1頁】

 

産業政策とカルテル

 

——勧告操短と輸出会議について——

 

石井 晋

 

 

1.はじめに

両大戦間期の日本では,企業規模の拡大などを背景にカルテルなどの独占的行動が顕著となるとともに,労使関係が緊迫化した。1930年代には,重要産業統制法に示されるようにカルテルを促進し(弊害が大きい場合にのみ政府が規制),労働者の権利が十分に保障されない経済システムが成立していた。このような経済システムは,急速な経済成長をもたらしたものの,国内の深刻な利害対立と対外膨張による外交関係の悪化という不安定性を秘めていた。

戦後占領改革を経て,1950年代には新たな経済システムが形成された。新たな経済システムにおいては,独占禁止法によってカルテルが原則禁止される一方,政府(主に通商産業省)の裁量的な行政指導によって生産・価格・投資などが調整された。1930年代に比較するならば,大企業の利害に対して中小企業や労働者の利害がより強く保護され,また政府介入の度合の強い経済システムが形成されたものということができる。しかし,大企業向けの勧告操短などのカルテル指示的な行政指導はかなり柔軟に発動されたから,中小企業の利害と対立する可能性がありえた。また,公正取引委員会は,勧告操短を大企業優遇との観点から批判する場合があった。実態はどうであり,戦前の経済システムとの違いをどのように評価すればよいのか。本稿は,そうした問いに対する試論である。

産業政策は,行政指導カルテルによる「仕切られた競争」と理解されることがある。その場合,「仕切られた競争」が投資促進的であったと指摘されることが多いが,本稿では若干異なった視点から検討したい。戦間期日本の経済システムは,政府介入度が低く,労使関係のあり方などに関しても企業活動の自由度が大きかった点で,純粋な市場経済原理に近いものであった。しかし,企業活動はカルテルなどの独占的行為まで含めて原則自由であったから,私的独占力による競争制限の可能性が極めて高かったことに留意しなければならない。これに対し,1950年代の日本経済システムにおいては,私的独占力ではなく,政府介入による競争制限が盛んに実施された。政府(通産省)が独占禁止法の存在を前提としながら積極的に独占的レントを発生させると同時にレントを管理し,経済成長や輸出振興に向けて,インセンティブ・システムの構築を目指して産業政策を展開したのである。ただし,そのようなインセンティブ・システムが適切に設計され,実効的であったか否かについてはそれ自体重要で検証困難な課題である。本稿ではそのような産業政策の効果を検証する以前に,両大戦間期との比較において,産業政策が選択されたことの歴史的意義を検討することが主要な目標である。

2頁】以下ではまず,大企業と中小企業の利害調整が課題となることの多かった綿紡績に対する勧告操短を中心に綿工業政策を取り上げる。その際,勧告操短が労使関係に及ぼした影響にも触れる。次に,輸出会議や組織化政策など中小企業輸出振興政策について検討する

 

2.綿紡績業の勧告操短

1勧告操短の歴史

表1に示されるように,綿紡績業に対する勧告操短は1950年代初頭から繰り返し行われた。戦時期に十大紡に集約されたが,戦後,新紡,新々紡が続々と設立された結果,大企業から中小企業に至るまで多数の企業が激しい競争を展開する市場が形成された。特に19506月に,紡績設備の規制が撤廃された後は,新々紡の参入によって激しい設備投資ブームが展開したのである。しかし,朝鮮戦争が一段落したことと東南アジア諸国の繊維産業の勃興で,すでに1951年には過剰供給能力が顕在化した。19521月には十大紡が自主操短を行い,3月以後勧告操短が実施される。この間31%の人員整理(十大紡で5.6万人)が行われた

1952年の勧告操短は,以下のように行われた。225日付けの通商繊維局長名の「紡績設備の適正稼働について」で,通産省は綿紡績業に対して次のような勧告をした。「国民衣料の豊富低廉なる供給を確保しつつ市場の安定を図るため,当面3,4,5各月の適正稼働率としては他繊維の混用を含めて現有確認設備能力の6割程度が妥当と考えられる」。この稼働率を遵守させるため,該当期間の生産計画,生産実績,電力会社の証明を添付した使用電力実績の報告を求めた。通産省は電力使用状況をモニターすることで,実施状況を把握しようとしたのである。さらにより実効的な措置が立案され,195235日付けの「綿紡績適正稼働実施要領」という通商繊維局長の通牒で示された。これによれば,超過生産については「使用電力量または日量逆算月産量が限度量を5%以内超過したものは5%,10%以内のものは10%,20%以内のものは20%(20%以上もこれに準ずる)生産限度数量を超過したものとする」。そして,超過生産に対するペナルティは,「(1)その社の最寄時の綿花輸入弗資金の割当から超過生産梱数と同一俵(米綿建)を削減し,これを生産限度遵守者に割当てる。但し生産限度超過5%未満の場合は削減を行わない。(2)その社の翌々月の生産限度から過去の超過生産数量を削減する」というものであった。その後,1952310日付けの「新規綿紡績設備設置等報告書提出」に関する通牒で,3月末の設備確認で原綿割当対象となる紡績設備の確認を打ち切る可能性が通告された。さらに,510日には3月末に報告書を提出しないものに対して設備確認を行わないことが通達された。すなわち,需給調整政策が,設備増設制限によって補完されたのである。この勧告操短は実効的であり,19524月〜9月は生産限度指示量をかなり下回る生産実績であった。特に新々紡の生産は生産指示領を大幅に下回った。この間,月初在庫は,4月の3517百梱から10月の24万梱へと減少した。生産制限指示量は,195211月までは確認設備を基準にして決定されたが,設備投資競争抑制と輸出振興の見地から,12月にはその基準が一部修正されて輸出実績も加味された。いわゆる輸出入リンク制につながる政策であり,6頁】日中戦争期に行われた政策と類似している

