明治31年時における綿糸紡績会社株主名簿の分析

 

鈴木 恒夫、小早川 洋一、和田 一夫

 

 

はじめに

 

本稿は,明治31年時における綿糸紡績会社60社の株主名簿のデータにもとづき,株主・所有株式数について分析することである。具体的には,かれら株主の所得水準をも明らかにしようとするものである。そのことにより,わが国紡績会社の初期の出資の実態へのアプローチを試みる。われわれは,現在,同年時における全国の会社を対象に「ネットワーク」の分析を行なっており(注1,本稿は,紡績会社に限定するものではあるが,このネットワークを構成する人物の株式所有状況を観察することを目的としている。

明治期における綿糸紡績会社の株主についての包括的な分析としては,すでに山口和雄および村上(西村)はつ両氏による研究がある(注2)。山口氏は,日本紡績協会所蔵の紡績会社株主名簿(考課状所収)をもとに,村上氏らの協力のもと,主として明治31年時(上期)の分析を行なった。これは,「明治日本の代表的産業の一つであった紡績業の資本――ことに固定資本――がどんな職業・階層・地域の人々によって供給されていたかを明らかにする」という目的のもと,同年時に存在した全国の紡績会社81社のうち65社を対象に,各社の大株主(「比較的持株数の多い重要株主」)計1141名をとりあげるとともにかれらの職業調査を行なったものである。また,村上氏は,山口和雄編著の『日本産業金融史研究 紡績金融編』において,この明治31年の調査に加えて,同39年および大正2年(いずれも上期)における各紡績会社の株主名簿を分析した。本稿と対象時期が同じ明治31年時についての村上氏の考察をみると,同上の大株主1141名についての職業調査に加えて,株式の集中・分散等について分析している。

この山口・村上論文とわれわれの研究との分析対象上のちがいを言えば,対象とする会社の異同とともに,両氏が各社の大株主を対象としたのに対し,われわれは株主名簿上の全株主を対象としたという点にある。また,われわれは,『明治31年 日本全国諸会社役員録』および『明治31年 日本全国商工人名録』掲載の人物と株主名簿掲載の株主とを照合するとともに,株主・役員の所得額を算出・分析したという点も山口・村上論文とのちがいである。

以上の3つの資料を用い,株主の所得や家業の詳細を明らかにし,また,紡績会社の役員に就任していた人物については,所有株数以下,役職などを分析したい。ここから,明治20年代に興隆してきた綿紡績企業の株主層の実態が浮かび上がってこよう。とくに,株主の所得階層や府県別分布さらに株式の集中・分散の程度が判明するとともに,役員の持株比率も分かり,株主・役員の実態を知り得よう。

分析にあたり,以下の3点を課題として掲げたい。第1点は,株主の住所が記載されている60社を対象に株主の地域分布と株式の地域分布を考察することである。株主層の府県分布状態を通して,どのような地域の人々が株式に出資したのかを明らかにすることである。会社が設置された府県に居住する人々が株主として参加したのか,それとも大阪や兵庫などの関西地域,あるいは東京などの関東地域,そして愛知や三重などの東海地域の人々が,広範に投資していたのかが,判明する。

2点は,明治20年代に勃興してきた紡績会社の株主および役員がどの程度の所得階層に属していたのかを明らかにすることである。ことに,所得が判明する株主層に限定して,株主層の所得水準の一端を明らかにしたい。従来,一部の富豪同士が共同して会社を設立したかのような理解がなされてきたが,株主の所得を明らかにすることで,広範な株主層を基盤に設立したのか,あるいは,一部の富豪が共同出資して設立したのかが,判明する。

最後に第3点は,どのような株主が紡績会社の役員に就任していたのか,またその他の会社に役員として関与していたのかを明らかにすることを課題としたい。大株主がそのまま会社役員に就任していたのか否か,という問題である。個々の役員の持株に加えて,役員全体でどれだけの株式を所有していたのか,という論点も考察したい。

