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グローバル・ファッションとその教養化

――戦間期のミューズ達と国際消費文化ネットワークについて――

 

眞嶋 史叙

 

 

消費者心理行動を再考する上で,「ファッション」と「教養」は表裏一体をなす概念であるといえよう。二つの概念は,高度大衆消費時代の開始をみた両大戦間期に顕示的消費が一般大衆にまで拡大する中で鬩ぎ合った。自由主義経済帝国としての英国覇権が揺らぎ,アメリカ合衆国への移譲が進む中,ファッションもまた新たなグローバル秩序と大量生産技術の進歩に適合して,旧体制から脱皮し,より民主主義的な装いを纏うようになる。本稿では,流行発信源ともなった女性達の交友関係を読み解くことで,旧来理論上S字カーブで説明されてきた流行形成の過程を具体的に明らかにし,これらのネットワーク構造がいかにして後の商業的成功と服飾史の教養化に結実したか解明する1)

 

はじめに

 

  ロストウ(W. W. Rostow)は,大きな反響と批判の渦を巻き起こした著書の中で,消費社会の彼方を悲観して「大衆全体が18世紀の 郷士 カントリー・ジェントルマン の亜流ともいうべき郊外族に改宗して,狩猟・射撃・釣り・精神生活・人類進歩のための最小限のドラマなどの織り交ざった中に,人生の生き甲斐の十分な 領域 フロンティア を見出そうとするであろう」と述べている2)。アメリカ中流階級が「 一定の生活水準 スタンダード・オブ・リビング 」の獲得に向け憧れ描いていたのは,まさに英国上流階級的な生活様式を範とする田園生活であった。1920年までの広告部門での心理学の利用拡大と,標準化された生産技術の普及とがあいまって,マナーと「教養」を具現化するための消費活動は,デザインを重視した家具・風呂・食器・住宅の購入へと広まっている3)。消費社会の誕生には諸説あるが4)66 頁】 ロストウは,自動車の普及が高度大衆消費時代の開始を裏づけるとし,自家用自動車使用数がアメリカでは1923年に人口の10%を超えることをデータで示した5)。田園生活の利便性を高める自動車は,一定の生活水準を維持するうえで不可欠になっていく。その自動車に似つかわしいファッションとして登場したのが「 小さな黒いドレス リトル・ブラック・ドレス 」であった。発売から20年を経ていたフォード車にちなんでファッション界の「モデルT」と称された「小さな黒いドレス」は,シャネル(Gabrielle ‘Coco’ Chanel)のデザインで広範に模倣されたものの,「教養」と品格を具現化する消費財として定着はせず,また新たな流行の中に忘却されていった6)。贅沢品の模造品が中流家庭の生活水準を維持するための「教養的な」必需品として定着する中で,流行は渟まることなく,美しいデザインが中産階級の手に届いた隙に,その階級交錯的な価値は手を掏り抜け,陳腐化し始めるよう仕組まれていた。自動車の「モデルT」ですら陳腐化した7)。そして,絶えず変化する理想美としてのファッションを追いかけること自体が,「教養」としてみなされるようになっていく。
  ファッションの特徴である短い商品サイクルがマーケティング理論として説明されるようになったのは,ニストロム(Paul H. Nystrom)『流行の経済学』(1928年)以降である8)。新古典派経済学者の誤りを指摘したヴェブレン(Thorsten Veblen)の顕示的消費理論から四半世紀経ても,消費者需要をめぐる経済学者と他の社会科学者との隔たりは狭まることはなかったが9),スタイルの変化する商品に対する需要を計量的に定義しようとする試みは,その後,心理統計学や文化人類学,マーケティングの分野で盛んになる。ル・ボン(Gustave Le Bon)の幾何学曲線から影響を受けたクローバー(A. L. Kroeber)が,歴史資料からスカートの幅と長さなどの形状を計量し長期時系列データを図示した例をはじめ10),ファッションにおける流行現象は,社会集団行動の規則性を示す好例として研究されていった。「良い商品計画は,顧客が今何を欲しがっているか,また彼らの必要とするものは今後どうなるかに関する正確な知識からはじまる」と断じていたニストロムは11),その実用書の中で,シャネルやランバン(Jeanne Lanvin)を紹介し,1924年の英国皇太子の米国訪問時に皇太子の服装情報を事前に仕入れた業者の話などを詳述する一方で,デザインの規則性に関するクローバーの研究を紹介している12)。しかしニストロムのような,マクロレベルの流行現象の方向性と個々のミクロレベルの具体的な事例とのつながりを見出そうする叙述的な研究は,後に集団行動の規則性に注視した計量的な研究とは一線を画すようになっていった。
  デザイン普及過程は,特にロジャーズ(Everett M. Rogers)による『イノベーション普及学』 67 頁】 (1962年)が発表されて以来13),S字カーブ理論で説明されるようになるが,この社会集団行動モデルでは,消費者個人の行動基準は「ファッション」すなわち他の消費者が何を購買するかに影響されるとみなされ,その前提からは個々人のミクロレベルでのインセンティブの複雑性は捨象されてしまう。たとえ,近しい他人との競争やファッションの絶え間ない変化を追うことがインセンティブであったとしても,あるいは,一定の生活水準や美意識のレベルを保持し,品格と「教養」を具現化することがインセンティブであっても,結果的な集団行動現象としてはS字カーブで理解されてしまうのである。それでは,ミクロレベルでの個人間の複雑な相互作用とマクロレベルでの集団行動現象とのつながりを実証的に示す方法はないのだろうか。本稿では,個人間ネットワークを分析することが,このミクロ─マクロ間の連関の解明につながるとの前提のもと,デザイン普及過程をミクロレベルの人間関係から読み解くことを試みる。ニストロムや初期のファッション研究者が叙述的に示してきたようなファッション・リーダーシップの形成過程を,ネットワーク分析の手法をもちいて社会構造的に図示することにより,これまで暗黙の前提として捉えられてきたファッション行動モデルの行動基準を再検討したい。この分析では,グラノベッター(Mark S. Granovetter)が議論したネットワークにおける「 弱い紐帯の強さ ストレングス・オブ・ウィーク・タイ 」や14),バート(Ronald S. Burt)の主張する「 構造的空隙 ストラクチュラル・ホールズ 」が15),ファッション・ネットワークを検討する上でも適切であるか検証することにもなる。

