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戦前期における資産家の株式所有

——大阪府と兵庫県——

 

鈴木 恒夫

 

 

はじめに

本稿は,戦前期に大阪府と兵庫県に在住していた,主に商人を対象とし,彼らが家業の傍ら,どれだけの株式を所有していたのかを分析するものである。

その意義と,方法を記すことにしたい。石井寛治・中西聡編『産業化と商家経営—米穀肥料商廣海家の近世・近代』に記されている詳細な廣海惣太郎の企業家活動を,当時の同じ所得の商人の行動に照らして,その特徴を明らかにすることを目的としている。詳細な事例分析と大量観察による一般的な特徴を,相互補完的に突き合わせることによって,より一般的で鮮明なイメージが形成されうるのではないか,という狙いからである。詳細な事例分析は,それ自身で,同時代の他の事例の代表,あるいは一般性を有した事例として取り上げることが可能なのか否かという問題を,大量データ観察による分析と突き合わせることによって,個別実証に含まれている「一般性の可能性」を検討することを課題としたい。

換言すれば,詳細な個別の事例分析によってしか知り得ない情報と大量観察データによって得られる情報とを用いて,「典型」例である可能性を考えていきたい。そこで,大量観察データによって知りうる情報と個別実証によって知りうる情報を,本稿の課題に即して記すことから始めたい。廣海家の企業家としての行動を考える場合,家業としての肥料商という側面,大阪の泉南地方という地理的な状況そして家業から得られる所得水準という三つの側面から考える必要があろう。また,廣海家の縁戚であった辰馬半右衛門家との関係も視野に入れる必要がある。辰馬家は兵庫県に在住しており,廣海家の大阪での経営活動も大阪湾を挟んだ地域にまで広がりを見せていることに注意すべきだからである。また,有価証券の投資活動においては肥料商であること,大阪という地域性が大切であり,これを無視して議論を進めることは出来ない。また,有価証券の取得や地域社会における企業創設活動においては,所得階層も大切な要素である。そこで,大阪府と兵庫県に在住し,廣海家の所得が中位になるよう所得者階層グループ化を行い,これに帰属する商人を選んで,彼らがどれだけ有価証券への投資を行っていたかを分析することにしたい。

一方,有価証券投資を開始する際,何時,どの会社の株式から購入したのかという直接の動機,また,購入するに当たって,どのようなルートからの情報収集を行ったのかという問題は,320頁】大量観察デーからは窺い知れない。また,購入する際,直接株式仲買人から購入したのか,それとも,代理人を通じて購入したのか,という問題も,大量観察デーからは知り得ない情報である。

そこで,大阪と兵庫に在住の商人を対象とし,有価証券投資という行動がどれだけ一般的であったのか否かという問題,また,かれらが会社役員に就任していたのか否か,という問題を考え,廣海家の行動が特殊なものであったのか,それとも,一般的なものであったのか,という側面から考察し,続いて,有価証券の購入における時期,動機,情報入手(人脈),購入ルートについて考察していきたい。以下,この分析に利用した資料と作業方法の説明を記し,全体像を提示する。次に,ここから廣海家の位置を確定し,一般性を確認したい。こうした作業を経て,個別実証で得られた詳細な情報,特に有価証券の取得の時期と契機,動機,情報の入手方法,購買ルートを探っていきたい。そして最後に,大量観察データによって得られた事象と個別事例分析によって得られた事象とを突き合わせて,より深い「一般的な姿」を提起することにしたい。

 

1.利用した資料と分析方法

「はじめに」で記した課題を追求するために,以下に記す資料と方法によって分析を行った。利用した資料は,『日本全国商工人名録(明治40年)』,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』および『大正9年全国株主要覧』である。明治40年時点における,大阪府と兵庫県に在住の商工人を『日本全国商工人名録(明治40年)』から抽出し,そこに記載されている支払った所得税の額の順に並び替え,廣海家の所得(支払った所得税額)が中位になるように,所得税30円以上の2011名(実際は,個人と同時に会社や支店も含まれているので,正確には,2011の事例)を抽出した。

廣海家は,支払った所得税は6273銭で,所得税が判明する人物(事例)の上位から数えて,988番目に位置していた。因みに,最高の所得税額は131764銭の大家七平であった。

