財とサービスの非自発的(政府)及び自発的(私的)供給

 

――外部性の新しい定義と政府の市場均衡への介入――

 

逸見 良隆

 

  

目 次

第1節 はじめに

第2節 外部性と公共財

第3節 公共財の定義

4節 同じ財,サービスが同時に公共財でもあり,私的財でもある

第5節 公共財と私的財を含む一般均衡

第6節 公共投資

第7節 財とサービスの供給に関する制度選択

第8節 結語

 

  

1節 はじめに     目次に戻る

 

この論文では,現代の経済において財とサービスの提供及び経済の運営に関して政府部門と市場(民間)部門がいかに役割の分担をするかを議論する。財とサービスの従来の分類,すなわち公共財と私的財の分類,対立軸は従来の定義による外部性のあるなしを基準にしていた。ここでは,外部性の経済学的意味を再検討するとともに,財とサービスの分類の基準を自発性のあるなしに変えようと試みる。ある経済変数についての主体の自発性(選択性)とは,その変数によって経済状態が影響されるその主体について,その変数に関して何らかの主体的均衡(効用最大化,企業価値最大化等)が成立していることである。これは公共財と私的財を含む財一般の自発的な提供についていえることである。つまり従来の外部性の定義,すなわち複数の効用関数,生産関数に同じ経済変数が入るという性質が重要なのではなく,その経済変数によって影響されるすべての主体について,その変数に関するすべての便益と費用を考慮した主体的均衡(最適)が成立しているかいなか,が重要なのである。ここでは,二項対立の対立軸を変える。政府と市場の分類,政府と市場の対立軸の意味は,政府以外の主体にとっては非自発性(非選択性,強制)と自発性の対立軸である。しかし,自発性と外部性はなんらかの関係がある。この論文における外部性(externalities)の新しい定義とは,主体的均衡(最適)の成立しない,つまり自分の選択ではないものによって自分の状態が左右されることである。すなわち非自発性,強制である。これらの外部性が存在しなければ政府以外のすべての主体の自発性だけで資源配分はパレート効率的になる。しかし外部性が存在するなら,すべての主体について主体的均衡(最適)が成立しているとは限らないのでパレート効率性が充たされない。(各主体の主体的最適によって選択された経済変数が,この論文で定義された意味での外部性として他の主体に,お互いに影響を及ぼしあう状況は,ゲーム理論の対象となる戦略的状況でもある。)公共財を含むこれらの外部性が存在するならば,それを制御するために民間の経済主体にとっては非自発的な,強制的な政府の介入が必要となる。これはもっとも広い意味での外部性を含む外部性一般について言えることである。

以下,本論文の内容を紹介する。外部性と公共財についての概念の整理,公共財と私的財を含むさまざまな一般均衡,公共投資,財とサービス(公共財と私的財)の生産と提供に関する政府経済と市場経済の役割分担と制度選択について述べる。主体的均衡なしに複数の主体を同時に拘束する外部性の重要性を指摘する。

それらの外部性(もっとも広い意味でのそれを含む)の存在が,所得の再分配以外の,公共財の提供を含む,経済主体にとっては強制的な政府の市場経済への介入の理由となる。その役割分担に関して,いかなる意味で,政府と市場(民間)は代替的であるとともに,補完的でもあるかを議論する。それらは,公共財と私的財のそれぞれを代替的にそして補完的に提供している。他方,政府は税制,移転及び公共財,非対称情報と不完備な市場というもっとも一般的な意味での外部性に対処するためも,パレート効率性を目指して,市場均衡に介入すべきである。

  

2節 外部性と公共財     目次に戻る

 

政府部門の経済活動の必要性とその意味を浮き彫りにするために,民間部門の経済活動がどのような役割を演じているかを考えてみよう。民間の市場経済でわれわれが観察可能なことは,個人と企業がさまざまな財,サービスを販売したり,購入したりする姿である。これらの販売と購入は個人の消費を通した効用最大化,企業の生産を通した利潤(企業価値)最大化の目的のために行われる。直接それぞれの財,サービスが相互に交換されることはなく,貨幣を媒介にして取引が行われる。貨幣と財,サービスの交換比率をそれらの財,サービスの価格と呼ぶ。貨幣と財,サービスの交換が行われる場を市場と呼ぶ。

 このような市場経済はどのような経済的成果をわれわれの生活にもたらしているであろうか。市場経済は,自給自足経済,社会主義命令経済,統制経済などと並ぶ1つの資源配分機構,言い換えれば経済制度である。(もちろん市場経済にもいろいろなタイプが存在する。それらはそれぞれが異なった経済制度と考えられる。)さまざまな資源配分機構がいかなる経済的成果を産み出すかを研究する厚生経済学は,市場経済の成果について次のような結論を導き出した。すべての財,サービスに市場が成立(これを市場の普遍性と言う)しているならば,競争均衡はパレート効率的であり,逆に多数ある中のどのようなパレート効率的な資源配分も適切な所得の再分配によって競争均衡として維持できる。後者の命題が正しいためには,付加的に凸性の条件,すなわち個人の無差別曲線が原点に向かって凸,生産関数が収穫逓減を充たすことが必要である。(資源配分機構あるいは経済制度を運営するための費用としての取引費用の大きさも経済制度の成果特性の1つと考えられる。)

 市場の普遍性は必ずしも充たされるものではない。例えば,いくつかの財,サービス(より一般的には,経済変数)は市場での取引を経ないで直接に個人,企業に供給されている。このような現象を,市場の外という意味で外部性と呼ぶ。外部性には,効用を上げる,あるいは生産費用を下げる等のプラスの効果をもたらす正の外部性(外部経済)と,反対にマイナスの効果をもたらす負の外部性(外部不経済)がある。これらの例としては,外部不経済に関しては大気汚染,騒音等が,外部経済には個人の周りの良好な生活環境,研究教育水準等がある。

