山間地僻村における伝統的焼畑農耕と高齢者生活環境の変容
―― タイ国北西部ポー・カレン族居住山村バン・メーチャンの事例 ――
1 はじめに
タイ北部の山岳地帯には,数世紀前から今日に至る迄の間に北方より国境を越えて移住して来た山地民(highlanders)が,現在凡そ100万人暮らす。その中で最大の人口割合を占めるカレン族1の一グループに,ポー・カレン族がある。この人々は他の山地民と同様に,一方で急速な近代化と国際化の波にもまれ,他方で今なお独自の伝統的慣習や道徳観を受け継いでいる。しかしここ数十年来,従前からの土地利用方法である焼畑農耕に則り山間生活を営む山地民は,押しなべて農業形態の変革を迫られている。
より具体的に言えば,全国的な山林資源及び水資源に関する環境保全意識の向上や,北方国境付近に於ける治安維持上の懸念増などが相俟って,北タイ山岳地帯に於ける公的土地利用規制は,1960年代以降次第に強化されるに至った。その結果,市場経済とは長い間疎遠であったタイ北部のポー・カレン族は,自分達が生き残るための不可欠な経済的手段として,近代的競争市場への参入並びに焼畑の非循環化・非陸稲化を余儀なくされている。併せて,宗教的権威を世襲する伝統的首長(男性長老)や伝統的血族長(女性長老)達をはじめとする村内長老達の間に見られる相対的影響力にも変化が生じた。
本稿は以上の観点に立ち,タイ北西部の山間奥地に立地するポー・カレン族の僻村バン・メーチャンに照準を合わせ,まず同村の特性を論じ,次いで同村の伝統的な焼畑農耕の変化と農産物の市場経済化について述べる。然る後に,同村に於ける高齢者の生活環境の変容を社会経済構造と長老ヒエラーキーとのかかわりに写映して考察する。なお,本稿の主目的は,上記3つの切り口からアプローチすることにより,バン・メーチャン特有の山村ダイナミズムに関する識見と,タイ北部山地民に対する理解を,聊かなりとも深めることにある。
2 バン・メーチャン
カレン族の中で,人口の一番多いグループはスゴー・カレン族であり,二番目にポー・カレン族が続く。タイ北西部のメーホンソン県メサリアン郡には,これらカレン族の村落が他の山地民(ラワ族,モン族)の村落と同じく,国道沿いはもとより未舗装の土道しか通じていない森林の奥深い山間僻地にまで散在している。例えば,メサリアン郡メーホー地域内の南部山間地には,スゴー・カレン族の村落1ヶ村,及びポー・カレン族の村落6ヶ村が存在する2。後者の6ヶ村の一つに,メーホー地域では最も古いポー・カレン族の山村バン・メーチャンが在る(図1参照)。
バン・メーチャンの沿革に関するポー・カレン語の文書記録は存在しない。しかし口承伝説によると,同村の歴史は200年以上遡る3。別説によると同村村民の先祖は,18世紀末にビルマと当時のタイの覇者サイアムとの間で繰り広げられた抗争を逃がれ,国境を画するサラウィン川をビルマ側から渡りタイに移り住んだ(Hinton 1975, Lewis et al.1984)。更にもう一つの見解によると,北部タイに於けるポー・カレン族の歴史は,スゴー・カレン族のそれより長く(Kwanchewan 1988:27, 74-75, Hinton 1975:17),現在のメサリアン市に近いミャンマー国境付近の山間部へ最初に移住したポー・カレン族が,村落共同体の拡大と発展的分裂の過程を繰り返しながら,現在メサリアン郡内に広がるポー・カレン族山村の空間的分布形態を形成してきた。
2002年の時点で,バン・メーチャンの人口は298人(73世帯)を数える。その内,母村のバン・メーチャン(図2参照)には245人(54世帯)が居住し,子村のバン・メーチャンボンには53人(19世帯)が居住する。ポー・カレン族の村落共同体は往時,その所在地を比較的容易に変えた。一例を挙げると,村の首長が死亡すると,村内の全世帯が揃って村を離れ別の場所に転住し,そこへ新たな集落を再生した。
今も続くこの慣わしとの関連で,バン・メーチャンから分村した子村のバン・メーチャンボンについて転住の軌跡を述べると,バン・メーチャンの十数家族が天然資源(焼畑用山面及び生活・灌漑用水)へのより確かなアクセスを求めて54年前に村を離れて分村し,子村であるバン・メーチャンボンを新たに作った。爾後37年を経た今より17年前,同村の首長の死に伴ない幾分東方の地点に移った。同地に9年間居住の後,村民は現在の場所(母村バンメーチャンから1.5キロ離れた地点)へ8年前に移り住んだ(第一著者による2002年現地聴き取り調査)。他の山地民の中に,ポー・カレン族のこの種の転住慣行と似通った慣わしを持つものもあるが,この慣行の継続はタイの森林保護政策が年々強化されていることも手伝い,次第に困難となりつつある。