なお,明治31年という時期は,わが国綿糸紡績業が23年の恐慌から立ち直り,会社数を増加させ,31年から33年にかけて会社数のピークに到達するころの時期である。そして,そののち,33年から34年の恐慌を契機に,企業集中が進んでいくことになる

 

1節 株主と株式の地域分布

 

本論文で対象とした紡績会社全体についての資料の概要を記すと次のようになる。株主数は総計17,843名(延べ),株式数合計882,217株である。60社についての個々のデータについては,表1に記した通りである。これによれば,発行株数では,日本紡績の8万株が最大で,鐘淵紡績の5万株がこれに続く。一方,株数の小さい会社では,飾磨紡績の320株,桑原紡績の428株がある。1万株以上の会社が60社中33社を占め,5千株以上の会社が18社,1千株以上の会社が7社であるから,飾磨紡績と桑原紡績は,極端に少ないと言えよう。そこで,60社の平均と飾磨,桑原紡績を除いた平均を記すと,次のようになる。全60社の平均では,1万4千700株余りであるが,飾磨・桑原紡績を除くと,1万5千200株である。およそ1社平均1万5千株を発行していたと言えよう。

 

 

株主数では,日本紡績の1114名が最大で,広島紡績の810名がこれに続く。一方,株主の少ない会社は,飾磨紡績の8名,日東棉糸の12名である。1千名以上の株主を擁する会社は1社,500名以上の会社が9社,300名以上の会社が14社,200名以上が14社,100名以上の会社が10社,そして100名未満の会社が12社であった。60社平均では,297名である。以上から,60社の平均から浮かび上がってくる姿は,発行株数が1万5千株で,株主が300名というものである。綿紡績会社の株主数については,伊牟田敏充氏の研究がある。伊牟田敏充「明治期における株式会社の発展と株主層の形成」によれば,「1社平均『株主』数の推移を見ると,『紡績』では明治26年まではおおむね100人台で,集計範囲が商法上の会社企業のみとなった明治27年以降は200人以上なり(ママ),30年以降は400人以上となっている」(注3と記している。

本稿で対象とした紡績会社とは,時期や対象範囲が異なるため,詳細な比較検討は出来ないが,60社それぞれの会社毎に株主数と株主の府県分布を示した。その結果,二三の少数株主の企業を除くと,伊牟田氏が掲げた株主数よりも若干少なくなっている。

60社の府県別一覧を表2に記した。これによると,60社は18府県にまたがっている。この中で大阪府の14社が最大で,岡山県の9社がこれに続く。関西地域には60社中26社が含まれる。岡山や広島の中国地域では11社,愛知や三重などの東海地域と九州では6社,関東と四国ではそれぞれ5社,甲信地域が1社である。

 

 

ここで改めて,第1課題の意義を記しておこう。株主がどのような地域的な広がりを持っているかは,明治期における会社設立の意義,特に,それぞれの地域で設立された企業の特徴を考える際に重要な問題である。近代企業はどのような地域から株主を募集していたのか,あるいは,広がりを有していたのかという問題を,明治期における主導的な産業の一つであった綿紡績産業を素材にして,上記の課題を考察することとしたい。こうした株主が関与した企業の役員も分析を通して,それぞれの地域で,どのような出自を持った企業家によって近代産業が計画され,同時に地域の人々が出資して設立されたのか否かが分かるであろう。

紡績産業を例にとって,その「地域性」を検証することが可能となる。株主分布と株式分布の両方が可能であるから,ここから,株主の集中と株式の集中が分かり,県外の株主=相対的に大株主,県内の株主=相対的に小株主であったか否かの関係が判明する。

以上の株主の分布の様子から,地方企業の株主集中・分散の様子が分かる。すなわち,分散した多数の株主が出資して設立されたのか,それとも,少数の株主による出資・設立であったのかが判明する。近代産業の担い手が,家族・同族の出資による,出資者と経営者とが密接な関係を持ち,明確な経営責任を取ってきたのか,あるいは多数の出資と少数株主という関係を特徴とする企業であったのかが分かる。コーポレイトガバナンスの問題にもつながる課題である。