  ファッション・リーダーシップ形成過程を社会的ネットワークによって再分析することを通じて,本稿ではさらにファッション史の定型的なナラティブ──すなわち「パリ=流行発信源」としたビジネス・モデル──を再検討したいと考える。現代ファッションの制度的な起源は,ワース(Charles Frederick Worth)がクチュール協会Chambre Syndicale de la Couture Parisinne を創設した1860年代から,ポワレ(Paul Poiret)が活躍した1910年代に年2回のシーズンがファッション特有の商取引パターンとして確実に定着した頃までにみられると考えられてきた16)。パリのクチュリエ集団が競合して定例のオートクチュール発表会をもうけることで,ファッション・サイクルを制度化し,シーズン初頭に上流階級の顧客にデザインを売ったのち,シーズン末に売れ残ったものを低価格で放出することで陳腐化を進めてきたのである17)。第2次世界大戦後に最盛期を迎えたのち,プレタポルテ市場の拡大とともに,衰退の一途をたどっていたが,「モードの帝王」として君臨してきたサン・ローラン(Yves Saint Laurent)の引退を境に,中国や新興国での低賃金労働とグローバル経済のIT 化を背景にして,「ファスト・ファッション」へのシフトを決定的にしたように思われる18)。こうした状況下で,オートクチュールというブランド産業を支えるファッション史の伝説も再検討を迫られているといえよう。
  本稿では,具体的には20世紀のファッション・デザイナーとして著名なシャネル(1883−1971)と,デザイナーと同列の権威を誇った雑誌ヴォーグ編集者のヴリーランド(Diana 68 頁】 Vreeland,1906−1989),そして未来のデザイナーを養成した王立学芸院(Royal College of Arts)の初代ファッション学教授ガーランド(Madge Garland,1898−1990)のインフォーマルな人間関係を分析することを通じて,パリ・クチュリエ集団による生産と再生産という内生的な産業発展だけに注視してきた旧来の制度的解釈を再考する。服飾史研究の近年の傾向としても,有名なデザイナーとデザインの系譜をたどる旧来の研究方法から19),ビジネスとしてのオートクチュールと既製服産業のつながりに注目した制度的な研究方法へと20),関心が動いてきている。特にパトー(Jean Patou)や後のカルダン(Pierre Cardin)の例にみられるような,ライセンス商品の販売というビジネス戦略が明らかにされてきた。しかしながら,「ファスト・ファッション」にみられるような,流行商品を低価格で大量生産する既製服産業の戦略に関しては,服飾史の中でいまだに正確な位置づけがなされていない。本稿では,英国における1920年代から30年代にかけて起きた小売革命にその源流をみとめ,上記3人の女性達が戦後のファッションの方向性を形づくるのと同時進行で,またその影響を受けながら,いかに既製服産業の拡大や小売革命が展開していったか明らかにする。ファッションが米国の中流階級と英国の下層中流階級(lower middle class)や労働者階級の手に届く大量生産商品となる普及過程では,トップデザイナーの名もS字カーブに関する知識もメディアを通じて広められた。陳腐化をし続ける理想美をいかに追い続けるべきか──価値相対化が看過しえなくなる第2次世界大戦前夜に,ファッション教養化への挑戦は失敗に終わるのであった。

 

1. 狂乱の1920年代とミューズ達をめぐる人間関係

 

  アレン(F. L. Allen)が「既成のアメリカ秩序に対する最大の反乱」が起きたと述べた1920年代は21),第1次世界大戦中に既に始まっていたとみるべきであろう。道徳への脅威と象徴的に認識されたのは,若い女性達のスカートの丈であった。「1919年には,地面から裾までの平均的な長さは,女性の身長の約10パーセント・・25年には20パーセント以上になり,・・27年にカーブは25パーセントの線を越え・・スカートは膝までの長さになった。」アレンはニストロムの『流行の経済学』を繙きながらこう述べている22)。シャネルが「小さい黒いドレス」を発表したのも1926年,──短いスカートの流行に乗じてのことであった。しかし,1920年代を象徴する若い女性達「フラッパー(flappers)」に関していえば,合衆国では1920年代に突入しても半ば不可解な概念であったものの23),英国では戦時中に既にその「女の子でもなく,女性でもない」生態がタブロイド新聞で紹介されている24)。当時,アスキス首相婦人の好んだ踊子アラン(Maud Allan)は,そのギリシャ的な美貌とアングロサクソン的な身体能力を生かして情熱的なオリエントの姫サロメを踊り,終戦間際のロンドンで大きなブームを巻き起こしてい69 頁】25)。両性間で異なるフラッパーの認識──それは1918年の参政権資格から若い女性を除外するに至る──を形成する一助ともなっていく。同時に,アランの舞踏はロンドンという都市の持つコスモポリタニズム・文化的多様性をまさに体現していたといえよう。
  「ロンドンの住民はベッドで朝の紅茶をすすりながら,電話で全世界のさまざまな産物を彼が適当と思う分だけ注文することができ,それらの物がほどなく戸口に配達されるものと当然期待してよかった。彼は,同じ時に同じ方法で,自分の富を世界の好きな部分の自然資源や新事業に投資し,その成果への期待を手間もかけずに共有することができた。」ケインズは1919年に戦前の英国での貴族的ともいえる生活様式と投資の仕方をこう描き出しているが26),蒸気船と航路の発達により,食料品などの物品供給を海外からの輸入に頼ることができ,海底ケーブルの設置や電話の出現により,世界各地へ海外投資を容易にしていたロンドンは27),自由主義的な経済秩序と文化的なコスモポリタニズムにより,大英帝国の首都としてだけでなく,世界の最も先進的な文明の交差点としての地位を謳歌していたのである。第1次世界大戦後のクーリッジ大統領時代に合衆国が繁栄を極める中,速成の英国的教養を身につけようとウェルズ(H. G. Wells)の『世界文化史体系』や28),ポスト(Emily Post)の『エチケット』が1922年のベストセラーとなり29),海外旅行熱も高騰した。1928年だけで43万7千人以上もの人々が蒸気船で合衆国をあとにしている30)。多くは英国と,それを橋架かりに欧州へと向かった。アングロサクソン至上主義の影響も否定しえないが31),自由主義的な開かれた市場と開かれた思想を堅持した英国は,合衆国を欧州そして世界へ繋ぐ消費文化のハブ機能を持ち続けたのである32)
  第2次世界大戦後の大衆消費社会において,それぞれデザイナー,編集者,教育者として重要な役割を果たしていくこととなった3人の女性の青春期,1920−30年代の英国を主戦場とした人間関係を,図1にネットワーク分析の手法をもちいて表している。ファッション史の分析への社会的ネットワーク理論の応用は,今日いまだ未開拓の分野であるが,唯一の先行研究としてはウェンティング(Rik Wenting)による,ファッション・デザイン企業から分割新設された子会社の系譜を追ったネットワーク分析がある33)。文化産業に特有の系列形成ダイナミクス──すなわち市場参入へのバリアが高いため分割新設された子会社が有利であるという特徴があるため,ファッション・デザイン産業は特定の大都市(パリ,ロンドン,ニューヨーク,ミラノ)

