ところで、世の中には黄色に見える単色光というのもあります。 たとえば、虹の黄色の部分はそうだと思って構いません。 (虹の小さな部分はみんな単色光を発しているとおもっていい。) 単色光の黄色は、ある意味で「本当の黄色の光り」です。 さっき作った黄色の光りはある意味で混ぜものの、「偽の黄色の光り」です。

実験によれば、人間の目は、単色光の「本当の黄色の光り」と混ぜものの「偽の黄色の光り」を決して区別できないそうです。 その理由は、生物学的なもので、我々の目の中にある三種類の色を感じる細胞が、「本当の黄色の光り」と「偽の黄色の光り」に対して全く同様に反応するからだそうです。

しかし、人間の肉眼で区別出来ないからと言って、「本当の黄色の光り」と「偽の黄色の光り」が同じだと社会的に構成してはいけません。 これらが違うものだと言うことは、たとえばプリズムに通してやれば、たちまちわかってしまいます。 本物は黄色のままですが、偽物は赤と緑の光に分離します。 また、人間とは少しでも異なった色の測定法を採用している生物が見たら、「本当の黄色の光り」と「偽の黄色の光り」は違った色に見えてしまうはずです。 我々は、フルカラーのディスプレーを開発したと言っていますが、同じものをたとえば宇宙人が見たら全然でたらめな色に見えるはずです。 宇宙人来訪に備えて、連続スペクトル光ブラウン管を開発すべきですな。 (質問:犬って、色はわからないのですか?この前も、みんなでビデオを見ながら犬に「ほらおまえが写ってるぞ」と言っても全くわからないみたいでした。仮に色覚があるとすると、めちゃめちゃな色に見えて、理解不可能なのかなと思った。 色覚がないなら、(どの周波数域を感じるかという問題はあるけど)ある程度は見えるはずですね。)

これを書いていて気づいたのですが、聴覚との比較は面白い。 我々は、音の周波数については、光のような大ざっぱなことをせずに、かなりの精度でフーリエ変換を行って周波数の成分に分解して聴き取っているようです。 (生物の情報処理の時間と周波数の兼ね合いから、光と音では根本的に違う処理を行っているのだろう。) ぼくらが光についてやっていることを、音にたとえると、たとえば、ドとソと1オクターブ上のドの三つの音の高さしか認識できないというようなことです。 そして、ミの音はドとソが適当な割合で混ざったものと聞き取られるので、たとえばドとソの和音とミの単音が決して聞き分けられないという事になります。 これは、情けない。音楽も成立しません。


Id: #a19980819165457
Date: Wed Aug 19 16:54:57 JST 1998
From: 田崎
Subject: いぬ

別にテレビをみて「あ、俺だ」(ケンケンの声で読んでね)と思って欲しいのではなく、「あ、犬だ」 と思うかなということです。 そういう反応さえない。

電話の例のように、音の方は違うはず。 昔、猫がにゃあにゃあないてるのをテープレコーダーにとって 聞かせたら、かなり激しく反応していた。 ぼくらは、音については空気の振動のパターンをそのまま記録し、再生する しかけを使っている。 映像については、記録の段階で人間にもろにカスタマイズした方法で 情報処理して、人間用に再生している。

三原色については、ロゲルギストエッセイに割と詳しいのが あったと思うのだが、本がどこかにまぎれてしまった。 (どなたか、わかりませんか?付記:その後、ロゲルギストエッセイを調べたけれど、思っていた記事はみつからなかった。勘違いかな?) ただし、そのエッセイでも三原色が人間のみに適用される 生物学的現象だという説明がなくて(あるいは、少なくて)不満に思った記憶がある。 Feynman の Lecture notes in physics vol.1 にも 何か書いてあった気がする。


Id: #a19980819231348
Date: Wed Aug 19 23:13:48 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 三原色

> ところで三原色の定義って何だ?他の色を混ぜて作ることができない色?