3は60社の株主の府県分布表であり,その株主分布の割合が表4である。ゴシック体で表記されている箇所は,左の欄に記されている紡績会社の本社所在府県である。綿紡績会社の株主分布については,傳田功氏が一例を掲げている。傳田功氏によれば,明治30年における日本紡績株式会社の株主1150名の地域分布を求め,「同紡績のように比較的に小さな紡績会社においても,已に株主総数は1150名に達し,その分布範囲は三府二七県に及んでいる」(注4とした上で,「株式会社形態によって社会資本を積極的に利用し得るに至った」と高く評価している。

 

 

 

 

しかし,傳田功氏の研究は日本紡績1社のみの事例からの評価である。もっと多くの紡績会社に実像はどうであったのだろうか。本稿では,60社を対象に株主の府県分布を示すことによって,傳田氏の評価をより広い視野から見たものと言えよう。なお,本稿では,紡績会社の設立した府県に対応して,株主の府県分布をみるのに便利なように,会社と同一府県の株主数はゴシック体で表記した。

また本稿では,地域という概念を導入して,株主の地域的な広がりも示している。これによって,株主の地域的な広がりのみならず,その広がり方の地域的な特性,特に,会社設立府県に視点をおいた株主の地域的な広がりを示している。

一方,本稿では株主の地域分布と同時に株式の地域分布も示した。これによって,紡績会社60社すべての人的側面(株主)の広がりと同時に,資金的側面(株式)の広がりという二つの面の広がりを見た。

さて,株式会社形態を採用する一つの意義は,社会的遊休資金の集中である。株主,株式分布によって,社会的遊休資金の分布状態を概観することが出来たが,これら社会的遊休資金を現実に蓄積していた人物像は不確かなままである。そこで,商人に限定して,彼らの生業と所得水準とその分布状態を見る必要があろう。本稿では,所得水準の分布を示し,生業の特徴については,別稿に譲ることにした。

まずこの2つの表から明らかなことは,二三の例外を除けば,本社所在府県の株主が最も多数を占めていることである(注5)。例外に属するのは,日東棉糸(大阪),金巾製織(大阪),日本紡織(兵庫)である。この他,本社所在府県の株主数が50%を下回るのは,伏見紡績(京都),日本細糸紡績(大阪)の2社である。これら5社に共通なのは,本社所在地が大阪,兵庫,京都と関西地域に集中していることである。

日東棉糸では,滋賀県の株主が最も多く,大阪府の株主に次いで東京の株主が17%いた。金巾製織では,滋賀県と京都府の株主が大阪の株主よりも多い(注6)。また日本紡織では,大阪府の株主が最も多く,これに次いで兵庫県と京都府の株主が続いた。伏見紡績では,京都の株主と並んで奈良県,大阪府の株主が多く,日本細糸紡績では,東京府や京都府の株主が多いことが分かる。以上から,関西地域の紡績会社5社は,本社所在地の府県のみならず,その周辺地域在住の株主が多い場合と,それに東京府に在住の株主が多いことが指摘できよう。

これら5社を除くと,本社所在府県に在住の株主が過半を占めていた。この中で,90%以上の株主が本社所在府県に在住の紡績会社は,23社ある。95%以上占めている会社は12社ある。松山紡績(愛媛),宇和紡績(愛媛),倉敷紡績(岡山),広島綿糸紡績(広島),甲府紡績(山梨),堺紡績(大阪),岸和田紡績(大阪),郡山紡績(奈良),久留米紡績(福岡),播陽精米紡績(兵庫),播磨紡績(兵庫),飾磨紡績(兵庫)の12社である。