教育面では,地方行政制度の整備が1960年代以降本格的に進められ,メーホー地域の山間部に立地するカレン族の全ての村落も,地方行政区分の中へ正式に組み込まれるようになり,教育制度にも同様な動きが見られた。この流れの中で1963年,メーホーを通る国道108号線と前述のポー・カレン族6ヶ村に通じる地方山道の分岐点近くに,メーホンソン県山岳少数民族開発・福祉センター(The Hill Tribe Development and Welfare Centre in Mae Hong Son; HDWCM)が開設された。翌1964年,同センターの出張所(Tribal Development Welfare Unit)がバン・メーチャン村内に設置された。同出張所は,非公式ながらも小学校と幼稚園をまず開校・開園した。1973年にそれらは公式な教育施設となり,1999年には中学校が併設された。同中学校は今や,ポー・カレン族6ヶ村の子女に対する,中学校教育センターの役割りを果たす。
このように,制度上でも施設面でも,バン・メーチャンの子供達には,自分の村内で中学校教育までを受け得る機会が既に与えられている。しかし現実には農繁期である雨季を迎えると,稲作等の野良仕事に役立つ児童労働力として,家族と共に畑へ出ることが多い。故に4〜10月の期間,児童・生徒達の学校への出席率は悪い。現在,教員数は時期により6〜8名の間で変動している。在籍登録の子供達は,幼稚園の園児から中学校3学年(9学年生)の生徒まで計約130名(2002年8月現在)を数える。
高等学校への進学には,子供達は山を下り町へ出る必要がある。現在,村内の子女のうち2人(男子1人,女子1人)が,メサリアン郡の北隣りのメラノイ郡の町で寄宿舎生活を送りながら,高等学校に通う(第一著者による2003年現地聴き取り調査)。村人にとっては,子供を村内の小中学校に通わせることさえも一般的には少なからぬ経済的な負担となり,町の高等学校に子供を送ることには,私達が普通に想像する以上の困難が伴なうと言えよう。
村内の生活基盤環境に目を遣ると,1990年代にバン・メーチャンには簡易水道施設が整備され,村内約20ヶ所に水道の蛇口が設けられた。1997年,内務省土木建設局により,携帯用発電機の充電を目的とする太陽電池板(ソーラーパネル)が,集落の中心部に設置された4。ほぼ時を同じくして同パネルに近い土地に,身寄りのない高齢者の居住施設として,老人福祉用の建物が一棟HDWCMにより建設された。1999年前後,メサリアン郡庁の公衆衛生局により,村内10世帯の庭先に共同便所が建設された。
使用されている言語に触れると,村人の間ではポー・カレン語が日常的に使われる。村で小学校・中学校教育を受けられるようになった若い世代は,中央タイ語を使いこなせる。反面,高年齢層のタイ語能力は総じて低い。但し,都市部(町)での出稼ぎなど外界との接触を比較的多く経験している男性高齢者は,北タイ語(例えば,カム・ムアンと呼ばれるチェンマイ方言,及びメーホンソン地域で広く使用されているタイヤイ語)を介しての意思疎通が,一般に可能である。女性の場合,40歳代以上の大多数は,ポー・カレン語しか話せない。中には少数に過ぎないが,メーホーやメサリアンの町で出稼ぎの際に仕事で必要な北タイ語又は中央タイ語を,辛うじて話せる女性がいる。
行政の枠組みを村の役職面から見ると,バン・メーチャンには投票で選出された村長1人と村長補佐2人がおり,この3人は村の纏め役を努めると同時に,村人とメサリアン郡庁との間を繋ぐパイプ役として,公的な役割りを担っている。加えて,村落レベルと郡レベルの間に位置付けられる行政レベルとしてタンボン(Tambon)があるが,タンボンの行政と村落の行政の両らに従事する公職であるオボト(O Bo. To)に就いている村人が2人いる。以上の5人には政府から役職手当が支給され,原則として,最低限度の公的コミュニケーションに堪え得るタイ語の能力が求められる。
信仰の様子に目を向けると,バン・メーチャンのポー・カレン族は,仏教と合わせて独自の精霊を信仰するが,日常生活は相対的にアニミズム的信仰(精霊信仰)により深く根ざしている。同村には,昔から引き継がれてきた独自の宗教的自治支配組織が存在する。組織の頭目は,地位が世襲される男性の首長(chia kei khu)5である。宗教的権威を伝統的に有する同首長は,村落全体にわたる生業・祭儀等について采配を振るう。他方,個々の村人の健康を守りその為の祭儀を営む,女性の血族長(ther mue khae khu)がいる。彼女も宗教的な伝統的権威を有し,家族・親族内の者に疾病や怪我が生じると,当該個人のために健康に係わる精霊に祈願を捧げ,早い回復を占う。
村人は,自分達を取り巻く生活環境及び天然資源には全て,特別の同一精霊6が宿り,人々の生活を支配していると信じる。特に村人相互間の不祥事(例えば離婚,姦通,婚前・婚外性交による妊娠・出産・死産・流産)は,この最高精霊の逆鱗に触れる最たるもので,収穫のみならず村人の生活全般に甚大な災厄を齎すものとして,畏れられている。したがってポー・カレン族の社会では,次の農繁期が始まる前に催される新年祭(通常1月末から2月)7で,過去1年間に生じたこの種の不祥事全てを束ねて祓い清め,上記の最高精霊をしずめなければならない。なお村人の信仰世界には,最高精霊の他に,先祖,家屋,山,川,田畑,森,及び旅路など,時空間や現象の至る所に,それぞれに対応する精霊が遍在する。