その後の勧告操短においても,外貨割り当てが主要な制裁手段として利用された。19555月からの操短では,綿紡績操短実施委員会による監視とともに,「原綿割当時において罰則の適用を考慮する」ことが示された。1958年の操短においても,「違反認定基準によって当該工場の登録錘数1000錘に対して原綿2俵ないし1俵の削減」と「その旨の公表」という罰則規定が設けられたのである

1957511日の通産省繊維局「綿紡績業秩序維持に関する通牒」では,「116時間操業,年間操業日数308日以内,11休日の週休制の採用」が指示され,61日からの実施が勧告された。「実施状況の監視は,業界の強力を得て通産省繊維局及び地方通産局が行うこととなった」。さらに,724日,「国際収支改善総合対策に基づき上半期の原綿輸入外貨予算の大幅削減が発表され,綿紡績各社にこれに見合う生産計画の提出を求めることとなった。これにより,1月〜7月の生産実績を基準として1か月の生産量を20万梱ベースとし,これに5%のアローワンスをみたものが適正生産量とされたが,9月については経過措置として228,000梱,1011月については214,000梱が生産枠として指示された」のである。その後,12月以降も20万梱をベースに輸出割合30%以上の企業に5%のアローワンスを認め,月平均221,000梱とすると指示された。しかし,不況の深刻化により196,000梱に枠が縮小された。19584月,通産省はこれを強化するため,320日「綿糸の生産調整について」を出し,一律30%の綿精紡機の減緘を実施するとともに従来の操業秩序の維持を厳守するよう指示した。この指示が,第3次勧告操短と呼ばれる。通産省は,実行を図るため,省内に繊維局綿麻業課長を委員長とする「綿紡績操短実施委員会」を設け,操短実施についての細目を審議決定するとともに,監視員によって各工場の操短実施状況の監視に当たらせた。違反に対する罰則としては,1件の違反につきその工場の登録錘数千錘ごとに原綿12俵削減の措置が採られた(原綿輸入自由化後は錘の停止という措置に変えられた)。

しかし,そうした不況対策にも関わらず,1958年度に入っても不況が継続し,長期化の様相を示した。操短によって,一時的に綿糸相場は好転したが,輸出停滞と内需不振で19586月以降,再び停滞したのである。このため,勧告操短は長期にわたり,繊維工業設備臨時措置法の第三次改正で,196081日に業界の共同行為による過剰綿精紡機の処理を通ずる生産調整に切り替えられるまで続けられた

 

2紡績業の労使関係

以上のような勧告操短は,雇用に重大な影響を及ぼした。特に1957-58年に始まる操短の際,紡績業の労使関係が緊迫した。操短による人員過剰に際して,経営者側は,「自然退社,採用人員の中止,臨時休日,配置転換をもって対処した」。これに対して,全繊同盟中央闘争委員会は,1957819日,次の三原則を宣言した。「(1)操短による首切りに絶対反対する。(2)休業中の賃金は全額保障する。(3)ヒモ付離職(失保適用)には絶対反対する」。しかし,7頁】この三原則を貫くことはできず,化繊,毛紡などでは一時帰休制がとられ,失業保険の適用をうける部門が生じた。この時期,「綿紡十社の操短による過剰人員は,会社の兼営各部門合わせて一時は約一万人といわれ」ていた。全繊同盟綿紡部会は,19581月,上記の全繊三原則による基本方針を決定した。その後,勧告操短の実施が明らかになると同時に,19582月,「所属20組合の集団協議の開催を紡績協会に申し入れた」。しかし,「操短開始時期が切迫していたため,1010組合による集団的談合をもつことに決定し,組合側からは「操短を理由とする離職,希望退職募集には絶対反対する」むねの意向が表明された。結局43日から8日の間に,当初計画した人員処理方法によらず,それぞれ2日ないし5日の輪番休日,休業補償は平均賃金の80%で妥結し,また中京5社についてもほぼ同様の措置で妥結した」という。その後,不況の長期化とともに,設備封緘に伴う集中生産という合理化が具体的日程にのぼるに至り,労働者側はさらに譲歩を強いられていく。

この間,とりわけ経営不振の著しかった鐘紡では激しい労使対立が生じた。19574月時点で,鐘紡は93000万円という大幅赤字を出していた。植民地に積極的に進出しており,軍需工業化に合わせて多角化を進めたことなどから,戦争中の被害が十大紡中最も大きく,戦後借入金依存で発展したため金利負担が膨大なものとなっていたのである。この時期,人事部調査係長であった伊藤淳二(のち社長)は次のように回想している。「当時,鐘紡は戦後最大の危局に直面していた。資本金を上回る(当時鐘紡の資本金四十億円)損失が累積したと言われた。その危局を突破するためには,経営の大手術を必要とした。…その頃,鐘紡の労使関係はその大勢として,協力の代わりに対立があり,信頼の代わりに憎悪があった。その間に何一つ心のとけあうつながりはなく,年々悪化の一路を辿っていた。労使関係を百八十度転換しなければならぬ。…その確信の下に労使関係の転換にとりかかった」。

勧告操短実施中の195892日,鐘紡経営側は,応急「不況対策」案を組合に提示した。内容は,以下の通りである。1. 綿スフ紡織部門操短による製造原価高を抑圧するため博多工場,東京工場,中津工場を休止し徹底した集中生産を行う。2. 不採算部門対策として山科工場織布部門の即時休止,加工部を淀川へ移設。3. 営業費を圧縮するための本部機構を簡素化する。そのため特別休暇制度を実施する。また,サービス部の全部と意匠課を鐘紡サービス(株)に移管。4. 製造原価圧縮のため,給料賃金の引下を行う。諸手当を削減する。5. 厚生費を縮減する。6. 労使の完全な協力のため「労使懇談会」を設置する