大阪,東京,愛知を除いた比較的地方所在の会社か,大阪や兵庫県であっても,岸和田や堺,飾磨に見られるように,中心地から離れた市や郡レベルで会社設立がなされたと思われる会社である。この中でも,甲府紡績では山梨県の株主が100%を占め,飾磨紡績では兵庫県の株主が100%を占めていた。

先に記したように,株主は会社の本社設立府県に加えて近隣の府県に在住の株主が多くを占めていた。そこで,地域の概念を導入することによって,こうした近隣に在住の株主を含めた地域展開を見ていくことにしよう。ここで地域というのは,北海道,東北(青森,秋田,岩手,山形,宮城,福島),関東(群馬,栃木,茨城,埼玉,東京,千葉,埼玉),甲信(山梨,長野),北陸(新潟,石川,福井,富山),東海(静岡,愛知,三重,岐阜),関西(滋賀,京都,大阪,和歌山,兵庫),中国(岡山,広島,島根,鳥取,山口),四国(愛媛,香川,徳島,高知),九州(福岡,佐賀,長崎,大分,熊本,宮崎,鹿児島),沖縄,台湾である。

株主の地域分布は表5に掲げている。ここから分かるように,殆どの紡績会社の株主は本社設立府県がある地域在住の株主から90%以上から構成されている。その中で,伊予紡績(愛媛)は四国と関西,吉備紡績(岡山)は中国と関西,玉島紡績(岡山)は中国と九州,日本細糸紡績(大阪)は関西,東海,関東,日東棉糸(大阪)は関西と関東,富士紡績(東京),小名木川紡績(東京),鐘淵紡績(東京)は関東と東海,中津紡績(大分)は九州と関西の株主で占められている。

 

 

多くの会社は比較的狭い地域の株主に依存していたが,中には関西や関東の地域に在住の株主に依存している事例が散見される。また富士紡績のように,本社所在地の東京に加えて,工場があった静岡県の株主が比較的多く占めていた事例も見られる。このように,一つの府県あるいは地域の株主が多数を占めている事例よりも,隣接の府県あるいは隣接の地域の株主が多数を占めていることが分かる。

以上の点から,山梨や兵庫の一部の地域を除けば,比較的広範囲の地域に在住している株主が,紡績会社の株主であったことが分かる。また,株主数の平均が300名であったことを勘案すれば,一部の富豪による共同出資という性格ではなく,幅広い地域の株主が関与していたと言えよう。

次に,株式の府県および地域分布を見ておくことにしよう。先の株主分布と同じ体裁を保って作成したのが表6と7であり,地域分布は表8に記されている。先の表3〜5と比較してみると,次のことが指摘できよう。まず,下野紡績と東京にある紡績会社4社では,株主はそれぞれ地域に分散しているようにみえるものの,株式では東京に集中していることが容易に見て取れる。これはまず最初に指摘しておかなければならない。同様に九州の紡績会社でも,地元の府県に占める株主の割合は多いものの,株式の割合ではそれよりも小さい。東京を始め大阪,兵庫の株主の中に大株主がいることを予想させる結果である。四国も九州同様,地元の株主の割合はおおいものの,株式の割合は低くなる。

 

 

 

これとは別に,京都,大阪,兵庫では違った様相が見て取れる。個々の紡績会社の間では,株主の府県分布と株式の府県分布との間に違いを見つけることは容易ではないが,株主と株式の地域分布,即ち表5と表8とを比較すると,その違いが明らかになる。一二の例外はあるものの,関西地域では株式分布の方が株主分布よりも大きな割合を占めており,相対的に多くの株を所有している株主がいることを予想させる。それと同時に,三重紡績,日本細糸紡績,浪華紡績では,関東での株式割合が顕著に大きくなっている。東京を中心に,大株主がこの関東に存在することが予想される。実際,三重紡績の場合,創業資金の調達にあたって困難があったが,渋沢栄一がバックアップし,その発議で資本金22万円のうち「金拾弐万円ハ地方発起人之ヲ負担シ拾万円は渋沢氏ニ委託シ東京大阪其他各地ニ於テ募集」(注7)したとされる。その結果,創立時(明治19年下期末),東京在住株主11人によって計605株が所有されていた(三重県在住株主数21人,計1555株,大阪在住株主2人,計40株,総株式数2200株)。