新年祭から暫く経た後,来たるべき農繁期に耕作予定の土地(後述する「山面区画」)を被う樹木を伐採し,草を刈り取る。3月下旬には草木の乾燥加減を見定め,「山面区画」に火をつけ山焼作業に入る。続いて5月を迎えると,準備された山面区画に陸稲米(オカボ)の種を蒔く。
地勢的に同村は,海抜およそ880メートルの高さにある。渓流が多く,村域内を流れる川「フエイ・メーチャン」に村名が由来することからも窺えるように,バン・メーチャンは近隣ポー・カレン族6ヶ村の中で水資源に最も恵まれている。衛星による地図(2003年5月発行)と村人から得られた情報(第一著者による2002年6月及び8月現地聴き取り調査)によると,バン・メーチャンの村人が利活用している水流は,小川(キー)・支流(クロン)を合わせて13条あり,個々に独立した名称が付されている。なお,メーホー地域を含むタイ国北部の気象は熱帯モンスーン気候に属し,大掴みに把握すると,1年間は乾季(11月〜2月),暑季(3月〜5月中旬),雨季(5月下旬〜10月)の3季に分けられ,バン・メーチャンの伝統的な農業形態である焼畑農耕は,各季の気象の変化と相談しながら注意深く進められる。
3 焼畑農耕と経済活動
3−1 焼畑農耕の形態――農耕的側面と祭儀的側面――
村人の生業は,焼畑農耕を基盤とする陸稲生産に大きく依存している。バン・メーチャンに於ける農業の伝統的な土地利用形態を支える根幹的な原理は,当該年に使用予定の「大きな1ロットの耕作用山面山地(これを「山面区画」と呼ぼう)」が,各世帯に対して認められている使用権を介して,畑地として世帯別に割り付けられる仕組みにある。
「山面区画」内の土地で,各世帯に畑地として割り付けられる地面(タイ語でライ〈Rai〉と称し,英語ではswiddenと呼ぶ)では通常,陸稲が自家消費用に生産され,その余剰米は市場に供給される。ライ(以下,太字のライはswiddenを示す)の中には,世帯によりキャベツ栽培に使用されるものもあるが,陸稲生産に使用されるライでは,トウモロコシ,カボチャ,イモ類,ダイズ,ゴマ,トウガラシ,キュウリ,及び青菜類が,主として自家消費用の間作作物(即ち,混作作物)として陸稲と併せて耕作される。陸稲の収穫は天候に左右されがちで不安定なため,上記の間作作物は,食料危機管理及び栄養摂取管理上の視点からも,村人にとり重要な農産物となる。
バン・メーチャン村内の54世帯のうち,農業生産活動に幾分とも携わっている51世帯を対象とする生計実態調査(第一著者による2002〜2003年聴き取り悉階調査,Samata 2003)の結果は,同村の土地利用形態を具体的数値で如実に描出する。この村は現在,大きなロットとしての「山面区画」を5ロット8擁し,それら5つのロットの合計面積は,1,397ライ(ここでのライ<rai>は面積の単位,1ライ=0.16ha)である。「山面区画」1ロット当りの平均面積は279.4ライ(44.7ha)となるから,各世帯は「山面区画」毎に平均面積5.5ライ(0.9ha)のライを1ヶ所保有する。即ち各世帯は,合計5ヶ所の「山面区画」に都合5ヶ所のライ(平均面積の合計は27.4ライ)を保有する9。各世帯は毎年,当該年に耕作予定の「山面区画」内に宛がわれるライを使用して,農産物を生産する。翌年以降このライは,休閑地(fallow)として4年間に恒り寝かされる。したがって次の年には,従来の休閑「山面区画」4ロットの中で最古の休閑「山面区画」が,耕作用「山面区画」としての役割りを担う。
同村の人々はこの様に,各世帯のライを「山面区画」単位に束ね,年毎に「山面区画」を循環的に巡回して耕作に従事する。地力維持・雑草防除等の目的に適うこの種の農業形態は,広義の焼畑農耕の範疇に属し,焼畑循環耕作("rotational swidden cultivation" <Yos 2003: 26>)又は巡回農法(細川2003)と呼ばれる。
焼畑循環耕作では,三季の天候に気を配りながら農作業を進める。同作業の各段階の要点を把握するために,山村バン・メーチャンの農事・祭儀を参考にしてポー・カレン族の農業暦を纏めると,表1を得る。同表の中で,例えばライに作付けられる陸稲に着目すると,2月にライの草木を伐採する。この伐採時に,大きな木は切らずに残すことが多い。理由は,土壌管理上の目的と伐木に要する労力の節約にある。伐採した草木は暫くの期間そのまま放置し,十分に乾燥させる。3月下旬から4月初旬にかけ,1年の中で最も早く到来する雨の直前に,既に乾燥している草木に火をかける。所謂,山焼き作業である。この時期に必要であれば,牛の侵入防止用の柵をライの周囲に回らし,ライの一隅に農作業用の掘建て小屋を立てる。雨季の訪れを目前に控えた5月半ば,陸稲の種子をライに直播する。蒔かれた種は,5月末から6月初旬の雨季入りと時を合わせ,一斉に緑色の小さな芽を吹く。同時に,雑草も一斉に生え始め,入念な除草作業が連日不可欠となる。7月から8月にかけて陸稲の穂丈が30センチメートル前後に達する頃,ライの精霊及び他の諸精霊に捧げる祝宴の儀式("biangxk" Hinton 1975:91)が営まれる。その後は引き続き9月末迄草取りに明け暮れ,10月に陸稲の収穫期を迎える。この頃より乾季がはじまり,11月には脱穀を済ませ農閑期に入る。