これに対して,全繊同盟と鐘紡労働組合は具体的対策を協議し,「1. 組合員の生活と労働条件に重大な影響を及ぼす事項(工場休止,休職,賃下げ,昇給ストップ)には絶対反対,2. 不況対策の重点を企業努力による業績向上におく,3. 経営者の責任を追求する」という当面の闘争方針を決定した。その後,労使間の少数団交が繰り返された結果,1014日,経営者側は92日提案を白紙に戻した。その後の協議によって,博多,東京,中津工場の休止などが撤回され,労組側も労務費節約などについて歩み寄った結果,1030日,最終的に次のような合意に至った。「1. 日給者は9%,月給者は10%の賃金控除を,195811月より195910月まで行う。2. 控除分は権利留保とし,その取り扱いは後日,労使双方協議決定する。3. 期末給与総額分の枠内で控除分の調整を行う。4. 山科工場織布部門は閉鎖し,その他は恒久策と合せて8頁】労使双方検討する。5. 53歳以上の者は一年間特別休暇とし,賃金の80%支給。6. 本部サービス部及び意匠課の鐘紡サービス会社への移管。7. 組合提案の労使協議制度の拡大を尊重し,早期に実現を図る」。

その後,基本的恒久策の協議が行われ,1959213日に,経営側が以下の内容の原案を労組に提案した101. 綿紡工場の整備—(1)博多工場,中津工場,東京工場を閉鎖。(2)庄道,中島工場の統合。2. 織布部門の縮小—(1)山科工場閉鎖,(2)中間工場織布部門の閉鎖。3. 補足—(1)右実施に関しては,労働条件の現状維持と完全配置転換を原則とし,細部は労使協議する。(2)化繊,加工両部門については目下最終案を作成中であり,近く成案を得次第提案するが,とりあえず防府工場過剰人員に対して失保適用する。

これを受けて,216日,鐘紡労組は,完全雇用,労働条件の確保,完全な人員配置という三条件と長期完全雇用協定の締結,労使協議制度の確立,年金制度と利潤分配制度の確立という三要素を会社側がのめば,東京の綿紡工場の閉鎖,定期昇給停止等を除く会社合理化案を認める方針を決定した。その後の労使協議の結果,428日,次のような内容で決着した。1. 綿紡工場の整備及び織布部門の縮小—(1)博多工場,中津工場,中島工場を閉鎖する。(2)東京工場については織布部門を閉鎖する(但し,紡績部門は一万錘を格納する)。(3)山科工場を閉鎖する。2. 防府工場の過剰人員については,51日より失保適用を行う。3. 補足,なお,合理化案実施に関連し,左記の如く取決めた—(1)雇用安定協定について,期間は二カ年(自動延長8ケ月)。(2)労使協議制度について,応急策妥結時に設置した労使懇談会を制度化し,労使委員会として発足する。(3)利潤分配制度について,年間臨給制の実現を目標に労使双方より成る専門委員会を設置する。(4退職年金制度について,実施することを目的として労使双方より成る専門委員会を設置する

『鐘紡百年史』によれば,「昭和三十三年の不況対策を通じて得た教訓は,労使の間に「会社の繁栄は従業員の幸福」という共通の認識が明確になったことであり,不況克服もその理念のもとに取り組み,予想以上の業績の回復を見た」という。その後,鐘紡は合繊に進出し,1963年にナイロン生産,1968年にポリエステル生産を開始する。綿紡績業では,1962年長野工場で連続操業化など合理化を進展させた。人員整理を含む不況対策と合理化の順調な進展の背後に,政府による操短指示が存在していたのである。逆にいえば,行政指導を背景とすることで,企業はようやく人員整理を進めることが可能となったのである。

以上から,独占禁止法と労働三権の保障によって戦前に比して大きく企業活動が制約された環境のもとで,勧告操短という行政指導が人員整理を含む合理化を促進させたものと理解することができる。ただし,戦前のようにカルテルまでも含めた企業活動の自由が復活したわけでなく,また大企業の利害を政府(通産省)が代弁するという透明な関係があったわけではない。次に見るように,利害調整を通して,「国民経済的な観点」が重視され,産業政策に関する合意が形成されていく過程に注目しなければならない。

 

3綿糸と織物の利害調整

ここでは,通産省の行政指導に対する公正取引委員会の批判を検討する

1957年の勧告操短の際,公正取引委員会は「最近における繊維業界の勧告操短について」9頁】という見解を出した。これを受けて,通産省繊維局は,「“最近における繊維業界の勧告操短について”に関する通産省の見解」[19571127日]を示す。これらを利用して,公正取引委員会と通産省の見解の対立点を検討する11

公正取引委員会は,綿紡・スフ綿・人絹糸の操短について,いくつかの批判をしていが,価格上昇をめぐる問題を中心に取り上げよう。綿紡の第一次勧告操短(1952年)についての公正取引委員会の批判は次の通りである。生産制限とそれにともなう価格上昇に関しては,「綿業界の構造的不均衡に基き,勧告操短は綿布専業者の赤字生産的傾向をますます助成するであろう」,「勧告操短による原糸不足,糸高布安傾向によって不況の圧力が弱小企業者たる織布専業者にしわよせられ,これがため休業,倒産のやむなきに至ったものも少なくない」,「勧告操短により綿布専業者の採算割れ操業の一般化等による苦境が激化された」等々。つまり,中小企業である綿布専業者の利害を侵す可能性のあるものとして,勧告操短が批判の対象となったのである。

これに対して繊維局は,織布業における中小企業の構成比率の高さから「所謂構造的不均衡」が存在することを認めつつ,「それ故にこそ綿布業界の供給過剰,過当競争から醸成される糸高布安現象を是正するのは織布業界それ自体として困難であり,ましてや中小企業安定法が未だ制定を見ていない当時においては極めて困難である。而も綿織物相場の崩落傾向を綿糸相場の下降傾向の状態において是正することが不可能なことは云う迄もない」としていた。そこで,価格安定のためには「綿紡績段階での操短を行わずして困難であることも自ずから明らかであり,また織布業界の希望もあって,本勧告操短も斯かる見地から実施せられた」。その結果,「綿糸相場の改善に伴い綿布相場は漸次改善され,綿布専業者の生産も操短当初より漸次改善され,昭和285月には黒字となっており,本勧告操短が独り紡績業者の採算改善の効果を挙げるに留るとの見解は不当である」と主張した。繊維局は,勧告操短は,決して綿布業者の利害にとってマイナスになっておらず,却って経営状況が改善したと主張しているのである。