ではなくて、

三種類の単色光を適当な強さで混ぜ合わせることによって、人間が感じるあらゆる色を再現することができるだろうか? これができるとき、その三つの色を光の三原色と呼ぶ。
というのが、定義だろうとぼくは思ってきました。 これは、人間の目の色を感じる(三種類の)細胞がどのような周波数特性を持っているか、またその後の脳ではどのような情報処理をしているかによって決まることで、理屈(というか物理の知識)だけではわかりません。 ひたすら実験するしかない。 結局、本当に上の条件を完璧に満たす三つの色というのはないので、かなり広い範囲をカバーする「赤、緑、青」を光の三原色と決めたというのが、ぼくの理解でした。

とにかく小波さんが教えて下さった本を読んでみよう。

ところで、「色気」とか「色っぽい」とかの用法で「色」という言葉を使うのはどれくらい普遍的なんだろう? 少なくとも中国語にはそういうニュアンスがあって、日本語も受け継いでいる。 ヨーロッパ語にもそういう用法はあるのかな? (たとえば、「奇人」、「奇妙」などの「奇」と、「奇数」、「偶奇性」という数学概念の「奇」に同じ文字を用いるというのは、英語の odd にもあり、かなり普遍的。)


Id: #a19980820145121
Date: Thu Aug 20 14:51:21 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 色と鏡

はるひこさん、

それから、この三種類の色素の遺伝子がどういう風に進化したかという話も結構面白いです。 どれもロドプシン(かん状体の色素)を原型としているのですが、アミノ酸の配列をみると、 遺伝子の重複(duplicationの訳ってこれでいいのかな)によって、まず青の遺伝子ができた ようです。それから、だいぶ最近になって(つい3000万年程前)赤・緑の原型となる遺伝 子ができ、それがまた二つに分かれて赤と緑の独立した遺伝子ができたようです。ちなみに、 それより以前に我々と枝分かれした新世界猿(南アメリカの猿)はロドプシンと青の色素し か持っていないので、色覚もだいぶ違うでしょう。

そうすると、3000 万年よりこっちくらいで別れたお猿の仲間たちとは同じテレビを見ることができるということか。 (人間の色気がわかるかどうかは知らないが。) 色々とわかって来てうれしいです。

鏡の話で思い出したのですが、ぼくの大学時代の友達が、幼稚園に入るか少し前くらいに母親の姿見に映る自分の姿を見てものすごい衝撃を受けたという記憶について話してくれた事があります。

彼は、その時点までは自分自身は肉体を有する一個の人間だという自覚がなく、ただ回りの世界やその中で暮らす人々を眺める純粋な視点として自分を認識していたそうです。 そして、そのとき鏡の中に自分の姿を初めて認めて、「自分もこのような肉体を持った、みんなと同じ人間なのだ。」という事に気がつき、世界がひっくり返るような衝撃を受けたというのです。

その友達はかなりエキセントリックな人でしたが、このエピソードはあまり公言しないでくれと言っていました。 (名前だしてないからいいでしょう。) ぼくは、これはとても面白い話だと思います。 確かに、誰でも生まれてからしばらくは自分中心の世界に住んでいて、自分も一人の人間だとは気が付いていないでしょう。 しかし、ほとんどの人の場合、物心が付く前に自分の肉体性の認識が訪れ、自分を視点としてのみ認識していた時代の記憶は失ってしまうのだと思います。 彼の場合は、どういう訳か、ある程度の自我が確立した後でも初期の世界認識を保っていたわけです。 そういう人がいるということは、我々の世界認識がどうやって作られていくかを考える上でとても大切で面白い情報だと思います。 一週間に 3000 アクセスを誇るこの掲示板の読者の中にも、同じような体験の持ち主はいらっしゃいますか?


Id: #a19980821191824
Date: Fri Aug 21 19:18:24 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 多原色

古川さん、ありがとうございます。

でもも し光を表現するコトバが「明るさ」「色合い」「鮮やかさ」の他にもうひとつあったらと想像するとゾクゾクしますね.
そういう想像は本当に楽しいです。

ここ何日か、世界を眺めながら、

この鮮やかな様々な色たちは、たった3種類の光の検知器で得られた情報を総合して情報処理した結果の表現に過ぎず、これらのものが放っている真の光の情報のごくごく一部しか伝えていないんだぞ! (ある意味で、本当の「色」は無限次元空間のベクトル(各々の周波数の単色光を基底ベクトルにとる)なのに、ぼくらはそれを3次元空間に射影している。)
と自分に言い聞かせていますが、いくら理屈はそうでも、やはり各々の色は「自分の外にある客観的な実在」と感じられてしまいます。

