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16〜18世紀ベルリンのユダヤ教徒の
企業家活動と貨幣鋳造業
−都市と国家の世俗化の差−
竹原 有吾
18世紀後半のベルリンでユダヤ共同体を代表する地位にありながら,自らユダヤ教徒の伝統的な生活様式を破壊し(Lowenstein, 1994, pp. 31-33),ユダヤ教徒とキリスト教徒の社会統合の前提を築いていったのは貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒であった1)。またベルリンで初めてキリスト教徒の都市市民と対等な権利を獲得したのも,貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒の一族であった(Lowenstein, 1994, p. 30)。ユダヤ教徒が周囲のキリスト教徒と同じように近代ドイツの経済発展を担う主体へ変化していく契機が,ユダヤ教徒の貨幣鋳造業における活躍にあったと考えられる。そこで本稿では,18世紀のベルリンのユダヤ教徒がなぜ貨幣鋳造業で活躍することができたかを解明する。
本稿は,ユダヤ教徒だけに焦点を当てている。そのため「ユダヤ民族」を分析対象とするエスニック・マイノリティ・ビジネス研究とは少し異なる。しかし経済活動の特徴がマイノリティとマジョリティで異なるという視角は,本稿の分析で有効であると思われる。ただこれまでのエスニック・マイノリティ・ビジネス研究では,マジョリティの労働市場に参加できないマイノリティ同士が助け合ってビジネスを行っていることに焦点を当ててきた(Light and Gold, 2000, pp. 4, 105-129)。それゆえ本稿のように,地域経済の発展を支える重要な産業に,マイノリティが進出するような事例は検討されてこなかった。
また近年は,国家の枠組みで経済活動を分析することを批判するグローバル・ヒストリー研究が盛んになる中で,ユダヤ教徒の国境を越えた経済活動に焦点が当てられるようになってきている(長谷川, 2016, 225)。もっともこれには,そうした研究の必要性を支持する研究が積み重ねられてきたことが背景にあった。ブランデンブルク選帝侯領やプロイセン王国における貨幣鋳造業については,すでにバールフェルトの研究(Bahrfeldt, 1889; 1895; 1913)2)やシュレッ【120頁】ターの研究(Schrötter, 1904; 1908; 1910; 1913)3)が発表されてきた。また18世紀にプロイセン王国の貨幣鋳造業を務めた一族の歴史についても,これまでに多くの研究が生み出されてきた4)。これらの研究は,ユダヤ教徒が貨幣鋳造業で活躍できた要因を探った研究では必ずしもないが,どの研究もユダヤ教徒の国際的な取引ネットワークが果たした役割を強調してきた5)。けれどもこうした先行研究では,なぜ宗教的なマイノリティであるユダヤ教徒が貨幣鋳造業を任されたかについては,分析されてこなかった。またユダヤ教徒が貨幣鋳造業に従事することが,ユダヤ教徒がキリスト教徒とほぼ対等な政治的な地位を獲得するまでの歴史において,どのように位置づけられるかも検討してこなかった。確かにプロイセン王国における貨幣鋳造業についてシュレッターと共に研究をまとめたシュモラーは,プロイセンの重商主義政策が「国民経済」の形成に繋がったと主張していた(Schmoller, 1884, S. 43)。しかし宗教的なマイノリティがなぜ国家の経済政策に密接な産業を担うことができたかは,考察していない。
本稿は,こうした先行研究の問題点を踏まえて,どのようにしてユダヤ教徒が宗教的なマイノリティの地位に追いやられたかを確認する。そのうえで,その後,いかなる時代を背景にユダヤ教徒の企業家が貨幣鋳造業に従事するようになったかを分析する。そして,ドイツでユダヤ教徒が貨幣鋳造業に従事するようになったことが,ユダヤ教徒の政治的な解放に向かっていく歴史の中でどのように位置づけられるかを提示する。
(1)西欧のキリスト教化のはじまり
西欧では,どのようにキリスト教社会が発展し,ユダヤ教徒はなぜ宗教的なマイノリティとして社会的に排除されることになってしまったかを見ていきたい。
まず古代から中世前期にかけて,西欧でどのようにキリスト教が普及していったかを確認しておきたい。当初,ローマ帝国でキリスト教は,ユダヤ教と同等に扱われていた6)。しかしユダヤ教とキリスト教の違いが認識されるに至り,キリスト教徒は帝国全土で厳しい迫害に晒されるようになった。ただこうした迫害はうまくいかず,逆にキリスト教を活用して帝国の建て直しが目指されるようになった。392年には,キリスト教が帝国内の唯一の宗教として認めら【121頁】れることになった。そして東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527-565年)の下で,帝国と教会を一体として捉える政治体制7)が確立されることになった(出村, 2005, 24-29)。