綿紡第二次勧告操短(1955年)について,公正取引委員会は,「綿紡績業者は概して高収益を挙げておったので,綿布業者の合法的な共同行為による解決策は肯定できるが,糸段階での操短は望ましくない」と批判した。これに対して繊維局は,「織布専業者が中小企業を中核とする15,000にものぼる多数であるため,織布専業者の生産制限をもってしては綿布相場の暴落,織布専業者の採算悪化を防止することは極めて困難で」,「昭和29年に中小企業安定法に基く織布設備制限命令が発動され,同30年初より綿スフ織物調整組合連合会による自主的生産制限が実施されたにも拘らず綿布相場は低下傾向を辿り,綿布専業者の赤字的生産傾向は是正されず,通産省統計によれば綿布専業者の綿布生産実績は却って増加するに至っており,織布専業者の段階での生産制限はその効果を挙げるに至っていないことは明らかであった。而も,採算割れでなかった綿糸相場も漸次悪化し,採算割れ状況を呈し始めた時期において綿糸相場の低落傾向の状態にあっては独り織布段階での操短—実効を挙げることが困難な—をもってしては,綿布相場の改善はますます困難である。この様な諸情勢を勘案して,織布段階での生産制限を補完するために第二次勧告操短が実施されたのであって,輸出振興上,綿製品価格向上,綿布専業者の赤字生産的傾向の改善のため必要止むを得ない措置であったのである」としてい10頁】

同時期,通産省繊維局は,輸出振興のための勧告操短,という論理を前面に押し出していた。「特に輸出に直接関連する織布業者および繊維輸出商社の中小過多性に基因する安値販売競争を規制し,安定輸出の方策を講ずべきであるが,国内生産面での過当競争による国内不況の不安定が,輸出面での安値販売競争を招来し,国際信用の上にも悪影響を与え,日本繊維製品に対する輸入制限等の措置を誘発せしめているので,直接的な輸出関連業者に対する規制措置の実施に当たっては,必要に応じ,それと併行して,その前段階の原糸生産部門等における生産数量等の規制を講じなければ,その実効は期し難い」とし,「戦後における綿紡等に対する操短勧告は,正にこの見地に立ってなされたものであって,輸出繊維品の安定輸出を確保するために採られた方策である」と主張している。そして,「この勧告操短は,単なる当該業界の不況克服策としてのみなされるものでなく,むしろ,前述のとおり,輸出の安定を図るためのものであるから,当該業界が独禁法の不況要件に合致するような事態に至る前に実施されてもいるし,またその勧告操短を実施しなければ関係繊維品の輸出の安定は確保できなかった筈である」というのである12

以上のように,1952年の勧告操短の時には,綿糸紡績業に対する対策のみが行われ,中小企業が多数を占める綿織物業への対策はほとんど行えなかった。中小企業安定法の成立により,織物業に対する共同行為の命令が可能となる13。その後,1954年初頭から,すでに綿糸の在庫率が急上昇を始めていた(図1)。しかし,綿糸紡績業に対する勧告操短は行われなかった。綿糸に少し遅れて,綿織物の在庫率が上昇し,やがて綿糸のそれを凌いでいく。こうした中で,事態は具体的には次のように展開した。1954年初め,綿スフ織物の相場は低迷し,「出血生産」であった14。綿スフ織物調整組合連合会(綿スフ調連)の業界では,通産省等に対して,輸出市場の開拓,在庫の買い上げ,糸布の生産制限の実施を要望した。業界がとりわけ強く要望したのが,中小企業安定法第29条のアウトサイダー規制命令の発動である。これに対して通産省繊維局は,実施機構が完備されていないことを理由に消極的であった。このため,織物業界は自由党に陳情した。問題は,同法が実効性の面で不十分であったことである。以前からそうした問題が認識されていたため,1954514日,自由党,改進党,左右社会党の共同で中小企業安定法の改正案が提出され,61日に公布・施行された。改正の主内容は,以下の通りである。1. 生産制限確保のため,数量検査を行うことができる。2. 総合調整計画が認可されたときは,それと同内容の調整規定は認可を要しない。3. 政府の直接統制の29条命令のほか,「調整組合の調整規程に従うべし」という「第二項命令」を発令できるようにする

この改正後,通産省繊維局は,設備制限に限って29条命令を発令する動きを示した。これを11頁】受けて,綿スフ調連は設備制限・登録などに関する総合調整計画を改正した。これに基づいた発令申請を受けて,195411月,通産省は設備制限に関して29条第二項命令を発令した。さらに,19551月,綿スフ調連は,総合調整計画に基づいて自主的に生産制限を行った15。通産省繊維局もまた,これを支持し,1955122日,平均12%の操短をすることを勧告し,さらには紡績兼営織布業者,スフ紡績織布業者など綿スフ調連以外の生産者に対しても「綿スフ織物の生産抑制」に協力するよう求めた。しかし,兼営織布会社は一律12%操短は協力しがたいとして反対した。このため自主操短の効果が上がらず,市況は低迷を続けた。兼営織布部門の反対を理由に,通産省は,生産制限に関する29条命令の発動を控えていた。こうした事態を打開するため,日本綿スフ織物工業連合会(綿スフ工連)は,「一部の反対はあったが,綿紡績の操短を当局に要望することになり,214日,繊維局長に綿糸操短12%を要望した」。これを受けて,通産省繊維局では,4月,「綿紡生産制限の実施について」の通牒を出し,綿紡及び織布の12%操短を勧告し,勧告操短を開始した。しかし,その後,綿糸の供給減から織布専業メーカーの苦境は続き,整理会社も現れた。さらに,「さきに綿スフ工連が陳情した綿糸操短の要望は織布専業者のためのものでなかったと批判するもの」も現れてきた。景気回復とともに綿糸操短への批判が高まり,操短は緩和され,19567月以降撤廃されるに至る16