 公共財は外部性という性質を持つため,まず外部性を最初に説明する。外部性には広義と狭義の2種類があり,政府が主たる生産物として供給する外部性が公共財であり,広義の外部性に含まれる。狭義の外部性とは,主たる生産・消費活動に伴って副産物として供給される財,サービスであって,一般的には外部性とはこれをさす。例としては,副産物としてやむをえず供給される騒音,排気ガス等の環境汚染が挙げられる。狭義の外部性では,ある特定の経済主体に供給の決定,供給量の選択の自由があるのに対し,広義の外部性である公共財では,政府にそれらの選択の自由がある。ある特定の経済主体あるいは政府以外の主体にとっては,これらの外部性は合意して選択したものではなく,非選択性(非自発性,強制)の性質を持っている。(ここでの広義の外部性は,第7節におけるもっとも広い意味での外部性とは異なっている。)

 外部性について市場が存在することが出来ない,すなわち市場の創設が妨げられる理由について考えてみよう。次のような理由が指摘されるであろう。(1)排除不可能性,すなわち,その外部性の専用不可能性という性質が指摘される。(負の)外部性は市場での取引を経ないで供給され消費されるため排除が不可能である。したがって,だれもその外部性からの(不)利益に対してその対価を支払おうとはしない。(2)市場取引が行われるために必要な情報の不足が指摘される。例えば,環境汚染のような外部不経済についてはどの経済主体が当該の外部不経済の出し手であり,どの経済主体がそれの受け手であるのか特定化することが困難である。外部不経済・経済の受け手は不特定多数にわたることが多く,個々の経済主体への外部効果の程度を知ることは困難であり,又,外部性は主たる活動とともに結合生産される副産物である場合がほとんどであり,それらの出し手にとってもその供給は一部分,非自発的に行われ,外部性であることを意識せずに行われる場合も多い。したがって,政策当局がその外部性の供給についての情報を得ることは非常に困難である。環境汚染については特に,発生源とその影響度について数値として具体的に知ることは科学的調査研究に拠らなければならないわけであるから,なおいっそう困難な問題である。(3)外部性については,その出し手と受け手の双方か,どちらか一方が極端に少数であることが指摘される。すなわち,双方独占,供給独占あるいは需要独占が市場の形態となり,完全競争は行われない。価格のパラメーター機能は失われ,一方の独占者によって取引が拒否されてしまうと市場そのものが成立しなくなる。

 次にこのような外部性に対して,いかに対応するべきかという問題を考えよう。外部(不)経済は供給側にとって何の対価も(負担も)なく供給されるものであるからそのままでは,パレート効率的な供給は実現しない。効率的な供給のためには外部経済にはプラスの価格を付け,外部不経済にはマイナスの価格を付けることが必要である。言い換えれば,その供給側に対して供給量に比例して外部経済に補助金を与えたり,外部不経済には税金を払わせたりする仕組みが必要である。それらの補助金,税金の率が正しいければ,パレート効率的な外部性が供給される。この税金,補助金のシステムの最も重大な問題点は,これらの外部性がどれほど供給されているかわかりにくいという,情報の不足である。さらに同じ情報の不足から,パレート効率性を実現する正しい税金,補助金の率を知ることも非常に難しい。外部性の受け取り手は,外部性を供給側によって数量として強制されるだけで,外部性の供給側と同じ率で外部経済に対して対価を支払ったり,外部不経済には対価を受けとったりすることがないため,これら外部性に関する政府の予算は自動的にはバランスしない。つまり予算を均衡させるためには,新たに定額税,定額補助金を導入する必要がある。あるいは外部性の受け取り手にこれらの対価の支払いと受け取りを強制する必要がある。外部性の出し手だけでなく,受け取り手にも同率の対価を支払わせたり,受け取らせたりを強制させる場合は,それらの外部性に人工的な市場を創設することとまったく,等価となる。

  

3節 公共財の定義     目次に戻る

 

外部性の性格を持ち,市場を通じて供給することが困難であるか,まったく不可能であるので,政府部門によって主たる生産物として供給される財,サービスは私的財と対比して公共財と呼ばれる。公共財は次のような性質を持っている。(1)需要側から見て,消費における非競合性,(2)供給側から見て,排除不可能性。

非競合性とは共同消費とも呼ばれ,ある人が公共財を消費したり,利用したりしても,他の人々の消費,利用が妨げられないことを言う。これは同時に同一の財,サービスが多数の個人によって消費,利用されることを意味し,その公共財について各個人が同一の主観的評価を持つことを意味するものではない。各個人のその公共財に対する需要曲線の高さ(主観的限界評価)は一般的に異なっている。ある公共財についてはその主観的限界評価(効用)さらにその総評価(効用)さえもがマイナスである個人の存在する可能性も十分にある。道路は一般的には非競合的とみなされるが,その利用者が多いとき混雑現象が生じ,消費の競合性が発生する。消費の競合性(混雑現象)とはこの論文における外部性の新しい定義の下では,利用者の数が外部性になっていると解釈されるべきである。この混雑現象は公共財,私的財に共通して起こることなので,公共財に特有の性質ではない。例えば私的財である傘を2,3人で利用する場合を想起されたい。つまり(2)排除不可能性の方がより重要な性質である。

消防署や警察のサービスのように価格を支払わない人をその財,サービスの消費,利用から排除すれば,延焼が起こったり,付近の治安が極端に悪化したりして,価格を支払った個人へのサービスが極端に低下するため,価格を支払わない個人をその消費から排除することが技術的に不可能か,排除するためにはかなりの資源の消費を必要とし,排除費用が極端に大きい時,排除不可能性(非排除性)が存在するという。ここで排除費用とは,資源配分機構あるいは経済制度としての市場経済を運営するための費用である取引費用(transaction cost)の1つであって,その財の供給のための費用負担のない個人をその消費から排除するための費用である。この取引費用は,資源配分機構とは独立に(独立でない可能性もある)生産技術のみによって決まっている通常の生産費用とは別の費用である。市場経済は価格を払わない個人を取引から排除するために取引費用としての排除費用を必要としている。排除不可能性というこの性質は公共財についてその便益の享受に正確に対応して,その公共財の費用を負担させることが不可能であることを意味する。