 

 

そこで,個人ベースで大株主の実態を見ておくことにしたい。同時に,これらの大株主が東京を中心とする関東,大阪,兵庫を中心とする関西在住の人物かどうかも,併せて検討しておきたい。本稿が対象とする60社に株主として関与していた人物の中で,多くの会社に関与した人物と,多くの株式を所有していたしていた人物が,それぞれ表9と表10に記している。表9より,9社の株主であった人物は馬越恭平と藤野嘉市である。また8社の株主として関与していた人物は3名,7社は1名であった。6社の株主であった人物は11名で,5社の株主であった人物は34名であった。6社では柿沼谷蔵に代表されるような繊維関係の商人が見られ,5社では,瀧兵衛門や阿部彦太郎,日比谷平左衛門,下郷伝平,田中市兵衛などの東京,愛知,大阪などの有力な実業家が顔を出している。

 

 

 

 

一方,表10に記載されている多数の株式を保有している株主を見ると,三井高保が最も多くの株式を所有していたことが分かる。鐘淵紡績を始め,三池紡績,小名木川紡績の3社の株主であり,鐘淵紡績と三池紡績では筆頭株主であった。これに続いて,小泉新助,阿部市郎兵衛,松本重太郎,寺田甚与茂といった大阪の財界人が上位を占めていた。

ここから,次のことが指摘できよう。多くの紡績会社の株主となっている人物の府県は,東京,大阪,京都,兵庫,滋賀に代表されるような地域在住の株主が多く見られるが,同時に,岡山,福岡,広島,徳島などの県に在住の株主も散見される。最大の株主は鐘淵紡績,三池紡績,小名木川紡績の株主であった三井高保であり,三社の株合計28,492株所有して,最も多くの株数を所有していたことである。同様に,表10でも先に掲げた東京,大阪,京都,兵庫,滋賀に代表されるような地域在住の株主と並んで,広島,福岡,岡山に在住の株主も散見される。

以上から,紡績会社の株主は,一面では,地域在住の商人などに代表される人々が株主であったが,他面では,当時に有力な財界人が多くの会社の株主として,また,多くの株式を所有している株主として登場していた。広範な地域在住の人々の出資と東京,愛知,大阪に拠点をおいた有力財界人が紡績会社の株式を所有していたという意味での二面性があったことが分かる。

 

2節 株主の所得

 

改めて第2課題の意義を記すと,次のようになる。綿紡績会社の株主は,どの程度の所得があり,紡績企業以外にどのような会社の株式に投資していたのだろうか,という問題である。本稿において紡績会社の株主の所得水準を明らかにする意義は,次の通りである。中村隆英によれば,「(明治前期―鈴木)各地方に点在していた在来産業『資本家』たちの貨幣的蓄積の水準が高かったこと,そのはたした産業創設のための資金供給者としての役割が大きかったことだけは確認されなければならない」(注8とした上で,更に「地方における地主,都市における商人の大量な資金的蓄積が存在した」(注9と論じている。この点に対応して本稿では,商人に限定して,彼らの所得水準を特定する中で,資金蓄積の一端を明らかにしようとの試みである。これはまた,明治期の「投資家層」の分析に資することになろう。大株主,複数の会社に株式投資をしている人物の家業や所得,あるいは府県の特徴を指摘できる。商人に限定して見ると,株主の所得はどのような水準にあったのかが判明する。ここから,紡績企業の設立に関与した株主の実態に迫ることが出来よう。