 

70頁】

図1

 

に集中してきたのではないかとウェンティングは論じる。だが,何故パリが優位を保つことができたかという問いに対しては,ワースやポワレなど初期に成功を収めた企業の特徴が,分割子会社へと受け継がれたため,強固な産業クラスターが出来上がったのだと,内生的な産業発展論に終始しているにすぎない34)。それに対し,多様性のある文化を養ってきた大都市には才能を持った個人が移住してくるため,創造性を資本とする産業分野がクラスターしやすいと議論するのは,文化的多様性指標とクールネス指標の相関を発見したフロリダ(Richard Florida)であるが,ファッション分野にもネットワーク手法にも特に注目してきてはいない35)。本稿では,フロリダの論考を組み入れた仮説として,初期の成功に基づく文化的保守性により伝説を堅持したパリと,文化的多様性により創造力あふれる才能を養ったロンドンを対比することを試みる。
  図1では,シャネル,ガーランド,ヴリーランドをそれぞれ中心としたエゴセントリックなネットワークを,二次的コンタクトまで図示することで36),ネットワークの広がりと深さによって「情報利益」をいくら得られるか読み取ることができる。「コンタクトの多さは,より多くの価値ある情報に導き,より早く情報に接する可能性を高め,より多くの照会を意味しうる。しかし,多様性を考慮せずにネットワークを拡大すれば,ネットワークに重大な欠陥が生 71 頁】 じることになりかねない。重要なのは,重複しないコンタクトの数である。」バートは『競争の社会的構造』の中でこう述べ,重複しないコンタクト間の分離,すなわち「構造的空隙」の重要性を主張している37)。グラノベッターは,親密なコンタクトよりも距離の遠いコンタクトのほうが得難い情報をもたらすことを「弱い紐帯の強さ」と称し,新たな考えや機会の情報は離れたクラスターの人々をつなぐ弱い紐帯を通じて拡散することを示唆した38)。図1では,面識のなかった3人の女性達が二次的コンタクトを通じて間接的に繋がっていたことが図示されている。それぞれ紐帯の重複構造に注目すると,1920年代当時,多様なコンタクトから効率よく情報利益を得ていたのはシャネルであったということ,反対に親密なネットワークの中で重複するコンタクトから非効率にも限られた情報利益しか得ていなかったのはガーランドであったのではないだろうかと想像できる。また,ヴリーランドもシャネルには劣るものの広く重複のないコンタクトをつくっていたことがわかる。以下,それぞれ一次的コンタクトとの関係を詳述し,二次的コンタクトから間接的に得られたであろう情報利益について考察しながら,フランス,オーストラリア,合衆国から渡英してきた3人の外国人女性が英国を主戦場として拡大したネットワークには,どのような物語が隠されていたか読み解いていく。

  (1)ココ= シャネルとその交友関係
グラノベッターの称する「弱い紐帯」を一時的に強くする手段として,交友関係を利用していたのがシャネルであろう。シャネルにまつわるコンタクトの中には,同時代の有力な経済人,政治家,芸術家の名が連なるのであるが,特に彼女のデザインと生き方に大きな影響を与えたのは青春期の二人の愛人たちバルサン(Etienne Balsan)とカペル(Arthur Capel)であったといわれる。この二人との関係はシャネルの英国性を読み解く上で重要な位置を占めている。パリ郊外ロワイヤリュの領地で暮らす有閑階級の青年将校バルサンの邸宅に,シャネルは住み込み,バルサンを真似て男装の乗馬服に身を包んで颯爽と馬を乗り回し,英国風の競馬観戦に訪れるなかで,男性用のスポーツウェアの機能性に関心を持つようになったのではないかといわれる39)。デザイナーとしてのキャリアはシンプルな帽子制作からはじまるが,バルサンの友人であるイギリス人青年実業家カペルの出資で,1910年にパリ,1913年にはドーヴィルに出店したビジネスを軌道に乗せ,このノルマンディの海浜保養地を好むポロの名手の影響で,シャネルはシンプルで機能的で英国的なデザインのジャージードレスなどを手掛けていくようになる40)
  シャネルのデザインを最初に認めた米国のハーパースバザール誌は,1917年に「シャネルを一着も持っていない女性は取り返しがつかないほど流行遅れである」と「パリ便り」のなかで述べているが41),英国ハロッズの広告を検証すると,第1次世界大戦勃発後1915年のイラストでは断髪に黒いシフォンドレスやウールジャージーの上着,チェックのスーツ上下にシンプルな帽子など,シャネル風に似たシックな装いも既に掲載されていたことが分かる42)。1919年に 72 頁】 シャネルは本格的にオートクチュールを始めるが,デザイナーとして彼女を一躍有名にした「小さい黒いドレス」や,バレエ・リュスの舞台衣装として1924年に手掛けた水着やテニスウェアなどジャージー素材のスポーツウェアも,デザイン自体は戦時中の英国で既にその原型がみられたものであった。
  海浜保養地で上流階級の顧客を増やしつつあったシャネルの人間関係は,最愛のカペルを自動車事故で亡くした後,一気に拡大していく。シャネルにとって,情報利益効率の高い一次的コンタクトとなった友人の一人は,20世紀初頭のパリで文芸サロンを主宰していた才女セール(Misir Sert)であった。セールとの友情を深める中で43),亡命貴族のロシア大公ディミトリ(Dimitri Pavlovich),バレエ・リュス団長ディアギレフ(Sergei Diaghilev)や「春の祭典」を作曲したストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)に紹介され,次々に恋愛関係に陥っていった。さらにこれらのコンタクトはロシア生まれの調香師ボー(Ernest Beaux)と実業家ウェルテメール(Pierre Weitheimer)とによる香水「No.5」ビジネスの確立に結実していったのである。しかし,シャネルの香水ではなくファッション・デザインに注目するのなら,最も重要な一次的コンタクトとなった友人は,1920年頃からシャネルのファッション・モデルとなったベイト(Vera Bate Lombardi)であったというべきであろう。ベイトの自由奔放な気性は,シャネルのクチュール・デザインに新たにモダニズムの霊感を与えたといわれ,またウェストミンスター公爵(Hugh Grosvenor, Second Duke of Westminster)やエドワード皇太子につながるベイトの英国王室コンタクトは,シャネルのビジネス・ネットワーク形成に重要な役割を果たしていったと思われる。銀行家ベアリングの娘とケンブリッジ侯爵の間に生まれた非嫡出子であったベイトは,シャネルとともに叔父ウェストミンスター公爵のツイードの上着を愛用していたが,このような英国紳士の乗馬服に使われた丈夫なツイード素材を婦人服に転用した「シャネル・スーツ」は,その後シャネル・ブランドを代表するスタイルとなっていく44)
  1910年代から30年代にかけてのシャネルの人間関係を図1で図示している。孤児から公爵夫人一歩手前まで,社会階層を一足飛びに登りつめていった秘訣は,自らの美貌と才覚という人的資本を武器にして,「狂気の時代(Les Annees Folles)」の申し子のような才気溢れる女性達セールやベイトを一次コンタクトとして得て,社会的資本をつくりあげていったことにあるといえよう。彼女のデザイナーとしての功績を考えると,ジャージー素材スポーツウェアの利用や,ウエストを締め付けない極めてシンプルなドレス・ライン,テイラード・ジャケットの婦人服への転用,香水の販売も含めたブランド・ビジネスの確立など,どれをとっても実はシャネルだけの専売特許ではなく,同時代の先駆者があってのものであったが45),しかし,なぜシャネルがこれほどまでに20世紀を代表するデザイナーとして語り継がれる存在になったかといえば,それはやはり彼女自身の魅力と数奇な人間関係そのものによるところが大きいといえる。英国を文化的なハブとした,魅力的で自立した女性達の活躍する多様性の時代とその影響が,彼女の人間関係から浮かび上がってくる。