例えば,土曜,日曜,祭日と週日の観光地のある村の所有する駐車場で駐車代金を取るか,どうかの決定は何によって決まるか,考えてみよう。週日には観光客の数は少ないので番人への手当て以下の駐車代金収入しか得られないため,番人は雇われないので駐車場は無料で利用できる。土日と祭日は,観光客は多いので番人が雇われ駐車場は有料になる。この例では,番人を雇う費用が市場経済において駐車場サービスを有料で供給するための取引費用(transaction cost)としての排除費用である。週日はお金を払わなくても排除されないので駐車場は公共財となる。駐車場が公共財になるか,ならないかは観光客の数の多さによって決まる。

非競合性(共同消費)という性質は,複数の個人に便益がゆきわたるという意味において大変望ましいと思われるが,他方,今までに強調されたことはなかったが,一旦その公共財の供給量が政府によって決定されると,複数の個人がその公共財の影響から逃れられず,その消費を強制されるという(3)非選択性(非自発性)の性質があることが指摘されよう。この性質は(1)非競合性(共同消費)と表裏の関係にある,そのいわば裏側の性質とみなされる。例えば,政府の公衆衛生サービスでは伝染病の発生が少ないという非競合的サービスが供給されるとともに,国民にとっては予防注射,健康診断という義務を伴い,個人が望まないものでも強制されるという非選択性の性質を持っている。法律,秩序,防衛についても同じ非選択性の性質があると言えよう。新しい道路の建設は付近の住民の交通の便に資するが,他方,騒音,粉塵,排気ガス等の環境汚染を強制されるという側面を持っており,少なからずの住民にとってはその道路の総評価(効用)がマイナスになっている可能性がある。

(1)非競合性と(3)非選択性という性質の組み合わせは,それぞれの公共財について異なった様相を持っている。非選択性という性格がもっとも強いものは,法律,秩序,防衛,公衆衛生等の比較的同質なサービスが供給される,その地域的範囲が広大な公共財である。それと対比して,公園,道路は各地域でしばしば整備の状況は異なっている。公共財の量と質だけでなく,各地域の税制と税率もその地域に住んでいる限り,一度決められるとその住民全員にとって(3)非選択性(非自発性)の性質を持つ。これはどれほど選択の自由が与えられているかという問題である。公園,道路,文化施設等の公共財・サービスと税制,税率の組み合わせが各地域で異なるならば,居住地を変えることによって,非選択性を脱して選択の自由を回復できる。この問題意識は,Tiebout(1954)に始まる地方(地域的)公共財の研究分野に属する。つまり,幾つかの公共財の集まり,及び税制を1つの財とみなしてその範囲を特定の地域に限定し,地域間では十分に選択できる(非自発性,非選択性のない)普通の財である私的財と考えるのである。

公共財の主な性質のうち,(1)非競合性と(2)排除不可能性ではどちらが優先するのであろうか。排除不可能であるというときには,当然,その財はある程度,非競合的である,共同消費されていることを前提にしているのである。しかし非競合的であるからと言っても,必ずしも排除不可能であるとは限らない。つまり(1)はある程度,(2)の必要条件だが,(1)は(2)の十分条件ではない。例えば,劇場,プロ野球場のようなサービスは共同消費できるが,入場者を限定することが出来,従って料金を支払わない人々を排除することが可能である。従って,これらのサービスは公共財ではない。つまり,(2)排除不可能性が公共財のより重要な性質であることが理解できる。

これらのことを説明するために,すべての財,サービスを(1)非競合性と(2)排除不可能性の2つの次元だけで分類,仕分けすると,どうなるであろうか。公共財と私的財それらの中間に位置する財,サービスの概念を表によって整理することにしよう。

 

 

 

この2行2列の表に示されていることは次のようなことである。第1行第1列には私的財が入っており,第2行第2列には公共財が入っていて(1)非競合性と(2)排除不可能性が公共財と私的財を分ける2つの性質であることが理解できる。ところが,排除不可能性に対応する右の列はすべて公共財であるのに対し,非競合性に対応する下の行に入っているものすべてが政府から無料で提供される公共財であるとは限らず,一部,有料で私的供給されるあるいは公的供給される財,サービスが入っている。これらは公共財ではなく,その例を挙げれば,プロの野球,サッカーのチームが提供する試合,ミユウジッシャンやオペラの公演,民間の業者の提供する遊園地などがある。

ここに示されているように,(2)排除不可能性は必ず,公共財に導くのに対して,(1)非競合性は必ずしも公共財に導かないので,公共財の定義に関しては(2)排除不可能性 の方が消費の非競合性よりもはるかに重要なのである。すなわち,それの消費そのものに対しては価格を支払う必要のない無料の財,サービスが公共財なのである。

左の列の一部がクラブ財と呼ばれることがある。クラブ財の例としては,会員制のスポーツ・クラブ,レジャー・クラブ,マンションの管理組合等が挙げられる。会員数によっては競合性が発生する場合がある。会員が施設等を共有するか,それらの賃貸料及びサービス提供の経費を何らかの算式に基づいて各会員が分担して負担する。

 

4節 同じ財,サービスが同時に公共財でもあり,私的財でもある     目次に戻る

 