雨季のライでは,陸稲に代わりキャベツが栽培される場合がある。そのケースでは,雨季入り後の6〜7月に,キャベツの苗床を整備し育苗に取り組む。併せて,植え付け予定のライ(キャベツ畑)を耕耘する。8月を迎えるとともに,苗を畑に移植する。その後,肥料を投入し殺虫剤を散布する。9〜10月の収穫期に,キャベツを取り入れメーホーの集荷地へ搬送する。
ところで,7〜8月頃営まれる「ライの精霊等に対する祭儀」(前述)は,野良仕事ではないが,ポー・カレン族社会が維持してきた伝統的焼畑循環耕作の文脈に於いて,実はライでの野良仕事と並ぶ深意を有する。村人はこの祭りで,山面に広がるライを守り陸稲の収穫に恵みを齎らす精霊や,ライの内側の草木やライの周辺部の岩石,水流等に宿ると信じられている他の様々な精霊に対して,米,酒,及び番いのニワトリを奉納し,豊穣を祈る。この祭儀には村の男性だけが直接係われ,儀式の最中はいかなる立場の女性も,祭儀の聖域に立ち入ることは厳しく戒められる。村の外部者も同様である。万一この戒めが破られ儀式が冒pされた場合には,来たるべき収穫が著しく損なわれることのないよう,儀式の全ての手順があらためて初めから踏み直されなければならない。興味深いことに,ライで陸稲の代りにキャベツが栽培されている場合には,この祭儀に類する儀礼は執り行なわれない。
ナー(水田)では通常,雨季(5月下旬〜10月)に水稲が耕作され,乾季を迎える11月に取り入れが行なわれる。また時には,乾季の後半から暑季の初頭に至る1〜3月に恆り,キャベツがナーで栽培される。
3−2 焼畑農耕の変化――水稲生産の導入とキャベツ栽培の拡大――
1950年代頃までは,各「山面区画」を10年間以上休閑地として寝かせていたと,バン・メーチャンの村人は言う。つまりバン・メーチャンは当時,10ロット以上の「山面区画」を保有し,各世帯は都合10ヶ所以上のライを保有し,それらを焼畑循環耕作の形態で年毎に循環させて使用していた。しかし過去半世紀の間に,「山面区画」は5ロットに減じた。従って村人は現在,5ヶ所のライを年毎に循環させ耕作に従事している。ライの休閑期間が10年を超えていた時代に較べ,近年は土地利用方法にゆとりを欠き,地力維持のための循環周期が窮屈になって来た。その背景には,次第に厳しさを増してきた森林保護政策10,換金作物の栽培量増大,化学肥料の急激な投入,各世帯の年間当り耕作ライ面積拡大による規模の経済性の追求,及び山地農村における人口増加など,種々の要因が重層的に絡み合っている。
伝統的な陸稲生産に加え,1960年代後半から,ナーでの水稲生産がバン・メーチャン近傍の村落で導入され始めた。この動向は,村落人口の増加現象と耕作可能面積の硬直化を経験しはじめた村民が,米穀収穫高の確保と増大を目指して選択した農業転換の一過程である(Hinton 1975: 142)。とは言え,急斜面の多い険しい地理的条件から,バン・メーチャンの村人が水田を開墾することは容易でない。勿論,灌漑用水の管理を常に適切に行なえれば,水稲の収穫高は比較的安定し,新田開発の労を補って余りある取り入れを享受できる。反面,もし水の管理が思うに任せない場合,大きな被害を蒙る可能性は小さくない。実際,第一著者による2002年の現地聴き取り調査によると,同年は例年より2ヶ月近く長引いた大雨の影響による小規模な洪水が頻繁にナーを襲い,水稲の収穫は顕著に減じた。
上記の聴き取り調査結果によると,バン・メーチャン村内の世帯のうち,農業生産活動に幾分とも携わっている51世帯(人口230名)による2002年の米穀収穫高は,合計6,041タン(thang,1タン=20 kg)であった。この内の4,571タン(76%)は陸稲米,1,470タン(24%)は水稲米である。よって,51世帯の平均米穀収穫高は,陸稲と水稲を合わせて118タンとなり,内訳は陸稲90タン及び水稲29タンとなる。他方,村落人口1人あたりの米穀収穫高は合計26タンで,内訳は陸稲20タン及び水稲6タンである。また,同年に耕作されたライの面積の世帯平均は6.61ライで,この内の5.26ライは陸稲生産にあてられ,残りの1.36ライは,バン・メーチャンに於いては米穀以外の唯一の換金作物であるキャベツの栽培にあてられている。しかし,代表値としての平均値を見るのではなく,各世帯を個別に眺めると,世帯間で大きな差違が見られる。即ち,半数以上の世帯は,多分に資金や労働力の不足故にキャベツ栽培には着手できず,陸稲生産のみに頼る単一栽培農業で生計を立てている。