以上のように,1955年の綿紡績勧告操短は,織物専業メーカーの利害と調整されながら実施されたのである17。このため,公正取引委員会からは,「弱小企業に対するしわ寄せ」とい12頁】1952年の操短時のような批判はなされなかった。この時期,「1ドルブラウス」など日本の安値の繊維製品の輸出増大が,アメリカで批判の的となっていたから,「過当競争」を抑制することで長期的な輸出振興を図るという前述のような通産省の政策は,一定の説得力を有していたと考えられる。そこで,公正取引委員会の批判は,「不況カルテル」という独禁法例外規定に基づいた解決方法でなく,法的根拠があいまいな勧告操短によって行われたという手続き面に向けられるようになった。通産省の政策は,確かに「国民経済」的見地を考慮しているかも知れないが,独占禁止政策の基本的なルールに従っていない点で問題であるという批判である。しかし,このことは,逆にいえば,手続き上の疑念はあるが,勧告操短が一方的に大企業を支援するものではなく,綿糸を消費する中小綿織物業者との利害調整を経た上で,国民経済上有効なものであることに関しては合意が得られたものと認めることができよう。

綿織物と綿糸の価格水準比率の動向をみると,1952年から1953年にかけて若干低下し,1954年前半まで上昇したあと,1957年初頭まで安定的に推移する。1957年前半に若干上昇した後,低下に転じ,1958年半ばまで停滞した後,上昇を始める。19576月以降の綿糸生産制限勧告,19584月以降の制限強化によって,綿織物の相対価格は若干不利化した可能性はある。在庫率の動向を見る限り,綿織物の生産制限よりも綿糸勧告操短の方がより迅速に効果を現したものと考えられる。しかし,1958年半ば以降,綿織物の在庫率は急速に低下し,相対価格も上昇し始めている(図1)。

勧告操短は,独占禁止法の枠をはみ出し,事実上,実効度の高い,大企業カルテルとして作用したことは確かであろう。しかし,それによって不利化する可能性のある中小企業対策が大幅に考慮されるようになっていったことにも留意しなければならない。結果的には,最終消費者が不利益を蒙ったということになろうが,継続的な所得上昇が伴っていたため,その不満もまた顕著なものとはならなかったと考えられる。カルテル原則自由の戦前に比すれば,政府介入によって大企業と中小企業との利害調整が図られ,一定程度独占的レントの発生を認めつつも,そうしたレントが国民経済上の観点(ここでは,輸出振興を通じた経済成長が判断基準となる)から有効活用されるように管理されるに至ったと見ることができる。ただし,どれほど有効活用されたかに関しては,本稿の限りでは十分に実証しているわけではない。

 

3.輸出会議と中小企業の輸出振興

1950年代末から1960年代後半,日本では輸出振興が特に強力に唱えられ,様々な輸出振興政策が実施された。輸出増大が経済成長—所得倍増の一源泉であるとされ,「輸出第一主義」「輸出振興国民運動」に象徴されるように,輸出振興が推進された18。「輸出第一主義」の政策方針は,1954年に設置された輸出会議に象徴されるように,ほとんどの輸出産業に対する包括的な振興政策の実施という形で具体化された。その際,「限界的産業」であった重工業製品の輸出だけでなく,織物・雑貨など戦前以来の比較優位産業もまた重視された。輸出入取引法と中小企業安定法は,輸出中小企業の組織化を促すための政策であった。カルテル的組織を結13頁】成させることで独占的レントを発生させ,レントをインセンティブとして輸出振興を図ることが政策の狙いであったと考えることができる。

以下では,まず輸出会議について検討し,その後,雑貨輸出振興政策を取り上げる

 

1輸出会議の設置

輸出会議設置が決定されたのは,19549月である。設置理由について,寺村泰[1990]は「昭和30年輸出入取引法改正によって認められることになる輸出カルテル,とりわけメーカー間の協定と同様な効果を,とりあえず輸出会議の場を通じて実質的に実現することが課題であった」としている19

当時,輸出不振の中で,産業界の輸出意欲をいかに実現させるか,ということが大きな課題となっていた。政府は外貨獲得の要請から輸出振興を重視していたし,産業界でも内需停滞を背景に輸出意欲が高まっていた。しかし,国際競争力の弱さや「過当競争」などの問題が存在し,何らかの政策的手段がなければ輸出増大が困難な状況であった。通産省は,紙・鉄鋼などの商品でメーカーに一定量の輸出を義務づける責任輸出制を構想した。当時の審議会の資料から判断すると,責任輸出制について,通産省は当初「補助金」などのメリット付与は考えていなかった。業界に,一定量の輸出を義務づける行政指導を行い,輸出振興のための特殊なカルテルを形成させようとしたのである。しかし,カルテルの利益が明確でなく,また,強引な輸出振興カルテルに対して公正取引委員会から反対意見が表明され,責任輸出制は実現に至らなかった。