公共財であれ,私的財であれ,ストック(資本)としての使用とフロー(消費,破壊)としての使用がある。公共財では特にストックとフローの区別は非常に重要である。例えば,自然環境を考えてみよう。景観等の自然環境という社会(共通)資本には2つの使用方法があり,ストックとして使用するならば,それは公共財である。しかしフロー(採石,汚水,大気汚染等の環境破壊)として使用するならば,誰がどの程度その自然環境を破壊するかについては競合性があるので,それは私的財である。そしてこの公共財としての使用と私的財としての使用は同時に起こっているのである。

さらに,個人の私有地の公園としての提供の例のように,自らの財あるいはサービスを提供する(寄付する)ことによって,公共財だけでなく私的財(warm glow,熱情)をも結合生産し,公共財そのものだけでなく提供する行為それ自体(私的財)から満足を得ると考えると,これも,公共財が同時に私的財となる実例となる。Andreoni(1990)も参照されたい。

 

5節 公共財と私的財を含む一般均衡     目次に戻る

 

規範的分析:ファースト・ベスト(最善)の均衡

公共財のパレート効率条件=サミュエルソン条件,すなわち,MRT(公共財の私的財に対する限界変形率)=ΣMRS(各個人の公共財の私的財に対する限界代替率の総和),を充たす均衡。

 

さまざまな一般均衡

いかに公共財の供給量が決定されているか,その厚生経済学的含意,政策による効果の分析等を行う。

 

[1] 多数決投票均衡

多数決の投票均衡を決める中位投票者(median voter)ルールがパレート効率性条件=サミュエルソン条件を充たす条件とは何か。右下がりの公共財の需要(限界評価)曲線と公共財の量に比例するすべての主体に均一な租税負担(限界受益者負担)の下では単峰的な,総評価から総受益者負担を差し引いた純効用曲線が得られる。純効用曲線が,すべて単峰型のときは多数決の投票均衡が存在する。この投票均衡は各主体にとっての最適公共財水準のメディアン(median)で決まる。さらにその水準において,メディアンのMRS(限界評価)(これは均一な限界受益者負担に等しい)が各主体のMRSの平均に等しいとき,多数決の投票均衡はパレート効率的である。これについてはBergstrom(1979)を参照されたい。純効用曲線に単谷型が混じると投票の結果がサイクルを描く可能性がある。単谷型が発生するのはどういう時か,という問題は興味深い。

 

[2] 公共財の自発的な私的供給=ナッシュ均衡

政府が公共財を提供しなくても,各個人は自分の私的利益の追求のために公共財をある程度は無償で提供するだろう。例えば,自らが私的動機だけで自発的に提供する自分の家の玄関に通ずる道路(私道),玄関の前の街灯は他人にとって自由に利用でき,役に立っているならば一種の公共財である。他の個人の供給する公共財の量を一定とみなして,各個人が自分の効用を最大にする公共財の私的供給を決定したときの均衡をナッシュ均衡と呼ぶ。この均衡では,自分の街灯の明るさについては主体的均衡が成立しているが,各個人の公共財の提供が他の個人に与える正の外部性が考慮に入れられないため,公共財の総供給量はパレート効率性に比べ過少供給になる。(もちろん,公共財の提供量に応じた定率補助金をうまく設定すればパレート効率性を実現することは可能である。しかし望ましい定率補助金の率を求めることは非常に難しい。)公共財の私的供給はいわば一種の寄付であり,この均衡はまた寄付均衡とも呼ばれる。所得分配が変わってもナッシュ均衡で決まる公共財の総量は変わらないという命題を,公共財のナッシュ均衡の所得分配からの中立性命題と呼ぶ。この均衡では,すべての個人の公共財の私的財で計った価格は同一であって,公共財の価格=MRS(公共財の私的財に対する限界代替率)=MRT(公共財の私的財に対する限界変形率)が成立している。従ってこの均衡での資源配分はパレート効率的ではない1)

以上の結論はもちろん各個人の効用関数がどのようなものであるかに依存している。効用関数の形が変われば結論も大きく変わる。各個人が公共財だけでなく同時に私的財(warm glow,熱情)をも結合生産し,それらから満足を得ると考えると,効用関数は U(x, G, g)となる。この効用関数を,純粋でない利他的動機の効用関数と呼ぶ。ここでxは公共財以外の普通の私的財の消費,gは個人の公共財の提供量(個人の熱情も表している),Gは公共財の提供量の総合計である。さらにU(x, G) U(x, g)をそれぞれ純粋な利他的動機,利己的動機の効用関数と呼ぶ。  

もっとも一般的な,純粋でない利他的動機の個人の自発的な公共財の提供は,そのときg=f(w+G_,G_)-G_ となる。ここで,G=f ( )は寄付関数(donations function)であり,は自分以外の個人の公共財の提供量の合計量である。さらに純粋な利他的動機の個人の寄付関数はg=f(w+G)となる2)

すべての個人が純粋な利他的動機の効用関数を持つならば,所得分配からの中立性命題が成立する。しかし現実の個人の効用関数が純粋に利他的ではなくて,利己的動機の混じる純粋でない利他的であるとすると中立性命題は成立しない。つまり政府による個人間での強制的(非自発的)な所得移転は自発的な公共財の私的提供量の合計を変えないのではなく,変える。そのとき,相対的により利他的な個人に有利なように所得移転をしたほうが公共財の総量は増える。詳しくはAndreoni(1990)等を参照されたい。街灯の自発的な提供を例にとると,自分の家の街灯は他人の家の街灯よりも自分により役に立つから,この場合には利己的動機が混じることになる。

公共財の提供によって,実質的に所得分配を変えることが可能である。つまり,公共財の提供は現物給付による1つの所得再分配政策とみなすことが出来る。また,ある個人の公共財の提供は必然的に正の外部性としての効果を持ち,他の個人にとっては自らの所得の増加と同じである。利他的個人にとっては上述のg=f(w+G)で示されているように,他の個人の公共財の提供は自分の所得と等価なのである。誰の公共財の提供であれ,それはすべての個人の所得の増加と同一視出来る。これが中立性命題の背景にある。