キャベツ栽培がバン・メーチャンへ導入され始めた時期は,1980年代である。メーホー地域に於いてキャベツ栽培の端緒を開いたモン(Hmong)族の耕作するキャベツ畑が,丁度その頃,バン・メーチャン村域の山間部にまで展開して来た。メサリアン郡の山地に散在するポー・カレン族村落の人々は,当初はモン族のキャベツ畑で日雇い労働者として働きながら,キャベツの栽培手法を習得した。その結果,キャベツ栽培に或る程度の規模で取り組むポー・カレン族の農民が漸増し,キャベツ栽培に携わっていない山地民(村内・村外を問わず)に対して,キャベツ畑で働く雇用の機会がバン・メーチャンでも創出されるようになった。
更には,自己資本或いは借り入れ資本が不充分であるために,キャベツ栽培に乗り出せない山地農民に対して,メーホー地域内でキャベツ栽培を大規模に営む(即ち,後述するキャベツ栽培ゲームの勝者である)一部のポー・カレン族の中から,継続的又は一時的に必要資金を投資として援助する世帯も現れた11。例えば,キャベツ栽培に必要なキャベツの種子・化学肥料・農薬を,山地農民に無料で提供する。キャベツの栽培・収穫作業は,生産者である農民に委ねる。収穫時には,キャベツをピックアップ・トラックで山地迄受け取りに行き,メーホーの集荷場へ出荷する。生じた利潤は,生産者と折半する。利潤が生じない場合,金銭的損失は投資者側が負い,山地農民側に金銭的負債が直ちに発生することはない。しかし利潤が生じなかったとき,この外部からの投資の仕組みに乗り自らが保有するライの大方をキャベツ栽培に当てた世帯は,ナーを保有する世帯を除き,米穀を購入する現金もなく自家消費に向ける間作作物の取り入れもない,誠に困難な状況に直面する。結局,この問題を解決するために,新たな借金の借り入れ又は村の内外での賃仕事を余儀なくされる。
加えて,メーホー地域のポー・カレン族山村の自動車保有率は低く,バン・メーチャンでは3世帯のみが,夫々1台ずつ保有する。雨季には連日降り続く雨の仕業で,山道の地面は濁流に浚われ,泥濘みは時に四輪駆動車の通行をも不可能とし,農産物の出荷は難渋を極める(Samata and Kawashima 2003)。山地で農業を営むバン・メーチャンの農民にとり,出荷終了の時点まで夥しいコスト・リスクの伴なう試みが,実はキャベツ栽培なのである。
3−3 焼畑農耕の市場経済化――キャベツ栽培ゲームの長所と短所――
山地のキャベツ栽培は,農業に携わる山地民を一方で富める勝者に変え,他方で負債にまみれた敗者に陥れる。このように諸刃の剣であるが故に,「キャベツ栽培ゲーム」とも呼び得るキャベツの生産活動は,農業形態の変革を迫られているメーホー地域のポー・カレン族諸村落に,少なくとも次の4つの影響を及ぼした。
3−3−1 ライの非循環化と非陸稲化
一定同一のライを畑地として毎年繰り返し耕作することが,キャベツの生産性向上を目的とする化学肥料の導入により,暫時であれ一般的に可能となった。よって,化学肥料をふんだんに使用するキャベツ栽培は,焼畑循環耕作の基本構造と,本来は陸稲生産用であったライ土地利用法を大きく変えた。換言すると,従前より陸稲の循環耕作用畑地として用いられて来たライの一部が,キャベツ(陸稲ではなく)の連作用(循環用ではなく)畑地に転化しつつある。
3−3−2 雇用機会の創出と村落内経済格差の拡大
バン・メーチャンでは,キャベツ栽培に携わる世帯の割合は未だ比較的低い。しかしながら,相応の資本(自己資本又は外部からの投資)と適切な労働力(特に若い男性の労働力)が調達され得る場合,キャベツ栽培に乗り出す世帯は少なくないと考えて良い。実際,これら2つの条件が満足されていなくとも,キャベツの単一栽培に踏み切りその販売利益で主食の米殻を購入する,綱渡り的な農業を営んでいる世帯もある。この場合,もしキャベツ生産が利益を齎さず逆に負債を生ずることになると,当該世帯の何人かは,日雇いの賃労働に携わり家計の帳尻合わせに努力せざるを得ない。
前述したキャベツ栽培のゲーム性は,キャベツ栽培が結果として利益と負債の何れを生むかに依存して,小さな山間僻村の内部でも,キャベツ生産活動の成功者と失敗者との間に,所得の顕著な乖離をもたらす。失敗者の主な敗因としては,市場価格が時に暴落すること,並びに収穫や出荷のタイミングを見誤ることが挙げられる。何れの敗因にも不可抗力的な側面があり,例えば収穫したキャベツを出荷する際,車を保有していない世帯は,悪条件の山道を下の町から登ってくる仲買人の小型トラックを一途に待つしか術はなく,その車さえも時に山道の泥濘にはまり途中で頓挫してしまい,骨を折って収穫に漕ぎつけたキャベツを市場に搬送できず台無しにしてしまうことさえある。
他方,資本に恵まれ好機に乗じ,早い時期から目敏くキャベツ栽培に取り組んでいる山地農民は,失敗を折り折り経験しながらも全体的には着実に利潤を蓄積し,規模を拡大しながらキャベツの継続的再生産を進めている。このように,キャベツ栽培ゲームの勝者として大規模なキャベツ生産に取り組む山地の高所得農民は,自分の村落内外から農業用労働力を雇い入れ,このことを通じて,村内の雇用機会創出に少なからず貢献する。即ち,以前は山を下った町まで出掛けて労賃を得る以外に現金収入の手段が封じられていた山奥の僻村に,低額な手当てであるとは言え,近場で賃労働に従事できる機会を齎した。反面,キャベツ栽培ゲームの敗者又はキャベツ生産の手段を持てない低所得層は,賃金労働者として他所の農民の畑でキャベツ栽培に従事しキャベツ生産に寄与しつつ,得られる現金収入で必要な米殻の購入が可能となる。このような相互依存関係的現象を随伴させながら,山間僻地の村落体内部で見られる経済格差が漸次広がりつつある。