 

73頁】

  (2)ヴァージニア= ウルフ,マッジ= ガーランドとモダニズム・アート
  1920年代のロンドンにおけるモダニズムと文化的な人間模様を語る上で,作家ウルフ(Virginia Woolf)を外すことはできないだろう46)。しかし,本稿でのミューズはむしろウルフの友人で,後に英国初のファッション・デザイン学教授となったガーランド(Madge Garland)である。ガーランドはオーストラリア・メルボルンの婦人用品卸売商人の娘として生まれたが,父親の厳しいしつけによって幼い頃から身体矯正を強いられ,不幸な子ども時代を送らされたことに反発して,ファッション雑誌の世界に飛び込むこととなる47)。大学入学を家族に阻止されたガーランドはロンドン・チェルシーに下宿し,英国ヴォーグ編集長トッド(Dorothy Todd)を一次的コンタクトにして,作家・芸術家と知り合い,刺激的な1920年代に青春を謳歌することとなった。ガーランドは,写真家ビートン(Cecil Beaton)や画家ローランサン(Marie Laurencin)のモデルを務めるほどの美貌の持ち主であったが,1922年から4年間は英国ヴォーグ誌のファッション部門編集者として活躍する傍ら,男装の麗人トッドの文化的リーダーシップのもと,同棲していたチェルシーの下宿で頻繁にパーティーを催していた。なかでも,女性画家として初めて個展を開いたローランサンとは,30年来の強いきずなで結ばれ48),またロンドンの知識人サロンであるブルームズベリ・グループの芸術家や作家達──上述のウルフだけでなく,ストレイチー(Lytton Strachey),フライ(Roger Fry),ベル(Vanessa Bell),そしてグループ周辺に存在した作家ウェスト(Rebecca West)やシットウェル(Edith Sitwell)などとも,友情をはぐくんでいく。ウェストは回想録の中で,「(トッドとガーランドは)ヴォーグをただのファッション雑誌から,モダニスト運動の旗手に変容させた」のだと書いているが49),1920年代のモダニスト達の緊密なネットワークの中にガーランドもコンタクトを張り巡らしつつあったのである。 ガーランドとトッドに服装の助言を受けながら,ウルフは「女性性と男性性」,「内面性と表 面性」の間で困惑し,流行と自分との間の距離に悩まされていた。1924年に初めてヴォーグ誌 の「名声の殿堂」にポートレート写真が掲載された時,ウルフはバーン・ジョーンズ(Edward Burn Jones)のモデルだった母親のガウンを着て,モダニスト運動の「聖母」というイメージ をつくりあげたが,それは19世紀のアーツ・アンド・クラフト運動と,そのアンチ・ファッショ ンを基底にする美的センスの継承を宣言するような効果を生み出したといえよう。ブルームズ ベリ・グループは1913〜19年の間に,オメガ工房というアーツ・アンド・クラフト運動の再来 ともいえるビジネスに取り組み,壁紙プリント,カーペット,家具,陶器などを外部工場に委 託生産させていた50)。抽象的な文様の生地や壁紙,装飾を排除したシンプルなデザインの家具は,19世紀の先駆者の美的センスを脱して,新たなモダニズムを追究するものであったといえるのだが,ウルフ自身は服装においても前衛的なモダニズムを受容しようとする中で,19世紀 74 頁】の「 合理的・審美的ドレス) ラショナル・エステティック・ドレス 」との間で心を揺れ動かし,内面性を表現する外殻としての衣服と,流行に合わせた偽りの表面性としての衣服との二面性の間で悩む。理論的には,デザインの複製で芸術をあらゆる階級の人々の日常生活へ浸透させようという試みに賛同するものの,実際には,上流階級の気まぐれな流行と,それを簡単に複製し身につけられるようになった下層中産階級と労働者階級の素早い反応との間で,板挟みになった多くの知識人中流階層の苦悩に似たものを露呈していたともいえよう。
  ヴォーグ誌に登場したことで,ウルフは,雑誌の持つ明らかな商業主義的な性格を忌み嫌いながらも,この媒体を発表の機会=ブルームズベリ的価値観を流布するチャンスとして捉え直し,収入源の多くを本業の小説ではなく雑誌への寄稿や書評に頼ってしまうことを正当化して,編集者トッドに依存していくことになる。しかしその矢先,ヴォーグ誌側で異変が起きた。トッド編集部体制の下,英国ヴォーグ誌が知識人をも魅了する総合芸術雑誌へと変化を遂げたことに対して,米国ヴォーグ誌本社から横槍が入ったのである。小さな社交界ニュース誌から世界的な支社を要するビジネスへとヴォーグ誌を成長させた社長ナスト(Conde Nast)は,トッドを解雇して,米国ヴォーグ誌編集長ウルマン・チェース(Edna Woolman Chase)をロンドンに送り込み,さらに解雇を不服として裁判に訴えようとしたトッドを,「個人的な秘密」を暴露すると脅迫して,泣き寝入りさせた。愛人ガーランドもトッド解雇の数日後,編集部を追われている51)。ガーランドを中心とした人間関係は,図1に表されるように,1920年代には緊密な重複するコンタクトによって特徴づけられるが,その後はより広範なネットワークへと変貌していく。トッドはその後も理想を追い求めて独自の雑誌立ち上げに失敗し,ブルームズベリ・グループとの縁も,編集者としての仕事も夢半ばにして挫折した。ガーランドは一方,他のファッション雑誌や新聞にフリーランスの契約をし,ジャーナリストとして活躍し続け,1932年にはファッション部門編集者として再び英国ヴォーグ誌へ戻っている。1920年代に,ガーランドが培ったモダニスト達との緊密なネットワークの経験は,その後,彼女を有能な教育者に変貌させ,数々のファッション研究書の執筆によってファッション教育に貢献していくような人物にさせたのであるが52),後述するように,彼女をそれ以上のファッション・アイコンとさせはしなかった。