次にリカード・バローの公債の中立性命題との関係について述べる。現在世代が自分の子孫の消費に満足を感じると,それは現在世代にとっての外部性(公共財)となる。公債発行による現在世代への減税(将来世代への負の移転)がこの減税分だけ現在世代の所得を増やすことによって,彼らの消費を増やしケインズ効果をもたらすのか,あるいは,この減税分だけ子孫(将来世代)への遺産を増やすだけで現在世代の消費を増やさず,中立性命題が成立し,景気刺激策とならないのか,は同じモデルを使って議論できる。純粋な利他的な効用関数のとき中立性命題が成立して後者が成立し,利己的動機の混じる効用関数のとき前者が成立し遺産は減税分以下しか増えず,現在世代の消費が増え,ケインズ効果が現れる。ケインズ効果とは,減税,公共支出等の需要刺激政策が景気にプラスの効果を与えうることであって,これをモデル化することは経済学の重要な課題であり続けている。

これらの中立性命題で共通して問題になっているのは,政府が民間の経済主体に対して非自発的な強制的所得移転という政策を実行しても,与えられた選択可能領域内での民間の経済主体の自発的な選択によって公共財の総量,あるいは各世代の消費は変化せず,政府の政策は無力化して実物の資源配分は政策以前と同じになる,ということである。所得は私的財として与えられており,消費者であるとともに公共財の生産者でもある民間の経済主体にとっては,私的財の消費と自発的な公共財の提供,私的財の消費と自発的な遺産の提供の関係はともに完全代替であって,主体の選択可能領域において私的財としての所得とこれら他の財の提供は等価交換可能である。各経済主体にとっての選択可能領域が,ともに同じ形の線型であるという想定が政策の中立性命題,無力化命題の成立に効いていることが分かる。これらの論点に関するリカード・バローの中立性命題については,逸見良隆著(2002年)『財政の経済理論』の第11章の第2節も参照されたい。

最近の議論では時間を通じては非整合的に,個人の時間的割引率は一定ではなく,意思決定時点では割引率は極端に高くそれから将来に向かって急速に低くなり,それから少しずつ低くなって行くという意見が有力である。この想定では現在消費は現在時点の外生的なキャッシュフロー(現金流入)に強く依存するようになる。そして現在消費は将来にわたるキャッシュフロー(cash flow)の割引現在価値とは独立になるので,リカード・バローの中立性命題は成立しなくなるであろう。Laibson(1997)等を参照されたい。

 

[3] 各地域が自発的に広域公共財を提供するナッシュ均衡

Boadway, Pestieau and Wildsin(1989)の2地域3財モデルでは各地域の所得は外生的であり,人口を含む生産要素の地域間移動はない。3財とは私的財,第2私的財(地方公共財),広域公共財であり,3種類の政策手段(定額補助金,定率補助金,第2私的財への税率)がある。各地域が自発的(選択的)に広域公共財を提供するナッシュ均衡を考察する。各地域の自発的な広域公共財の提供への定率補助金を適切に設定することで,広域公共財に関するパレート効率(リンダール均衡)を実現できる。逆説的に,この定率補助金はそれを与えられた地域にマイナスの厚生効果を持ち,他地域にプラスの厚生効果を持つ。なぜなら,定率補助金を上げれば広域公共財への提供が増え自らの私的財の消費が減らされるから。もちろん定額補助金は中立的であり,それによって所得分配を変えてもなんら資源配分及び経済厚生上の効果を持たないという中立性命題が成立している。これらの補助金の分配効果は私的財だけの世界でのそれに比べるとまったく正反対で,対照的である。

  

[4] リンダール均衡

リンダール均衡では,ある公共財を各個人毎の,別々の価格を持つ別々の私的財と解釈する。厚生経済学の基本命題すなわち,リンダール均衡はパレート効率的であり,どのようなパレート効率的な資源配分も初期の所得の適切な再分配によってリンダール均衡として実現できる,が成立する。各個人は公共財の限界効用(評価)に比例してその生産費用を負担する。各個人の公共財の価格は異なっており,パレート効率条件MRTΣMRSが成り立つ。

  

[5] 公共財の割り当て均衡

公共財の供給は政府を通して行われるため,それぞれの個人にとっては直接的には自らの選択でない政府の提供する外部性を数量として強制的に割り当てられるという側面がある。これはすでに述べた公共財の供給がもたらす一種の(3)非選択性(非自発性)の結果である。言い換えれば,公共財の消費量は各個人の費用負担を考慮した上での各個人にとっての最適量に一般的にはなっていない。すなわち各個人の主体的均衡が成立していない。なぜならば政府によって強制された消費であって,自発的に選択した消費量ではないからである。租税による費用負担を考慮した中位投票者(median voter)モデルでは,公共財の需要の中位投票者にとってはその公共財の水準が最適になっていて主体的均衡が成立しているが,他の個人にとってはその水準は大きすぎたり小さすぎたりしている。

 

[6] 足による投票(居住地の選択)

Tiebout(1954) に始まる地方公共財の考え方である。地域間での自発的な居住地の選択による公共財に対する選好の顕示の可能性はあるか。地方政府の課税及び財とサービスの提供は地域内ではすべての主体が拘束される外部性すなわち地方公共財であるが,他方,地域間で見ると,それは自由に選択できる私的財である。この私的財という性質を利用して,足による投票(居住地の選択)によって地方公共財への選好が顕示され,その最適な供給が実現できないか,という問題意識は興味深い。

 

6節 公共投資     目次に戻る

 

公共財の典型的な例として一般道路がある。一般道路は,一度建設されると,ほぼ永久的に使用できる。このように,公共財は資本としての性格を持っている。従って,公共財を供給するべきかどうかの問題は,公共投資を実行するべきかどうかの問題と考えることが出来る。