3−3−3 土壌の汚染と侵蝕
一度び化学肥料の投入された土地で,地力を維持させつつ耕作を繰り返し続けるためには,年々その投入量を増加する必要がある。この増加投入の過程で,土壌は化学特性を変化させながら劣化の一途を辿る。化学製品を使用するキャベツ栽培で土壌汚染は不可避であり,バン・メーチャン界隈のポー・カレン族山村でキャベツが毎年生産されているライの土質は,継続的な化学肥料の使用と農薬の散布により,次第に痩せ且つ侵蝕されてきている。この様に化学肥料に頼り適度な休耕を土地に許さず,同一のライでキャベツ栽培を強引に継続することは,持続可能な農業形態とは言い難い12。併せて,キャベツを含む種々の換金性作物栽培の先陣を切ったモン族を対象に実施された,農薬が山地農民に及ぼす影響をめぐる「農薬使用に関する調査」(Kunstadter et.al. 2003)では,農薬の功罪のうちヒトの健康に対する害が懸念されている。ライの非循環化はこの点でも,持続可能性の概念と隔たりがある。
それにもかかわらず,バン・メーチャンの山地農民が時代の抗し難い潮流を生き延びるうえで,キャベツは依然として,耕作優先順位の極めて高い主要農産物のひとつである。
3−3−4 山地経済の市場経済化
半世紀以上昔のように,森林を比較的自由に切り開き,焼畑循環耕作を村人達が大らかに営むことは,現今ではもはや不可能に近い。そこで,限られた面積の土地資源を有効に活用しなければならず,バン・メーチャンの村人のうちキャベツ栽培ゲームの勝者は,市場のキャベツ価格が暴落しても,キャベツ栽培を続ける傾向にある。他方,キャベツ栽培ゲームの敗者は,雨季の泥濘るむ山道に仲買人の小型トラックの車輪がはまり折角の出荷をふいにしても,キャベツ栽培に対して投資意欲を有する町の仲買人や裕福な山村農民がいる限り,現金収入の数少ない機会を求めてキャベツ栽培に寄り添う。キャベツはこのような意味で,市場経済化されつつある山地社会に於いて,キャベツ栽培ゲームの勝者にとっても敗者にとっても,実現可能な生き残りの道に適合する極く限られた換金作物のひとつである。
バン・メーチャンから最寄りの町メーホーに出ると,同町のキャベツ集荷場には,大型トラック(積載量12トン車)がチェンマイやバンコックからほぼ年中無休のペースで集まり,メーホンソン県内の山村から小型トラック(積載量2トン車)で出荷されて来たキャベツを,大量に積み込んで行く。この意味で,バン・メーチャンのキャベツ栽培は,単なるローカルな村落単位の経済現象に留まらず,メーホンソン地域やタイ全体に跨がる,マクロ的な農業経済現象として把えられる。
自給自足的な経済を基本としながらも,貨幣経済・市場経済とのかかわりを次第に深めて行かざるを得ないバン・メーチャンの山地農民達には,収穫された陸稲・水稲のうち自家消費分を超えた余剰米の販売によって得られる現金収入,キャベツ栽培により得られる現金収入,並びに別の世帯が村内・村外で耕作するキャベツ畑での賃労作業により得られる現金収入等がある。他に,キャベツ以外の換金作物(例えばランプーン県におけるロンガン<龍眼>)の畑で携わる賃労作業や,町での日雇い又は定期的な肉体労働作業(例えば,各種の土木工事作業,及び木彫りで有名なチェンマイ県ハンドン郡内の村落に於ける木工品の彩色作業)により得られる現金収入がある。更に乾季の農閑期には,週単位や月単位で一定の期間,町で賃金労働に従事する村民も少なくない。村の小学校で義務教育を受けた若者の中には,メサリアン市内やチェンマイ市内などの都市部において,長期間に恆り住み込みで働く者もいる。このように,現金収入を得る場合も,空間的マクロ化を呈している。なお,都市部で働いている若者達は,雨季の農繁期には通常村に戻り,家族と共に畑仕事に出る。
4 高齢者の生活環境――社会経済的構造変化――
4−1 伝統的首長(男性長老)と伝統的血族長(女性長老)
バン・メーチャンの場合,殆んどの世帯にとり生業の土台となる基本的農業形態は,前述したように「自給自足作物である陸稲をライで耕作する」ことにある。この伝統的な陸稲耕作では,精霊の判断と采配を仰ぐアミニズム的儀式が重要視される。しかし,最近新たに導入されたキャベツなど換金作物の栽培に対しては,陸稲と同じく広大なライを用いる耕作でありながら,精霊を戴く儀式は全く執り行なわれない。蓋し,換金作物の農事暦が1サイクル完結する過程には,確かにライを直接潤おす「風調雨順を呼ぶ天の恵みや火田の沃土を促す地の情け」との係わりも肝要であるが,これとは別に,ライから集荷場に至る山間道路の状況及び農作物市場での価格変動など,工学的・経済学的要素にまつわる運不運が,利潤を左右する重要な因子として顕著に作用するからであろう。