責任輸出制に代わって浮上してきた案が,輸出会議である。輸出会議とは次のようなものであった。まず,政府官僚・民間代表の参加する産業・商品ごとの産業別輸出会議及び商品別部会で輸出目標が決定される。同時に産業側から輸出振興対策が要望され,上部機構の(最高)輸出会議で集約される(表2)。これらの要望をもとに政府内で輸出振興政策の原案が作られ,閣僚懇談会等において決定されるのである。つまり,輸出拡大のための隘路情報を集約し,その対策として動機づけ構造を構築するための情報交換の場であった。前述の責任輸出制が統制的色彩が強いものであったのに対し,輸出会議ではそうした性格が薄められていた。また,責任輸出制がいくつかの商品の輸出振興に限られていたのに対し,輸出会議が網羅的であった点が注目される。この時期,造船,鉄鋼などの輸出振興政策が行われていたが,粗糖リンクや求償貿易など非常手段に頼っていた20ため,内外から批判を浴びていた。このため,19549月の「新輸出計画」21で,それまでの発展途上国向けのプラント輸出に漫然と期待をかける傾向を廃し,外貨獲得率の高い軽工業などを輸出振興対象として重視する方向への政策変化が表明された。ただし,重工業輸出振興が廃されたわけではない。輸出振興政策をより包括的に行うことが意図されたのである。

15頁】

2輸出会議の機能

以下では,中小企業輸出振興政策を中心に,輸出会議の機能を検討する

輸出会議において決定された各産業の輸出目標と実績は,表3の通りである。合計数値は1961年度,1967年度の2度,実績が下回っている。どちらの年度も,目標が実績を下回ったこと(ないしそれが予想されたこと)が原因となって,2度の輸出会議が開催された。また,たとえば陶磁器輸出について「昭和35年の輸出会議は,陶磁器部会において業界待望の一億ドル輸出目標を決定し,業者一丸となって目標達成に邁進することとなった」と記述する資料がある22目標は,努力を鼓舞するとともに,隘路を発見して対処するための一つの基準となっていたものと考えられる

輸出会議で議論の中心となったのは,繊維・雑貨・軽機械など中小企業性の強い輸出産業に対する振興政策とプラント輸出対策であった。輸出中小企業を対象とした政策として,たとえば,1962年上期の輸出会議(511日)で強く要望され,1962615日から実施された特定中小企業輸出振興融資制度がある23。これは,第一に長期輸出契約に基づく輸出の振興を目的とし,第二に特定中小輸出産業の高度化を図ろうとするものであった24。このうち,前者の長期輸出契約に基づく輸出振興は,外国の輸入業者もしくは製造業者と日本の輸出業者もしくは製造業者との間に長期の輸出契約が結ばれており,契約履行のために設備投資が必要な場合,中小企業金融公庫の融資対象(貸付金利5000万円,3000万円まで7.5%程度の特別金利)とする制度であった。しかし,契約期間1年以上,受注額(数量または金額)がその企業の最近年次の当該品目の年間生産高(販売高)の50以上,などの厳しい条件を満たすことが求められた

これに対し,1962年度下期の産業別輸出会議で,条件緩和が要求された251112日の繊維品輸出会議で「現行の特定中小企業輸出振興融資制度(低利の設備資金)について,下請企業の融資対象への追加,長期輸出契約に基づく受注額の生産額に対する比率の改善」などが求められた。1116日の軽工業品輸出会議においても,身辺雑貨部会長から「(1)下請企業を融資対象に追加すること,(2)長期輸出契約に基づく受注額の生産額に対する比率を50%から30%に引下げること」が要望されている。要望に基づいて,196212月に制度の改正が行われた。長期輸出契約受注額の生産額に対する比率が30%に緩和され,一定の条件を満たす第一次下請企業も融資対象に加えられたのである26

また,1960年頃以降,若年労働者の不足が,中小企業に深刻な問題となりつつあった。そのため,特に軽工業品輸出会議などにおいて,若年労働者の確保対策がしばしば要望された。これに対し,「当省(通産省〜筆者)および労働省においてそれぞれの地方機関に指示し,都道府県の労働部および商工部において緊密に連絡し,輸出比率の高い企業(特に,繊維二次製品,陶磁器,雑貨等の小中企業)から求人があったときは,しかるべく配慮することとし,その実施要領について,7月に,労働省から地方機関に通達した」という27以上のように,輸出会議は,輸出中小企業の利害を汲み上げる機関としても一定の役割を果たしていたのである

17頁】

3輸出雑貨産業の振興

『通商白書』や『雑貨統計年報』で「雑貨」とされているものは,具体的には,玩具・洋食器・洋傘・文房具・運動用具・はきものなどである。雑貨は1955年代後半から1960年代末にかけて総輸出の10%前後をキープしていた(図2)。また,生産額(出荷額)の半分以上を輸出が占める産業が多い(表4)。主要輸出先のアメリカにおける日本製品のシェアは,次第に発展途上国に追い上げられてきていたとはいえ,極めて高かった。

輸出雑貨産業においては,メーカー間および輸出業者間のそれぞれで激しい競争が繰り広げられていた28。金属洋食器やシガレットライターでは,アメリカ市場に対して「集中豪雨的」輸出が行われ,一方で貿易摩擦の要因となり,他方でバイヤーによる買いたたきによって「過当競争」が激化し,それがさらなる価格低下,品質低下をもたらすという悪循環が生じていると認識されていた29。メーカーについては中小企業安定法とその後の中小企業団体法に基づいて,輸出業者については主に輸出入取引法に基づいて,種々の共同行為が行われた30。輸出入取引法による協定は,繊維品や軽工業雑貨品が大半を占める(表5)。雑貨については,19549月に日本雑貨輸出組合(1966523日に日本軽工業製品輸出組合に改称)が設立され,玩具・金属洋食器・電球・履物など20の商品別部会に分かれ,1960年代半ばにおいて800余の輸出業者を組合員としていた(設立当初は350余)311963-64年頃の雑貨輸出の輸出入取引法の規定に基づく協定は,19の品目(ディナーウェア,人造真珠,洋傘,ゴム底靴,シガレットライター,野球用グローブミット,金属洋食器など)で,価格・数量・意匠・実用新案などについて行われていた。同時期の中小企業団体法に基づく雑貨商品の規制は,8の品目(輸出金属洋食器,輸出洋傘,輸出シガレットライター,輸出双眼鏡ケースなど)で,生産数量・出荷数量などについて行われていた32