公共サービスのうち完全競争市場で販売されていないし,販売するのは不可能な一般道路のような公共財の性質を持つ公共投資を考えよう。この公共投資を実行すべきかどうかを決定するためには,いわゆる便益・費用分析を行う必要がある。いくつかの公共投資基準のうちでよく使用され,理論的にも正しい基準は現在価値法である。各時点における便益Bから,各時点における補修費等の維持費C及び公共投資の建設費用Kを差し引いた純便益を現在時点まで割り引くことによって,ある公共投資の割引現在価値が計算される。ここで,便益とは需要曲線の下の面積,言い換えれば,総効用あるいは総評価である。この公共財には市場も価格も存在しないから,この公共財の需要曲線を何らかの手段によって,推測しなければならない。この公共投資の割引現在価値が正であるならば,そしてそのときに限って公共投資を実施すべきであるということになるのである。

 

公共投資の純便益の割引現在価値(net present value)NPVを以下で書く。K0を現在時点0での公共投資の建設費用,Tを公共投資の耐久期間,Bt-Ctを各期tの純便益,を将来時点で発生する便益や費用を現在時点での値として評価するための割引率としよう。そのとき,公共投資の割引現在価値NPVは時間を離散型にとると,

 

時間を連続型にとると,

となる。

割引率γが大きいということは,現在に比べ将来の便益を相対的に低く評価し,小さいときにはより高く評価していることになる。2つのプロジェクトの純便益の流列が常に一方が他方の上に位置するならば,前者が割引率の如何にかかわらず採用されるべきである。しかし両者が,もし交差するならば,割引率の大きさによって,プロジェクトの優劣が左右される。例えば,図1と図2の場合,γが小さければプロジェクトβαに比べ相対的に有利になる。

 

 

 

さまざまな公共投資基準のうちで明確な理論的根拠を持つものは割引現在価値法である。以下でこの方式の問題点を論じよう。

第一の問題点は,割引率の選択の問題である。日常的によく行われるのは,市場利子率を割引率として採用することである。しかし,これは理論的には問題が多い。なぜならば市場で資金の貸借の需要と供給が等しくなるように決まる利子率は,現在財と将来財の選好面での限界代替率(これは最適資源配分では生産面での限界変形率に等しい)に対応する正しい割引率に等しくなっていないからである。将来財価格によって意味された市場利子率が正しい割引率に一致するためには,現時点では存在しない将来世代の選好をも反映する完全(perfect)で,完備(complete)なすべての将来財のための将来財市場が存在しなければならない。しかし現実には,将来生まれてくるだろう将来世代は現時点では登場していないし,しかも将来財の市場は不完備(incomplete markets)であって,将来財の市場が存在するのは非常に少数の財だけであり,利子率は資金の貸借市場で決められているのである。さらに市場利子率については,(1)資金市場の需要側と供給側に登場する諸個人は,将来時点の生産関数における生産能力の増加,所得の上昇の可能性等,将来の出来事を見通す能力に欠けている。(2)いつ死ぬかわからないという不確実性のために,将来時点の消費を現在時点のそれに比べ相対的により低く評価してしまうという問題がある。

これらの原因のために,将来時点にわたる公共投資の便益とその費用を現在時点にまで割り引くための割引率として市場利子率を使用した場合,本来の正しい割引率である社会的割引率よりも高くなりすぎるという問題が発生してしまう。すなわち,現在時点においては存在しない将来世代の利益を含め,将来の消費を現在の消費に比べかなり低く評価してしまうことになる。従って,公共当局は現在時点では未だ生まれていない将来世代の意向を代弁して,市場利子率よりもかなり低い社会的割引率を設定すべきだという主張が出てくるのである。これらの関係を説明するために図を用いよう。図3を参照されたい。

 

 

 

縦軸に利子率あるいは割引率をとり,横軸に将来財をとる。DD曲線は将来財の需要曲線,言い換えれば,貯蓄の供給曲線であり,利子率が上昇すれば現在財の需要が減り貯蓄の供給が増え,将来財の需要が増えるので,DD曲線は右上がりである。これは現在財と将来財の選好において,利子率上昇の代替効果が所得効果を上回っていることを仮定している。SS曲線は,生産可能性曲線から導き出された将来財の供給曲線である。利子率が下落すれば,現在財を将来財に変換していくときの限界生産性がより低くなり,将来財の生産,供給が増加する。従って,SS曲線は右下がりである。

ここでDD曲線は,利子率が上昇するとき個人(家計)の主体的均衡がいかに変化するかを見ることによって得られたものである。SS曲線は,利子率が下落するとき企業の主体的均衡がいかに変化するかを見ることによって得られたものである。個人の主体的均衡については,逸見良隆著『財政の経済理論』(2002年版)の第8章,企業の主体的均衡についてはその第9章も参照されたい。

DD曲線には現在時点で生存している人々の将来財に対する需要しか表れていないから,今後生誕するであろう,現存していない将来世代の意向を考慮に入れると,DD曲線は右方向にシフトしD'D'曲線になる。そのとき正しい社会的割引率は,DD曲線とSS曲線の交点であるA点における市場利子率rではなく,D'D'曲線とSS曲線の交点であるB点におけるγである。すなわち市場利子率よりも低い社会的割引率γを採用することによって正しい便益・費用分析が可能になるのである。この結果,市場利子率で割り引くよりも便益の割引現在価値は高くなり,個々の公共投資は採用されやすくなる3)

第二の問題点は,公共投資の機会費用についてである4)。初期の公共投資支出が経済全体の厚生の観点からいかなる費用をもたらしているかが公共投資の機会費用である。初期公共投資支出K0の1単位当たりの機会費用をと表したとき,純便益の割引現在価値は

である。ここでの関心事は,初期における公共投資支出が何を犠牲にして行われたかである。すべて民間個人消費を犠牲にして行われたならば1単位当たりの機会費用は,a=1である。しかし,民間投資から置換された部分があるならば,その機会費用aは1以上となる。以下で,これを説明する。