  (3)リージェンツパークのヴリーランド夫人
  20世紀ファッションの成立にヴォーグ誌編集者の果たした役割が大きかったことを,より一層明白に示すのは,前述のガーランドのネットワークよりも,むしろ以下に述べる米国ヴォーグ誌編集長となったヴリーランド(Diana Vreeland)の人間関係の詳細であろう。ヴリーランドもまた,1920−30年代のロンドンを自ら肌で感じ取った人物であった。ニューヨーク社交界の名家に生まれついたヴリーランドは1922年に社交界デヴューしているが,自立した女性として活躍するようになったのは1920年代末のロンドン社交界でのことである。1920年代初めの自由な空気を我が物として享受したのは,むしろワシントンの子孫だといわれる母親キー・ホフマン(Emily Key Hoffman)のほうであり,ニューヨーク社交界とアフリカでの狩猟旅行を楽 75 頁】 しんだこの有閑夫人は,ライフル生産で財をなしたバルナゴワン準男爵(Charles Ross, Baronet of Balnagowan)と不倫騒動を起こし53),1928年にはニューヨーク一番のスキャンダルの的となっていた54)。その直後失意のうちに母親を亡くした後,遺産を元手に,ヴリーランドはハンサムな銀行員の夫と幼い二人の息子達をひきつれてロンドンに移り住んでいる。リージェンツパークに佇む19世紀詩人ゴス(Edmund Gosse)の元邸宅で,英国上流階級のライフスタイルを思う存分に吸い込んだ4年間の経験が,その後のヴリーランドのファッション編集者としての成功を支えていたといわれる。宮廷ではジョージ5世に謁見し55),貴族や芸術家達との交友関係を追い求め,自らの美貌というよりも社交的な手腕を駆使してネットワークを広めていったのだが,しかし次第に豪奢な生活を金銭的に支えるのに,母親の遺産と銀行員の夫の収入に頼って続けるのは難しくなり,ヴリーランドは家計を助けるためにランジェリー・ビジネスに乗り出すこととなる。
  当時としてはまだ珍しかったが,インテリア・デザイナーとして成功を収めたド・ウォルフ(Elsie de Wolfe, Lady Charles Mendl)をロールモデルに,自立した女性としてビジネスを通じて,社交界でのネットワークをさらに拡大しようと努力し,ウィリアムズ(Mona Williams)やデルレンジャー(Edwina d’ Erlanger),そして英国国王エドワード8世と結婚をすることになるシンプソン(Wallis Simpson)など社交界の花と目された美女たちを顧客にもつようになり,その後生涯を通じて付き合いを続けた。特に,男爵家に嫁いだ元ダンサーのデルレンジャーは,ロンドン社交界での重要な第一次コンタクトとなり,1931年にはチュニスにある豪華な別荘でのエキゾチックな社交パーティーに招かれたりもするほど,緊密なつながりを示すようになっていった。エドウィナ= デルレンジャーも,ユダヤ人銀行家のウォーバーグ家に嫁いだ妹メアリー(Mary Warburg)も,美貌だけで社交界における地位を築いていったのではなく,ヴァニティ・フェア誌やヴォーグ誌で働くなど,自立したアメリカ人の女性という一面もはせ持つことで,魅力あふれるホステスとして強力なネットワークを形成していったのであった。このように,ファッション・モデルとなるような美しく野心に満ちた上流階級の女性たちと交際したヴリーランドであったが,彼女自身も幾度か記事になり,1933年11月のヴォーグ誌にはイヴニング・ドレスを着たスケッチが掲載され,「ヨーロッパに在住するインターナショナル・セットの中でも最もシックなおしゃれを楽しむ女性」との記述がつけられている56)
  ヴリーランドが入念に計画を立てながら,着実に広げていったロンドン社交界でのコンタクトは,図1に表れている。しかし,このような世界各地を飛び回る社交界グループ,インターナショナル・セットの一員としての華々しい生活は長くは続かなかった。1933年には世界大恐慌の影響がヴリーランド一家にまで押し寄せ,銀行員の夫は神経衰弱に陥り,また母親の遺産を使い果たしてしまったため,インターナショナル・セットを追いかけてヨーロッパ各地の海浜保養地を渡り歩き,頻繁にパリへ最新ファッションを買い付けに行くという生活を続けることは,結局叶わない夢となってしまった。このころまでにパリのオートクチュールも大不況の影響を受けて,顧客が大幅に減少したため,シャネルでさえも木綿製イヴニング・ドレスを半 76 頁】 額で提供するというような安売り戦略で不景気を凌ごうとしていた57)。ヴリーランド達は社交界から退いてローザンヌ山中に隠棲した後,ニューヨークへと退却していったのだが,ロンドンで培ったネットワークはその後のヴリーランドに大きな成功をもたらすものとなったのである。

 

2. 大恐慌の1930年代と大衆消費社会のファッション

 

  美貌と品格,そして強烈な個性を持ったこれらの自立した現代女性達──その好例がシャネル,ガーランド,ヴリーランドであった──が,戦後のファッション界を支えていくことになるのだが,「狂乱の1920年代」のあとに続く,「大不況の1930年代」には,ファッション・デザインの面で特筆すべき新たなスタイルは生まれなかった。特に,前述のようにオートクチュールの凋落が一部ではじまっており,各国が不況対策で,パリ・モードの輸入に対して保護主義的な高い関税をかけるようになると,国内でのファッション・デザインの調達へと関心が向いていった58)。しかも各国でナショナリズムが高揚する中,国家事業の一環として服飾産業における脱パリ支配を進めていったのは,全体主義化が進みつつあったドイツやイタリアであったが59),英国や米国でもまた国内のデザイナーの発掘が自国での既製服産業の成長を支えるために必要不可欠になってきていた。