協定は自主調整を基本とし,不十分な場合には政府が介入した。たとえば,陶磁器ディナーウェアについては,19536月に輸出入取引法による価格規制品目となり,19634月に中小企業団体法による北米向数量制限とメーカー側の最低価格が協定された。しかし,1964年に「磁器ディナーは愛知県下にアウトサイダーの工場ができたほか,同連合会を組織している東海三県以外の地区で磁器ディナー工場をつくろうとする動き」があったため,日本輸出陶磁器完成工業組合連合会はアウトサイダー規制を行う方針を決定し33,通産省に対して規制発動を申請した。これを受けて通産省は,196411月に北米向け磁器ディナーウェアの生産者に対19頁】する,アウトサイダー規制命令(数量規制)を発動した34

また,金属洋食器に関しては,アメリカでの輸入制限運動に端を発し,19577月に日本輸出金属洋食器調整組合が設立され(195711月に日本輸出金属洋食器工業組合に改組),19579月に出荷の自主調整が始められ,19589月には価格規制と一手買取制度を実施,19601月には生産数量の制限を実施,その後も調整活動を続けた35。さらに,中小企業団体法に基づいて,輸出向け金属洋食器調整規則(通商産業省令第87号)が定められ,第7条で「通商産業大臣は,毎生産調整期間,事業者ごとに,調整地域別に,次の式(略)により算定した数量を生産調整数量として割り当てる」ものとされた36。もっとも,後述するように,調整は極めて困難であり,効果は必ずしも良好ではなかった37

輸出雑貨産業の「過当競争」の背景として指摘されていたのが,その前近代性である。前近代性とは,企業設備の貧弱性だけでなく,メーカー・問屋関係など制度的な側面も含む。輸出業者の濫立による「過当競争」が,メーカーに対する安値要求となり,メーカーは問屋に対する従属性が強いのでこれに応じないわけにいかない。したがって「過当競争」はますます激しくなる。このため輸出雑貨産業の零細性が解消されず,設備等の近代化が進まないというので20頁】ある38。金属玩具工業の事例では,玩具製造の際に何種類もの金型が必要となるが,メーカーはこのための資金を負担することができない。そこで,問屋が金型を貸与したり,金型代金を貸付けるなどの援助をしていた。このような問屋に対する従属性のために,価格決定権はほとんど問屋に委ねられ,メーカー側は安値要求に抵抗することができなかった39。前近代性を克服するためには,組織化政策だけでは不十分であると考えられた40。また,1960年代初めから,人造真珠,造花,皮革製品などで香港・台湾・韓国等の発展途上国の追い上げがあり,一方で国内の若年労働力不足による急速な賃金上昇があったため,従来からの低価格・低品質製品では対抗できなくなりつつあった。そこで「世界市場における高級品市場の分野に進出することが,雑貨輸出業界に課せられた大きな課題」となったのである41。したがって,長期的な視点から,輸出雑貨産業の構造改革に取り組むことが必要とされた。その際,一つのキーワードとなったのが「高級化」である。そうした政策の一つに,前述の中小企業金融公庫の特定輸出振興貸付がある。輸出会議で強く要望され,1962615日から実施された。ここでは特定輸出産業の高度化(雑貨・繊維等の高級化の推進)という目的に注目しよう4215業種が対象として列挙された43。実際に貸付対象となる業種は,中小企業業種別振興臨時措置法による「改善事項」が策定された業種であり,製品の高級化に貢献するような指定機械が融資対象となった44。この制度の貸付額は表6の通りであり,1960年代後半には急速に増大している。問屋制から零細企業を脱却させ,少数の意欲的な企業が自律的な活動を行うように動機づける制度であったと考えることができる。

21頁】

4組織化・製品高級化政策の効果

ここでは,主な雑貨商品の価格・高級化指数(図3)やいくつかの調査報告を手がかりに政策効果について予備的な検討を行う45本格的な検証は別の機会に委ねたい

 

a金属玩具

高級化指数は持続的に上昇し,1960年代半ばの一時的停滞の後,急速に上昇している46。価格指数はほとんど動いていない。この商品は流行が大きく作用し,ちょっとしたアイデアが爆発的ヒット商品を生む。商品の種類も多く,強力な組織化が行われた形跡はない。一方,各企業とも高級化の必要は強く意識していた。1965年の中小企業金融公庫の玩具工業に対するアンケートで「今後の対策」として,第一に「品質向上・高級化」が挙げられている471968年の東京商工会議所の調査48では,「各種玩具及び関連部品」企業の輸出採算状況(サンプル数144社)は,「収益があがっている」50.7%,「ほとんど収益は上がっていない」43.1%である。23頁】輸出収益性が低いと回答した企業(69社)は,その理由について次のように回答している。「国内同業メーカーとの競争が激しいから」40.1%,「外国企業との競争が激しいから」26.1%,「輸出業者等に低価格で買い上げられるから」21.7%。「過当競争」が一部に残存している様相が窺える。しかし,品質向上と新製品開発のために「自社の技術陣による独自の研究開発」を行っている企業が46.3%に達している。1972年の国民金融公庫の調査49は,日本の玩具は「国際市場では,西ヨーロッパの洗練された伝統的玩具と,東南アジアの安価な玩具の」中間に位置していると指摘する。また「大手製問や大手メーカーが製品開発力を強め,玩具自体高級化の傾向を示しているため,ちょっとしたアイデアぐらいでは通用しなくなっていることや玩具においても,技術が重用しされつつあ」り,「最近の新規参入の条件は非常にきびしくなっており,特に完成品メーカーとしての開業の増加率は低下している」。一方で複雑な下請構造によって「各メーカーの経営」が「零細なまま」にとどめられ,「多くの生業的メーカー」も存続し,全体が改善されたわけではなかった。