こうした分析視角の意義を,従来の研究に即して改めてしるすこととしたい。

「従来,わが国の株式会社制度は,日本資本主義の資本蓄積の低位性をカバーするものとして早くから導入されてきたものの,広範な社会的零細資金を動員するという株式会社本来の金融的機能は希薄であった。」(注10むしろ,個人大株主による共同出資という形態により資本調達が行なわれたといわれている。

これに対してわれわれは,次のような疑問を提起したい。すなわち,この「広範な社会的零細資金」とはいったいどの程度を言うのであろうか。これまで,明治期について,包括的なデータの分析を通じて,この程度を確定した実証研究はない。われわれは,綿糸紡績業という工業化のリーディングセクターについて,明治31年時の株主名簿の分析によってこのことを実証,確定したい。もちろん,同時に,個人大株主への集中度がどの程度であったのかも確認することは言うまでもない。

株主名簿に記載されている株主全員を,明治31年版の『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている人物から特定し,所得税が記載されている人物だけを抽出して,株主の所得水準を算出した。株主名簿に記載されている人物の氏名と住所の府県と『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている人物の氏名と住所の府県が一致した場合,同一人物と判断して,所得税を求め,ここから所得を算出した(注11)。その結果は表11の通りである。

 

 

所得が判明する株主が10名に満たない会社(姫路紡績(株),播陽精米紡績(株),甲府紡績(株),大阪撚糸(株),(株)桑原紡績,日東棉糸(株),飾磨紡績(株),吉備紡績(株))を除くと,およそ以下の事実を指摘できる。

所得の最低水準は300円近傍である。すなわち,当時,所得税が課せられる最低の所得水準が300円であったから,課税最低所得の300円クラスである株主が少なくない規模で存在していたことが分かる。

また,それぞれの紡績会社の中で高所得者に含まれる人物では,原善三郎の8万7538円を筆頭に,安原吉平の3863円まで幅広い所得水準が見られた。また平均所得を見ると,上位の2つの事例を除くと大半が6000円から1000円規模である。1000円から2000円の所得層が圧倒的多数であることが分かる。

ここから,次の点を指摘できよう。第一に,最低の所得では,課税最低の所得である300円層が見られたことである。これは一部の富豪層による共同出資という性格ではなく,商人という限定はあるものの,300円台の人物までもが株主として関与していたのである。平均の所得は,1000円から2000円台の所得層が大半であったことも併せて強調すべきであろう。平均所得の算出に当たっては,単純平均によって求めたために,実際の水準よりも高くなることに注意すれば,現実には,これらの所得層以下の株主が多数占めていたと言えよう。

そこで,60社すべてにわたって,『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている人物を特定し,そこから所得を算出した上で,所得階層別に一覧表を作成した。これが表12である。ここから分かるように,60社全体では,500円から2000円未満の所得層が分厚く存在していたことが分かる。日本全国商工人名録に記載されている人物に限定されるとはいえ,紡績会社の株主層の所得水準が推定できる。

12に記されている所得が5万円以上の人物,延べ8人に加えて,所得が3万円から5万円未満層に属する人物,延べ29人,計延べ37人の人物名,株主として関与していた紡績会社名と所有株数,および『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている所得税から算出した所得額を掲げた。これが表13である。なお,表13の家業の欄に記載されている職業の名称は,『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている職業を掲載している。

 

 

 

 

 

3節 紡績会社役員の株式保有

 

3課題の意義は,株主と役員の関係である。大株主がそのまま紡績会社の役員に就任していたのか,あるいは,役員に就任していた株主は所有株数とは密接な関係を持っていなかったのか,という問題に答えることである。複数の大株主が,共同して会社経営に携わったのか,あるいは,大株主と並んで経営的才覚を持った人物を会社経営に取り込んでいたのだろうか。前者であれば,会社の発起人=大株主=会社役員という直線的な関係が理解できよう。後者であれば,会社の発起人=大株主→大株主と「専門経営者」の共同による経営という関係が浮かび上がって来る。特に,所有株数は少ないものの,彼らの「専門経営者」としての才覚を有している人物を役員に「登用」したものだと言えよう。そうだとすれば,大正期に入って広く見られるようになった学卒者による「専門経営者」の台頭という現象の先駆的な形態を有していると評価できよう。