  (1)“Why don’t you?”合衆国の消費者心理
  大西洋横断客船の渡橋からヴリーランドが夫と二人の息子を従えて颯爽と降りていったのは1935年のことである。ニューヨーク社交界に戻るやいなや,ハーパースバザール誌編集長のスノー(Carmel Snow)に誘われたヴリーランドは,常套句‘why don’t you…?’という誘いの言葉で,米国人女性たちに英国上流階級のマナーやセンス・教養を提案するという連載コラムを担当するようになる。「あなたの子どもの美しい金髪を気の抜けたシャンパンで洗ってみませんか。」ヴリーランドのややエキセントリックな価値観が人気を博した。ファッション部門編集者になってからは,ダール・ウルフ(Louise Dahl Wolfe)やビートンら新進気鋭の写真家を起用し,自らが陣頭指揮をとって芸術的な美しいグラビアを豊富に配した紙面づくりで成功を収めていく。特に第2次世界大戦に突入してからは,ヨーロッパ的なものではなく,アングロサクソン的な若さと力強さを前面に出したグラビアを,軍事飛行訓練場が点在するアリゾナの砂漠などで撮影している。当時,ファッション・モデル達が着用していたのは,米国人デザイナー,マッカーデル(Clair McCardell)のスポーツウェアであった。1930年代にニューヨークやハリウッドのデザインに注目した既製服産業界が,大手百貨店ロード・アンド・テイラーと提携し,米国人女性のための「アメリカン・ルック」として大々的に宣伝したため,マッカーデルの実用的なファッションは広く知られるようになった60)。戦時中はなおのこと,このアメ 77 頁】 リカン・ルックが脚光を浴び,工場で働く女性たちが工賃を国産既製服購入に充てることは,国家経済を支える愛国的な行為であるとして称賛されもした。
  しかしながら,第2次世界大戦が終結し,パリのメゾンがナチの支配から解放された直後に,ディオールがウエストを絞った古風なデザインの「ニュー・ルック」を発表し,パリ・オートクチュールの戦後復帰の速度とエレガントな美しさで戦争で疲弊した世界を驚かせると,米国既製服産業界はまたこぞってオートクチュールのコピーを買い集めることに執心し,流行の発信源としてパリを崇めたてるようになる。終戦とともに一変したジャーナリスト達の中でもひときわ活発に大陸間を行き来し,シャンゼリゼを闊歩していたのが,ヴリーランドであった。ディオールに触発されて,戦時中より引退していたシャネルも復活し,簡素なシルエットの「シャネル・スーツ」を発表したのだが,それをいち早く称賛したのもヴリーランドらのハーパースバザール誌であった。その後,ヘップバーン(Audrey Hepburn)主演の映画に登場するファッション雑誌編集者のモデルにもなるほど,広く知られる旺盛な働きぶりから,ヴリーランドはケネディの大統領選挙戦でジャックリーン夫人のファッションを担当することとなり,大統領夫人をも「シャネル・スーツ」の愛好者に仕立てあげていく61)。そして,ケネディ大統領夫妻に熱狂したアメリカ中産階級の市民は,大統領夫人のファッションもまた熱烈に模倣したのであった。
  このように米国消費者との関係が,第2次世界大戦後も「シャネル・スーツ」をはじめパリのオートクチュール・ビジネス全体を支えていくことになる62)。背景として,流行のデザインを大量に複製生産する既製服産業と,販売促進・宣伝活動に熱心な大手デパートという大資本の存在が大きいであろう。既製服販売をおこなっていたデパートだけでなく,シアーズローバックなどの郵便カタログ販売業者さえもオートクチュール創立期から大型ライセンス契約を結んできたが,欧州の上流階級を憧憬し,流行やブランドに対して旺盛な消費欲をみせる新興国消費者という巨大マーケットが存在してこそ,パリを頂点とするファッション制度は成り立ってきたのである。1980−90年代に英米双方のヴォーグ誌編集長を務めたウィンター(Anna Wintor)は,「英国ファッション・ジャーナリストは自分を芸術家か職人だと思っている・・米国編集者は米国の巨大マーケットに完全服従している」と述べたが63),ヴォーグ誌やハリウッド映画などの強力なメディアが,ファッションを変化し続けるものとして消費者を飽きさせないよう流布したことにより,パリのデザイナー達もその力に服従していったともいえるであろう。速成の教養と品格を求めて,統計的S字カーブの一部になることを躊躇せずに購買し続ける,米国中流階級的な消費者心理は,英国人作家ウルフが感じた流行に対するアンビバレントな気持ちとはかけ離れたものであった。