手続きの方法を,以下,やや詳しく記すこととしたい。『日本全国商工人名録(明治40年)』には,144,363の人物(会社・支店)が記載されている。人物名(支店名・会社名)の他,府県,所在地,業種,営業税額と所得税額,電話番号および電信略号である。本稿で対象とする大阪には14,716サンプル,兵庫には5,733のサンプル,合計20,449のサンプルが含まれている。ここから所得税が30円以上の者,2,011名を選んだ。また,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』には,台湾を含めて延べ38,286名が記載されている。しかし,同書には複数回登場する人物がいるので,これを整理すると29,256名となる。29,256名の中から,少なくとも大阪または兵庫に本社のある会社に1社以上,役員として関与している人物を抽出した。その結果,3,191名の人物が抽出されたのである。最後に『大正9年全国株主要覧』については,27,041名の株主が記載されている。抽出された株主の詳細については,同書が「重要株式会社の株主を網羅するに努め」(はしがき)た結果,511社の株主中,1社で50株以上,合計300株以上所有している株主を抽出したものである。即ち,『日本全国商工人名録(明治40年)』から20,449のサンプ321頁】ルを,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』から3,191のサンプルをそれぞれ抽出し,これに『大正9年全国株主要覧』に含まれている27,041のサンプルを用いて分析したものである。

しかし,『日本全国商工人名録(明治40年)』から抽出した2,011名の中には,同一人物が複数回登場する場合も含まれている。また,同姓同名の別人も存在する。そこでこれら同姓同名の人物が同一人物なのか別人なのかを判定するに当たり,具体的には,次のように処理した。同姓同名であり,『日本全国商工人名録(明治40年)』に記載されている住所が同じ場合には同一人物とみなした。その結果,複数回登場する人物は,渡辺伊助(清酒商と抵当貸金業),塩野吉兵衛(金銭貸付業と薬種商),南條荘兵衛(和洋紙卸商と紙商),吉原定次郎(石油諸油商と油取引所仲買),森本六兵衛(洋酒缶詰食料品商と各種営業)である。その中で,渡辺伊助と森本六兵衛には同姓同名の別人が存在する。渡辺伊助(乾物商)と森本六兵衛(花莚貿易商)である。また,柳原吉兵衛(染物業)は二人存在する。業種名は同じ染物業であるが,一方の住所は堺市並松町であり,他方の住所は堺市北旅籠町でと別である同時に,所得税額も異なるので,別人と見なした。詳細は表1に掲げてある。

次に,2,011名(サンプル)を所得税額に応じて10のグループに分類した。第1のグループは,所得税額が200円以上の人物(201名),第2グループは130円以上200円未満の人物(217名),第3グループは85円以上130円未満の人物(194名),第4グループは73円以上85円未満の人物(191名),第5グループは62円以上73円未満の人物(198名),第6グループは48円以上62円未満の人物(209名),第7グループは43円以上48円未満の人物(202名),第8グループは39円以上43円未満の人物(190名),第9グループは35円以上39円未満の人物(213名)そして第10グループは30円以上35円未満の人物(195名)である。ここから,会社・支店のサンプルを除き,同じ階層に含まれる同一人物は一人にまとめた。しかし,所得税額が異なり,しかも複数の別の階層に属する場合には,所得税額を合計せずに,所得税額の大きい階層を残し,所得税額の小さな階層からは削除した。しかし,同姓同名の別人の場合には,便宜上,「別人」として処理した。

また『日本全国商工人名録(明治40年)』に記載されている人物と『大正9年全国株主要覧』に記されている株主とを照合した。この『全国株主要覧』に記載されている株主とは,「はしがき」に記されている511社における株主から,各社毎に50株以上を所有している人物を抜き出し,更に,これらの中から合計300株以上所有していた人物のことである。対象となった511社には,日本銀行,横浜正金銀行を始め,日本全国にわたる会社が含まれている。しかし,511社に限定した上での株主であることに注意すべきである。