また,紡績企業の役員が他の紡績企業の役員を兼任していたのかどうかを分析することで,同一の産業における「共同出資・兼任役員」という特徴が検出できよう。複数の紡績会社に,役員として関与することは,経営上,何らかの優位性が存したのだろうか。工場経営や技術的な問題,さらには労務管理などの面で,一つの企業での成功が複数の会社に伝播したことは容易に想像できよう。いわば,「専門的」「兼任役員」とでも言うべき性格を帯びていたと言えよう。

一方,綿紡績会社以外の会社に役員として関与していた株主は,文字通り「共同出資・兼任役員」として事業機会のある様々な会社に株式を投資し,役員として経営に関与した人物である。これまで,「共同出資・兼任役員」と称された人物はこのタイプを想定したと思われる。彼らが,量的に見て,どの程度いたのか,また,どのような会社に役員として関与していたのかを見ることによって,特に,銀行に関与していたか否かを見ることによって,「機関銀行」論との接点を見いだすことが出来よう。すなわち,銀行とそれ以外の会社に役員として関与し,その結果,銀行からの有利な信用をバックに多数の企業設立に関わったか否かという問題に対して,「形態的」に答えることが可能になる。この点は,別稿を用意している。

14には,最大株主氏名と所有株数と割合を始め,第5位の株主までの氏名と5大株主の所有株数と割合,更には10大株主の所有株数と割合,そして20大株主の所有株数と割合が記されている。発行株数と株主数が最も多い日本紡績では,筆頭株主を始め,5大株主,10大株主さらには20大株主の所有株数の割合は,最も低い。そこでこの最も低い日本紡績の様子を見ていくと,5大株主で7.7%,10大株主で12.6%,20大株主で20.3%であった。また,株主数が多い紡績会社ほど,上位の株主が所有する株数の割合が少ないのは当然のことである。このような違いがあるものの,今,これら60社の単純平均を取って,実像に迫りたい。筆頭株主は,およそ10%所有していたのである。これに続いて,5大株主では,28%,10大株主では,40%,20大株主では54%,というのが平均から見た実像である。

 

 

さて,紡績会社の役員はどれだけの株式を所有していたのだろうか。また,株主全体の中でどのような位置にいたのであろうか。大株主であったのだろうか,それとも,大株主以外から役員として登用されていたのであろうか。これを見たのが表15である。伊牟田敏充氏は,かつて,『日本帝国統計年鑑』を中心的な資料として,明治期における株式会社の発展と株主層について考察して次のように述べている。すなわち,個別資本家における資本蓄積が乏しかった近代化初期の日本においては,「異系資本家間の協調的による新会社の設立」(注12が例外的ではなく,その際,そうした多数の異系資本家の均等出資で上位株主層が形成され,「この上位株主群の引受株数が創立当時の株数の4〜6割を占めて,残余が一般大衆から公募されるという形態が明治期の株式会社の一般的な傾向」(注13)のようであった。表16には,左の欄に記されている紡績会社の役員が,株主の中で占める位置を記載したものである。役員数に記されている役員が,株主名簿の中で,上位からどの位置にいるのかを見たものである。例えば,役員の株主順位@というのは,役員の中で所有株数が第1位の株主を示し,その役員が株主の中で上位から何番目にいるのかを記したものである。具体的に説明しよう。下野紡績の欄でみると,役員数は6名で,「役員の株主順位D」の欄にある,12というのは,上位の株主から数えて12番目の株主である,という意味である。また,この12が,「役員の株主順位C」と同じであるということは,第4位と第5位の役員は同数の株式を所有し,上位から12番目である,ということを示している。以下,同様である。

 

 