ぼくの妄想は4原色よりもひどいもので、聴覚では耳に入った振動の情報をフーリエ変換してある範囲の周波数の重ね合わせをちゃんと情報処理しているのと同じように、目に入る光をある範囲でフーリエ変換してちゃんと周波数の重ね合わせを理解できるような知覚があったらどんなだろうなどと想像しています。 (そういう場合は、角度分解能を犠牲にするのでしょう。 我々のように光の直進性がよい環境ではそういう知覚が発達する可能性は低いけれど、光がたちまち散乱されて、角度分解から情報が得られないような世界ではそういう機能をもった生物が発達しても構わない??) すると、赤の光と緑の光を混ぜた光(ぼくらには黄色く見える)もちゃんと赤と緑の「和色」(ドとソの和音を聞くときは、決して中間の音に聞こえるのではなく、単音とは全く違って響く「和音」として聞く。それと同じように、二つの色が同時にそれぞれ見えることを「和色」と言おう)に見えるわけだし、四つや五つの色の「和色」が感じられて、響きのいい「和色」があったりする。 光の「和色」を利用した情報伝達や芸術があり、ドビュッシーみたいな人がそれまで芸術家が使わなかった和色を使いだしたり・・・

と書きつつ、世界を見渡しても、高々3原色の風景が見えるだけ。 無限原色を利用した「和色」の世界を見る目は、ぼくらにはないですね。


Id: #a19980824110719
Date: Mon Aug 24 11:07:19 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 色と味

色の話ですが、色は3原色のベクトルの 合成で表せると、どなたか書いていらっしゃいましたが、 これは本当なのかしら。

てっとり早く答えると、

ほとんど本当です。
と言えばいいと思います。

たとえば、テレビやコンピューターのディスプレイには様々な色が映りますが、虫眼鏡や(学研の付録に付いてくるような)気楽な顕微鏡で画面を拡大すると、実はどんな色も赤と緑と青の小さな粒粒の集まりで出来ていることがわかります。 (子供の頃に見たでしょう?) 赤と緑と青の明るさを様々に調整して(というのが、ベクトルの合成に相当します。ただし、この場合の「明るさ」というのは正または 0 の量なので、普通に線形代数で習うベクトルの合成とは違って、負ではない係数を使ったベクトルの合成を考えることになります。)多彩な色を表現しているのです。

これは本当なのかしら。
という疑問に答えるためには、この世にある様々な色を持ってきて、それがテレビの画面で(赤と緑と青の明るさを調整することで)再現できるかどうかを試して見ればいいわけです。 そういう実験を一生懸命やると、
ほとんどの色は OK。 でも、どうがんばっても、再現できない色もほんのちょこっとある。
という結果がでるそうです。 日頃、テレビを見ていて、現実の世界の色が欠けているとは感じませんから、実質的にはぼくらの感じる全ての色が赤、緑、青の(負でない係数による)合成で表されると理解していいと思います。 (付記:負の係数というのにもある意味付けをすれば、負の係数も許せば 全ての色が表現できる。 そのような「基底」の取り方は無数にある。)

味の専門的研究のことは知りませんが、色に比べると実験が難しいことは素人目にも明らかですね。 色の場合、上に書いた実験をする場合には、テレビと本物の色を並べて、よおおく見比べて、同じか違うかを判断すればいいわけで、これは工夫すれば、かなりの精度と再現性で実施できそうです。 味の場合は、二種類のものを同時に味わうことはできないし、純粋な「味覚」以外に触覚や温度など様々な要素で実際に感じる「味」が変わってしまいますよね。 (同じラーメンのスープのはずでも、麺のゆで加減で味が変わる。)


Id: #a19980824170041
Date: Mon Aug 24 17:00:41 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 味覚

視覚と一口に言っても、情報処理のレベルとしては、様々な段階のものがあると思います。 たとえば、漢字の読みとりや雲の形の識別といった高度のパターン認識を要する問題というのは、実にいい加減な表現ですが、「脳の奥深く」で処理しているという気がする。 そういう認識については、訓練による要素が大きく、個人差も激しくて、定量的に理解しづらいはずです。 これに対して、色の認識というのは、三つの錐体からの信号をごく簡単に情報処理するだけの作業で、どのへんが処理するかはともかく、「脳の深いところ」は使っていない。 (といっても、成長してから視覚を獲得した人の場合は、色の識別にもかなりの訓練を要するということです。 ただし、これは、脳がどのような情報を受け入れるように訓練されているかという別の問題と関連しているので、ややこしいですが。) だから、かなり普遍的な規則が簡単にみつかるのだろうと思います。

ぼくの感覚では、味覚というのは、いくつかの味の「基本要素」の強弱だけではなく、付随する臭い(千次元の情報!)や触覚、温度などなど非常に多くの要素を総合的に情報処理して得られているもののように思います。 つまり、味覚も「脳の奥深く」で処理している。 ですから、訓練や文化的背景による個人差も極めて激しく、統一的な描像が作りにくい、あるいは、存在しないということではないでしょうか?