  (2)“Fashion for the people”英国下層中産階級の流行意識
  英国知識人中流階層のファッションに対する両義的な気持ちは,大恐慌の影響を受けた1930年代に階級社会がかつてないほど流動的になったことで,一層不安定化したといえるであろう。戦間期前半から英国経済は停滞していたため,世界恐慌からの回復は米国経済よりも速く, 78 頁】 1933年以降失業率も国民所得も回復基調にもどっていたため64),海外投資も集まってポンド高となり,国内の消費者は安い物価の恩恵を受けることができた。こうして1930年代を通じて内需拡大がつづいたため,耐久消費財の購入65)や海浜保養地での休暇66)が階級を越えて,しかし階級的差異は残しつつ,普及していった。国勢調査では1930-40年代にかけて国民の大半をしめる労働者階級から事務職階層(Clericals)への移動が進展したことがわかるが,このような流動性が高まる中,消費活動を通じた上位階級の模倣と競争を進めながらも,教育によって技術的な能力を兼ね備え,新たな文化的なリーダーとして自覚を強めていた専門職階層(Professionals)と67),割合として大きく増加した下層中流階級(Lower Middle Class)の事務職階層との間の隔絶は広がっていった。すなわち,技術的な内実を重視するモダニズムの精神から, 最新流行の模倣を躊躇する前者と,1930年代に新たな消費の自由を勝ち取り,流行を積極的に受容した後者とのあいだの心理的隔たりを考えると,統合したマーケットを生み出すのは,シニシズムか特段合理的な理屈なしには68),困難であったろうと思われる。
  それまでファッションとは無縁だった消費者が,1930年代にファッション受容者ないし犠牲者になっていった様子は,リヴァプールの中産階級女性のティン(Emily Margaret Tinne)が残した衣装コレクションから見えてくる69)。貧しい長老派牧師の娘が砂糖商人の名家に嫁ぎ,突如ファッションの自由を与えられたことで,高級仕立屋から低価格既製服を販売するボンマルシェなど百貨店まで幅広く利用し,セール品も旺盛に購入していき,ある種,精神的疾患としてのショッパホリック状態から,驚異的な購買ペースを維持していったことがそのコレクションから窺える。このような消費の誘惑と「女性的な病理70)」に対して,前述ウルフのような知識人は警戒心を抱かざるを得なかったであろうが,「小さい黒いドレス」のモダニスト・スタイルに対してはその警戒心を緩め,フォード車のように普及することで,多くの女性達をこの病理から救出できると思ったかもしれない。実際,シンプルなラインのドレスは,ヴォーグ誌などに付録で付いていた型紙を使うことで,各家庭で容易に縫製して模倣できたということで,女性達に自由と充足感を与えることとなったが71),それと同時に,新聞タイムズやタブロイド紙デイリー・ミラーの広告72),そしてハロッズ・カタログからも見て取れるように大量生 79 頁】 産・大量販売の方式によっても安価に素早く普及したとみられる73)。当時,紳士服分野では,バートン(Montague Burton)やヘップワース(Hepworth)などが,全国各地の支店から組織的に大量注文を受けてリーズの大規模工場で大量生産する方式をすでに取り入れ,1920年代にはその最盛期を迎えて,自動車工場のようにオートメイション化を進める方向にあった。だが,柔らかい布を扱う性質上ベルトコンベアー作業にすることができず,労働生産性の伸び率は自動車など他の製造業に比べて伸び悩んでいた。婦人服の場合は,紳士服以上に工場生産に適さないということで,小規模生産ネットワークが大工場代わりに機能していたのだが74),それでも婦人服の流通網の発達は目覚ましく,1926年に株式上場した低価格百貨店マークス・アンド・スペンサー(M&S)は75),不況下での最優良株として金融市場で脚光を浴び76),英国各地の商店街でM&S の看板文字がみられるようになっていった。スーパーマーケット方式をいち早く導入し,既製服に自社ブランド名(St Michael)を付けて店頭売りした新感覚の百貨店は,紳士服のバートンと同様,当時の安い地価を背景にして,年平均で合計1000店舗以上のペースで新しい店舗を開設していった77)。このM & S方式のビジネスは,1922年にオランダから進出してきたC & Aのそれとともに,その後紳士服のバートンが新設したTOPSHOP や,スウェーデンから進出してきたH & M,近年ではスペインのZARA や日本のユニクロにも共通する現代ファスト・ファッションの原型をなしていたといえよう。
  産業モダニズム的スタイルは,しかしながら,ファッションとして永遠に変化しないわけにはいかず,1930年代後半のナショナリズム的気運の中では新たな英国スタイルが模索された。例えば王室御用達デザイナー・ハートネル(Norman Hartnell)が,1938年に喪中のエリザベス王妃訪仏時にデザインした白衣の古風なドレスは,パリをも熱狂させるほど有名になったとメディアに持ち上げられた。シャネルも米国では消費が冷え込む中,英国市場にビジネス・チャンスを見出し,英国繊維産業と提携して既製服生産販売を始めている78)。そうした新しい気運を綿業地帯の若年失業者救済に活かそうと裁縫師養成学校を設置して,のちにマンチェスター・ポリテクニックの一部に成長させていったのがホリングス(Elsie Hollings)であった79)。デザイナー養成では,前述の王立学芸院で教授になったガーランドだけでなく,トッド後にヴォーグ編集長を1929−36年まで務めたセトル(Alison Settle)もバーミンガムのデザイン専門学校で教鞭をとっている80)。ファッションを国家政策課題に載せようと,ガーランドはロンドン・ファッション・グループの創設に,セトルはデザイン評議会委員として尽力し,戦時中 80 頁】 の統制経済下では「ユーティリティ・ドレス」をデザインするために,ハートネルら英国人デザイナーを集めた「ロンドン・デザイナー協会(Incorporated Society of London Designers)」も結成81),戦後復興期にはオートクチュール復活に対抗してロンドン・コレクションを開催し,米国への輸出・外貨獲得を後押しした。しかし,イタリアン・モード協会(Camera Sindacale della Moda Italiana)の優勢で,クチュール・ファッションでは英国デザイナーの出る幕はなかった。英国で米国人バイヤー達を魅了できたのはクチュールよりも,紳士服の技術とツイード布地であったという。ガーランドは布地や流行色の助言指導もおこなったが,その後,ガーランドが手掛けた繊維ブランド・シーカーズ(Sekers)の絹布地は,モリノー(Edward Molyneux)やディオールなどのデザイナー達に最高級品としての価値が認められ,それと並行して,大量生産されたシーカーズのナイロン布地は,家庭で縫製をする一般女性達にも手の届くものとなっていった。ガーランドの名は,彼女の養成したデザイナー達の影に隠れてしまったが,卒業生リストには,戦後世界を震撼させた1960年代ロンドン・ファッションの立役者の名が連ねられている82)。M & Sのデザイナーになった者もいる。彼女のネットワークの本領が発揮されたのは,愛弟子アイロンサイド(Janey Ironside)が教授職を引き継いでからのことであったのだ。王立学芸院やその他のロンドン・デザイン学校は,創造力豊かなデザイナーを養成することで世界的に最も著名な教育機関として今日まで揺ぎない地位を維持しつづけている。