 

ここから明らかなように,筆頭株主はもとより,第10位にまで入っている株主が役員に就任していることが分かる。その反面,10位以下,また60から70位の株主が役員に就任している事例が散見される。極端な場合には,171位の株主が役員に就任している事例さえ見られる。前者では,三重紡績,日本紡績,広島綿糸紡績,博多絹綿紡績が層である。また後者では日本細糸紡績がそれである。これらの紡績会社は,発行株数も株主も全体の平均から見ると大きな会社であることが分かる。このような株式の分散が進んだ紡績会社では,上位一桁の株主からではなく,50位から70位という相対的に見て,必ずしも大株主とは言えない株主が役員となっていた。こうした関係の詳細は,今後,ネットワークの分析を通じて深める必要があろう。

以上が本論文の主要な論点である。しかしながら,先に記した山口和雄,村上(西村)はつの研究で取り上げられなかった紡績会社の資料を,最後に掲げることにした。表の体裁は,両先達の形式に即して作成したものである。表16-1から表16-9がそれであるが,ここでも『明治31年 日本全国商工人名録』から同一人物を特定し,所得税,営業税,家業そして所得税から算出した所得を記した。

本稿に掲げた表には,『明治31年 日本全国商工人名録』に記載されている所得税と営業税の他に,職業を記している。この意味は,紡績会社の株主の職業(家業)について,中村隆英氏が以下で記している処に対応している。「多くの場合,かれら(都市の商人,地方の地主―鈴木)が新企業の仕事だけに専念したのではなかった点である。かれらは伝統的な生業からの臍の緒を絶ちきってしまわないままに,二つあるいはそれ以上に多くの仕事を並列させ,その総合的な収入を勘案して自己の利益を守ろうとした」(注14という点を踏まえて,本稿では敢えて家業(生業)を記した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結 語

 

以上の分析をまとめておくことにしたい。

1の課題から分かった点は,株主は会社の本社設立府県に加えて近隣の府県に在住の株主が多くを占めていたことである。これは地域という概念を導入した場合,もっと明確な姿となる。しかしそれとともに,隣接府県や東京,大阪・兵庫などの株主も地元の株主と併存していたことも忘れてはならない。

株式分布は,株主分布よりは東京を始め大阪,兵庫などの株主が占める割合が多いことが分かった。ことに,下野紡績の栃木県,四国・九州の紡績会社では,地元の株主の所有株数が相対的に低く,その分,東京,大阪,兵庫の株主が所有する株式が多いことから,これら地域の株主が相対的に多数の株式を所有していたことが分かる。

ここから,多数の紡績会社の株式を所有している人物と多くの株式を所有している人物を検討し,東京,大阪,兵庫在住の人物が多いことを確認した。しかし同時に,福岡県や岡山県をはじめとして地方在住の大株主も散見されたことは,銘記すべきであろう。

2の課題からは,株主の平均所得は,大半が600円から1000円規模と,1000円から2000円の所得層が圧倒的多数であることが分かる。また,300円層も多く見られたことも特記する必要があろう。

3の課題からは,筆頭株主は,およそ10%の株式を所有していたのである。これに続いて,5大株主では,28%,10大株主では,40%,20大株主では54%,というのが平均から見た実像であった。その一方で,株式の分散が進んだ紡績会社では,10位までの株主からではなく,50位から70位という相対的に見て,必ずしも大株主とは言えない株主が役員となっていた事例が散見された。

さて,以上の知見に加えて今後の課題を記しておきたい。

今後は,以上の紡績会社の事例を明治40年の株主名簿で明らかにすることと同時に,われわれが分析してきたネットワークという人間関係の中で,どのような位置づけが与えられるかを明らかにすることであろう。

  

(付記)本稿は,平成12年度−14年度,科学研究費補助金基盤研究(B)(1)「戦前期における経営者および企業組織のデータベース作成と分析」(課題番号 12430018)の成果の一部である。