その証拠というわけではないですが、味覚の記憶にはある種の再現力がありますね。 この間、京大で研究会のお世話をしたときも、もっとも日程的に苦しくて、肉体的にも精神的にもくたくたになりながら、それでも必死でポスターセッションを聞いて回っていたある午後の瞬間、何の前触れもなく、西早稲田のがんこラーメンの塩ラーメン(ローカルですが、これはぼくにとっては、究極のラーメンです)の味が口の中(頭の中?)に完璧によみがえってきて崇高な感動を覚えました。 こういう事がおきるというのは、やはり、高度な情報処理が行われていることの現れではないでしょうか? (総譜を暗記するなんていう能力は全くないのに、なんか、シンフォニーの一部がフルオーケストラで頭の中でばっと「聞こえる」ということもたまにありますよね。)

こう書いてくると、味の定量的研究なんかやめろということになりそうですが、そうではないのです。 視覚の場合も、明暗の区別から絵画の鑑賞までをいっぺんにベクトル理論で扱おうと思ったら、破綻するのは明白です。 色の識別という問題だけに話を絞り込むことで、信頼性と再現性があり、かつ普遍的で定量的な理解ができたわけです。 味の場合にも、何かとても上手な切り口をみつけて、着実な実験を行えば、普遍的な事実に行き当たる可能性はあるだろうと思います。 それが、蒸留水に塩と砂糖を溶かしたものの味の実験(この手の実験は、昔からかなり徹底的におこなわれているのでしょう?)みたいなものなのか、台湾料理に特有のスパイスが様々な料理に及ぼす効果の実験みたいなものなのかは、わかりませんが・・


Id: #a19980824182623
Date: Mon Aug 24 18:26:23 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: マドレーヌ

時田さん、

田崎さんのがんこラーメンもプルーストのマドレーヌも「脳の奥深く」なのか。

Intellectual IMPOSTURS (すっかり話題にならなくなりましたねえ)の著者として有名になってしまった Jean Bricmont のところに、むかし食事によばれたとき、奥さんがお友達にもらったマドレーヌよと言って運んできたら、Jean が突如「オー、マドレーヌ、なわんちゃらあ、くわんちゃらああ」(フランス語アクセントで読んで)とプルーストを引用して叫んだのを思い出します。 彼は、おもろいおっちゃんです。

ぼくは、歳をとった事だしと言って、プルーストを(もちろん、翻訳で)読み出したのですが、もともと小説を読む時間はほとんどないので、何年もこれ以外の小説はよんでいません。 (ようやく八巻目。)


Id: #a19980825210013
Date: Tue Aug 25 21:00:13 JST 1998
From: 田崎 晴明 <hal.tasaki@gakushuin.ac.jp>
Subject: 3原色

再び掲示の増殖がものすごい勢いになってきましたね。 前に書いたものが、たちまち後ろに飛び去っていくので、恐いくらいです。

やや不正確なことを書いたので、(もう昔のを読む人もいないでしょうが)簡単にフォローさせて下さい。 三原色について、極力わかりやすい説明を試みた掲示で、ぼくは意図的に負の係数も含めた色の合成には触れませんでした。 非負の係数による合成は、テレビの例でわかりやすくかつ厳密に伝えられるのに対して、負の係数ということを操作的に考えるには、もう1ステップ踏み込んだ議論が必要だからです。 その結果、ぼくの説明は3原色の説明としてはほぼ正確でも、「(負の係数も許す)色のベクトル表現」の説明としては、失格です。 もとのご質問が「色のベクトルによる表現」となっていた以上、わざと問題を簡単にして答えたのは、やはりよくない態度でした。

ぼくは、色の問題については、(自分の知らないことは書かないようには努力していますが)ほぼ耳学問のレベルで書いています。 読んでいてもおわかりのように、古川さんは、真のプロですね。 本当に正確なことは、古川さんの掲示(やちゃんとした本)から学べるはずです。


このページは、「黒木のなんでも掲示板」の検索と記事のダンプの機能を利用して作成しました。 ページのデザインも元の掲示板のものを踏襲しています。 こういうページを公開することを快諾して下さった、 そして、私がこういうものを書く場を提供して下さった黒木玄さんに感謝します。 また、ここに抜粋した一連の記事は、掲示板に書き込まれたたくさんの方たちの記事との受け答えの中で発展していったものです。 色々考えた末に、自分の書いた部分だけを集めましたが、楽しく議論して色々教えて下さったみなさんに感謝します。 (田崎晴明ホームページへ)