確かに,キャベツ栽培から生ずる利潤の大小は,天恵地情・運不運に依存するが,同時に農業経営の視座に立てば,利潤はキャベツ生産量の多寡,従ってキャベツ用耕地の広狭にも依存する。バン・メーチャンでは興味深いことに,キャベツ用耕地の広狭は,同村落の社会経済構造特性と密接に関連する。
表2を眺めてみよう。同表は,第一著者が現地調査で収集した「2002年の年間現金収入及び土地利用形態」に関する資料に基づき作成されたもので,バン・メーチャンの村内世帯のうち,農業生産活動に携わっている51世帯を,現金収入別に4つの所得階層(高所得層,準高所得層,中所得層,及び低所得層)に分類している。高所得層には8世帯が属するが,この内,5世帯(計8世帯の62.5%にあたる)の夫は各々村長(男性1名),村長補佐(男性2名),及び前述のO. Bo. To(男性2名)である。公的な役職に就いているこの5人の内3人は,宗教的権威を世襲する伝統的首長家の血筋にあたり,彼ら3人は村内での特権的背景に恵まれている。この背景からは,彼らの家族が代々受け継いできた「地味が肥え且つ地の利を得た田畑」を,農業資本として賢く活用することにより,農業形態の急速な変革に比較的優位な形で対応して来た姿が窺える。なお,2002年には高所得層8世帯の内,7世帯(87.5%)がキャベツ栽培に携わっており,同所得層はキャベツ栽培に対して積極的である13。加えて,8世帯中6世帯(75%)がナー(水田)を保有し,ライを用いたキャベツ栽培によって発生する損失の危険を,水稲で担保する仕掛けが読みとれる。また,上記の5名には,各人の公務に対する手当てとして定期的な現金収入が保証されており,キャベツ栽培が万一負債を生んでも,他の村人に比較し損失の補填が容易と言える。彼らは更に,立場上村落外の人々との交流接触が多いため,都市部のキャベツ投資家から資金援助を受け易い。
このような訳で,村落社会の伝統的な宗教的ヒエラーキー及び近代的な行政的ヒエラーキーの中で優位にある人物(及びその世帯)は,その個人の社会経済的地位に随伴する人的ネットワークも含めた資源を種々活用することにより,農業の変遷過程を首尾よく乗り切る確率を高めることができる。この意味で,バン・メーチャンの社会経済構造の中で指摘される相対的力関係は,「広いキャベツ用耕地―多いキャベツ生産―高い(時には低い)キャベツ利潤」と言う,「キャベツ栽培利潤連鎖」の一層確かな発現に少なからぬ影響を及ぼしている。
伝統的首長に比較すると,権威の規模は小さく,役割りの色合いは淡いが,似通った相対的力関係の構図が,村落内の伝統的民間医療(生薬を含む)の切り口でも見られる。前述した女性の長老血族長(ther mue khae khu)達との関連で言えば,彼女達が営む祭祀はその重さが次第に減じているとは言え今日まで踏襲されて来ており,長老血族長は村民に対し,日常生活の健康管理面で重要な役割りを果たす。即ち,もし同系血族内の家族に病気や怪我が生じると,家族達は当該家系の血族長が持つ祭祀能力に頼り,彼女は求めに応じ定められた宗教的儀式を執り行なう(症状によってニワトリやブタを精霊に捧げる)。
病いや怪我を患ったとき村人は,伝統的血族長の儀式と併せて,町のクリニックや病院で医師や医薬にも頼る。伝統的信仰による治療に特有な奇跡的神秘も現実的限界も,はたまた,近代的西洋医学・薬学の効力も弊害も,村人達は各々の立場で弁えているようである。このような社会的環境のもとで,伝統的血族長達に課せられている村落での役割は,儀礼的な側面において今も如何にか保持されている。一つの観点に立つと,バン・メーチャンで貨幣経済化・市場経済化と相並んで進展してきた,キャベツ等の換金作物の導入を伴なう農業形態の変化は,結果として女性の伝統的血族長達が嘗てはふんだんに備えていた筈の薬草に関する従前からの豊かな知識を次第に薄め,彼女達の伝統的宗教的権威を弱め,ひいては同一家系内で女性長老の伝統的血族長を頂点とする古来の民間医療ヒエラーキーの中で占められる,血族長達の相対的優位性を低下させたと言えそうである。
4−2 伝統的首長としての高齢者
Wさんは,推定100歳(2002〜2003年現地調査時)とされる男性で,バン・メーチャンの最長老であり,同時に,村内における宗教的な最高権威を有する伝統的首長である。彼の風貌は100歳には見えない若さであり,顔に刻まれた皺や皮膚の全体の趣きは太い古木のような深遠さを湛えており,髪はポー・カレン族男性の伝統的髪型(耳の上で毛髪を1つに纏める髪型)に結われ黒々として豊かである。
屋根は藁で葺かれ,壁と床は竹で出来た小さな高床式の家に,彼は独りで住む。平生は隠居のような生活で,昼間は手作業で小物を作り,食事は彼の子供が用意する。しかし,一度び村全体の伝統的な祭祀や重要な他の行事が行なわれることになると,最高権威者としての任務を堂々たる態度でこなす。その最たる行事は,1年の農暦で村人が農耕を開始する前に営なまれる新年祭であり,彼は一連の儀式を中心になって司り,いけにえを捧げ,祝詞に似た言葉を唱える(村人と言えども女性はこの儀式に参加することも見物することも許されない)。