最後に,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』に記載されている人物と照合した。詳細は表2に掲げた通りである。10の階層に含まれているサンプル数と実際に用いたデータ数は,次の通りである。第1グループ(サンプル数201,データ数186,以下同様),第2グループ(サンプル数217,データ数201),第3グループ(サンプル数194,データ数179),第4グループ(サンプル数191,データ数179),第5グループ(サンプル数198,データ数187),第6グル322頁】ープ(サンプル数209,データ数198),第7グループ(サンプル数202,データ数194),第8グループ(サンプル数190,データ数180),第9グループ(サンプル数213,データ数202),第10グループ(サンプル数195,データ数190)。

 

 

10グループ毎に,まず,『大正9年全国株主要覧』に含まれている株主数を求め,「T9年株主数」とした。次に『日本全国諸会社役員録(明治40年)』に含まれている役員数を求め,「役員数」とした。また,役員は同時に株主でもあるため,『大正9年全国株主要覧』では株主として記載されていない人物でも,『役員録』に登場する人物は株式を所有しているので,「T9年株主数」で株主として記載されているか,または,『役員録』に登場する人物を広義の株主とし,「株主数」とした。また,複数の会社に役員として関わっている人物がいるので,役職数の合計を求め。「延べ役員数」とした。その結果が,表2であり,データ数に占める323頁】T9年株主数」,「株主数」そして「役員数」の割合を図示したのが図1である。

図1によると,所得(所得税)が大きい階層ほど,「大正9年株主数」,「株主数」そして「役員数」の割合が多いことが分かる。しかし,第3グループから第6グループの間では近似した関係が見られ,また,第7グループから第10グループの間でも見られる。そこで,第1グループ,第2グループ,第3−第6グループ,第7−第10グループの4つにグルーピングしたものを作成した(以下,4つのグループは,それぞれT,U,V,Wグループと表記する)。それが表3であり,それを図にしたものが図2である。ここから,所得(所得税)と「T9年株主数」,「株主数」そして「役員数」の割合が対応していることが分かる。即ち,高所得者ほど『大正9年全国株主要覧』に含まれている人物の割合が多く,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』に含まれている役員数の割合も多いのである。

 

 

2.廣海家の相対的な位置(大阪と兵庫の商工人名録の分析)

先に記したように,『日本全国商工人名録(明治40年)』によると,廣海家の所得税は6273銭であった。これは先の階層で言えば,上位から第5グループに属する。上位から第5グループには所得税額で62円以上73円未満の人物が帰属する。廣海家は,従って,第5グループの下位に位置していたわけである。このグループに帰属する延べ198サンプルの中から,会社・支店をのぞき,また重複者を除外すると,先に記したように187サンプルとなる。187のサンプルの中に『大正9年全国株主要覧』にも登場する人物は36名いて,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』に登場する人物は20名いる。また8名は,『大正9年全国株主要覧』と『日本全国諸会社役員録(明治40年)』に同時に登場する。この8人の中には,廣海惣太郎も含まれる。

324頁】

 

 

次に,廣海惣太郎を含む第5グループに属する人物で『大正9年全国株主要覧』に記載されている所有株数の分布と,すべての階層で『大正9年全国株主要覧』に記載されている人物の所有株数の分布を比較してみよう。ここから,廣海惣太郎の位置を確認したい。第5グループに属する人物一覧は,表4に掲げてある。

 

 

 

図3には,『大正9年全国株主要覧』から株式所有数が判明する人物370名の株式所有分布と第5グループに帰属する人物36名の株式所有分布が示されている。廣海惣太郎は4,102株所有していたので,第Vグループに含まれている。全体では,平均所有株数は,単純平均で4,123株であり,所得のように対数正規分布に従うとした場合には,1,526株である。因みに,中央値(メディアン)は1,185株であり,最頻値は500株である。所有株数も単純平均では過大に評価されることになりそうであり,所有株数の対数正規分布を取って平均を求めることにしたい。第5グループでは,単純平均で2,650株,対数正規分布の平均では1,170株になる。所有株329頁】数分布の図(図3)によれば,第5グループは全体の分布よりは多少,少ない所有となっていることが分かるが,実際の計算によって求めた平均からも,同様の結論が導き出される。

 

 

以上の株式所有分布をふまえて,廣海惣太郎の位置を求めていきたい。廣海惣太郎は4,120株所有していたのである。第5グループではもとより,全体の中でも平均よりは上位に位置している。第5グループでは上位20%以内の所有者であり,全体でも上位三分の一に含まれている。