1単位の民間投資が毎年ρ%の便益を産むと考えると,公共投資を1単位増やし民間投資を1単位減ずることの機会費用は

となり,ργのとき,この機会費用は1以上となる。従って,公共投資が民間投資を犠牲にする割合をθとするとa

となる。もしも市場機能が完全で市場利子率が民間投資の収益率ρに等しく,しかもが社会的割引率γに等しい場合にはρ=γが成立し,θの値とは無関係に公共投資の機会費用aは1となる。しかし現実にはr=ρではあっても, rγだから,(ρ/γ)1となるので,公共投資の機会費用はa1となる。

 

7節 財とサービスの供給に関する制度選択     目次に戻る

 

所得,資産の再分配以外に政府が租税収入を必要としそれで支出する理由は,市場経済では必要なだけ自発的に供給されない財とサービスがあるためである。この論文で検討された課題は,財とサービス(公共財と私的財)の生産と供給に関する政府経済と市場経済の役割分担,制度の選択はいかにあるべきかの問題である。これは市場経済という制度と政府経済という制度の間の一種の比較制度分析である。

そのためには,市場と対比しての政府の本質から出発しなければならない。市場では主体の自発性が十分に尊重されるのに対し,政府とはそれによって個人や企業の民間の経済主体の自発性が制限され,非選択性が強制されるような存在である。この本質的な違いによって,市場における財源の調達が自発的な価格の支払いであるのに対し,政府の財源の調達が非自発的(非選択的,強制的)な租税の支払いによることとなる。政府の持つこの属性によって,民間の経済主体の自発性が不必要なまで抑制される可能性が大いにある。さらに政府経済か市場経済かの二分法も必ずしも正しくない。両者以外のNGO(非政府組織),NPO(非営利組織)のような団体(法人)から構成される経済もある。

市場における財源の調達が自発的な価格の支払いであるのに対し,政府の財源の調達が非自発的(非選択的,強制的)な租税の支払いによるということを大前提にして,財とサービスの生産と供給に関する政府経済と市場経済の役割分担の一般的な理解は以下の矢印が示すように,政府が公共財を供給し,市場が私的財を供給するというものであった。

 

 

政府(government)と市場(market)の二つの経済制度の根本的な違いは,パレート効率性の実現のために,市場では嗜好,初期保有所得等に関する主体の異質性が自発的に処理されるに対し,政府では主体の異質性が適切に処理されない。なぜならば市場では主体毎に異なる私的財の消費量の自発的な選択によって各主体の異質性が処理されるに対し,政府によって非自発的に提供される公共財の数量はすべての主体に共通であって,リンダール均衡のような需要曲線の高さに応じた主体毎に異なる費用負担がない限り,主体の異質性が処理しきれないからである。

この論文では,財とサービスの分類の基準として今まで提案されたことのない非選択性(非自発性)と自発性の対立軸に焦点を当てた。すなわち,上図の( )の中で示されているように,公共財とは各経済主体に対して非自発的(非選択的)(involuntary)に政府が無料で提供する財・サービスであり,他方,私的財とは市場において自発的(voluntary)に有料で(対価と等価交換で)需要され,供給される財・サービスであるという側面に光を当てた。つまりこの側面において,政府と市場は代替的である。しかし,上の図の対応関係が一部交差する可能性もかなりある。すなわち,以下の図の矢印が示すように,政府が各主体に公共財だけでなく私的財をも強制的に無料で提供し(例えば,義務教育を想起されたい),市場の民間の経済主体が私的財だけでなく,街灯のように,公共財をも自発的に提供する(言い換えれば無償で寄付する,あるいは自らが小さな1人だけの政府になって自発的に現物で課税され,それをそのまま提供する)ことも考えられる。この側面においては,政府と市場(民間)は補完的なのである。

 

 

従って,財とサービス(公共財と私的財)の生産と供給に関する政府経済と市場経済の役割分担,制度の選択はいかにあるべきかの問題が生じてくる。つまり,財とサービスの供給に関する政府と市場の役割分担の選択基準は何か,という問題がのこされている。

その際,市場経済と比較しての政府経済の本質的な違いは何かという点から出発しなければならない。市場経済と政府経済の根本的な違いは,その財源の調達とその見返りである財とサービスの提供を通じて,市場経済では等価交換しか実現できないが,政府経済では政府と各主体の間での不等価交換,言い換えれば各主体間での所得の再分配が実現できてしまうことである。そして市場経済における各主体は,私的財に関する経済取引への参加及びその取引の内容に関してそれぞれが完全な自発性と選択の自由を持っているのに対し,政府経済では各主体はその財源調達,支出について完全な選択の自由を持っておらず,投票に始まる政治過程(立法),司法,行政等を通じて互いに非選択性を強制しあう関係になっている。税制,公共財(法律を含む)及び政府支出の内容の異なる他国に移住することが容易である程度に応じて,選択の自由が一部回復される。

この論文では,公共財と私的財の対立軸ではなく,優先すべき新しい対立軸として非選択性(非自発性)と自発性の対立軸を採り上げた。このアプローチは経済制度としての政府と市場の本質的な違いを対比するために有益である。本来的に,政府は公共財を提供し民間は私的財を提供する。しかし,政府は公共財だけでなく,私的財をも非選択的に,強制的に提供している。そして政府以外の民間での自発的な私的供給は,私的財だけでなく公共財に対しても行われている。この公共財の私的供給は供給主体にとっては自発的であっても,供給を受ける主体にとっては非自発的である。このように,どの程度,非選択性(政府)―自発性(民間)と 公共財―私的財 の上述の対応関係が交差すべきなのか。この問題をさらに突き詰めて展開することが残された課題である。

 

 