今の伝統的首長には4人の子どもが健在で,そのうちの1人は行政的村長(推定55歳)の職務にある。また,1人の娘(推定40歳過ぎ,名前はSさん)は未亡人で,父親のWさんが住む竹で作られた慎ましやかな建物の隣りに並ぶ木造の大きな家に,10代の息子と2人で暮らしている。彼女はほぼ毎日,Wさんに食事を賄なうとともに,Wさんの家事の世話を実質的に受け持っている。
年齢より若く見える容貌に違わず,彼は村内を独りで散歩したり,気ままに小物作りを楽しんでいる。Wさんは或る日,第一著者と取り交わしていた会話の最中,スゴー・カレン族の男性用上着をこちらが着ていることに気付き,自分の部屋の奥からポー・カレン族の男性用上着を持ち出して来た。彼はその一着を100バーツで買わないかと,北タイ語(カム・ムアン)で話を持ちかけて来た。その時,彼の年齢や風貌から推し量られる神秘的威厳性を超えた,現実を確と見つめて生きる剛の者の姿が,彼の輪郭から力強く浮き出たように思えた。
4−3 高齢者一般と社会慣習
ポー・カレン族の山村では旧くからの慣わしとして,親は子供達の成長後も当分の間,子供達14(或いはその家族)と共に暮らす。しかし或る程度年が寄ってくると,子供達とは住まいを別にして,近くのこぢんまりとした高床式の家屋に移り住む。やがて日常の家事が煩わしくなってくると,子供達が日々手伝いに訪れ生活の面倒を見る。子供がいない場合,一般に必要な世話には姪又は甥があたる。
年齢が60歳を越える高齢者は,バン・メーチーャンに凡そ10名おり,うち7〜8名が女性である。母方住居制社会15であるためか,未婚の高齢女性が比較的多い。それはさておき,彼女ら彼らのうちの老女1名は,5年程前にHDWCM16のプロジェクトにより作られた老人福祉用の控え目な建家に住む。他の高齢者は全員子供達と住居を異にしながら,幾名かは炊事・洗濯等について子供達の世話に頼っている17。とは言え,高齢者の多くは完全隠居の様態とは程遠く,普通は働ける間18,孫や近隣乳幼児の子守,家畜の世話,野良仕事・山仕事等を続ける。
高齢者はやがて死を迎えるが,ポー・カレン族の山村社会には,死との関連で執り行なわれる家屋再生(居住家屋の取り壊しと建設)の儀式がある。即ち,家族の中から死者が出ると,一般には当該死者が生前居住していた家屋は取り壊される。そのため,老人が例えば離れの別棟で余生を過ごすという旧慣は,若い世代から老人の予期される程近い死を隔て,経済的に負担の多い主屋の取り壊しを避けるための知恵と言えよう19。
ところで,高齢者を取り巻く生活環境は,山地農村バン・メーチャンの貨幣経済化・市場経済化の過程,伝統的な焼畑循環耕作に於けるライの非循環化・非陸稲化の過程,並びに行政制度の近代化の過程と相伴ない,新たな変容の過程を辿っている。具体的には,行政的に高い地位の公職に就任している長老(村長)の村内社会での影響力が,新たな要素として台頭して来た。男性長老である伝統的首長の影響力が,その結果相応ずる形で減じた。また,女性長老である伝統的血族長の同一家系内に於ける相対的優位性は,低下した。同時に,各世帯が従前より保有して来た広義の農業資本を市場経済化の流れの中で有効に活用し得た家族の長老は,村内の農業生産活動面に対する影響力を次第に高めるようになった。
約言すれば,農業形態の変革を中心とする社会経済構造の変化が,バン・メーチャンの長老ヒエラーキーを再構築しつつある。新たな影響力を持つようになった長老達が,将来にも引き続く近代化の過程の中で,家屋再生の儀式に対してどの様な対応を示すか強い興味を覚える。
5 おわりに
本稿は,タイ北部山間奥地のポー・カレン族居住僻村バン・メーチャンを対象に据えた,第一著者の事例研究(Samata 2003)を基盤に置き,その後収集した資料及び第二著者のフィールド・ノートの内容を部分的に追加して纏め,主として次の3点を論じた。
(1)バン・メーチャンの歴史的,人口動態的,宗教的,教育的,生活基盤環境的,言語的,行政的,及び地勢的特性,
(2)伝統的焼畑循環耕作が変容する過程の特性として認識される,「ライの非循環化・非陸稲化」,並びにその現象と密接に関わる「キャベツ栽培ゲーム」の長短,
(3)高齢者生活環境の一側面を写映する長老ヒエラーキーの変容。
タイ北部山地農民の村落が見せる山村ダイナミズムに関心を覚え,本稿の考察を試みた。しかし,不徹底・不明確な点が少なからず目につく。より適切な知識と理解を求め,本稿の延長線上に位置する調査・考察20を今後更に重ねて行きたい。
[謝辞]
本研究の一部は,独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究B-1)に拠り執り行なわれた。
参考文献
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