それでは,株式所有の分布から考えて,廣海惣太郎が所有していた株式数4,120株は,どのように考えたらいいのであろうか。というのも,所得税額では上位49%,ほぼ中位に位置していた廣海惣太郎は,所有株式数では上位33%の位置にいたからである。所得税に比較して,株式所有数では上位に位置しているのである。先に見たように,所得(所得税)額と株式所有者比率はほぼ比例していた。では,株式所有数ではどうであろうか。10のグループ毎に所有株式数の算術平均(対数を平均し,指数化した平均)を求めた表5から知られるように,第1グループと第2グループでは,他のグループの平均と較べて大きいことが分かる。しかし,それ以外のグループでは,所得(税)と株式所有数との間には,明確な対応が見られない。即ち,ある基準より(本稿では上位20%以上)所得が上位階層にいる人物では,他のグループに属する人物よりも多数の株式を所有しているものの,それ以外の層(本稿の場合では,上位20%を除いた80%)では,有意な差は見られないのである。

 

 

5グループに属する廣海惣太郎は,所得の割には,積極的に株式を所有するタイプであったことが分かる。しかし,こうした所得の割には積極的に株式を所有する人物は,廣海惣太郎331頁】以外にも多数存在していた。例えば,同じ第5グループでは,岩井勝次郎〔岩井商店の当主である岩井勝次郎である。岩井勝次郎は,商工人名録に3回登場する。一つは兵庫県,二つは大阪府である。いずれも同一人物である(大阪の住所は,大阪市東区北浜4-43であり,兵庫県では神戸市栄町2-85-1である。いずれも岩井商店の本店と神戸支店の住所と同じである)が,大阪で登場する2回とも,営業税は記されているものの,所得税は記されていない。そこで,本稿では,所得税が記されている兵庫県の事例のみ分析対象となった〕,柏木庄兵衛の神戸市在住の人物,宮本利右衛門,小西又助,阪根武兵衛などの大阪在住の人物,姫路市在住の岡崎吉蔵などがそうであり,彼らに続いて,株式所有の多い人物として廣海惣太郎が見られる。

次に,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』から,会社役員に就任していた人物を見ておこう。第5グループでは,『大正9年全国株主要覧』に登場する人物に限定すると,廣海惣太郎の他には,柏木庄兵衛,宮本利右衛門,小西又助,寺田徳三郎,義本一,伊藤長平,寺田久吉がいた。日本米穀(株),日本毛織(株),兵庫運輸(株)の3社の役員であった柏木庄兵衛,そして(株)堺銀行,大阪商船(株),堺倉庫(株)の3社の役員であった,藤本清七に続いて,廣海惣太郎は,義本一,伊藤長平,小島久右衛門らとともに2社の役員であった。廣海惣太郎が役員であった会社は,貝塚銀行と岸和田煉瓦であった。

これまでの分析から廣海惣太郎の特徴を考えていきたい。所得(税)に較べて,株式所有数は相対的に多く,積極的に有価証券を購入していたことが分かる。また会社役員に就任していた数も2社に上るなど,同じ所得階層の人物の中では,積極的に会社に関与していたことも判明する。しかし,こうした積極的に有価証券に投資をしたり,会社に役員として関わっていた人物は,廣海惣太郎だけの話ではなかった。上に記したように,同様の行動を取っていた人物が見られる。所得階層が廣海惣太郎よりも上位に位置する人物では,より積極的に有価証券に投資をしていたことも判明するし,多くの会社役員に関わっていたことも判明する。廣海惣太郎に見られるように,積極的に有価証券を購入し,会社役員に就任していた人物は,大阪と兵庫に限定した分析ではあるものの,広く見られた事実であった。これが第1の結論である。

 

3.廣海家の有価証券購入の分析

廣海家は,何時頃,どのような契機によって有価証券投資を始めたのであろうか。そしてその際,どのような理由で銘柄を選んだのであろうか。そして,誰か他の人物から情報を得ていたのであろうか。こうした,ミクロ的な行動を,石井寛治・中西聡編『産業化と商家経営—米穀肥料商廣海家の近世・近代』の第4章と第5章から見ていくこととしたい。