財とサービス(公共財と私的財)の供給主体が政府か市場(民間)か,についての選択基準は何であろうか。正の外部性を持つ財・サービス(例えば,公共財)は自発性に基づく市場(民間)経済ではどうしても過小供給となり,最適供給は実現不可能である。従って政府等による集団的な強制的な供給が基本になる。政府が教育等の私的財・サービスを提供する理由の1つは所得の再分配のためであり,その外部経済性がもたらす市場経済での過少供給を補正するためである。さらに,政府からにしろ,民間の供給主体からにしろ,財とサービスの提供を受ける個人がその財とサービスの生産のための費用を,租税(全額無料の義務教育や公共財の場合,補助金による政府からの援助がある場合),価格等のいかなる形態で最終的に負担(finance)するべきか,あるいは負担しているか,そしてそれらの経済学的含意は何か,という視点は非常に重要である。

非対称情報(asymmetric information) と不完備な市場(incomplete markets)という環境の下での市場経済は,技術的外部性によるそれとよく似た不効率をもたらす。すなわち,完全競争の市場均衡は,この環境の下ではパレート効率的ではなく政府がこの外部性以外の財・サービスに対する課税・補助金政策で市場均衡に介入することによってすべての個人がより良くなるという結果が得られる。すなわち,例えば事故を起こさないための各個人の注意が他者にとって観察可能ではない保険市場におけるモラル・ハザードの環境下では,消火器には補助金が与えられ,アルコールには税金が課されるべきである。Greenwald and Stiglitz(1986)等を参照されたい。彼らの議論では市場では取引されず,従って価格のつかない各個人の注意,努力,財・サービスの品質や特性,経済主体の属性等の経済変数は,見逃されがちだが,一種の外部性とみなされる。これらの外部性が存在するという環境の下では,もしも政府の介入がなければ市場均衡の資源配分は不効率なままであり,資源配分上のゆがみ(distortions)が存在するのである。彼らによっても発見された,最も広い意味での外部性という存在に対しては,その外部性以外の財・サービスに対する課税・補助金政策という政府による介入,つまり強制が必要だというのが,Greenwald and Stiglitz(1986)のメッセイジなのである。しかし,このような経済学者のもっともらしい政策提言も現実の政治過程ではこのまま採用され実行される保証は全然ない。最近の政治経済学は,これらの経済政策が実際にいかに採用され実行されるかの問題に取り組んでいる。

もともと,税制及び公共財そして政府の問題は  外部性――非自発性――強制的  の系列からきている。外部性は市場では取引されず,すべての主体が合意して選択したものではない。この論文における外部性の新しい定義は,自分の選択ではない,すなわち主体的均衡が成立していない経済変数によって自分の状態が左右されること,すなわち非自発性,強制である。雇用に関して個人の主体的均衡が成立していない状態を非自発的失業(involuntary unemployment)というのは,この論文における用語法と整合的である。この非自発的失業も一種の外部性と言える。(所得)税制が公共財(外部性)の性質を持つという指摘は既に,Itsumi(1974)で行われている。

さらに,だれが自らの主体的均衡に基づいて,これらの外部性変数を決めているかの議論をしなければならない。外部性変数の決定主体は,政府あるいは民間の外部性の供給主体であって,需要主体が決めることはあり得ない。その外部性(経済変数)によって影響されるすべての主体について,その変数に関するすべての便益と費用を考慮した主体的均衡(最適)が成立している場合は,この論文において提案された外部性の新しい定義と矛盾するのでこれもあり得ない。公共財は,政府が供給主体として自らの主体的均衡に基づいて民間の経済主体に強制的に提供する外部性である。政府が強制的に提供する私的財(例えば義務教育)はこの外部性の新しい定義に含まれる。財とサービス(公共財と私的財)の提供に関して,政府と市場(民間)の関係は代替的であるとともに補完的である。いかなる意味でそうなのか,をこの節で明らかにした。

 

8節 結語     目次に戻る

  

財とサービス(公共財と私的財)を提供するのは政府か市場(民間)か,の議論を展開するうちに,重大な問題は経済において政府と市場(民間)の本質的な違いは何か,という問いかけであることが分かった。その過程で見出されたのが,経済活動における自発性(選択性)− 非自発性(非選択性)(強制)の枠組みの重要性であった。これが市場(民間)経済と政府経済の2つの経済制度の本来の役割分担に対応している。その結果,市場(民間)経済では寄付を含め自発的な等価交換が行われる(寄付では,自己満足,名声等の寄付することで得られるプラスと金銭等の失うマイナスが等しい),あるいはより優位になる交換が行われる,一方,政府経済では各個人との間で双方向での等価でない強制的な移転(租税徴収と政府からの財とサービスの提供)と市場均衡に対する強制的な介入が実行される。すべての問題は,税制,移転および公共財,非対称情報と不完備な市場が同時に複数の主体を主体的均衡なしで拘束する外部性であるという点から発生している。より根本的な問題は経済学においてそれらの外部性をいかに取り扱い,経済が政府を含めたいかなる制度を通じてそれらを最適に提供するか,政府がいかなる政策でそれらの外部性を含む環境下での市場均衡に介入すべきか,である。これらの外部性(変数)への需要の選好顕示の問題を含め,これらの外部性の下でのパレート効率的な資源配分を,市場(民間)部門において,一部ではなくその外部性によって影響されるすべての経済主体のなんらかの主体的均衡で実現することは可能か,分権化で実現できるのか,もしもそれが不可能ならば,政府がパレート効率性を目指していかに市場均衡に介入すべきかという点がここで問われているのである。

 

2004年4月)

 

参考文献

 

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Itsumi, Y., 1974, Distributional effects of linear income tax schedules, The Review of Economic Studies 41, 371―381.

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逸見良隆,2002年,『財政の経済理論―貨幣経済における財政理論―増補・改訂版』,成蹊堂