1964年初めに,中小企業金融公庫が特定輸出貸付の利用効果について座談会を開いている50。この席で金属玩具企業の代表者(松代玩具工業株式会社)が,特定輸出貸付によって「自家製金型の確立のための設備」を導入したところ「@納期の短縮,A品質の向上(外注ロスの減少)等,生産のスピードアップ化に多大の貢献をはたし」たと証言している。しかし,「私の知る範囲では金属玩具業界における指定機械設備は,工作機械(金型を作る部分)と,合成樹脂の機械だけでありまして,この分野での合理化しかなく,これを設置できる企業は,ほとんど少数である故,利用範囲は極限されている状態で」あると述べている。効果がもたらされた場合もあったが,その範囲が限られていたのである。

24頁】

b金属洋食器

高級化指数は停滞的である。価格指数は,1960年代中頃を除いて上昇を続けている。東京商工会議所の燕市の調査では「各企業とも自社の割当数量の拡大に全力を傾注し,なかには自社枠を拡大するため新たに企業を設立するものも見られ」,「輸出取引による採算状況は良くない」と記されている51。また,設備投資が盛んであり,1966-67年の新潟県の別の調査によれば,「当産地の設備近代化にはめざましいものがあり,輸出産業の大きな基盤ができつつある」と指摘されている。設備投資のための長期借入金として,中小企業金融公庫が重要な役割を果たしている52。恐らく,1960年代前半までになされた組織化によって,価格上昇は徐々に実現していった。そして,この蓄積と政府の金融支援によって旺盛な設備投資が行われ,生産数量・輸出数量が急速に伸びた53。また,新潟県の調査では,低級品生産を縮小して高級品のウェイトを高めようとしている企業がかなり多いとされている54。しかし,「技術能力水準が低い」「需要が少ない」「デザイナーの不足」「資金力の不足」などが,高級品化への隘路として指摘されている。高級化に関しては,1960年代にはほとんど進まなかったのである

 

c陶磁器

1950年の十日会によるディナーセット価格の協定,1951年のチェックプライスの設定,1952年の日本陶磁器輸出組合設立,19536月,輸出入取引法に基づく対米ディナーセット最低輸出価格・輸出数量制限協定など,組織化が進行し,前述のように1964年にはアウトサイダー規制が発令された55。組織化政策が最も盛んに行われた品目といってよい。図によれば,価格指数は1950年代末〜1960年代初頭を除いて,持続的に上昇している。高級化指数は,1960年代前半まで下落した後,上昇に転じている。この間,輸出数量は,1960年の12.6万トンから,1970年の17.8万トンへと増加している56。前出の東京商工会議所の調査(陶磁器については岐阜県多治見市が対象)でも,輸出秩序は概ね維持されていると記されている。しかし,同じ調査で,輸出向け商品の採算は,国内向け商品に比べてあまり良くないという結果が報告されている。

具体例を見ると組織化はかなりの程度実効的であった。1951年の米メタスコ社と日本窯工貿易会社のディナーセット安値契約をめぐる問題では,通産省の裁定によって契約が解消され,業界内「輸出統制派」が勝利した。1954年の「バンブー・チャイナ」規定価格以下の対米安値輸出は,輸出規制を主張する白素地業者(主にディナー・セットなどの高級品)と輸出促進25頁】を期す並素地業者の激しい対立を生み,さらにアメリカの商社が陶磁器の対米輸出規制が日米通商航海条約に違反する主張し,国際通商問題にまで発展した。紆余曲折を経て,通産省のアドバイスによって業界が調査団を派遣し,アメリカの最終取扱業者のアクメ社が「既契約品の納入を遂行して貰えば,事後は日本のディナー規制に従う」ことで決着した57。しばしばアウトサイダーが出現したものの,組織力は強力であったとみることができる。組織化→価格上昇→生産増大という金属洋食器の場合と同じような状況が,陶磁器の場合にも生じていた。必ずしも企業採算は改善しなかったが,1960年代に輸出産業として量的な発展を遂げたのである

 

4.おわりに

1950年代から1960年代にかけて,独占禁止法を逸脱するような,法的根拠の明確でない勧告操短が行われた。それは,一見,大企業の利害に偏った介入であったが,公正取引委員会の批判も存在したため,通産省は中小企業の利害を大幅に考慮していた。さらに,中小企業の組織化や輸出振興政策も重視された。これらの政策は,輸出中小企業の発展に一定の貢献をしたものと見られる。

本稿で検討した勧告操短や中小企業の輸出振興のための組織化政策は,カルテルのような独占的レントを発生させて管理し,輸出振興を通じた経済成長を促すようにインセンティブを付与する政策であった。これらの政策は必ずしも予想通りではなかったとはいえ,本稿で検討した限りでは一定の成果をあげたものと評価できそうである。企業活動がカルテルまで含めて原則自由であった戦前の経済システムに比すれば,政府による利害調整が図られ,独占的レントが管理されて輸出振興に活用された点において,より安定的で持続可能性の高い経済システムであったと考えることができる。

このようなレントの発生と管理による産業政策が,市場経済に委ねる場合と比較して有効であるか否かについては議論の余地がある。しかし,戦間期から高度成長期にかけての日本という歴史的環境において,市場に委ねた場合,たとえ独占禁止法のルールがあったとしても独占の弊害がどれほど実効的に排除され得たのか定かではない。実際に,戦間期にはカルテルなどの独占が一般的現象として見られたのであり,独占規制はカルテルをアンダーグラウンド化する効果をもたらした可能性が高い。これに対して,勧告操短などの産業政策は,カルテルより迅速にしかも効果的に独占的レントを発生させ,関連産業との間での利害調整によってその大きさを制御し,さらに輸出振興を通した経済成長という目標にレントを振り向けるように管理することが目的であった。政策を想定通りに実行することができるのであれば,経済発展を目指す上で,唯一でないにしても,一つの有効な解であったと考えてよいように思われる。