4章の執筆者である中村尚史氏は,「廣海家が最初に購入した有価証券は,起業公債(1878〔明治11〕年827日,400円)であった」が,「廣海家が株式投資に乗り出す契機となったのは,18802月—3月における第五十一国立銀行株の購入であった」とされる。その目的は,配当を期待するというよりは,購入前年の18799月から廣海家は第五十一国立銀行と取引を開始していたことを考えると,「第五十一国立銀行株取得の背景には,同行との取引(特に当座口)を円滑にするという意図も含まれていた可能性がある」,とされる。その332頁】通りであろう。そのため,廣海家は,岸和田の元肥料商で旧知の坂口直作が同行の出納方を勤めていた関係から打診を行い,坂口の取り纏めによって銀行株の購入を進めたのである。従って,肥料商としての立場から,家業を通じた人脈を利用しながら,家業である肥料事業の拡大を目指す一環として,第五十一国立銀行株を取得したのである。

その後,廣海家は肥料商としての商売上の取引相手である松村長平治の仲介で第五十一国立銀行株を買い増しする一方で,18853月には,自ら,株式現物商から阪堺鉄道株を購入したのである。現物商からの購入ルートも大阪の現物商からだけでなく,岸和田の現物商からも購入していた。この2つのルートに加えて廣海家は,新規設立発起人から株式を購入していき,都合,3つのルートから株式を購入していったのである。

それでは,株式を購入する際,どのような,あるいは誰からの情報よって銘柄を決めていたのであろうか。先の阪堺鉄道株の購入に当たっては,肥料商であり,当時,第五十一国立銀行に関与していた松村長平治の判断に依拠していたのである。では松村はどこから情報を得ていたのであろうか。松村は第五十一国立銀行に関与して立場上,「株式情報を得ていたと思われる」とされるのである。銀行に関与すると,こうした投資に利用できる会社情報を入手出来るのであろうか。第5章の執筆者である花井俊介氏も,1896年創立の貝塚銀行に1901年まで初代頭取に就任していた廣海惣太郎を取り上げ,「地域に密着した金融機関には地元企業についてのインフォーマルな情報が集積されていたのであり,廣海惣太郎は頭取としてこれらの情報にアクセスが可能であった。投資先企業の役員就任,地域金融機関のトップとしての経営活動は,非上場の地元企業株投資に付随する強い情報の非対称性を緩和し,投資の期待収益率を高めるという(おそらく意図せざる)機能を果たしたのである」10と,一種の「インサイダー取引」を行える立場から,投資に有利な情報を得て,有価証券投資を行ったとされる。

もう一点は,肥料商ルートであった。先に記した坂口直作や松村長平治とは別に,非地元企業の株式取得に当たっては,大阪在住の商売仲間である間島清兵衛(大阪順慶町)11や,「近世以来の貝塚の有力肥料商であり明治以降大阪に支店を開設していた,従って大阪の経済情報に精通していたとみられ」12る木谷七平からの情報と仲介に依存していたのである。こうした肥料商を通じた人間関係は,有価証券の投資に当たっては,大切な情報を得る基盤であった。従って,「廣海家は投資の勧誘を受けた場合,独自のネットワークで情報を収集し,選択的に投資していたのである。」13これに縁戚関係に当たっている兵庫の辰馬家からの情報を得ていたのである。

では,地元の貝塚を含む泉南地域ではどのようなルートで情報を入手していたのであろうか。上に記した貝塚銀行の頭取という立場以外では,地元の商人との人間関係が大切な役割を果たしていた。貝塚銀行の設立に関わる以前では,「廣海家は,貝塚セメント,岸和田第一煉化,岸和田紡績の設立までは,基本的に寺田甚与茂の勧誘を受けて企業の設立に関与したが,1893年以降,寺田との新規事業は姿を消し,かわって種子嶋兵衛(醤油醸造業)や佐納権四郎(酒造業)などの貝塚の商人たちとの共同事業が増加し始めた。具体的には1894年の貝塚煉瓦,333頁】95年の貝塚織物,96年の貝塚銀行と連続して地元貝塚の企業設立かかわった」14のである。因みに,『日本全国諸会社役員録(明治40年)』では,廣海惣太郎は2社の役員として登場するが,その2社とは貝塚銀行の取締役頭取と岸和田煉瓦(1893年に岸和田第一煉化が社名を変更)の取締役である。