  (3)教養としてのファッション史学
  1920年代のモダニズム的ミニマリスト・スタイルは,あたかもファッション産業の進むべき未来を提示し,多くの悩む女性消費者に答えを見つけたかのようにみえたが,1930年代からさらに戦後になると,ファッションは新たな発信源を模索しながら変化し続けていった。流行のサイクルはまさに陳腐化のサイクルであり,1930年代を鮮烈に感じ取ったベンヤミン(Walter Benjamin)の文章にも,その残酷なばかりの変化の速さがポエティックに表現されている83)。女性たちの叫び声の中で機械的な嘲笑が聞こえるという詩的表現は,男性デザイナーらによるものだろうか。シンプソン夫人は1937年のエドワード8世との結婚時に,それまでの緩やかなラインに相反して,ウエストと肩を強調したデザインのウェディングドレスを着用したが,そのスタイルは王室スキャンダルとともに女性達を熱狂させた。仕掛けたのは,パリ在住の米国人男性デザイナー・メインボッカー(Mainbocher)であった。第2次世界大戦後,「ニュー・ルック」を発表し,Aライン・Iライン・Hラインなど,毎シーズン新たなラインを創造することで,女性たちを翻弄したのも,男性デザイナーのディオールであった84)。女性とは無邪気な羊の群れであるとでも宣言するかのごとく,ファッションを操ってきた。
  ファッションとは一体何なのか。戦間期にファッションが多くの人々に手に届くものとなった時,渟まるところのない不安と悩みも多くの人が共有するものとなった。1930年代以降,ファッション史やファッション心理学に関する書籍が数多く出版されるようになったのは,多 81 頁】 くの人々の懐疑的な知的好奇心に応えるためでもあっただろう。BBC 実験放送では1937年早々に服飾史をあつかった番組「クローズ・ライン」が放映され,女性番組ディレクター・アダムズ(Mary Adams)と女性風刺画家ビンダー(Polly Binder)とともに2人の男性歴史家レーバー(James Laver)とカニングトン(Cecil Willett Cunnington)が登場している。英国服飾史を「リスペクタブル」な学問にした人物として評されるレーバーは,ヴィクトリア・アンド・アルバート(V & A)博物館の版画部門長をする傍ら,評論や服飾史研究書を執筆して,レーバーの法則とよばれるファッションの陳腐化現象を言語化して有名になり85),もう一人の歴史家カニングトンは,ハムステッドで医者をしながら趣味で衣装を集め,女性の性的な欲望に固執した内容が些か奇妙な印象を与える服飾史研究書を執筆している86)。テレビ番組でのこの二人のライバル服飾史家としての議論は,大衆受けを狙ったかのような内容に終始し,ファッションを教養の高みに押し上げたとはいいがたいものであった。
  戦間期に歴史的なファッション理解が進んだとはいえ,衣装コレクションが教養の殿堂であるV & A博物館に展示されるまでにはいたらなかった。カニングトンの蒐集品がマンチェスターの常設展示場(Platt Hall)に寄贈されたのは1948年,さらに女性の歴史家ロングリー・ムーア(Doris Longley Moore)の所蔵品をもとにバースの服飾ギャラリーが創設されたのは,そのさらに10年後であった。V & A博物館にファッションが受け入れられるようになるまでには,1971年に写真家ビートンが関与した回顧展まで待たなければならない87)。ビートンは,シャネル,ガーランド,ヴリーランド,そして多くの美しい女性たちを美しいままに絵画的に写し取る写真家であった。ヴォーグ誌を出発点とした彼のコンタクトは幅広く,前述のエリザベス王妃やシンプソン夫人の白衣のドレス姿など歴史に残る多くの写真を残している。英国人ネットワーカーとして,ファッションを芸術と教養の高みに押し上げた立役者は,この写真家ビートンであったと換言できるかもしれない。しかしながら,彼のファッションに対する姿勢は,忠実な記録者としてのものであり,流行的心性を利用してビジネスを起業したり,ファッションに主観的な解釈を加えたりするものではなかった。ガーランドは王立学芸院を退職した後も,服飾史研究書を執筆し活躍を続けたが,V & A博物館長の夫アシュトン卿(Sir Leigh Ashton)が引退するまでに,服飾史展を開催することは叶わなかった88)。ヴリーランドはハーパースバザール誌で戦後オートクチュール復権を演出して活躍した後,1960 年代に若者ファッションが世界中を震撼させ始めると米国ヴォーグ誌に転職し1971年まで編集長をつとめた。ファッションの躍動を自ら作り出すエポックメイキングな編集者としての仕事をなし遂げた後,ニューヨーク現代美術館付属の服飾史研究所設立に尽力し,その後数々の芸術的な服飾史展を手掛けている。そして,シャネルは創業者亡き後も展覧会や映画撮影に歴史的衣装を貸与して教養と芸術の振興に努め,ブランド伝説を死守してきたのであった89)。1930年代以降,ファッ 82 頁】 ションは上流社交界の一部の所有物であった過去の独占から解放されて,当時勃興しつつあった大量生産の技術やテレビなどのメディアの影響で,広く中流階級から労働者階級が享受できるものへと変貌を遂げていった。そのマクロな変化の流れの中で,ファッション業界成長の方向性──ファッション・デザイン創造,ファッション・ジャーナリズム,ファッション文化と教養の育成──を確固たるものにしてきたのは,1920年代に個々のミクロレベルでのネットワーク形成を通じて,社会的関係の蓄積をおこなってきた女性達の真摯な情熱だったのではなかろうか。しかしながら,第2次大戦後においても,1970年代末になるまでは正当な評価を受ける機会には恵まれなかった。1920年代に青春期を過ごしてきた彼女達にとって,それは晩年の評価,死後の評価となるものにすぎない。

 

おわりに

 

  本稿では,1920年代のモダニスト的な刺激の中で,いかにしてファッション・ネットワークがつくられ,戦後のグローバル・ファッションの原型がつくられていったか,3つの事例から読み解き,パリ・オートクチュールの神話性──すなわち,ワース,ポワレ,メインボッカー,ディオールなどパリを拠点に活躍する流行の魔術師たちがつくりあげた世界としてのファッション神話──を再考し,むしろファッションの消費者でありながらもファッションの創造者として自ら翻弄されながら歴史を築いてきた女性達とその活動拠点であったロンドン・ニューヨークの重要性を検討した。重複するネットワークの空隙をうまく生かすことのできたネットワークの天才シャネル,ネットワークの努力家ヴリーランド,そして親密なネットワークに安住したガーランド。3人の多様な社会的資本のあり方がその後のフランス,米国,英国のファッション産業の発展に繋がっている。グローバル資本主義の成長過程の中で戦間期ファッションの構築を鑑みるならば,米国消費者が果たした役割と同等の重みで,英国社交界,芸術家集団とジャーナリズム,大量生産・大量販売に挑戦し続けてきた英国繊維産業と小売業界,そして後世に芸術的なポートレートを残してきた英国人写真家が果たしてきた役割も,そのインフォーマルなネットワークの及ぼした広範な影響を含め顧みるべきかもしれない。ファッションを人間行動心理学の一面性のみで理解し,教養として流布しようとした試みには限界があったことも,本稿を通じて浮き彫りとなった。英国ヴォーグ誌編集長トッドが1926年に「今日,女性のファッションは,男性と対等に生きようとする決意を表している」と宣言した時の心意気と情熱を90),女性の流行的心性をビジネスの糧とし,集合的に把握しようとしていた当時の男性デザイナー達はどれほどまで理解していたであろうか。「ヴェブレンやフリューゲルをいくら読んだからといって,ファッションに対する愕然とするような罪悪感は決して味わったことはないけれど,ちょっとしたタックの寄せ方の違いでそう感じてしまうこともあるわ」とガーランドは呟いているが91),理論化をたえず巧妙に拒み続けてきたともいえるファッション──動態として,業界として──においては,そのような 微妙な サトル 価値観こそが究極的な教養の深みを垣間見せる切り口になるものなのであろう。