以上から,廣海惣太郎は,有価証券の購入に当たっては,当初,肥料商を通じた情報に依存して株式の銘柄を決定し,購入にあたっても仲介の労を仰いでいたが,徐々に,独自に情報収集を図り,株式現物商を通じた情報収集と購入に向かっていった。会社設立でも同様であった。当初,寺田甚与茂を通じた勧誘によって地元企業への関わりを深めていったが,1893年以降,独自な立場から地元貝塚での企業設立に関与していったのである。

 

おわりに

以上見てきたように,廣海惣太郎による有価証券投資行動を,明治40年における会社役員への就任状況,商工人名録を通じた家業と所得税,そして大正9年における株式所有の大量観察データを基にしての特徴を指摘した上で,個別資料に依拠しての,有価証券投資を巡る情報収集と購入ルートを見てきた。また地元企業への関わりとその立場を通じた情報収集という点も指摘する必要があろう。こうした肥料商を通じた情報ネットワークのみならず,廣海家自身が独自にもつ情報ネットワークといった,重層的,かつ複線的な情報ネットワークを駆使して有価証券投資を進めていったのである。

大阪府と兵庫県に在住の商工人に限定されてはいるものの,廣海家の行動を,全体の中で位置づけることが可能となった。所得(税)の面から,10のグループに分けて,有価証券の保有割合を見たが,所得の面からは4つのグループに分かれることが分かった。即ち,所得税額が200円以上の第Tのグループ,130円以上200円未満の第Uグループ,48円以上130円未満の第Vグループ,30円以上48円未満の第Wグループに分かれることが分かった。そしてこの4つのグループは,明治40年時点での会社役員に就任していたかいなか,という面からでも,明瞭に区別できた。その中で第Vグループに属していた廣海家の有価証券投資行動は,同じグループの中の人物と比較すると積極的ではあったが,決して,特殊なものではなかった。役員就任でも同様である。2社(貝塚銀行,岸和田煉瓦)に役員として関わっていたことは,積極的な行動ではあったものの,決して特異な行動ではない。

廣海家の収入も,肥料商としての収益から,1893年を境にして配当収入が収入の主要部分を占めるようになったのである。地元の貝塚で,寺田甚与茂からの勧誘による会社設立から独自の行動によって地元企業への関与を深めていったのが1893年であった。

大阪と兵庫に在住していた商工人の多くは,廣海家のように積極的に有価証券投資を進めていった。その一方で,廣海家に見られるように,配当収入が収入の大部分を占めるようになったにも拘わらず,家業である肥料商をやめることをしなかった,と思われる。これは新たな問題を投げかけることになる。廣海家に即してみると,「明治後期以降,『商業収益が株式投資を支える』という財務構造がほぼ消滅し」15,「1921(大正10)年を境に株式収益で株式投資を賄いうる構造が現れ,この構造は昭和戦前期にも変化しない」16状況が出現したにも拘わらず,334頁】肥料商を続けている意義を問うことが第一である。そして,株式収益が株式投資を支えたという構造が一般的か否かという問題である。花井俊介氏の言葉を借りれば,「株式収益がどの程度まで株式投資を賄ったかという問題は,商業部門の蓄積状況とは基本的に別の問題であり,その点で廣海家の事例を商業活動がたまたま不振に陥った例外的ケースとして位置づけるのは適当ではない」17とされる。同感である。この課題も,大量観察と合わせて分析する必要があろう。他日を期したい。

今後の課題を記しておこう。

まず第一に,廣海家とは別の所得階層に属する人物を取り上げて,株式保有状況と株式収得行動について分析を加えることであろう。換言すれば,廣海家の行動は,多くの商人の中で,特異な行動ではなかったことが分かったが,地域経済への関わりなど,まだ明らかにすべき問題が残っているからである。

第二点は,大阪と兵庫を取り上げて分析してきたが,他の地域ではどうであったのだろうか,という問題である。というのも,大阪,兵庫という地域は,明治期,会社設立件数から見ても,他の府県と較べて多く,こうした「先進性」が株式取得に反映したことが十分考えられるからである。

最後に,株式所有を支えた制度的な側面の分析である。株式仲買人をはじめ,株価の形成と伝播,情報入手など株式購入を巡る制度的な側面と株式仲買人の台頭,という問題がそれである。