西欧の政治的な支配者層でローマ・カトリック信仰が普及し始めたのは,5世紀末メロヴィング朝のクローヴィスの改宗からであった。紀元前後1世紀にゲルマーニアの地で生活していた人々は、都市ではなく小集落を形成して農耕に従事していた8)。そうした中で彼らは,多くの部族(Stamm)を形成するようになった。こうして生まれてきた部族をいくつも支配して王国を築いたのがフランク王国のクローヴィスであった(野崎, 1997, 16-23, 40-42)。クローヴィスが改宗した理由は諸説ある。ただフランク王国といっても,王国の実態は,国王が軍事的な覇権を確保していただけであった。そのためローマ皇帝の権威を背景に王国の支配をより確実なものにしようとしていたと考えられている。実際,クローヴィスは508年に東ローマ帝国のアナスタシウス1世から属州の監督の地位を得ていた。その後,代々メロヴィング朝の宮宰を務めることになったカロリング家の指導の下で,フランク王国は宣教師と連携しながら東方の部族へ支配を拡大していった。そうした中で小ピピンは,教皇の支持を得て,メロヴィング朝の国王に代わって新たにフランク王国の国王に就いた。そしてその息子カールは800年に教皇レオ3世によって皇帝の地位を手にした。このように教会の権威を利用してカロリング家は国王や皇帝の地位を獲得していった。それに加え,小ピピンは教会会議を主催したり,カールは勅令に教会関係の事柄も含めたり,国王巡察使(勅令が履行されるように各地を回る役職)に聖職者を採用したりして,教会と一体となって地域社会の統治を推し進めていった(渡部,1997, 49-50, 62, 69, 73-76)9)。
(2)中世都市の台頭とユダヤ教徒の社会的な排除の進行
フランク王国の発展と同様に,中世都市の成立や発展においても宗教が重要な役割を果たしていた。次に中世都市がどのように形成されたかを見ていく。西欧の人々の生活におけるローマ・カトリックの影響は,7世紀に入っても限定的であった(渡部, 1997, 65)。しかし,その後,修道院改革運動を機に,キリスト教信仰が広く民衆にまで普及していくことになった。すでに述べたように,中世前期にフランク王国は,教会の組織や権威を活用して領内の政治的な支配を確立していった。こうして教会と王国(もしくは帝国)が密接な関係を築いていくようになる中で,聖職者が国政に関する仕事を任され,教会における宗教的な活動をおろそかにするようになるといった問題が起こるようになった。また国王の側近の貴族が司教や修道院長を担うような事例も見られるようになっていった(渡部, 1997, 64-65, 84)。そうした状況を背景に,フランスに設立されたクリュニー修道院で,910年に教会紀律が改められ,そこで定められた聖職者の「敬虔・独身主義・聖職売買の禁止」といった考えがヨーロッパ各地に広まっていっ【122頁】た10)。この改革運動は,必ずしもうまくいかなかったが,政治的な支配者から強制されてきたそれまでの信仰を,自発的な信仰へ民衆のキリスト教信仰を変化させることになった(堀米,1962, 209-210)。こうした民衆の自発的なキリスト教信仰は,交易が盛んになる中で重要な意味を持った。フランク王国では,在来の商人は食料品や原料,手工業製品などを都市で売り,都市で生産された完成品をその近隣で販売していた(Planitz, 1940, S. 14)。それでも10世紀に入り交易が盛んになると,遠距離交易に進出する商人も現れるようになった。こうして遠距離交易に従事する商人が増え始めると,彼らは輸送や商品の買占めで協力関係を結んだり,戦争の被害を受けた際に助け合うようになったりした(Planitz, 1940, S. 19)。このように商人同士で協力関係が築かれるようになる中で成立したのが,商業ギルドであった。商業ギルドは,ギルド加入者に宗教的な義務を課すなど,民衆の自発的なキリスト教信仰が確立される中でキリスト教を基盤として成立した(Planitz, 1940, S. 22)。このような商業ギルドの成立とともに,12世紀初頭のライン地方で手工業者の同業組合であるツンフトも組織されるようになった。こうした都市市民による自立的な共同体の形成は,ライン地方から東へと広まっていき(瀬原,1998, 11-13),13世紀末から14世紀半ばにかけてベルリンでも商業ギルドやツンフトが組織されるようになった(瀬原, 1998, 715; Biggeleben, 2006, S. 61-62)。
けれども民衆がキリスト教の信仰に目覚め,キリスト教に基づいて商業ギルドやツンフトを組織し,都市共同体を形成するようになったことは,ローマ・カトリック以外の宗派や宗教に対する差別が厳しくなることを意味していた。ローマ帝国とユダヤ教徒の間で戦われた第一次ユダヤ戦争によって第二神殿11)が崩壊した結果,ユダヤ教徒は共同体の再興に向けて,学塾を拠点にユダヤ教に関わる書物の編纂に力を入れるようになった。特にバビロニアの学塾は,ユダヤ教の最高権威としての役割を果たしていた。しかしアッバース朝が衰退し,バビロニアの学塾の権威が失われると,11〜12世紀にはライン地方の学塾が西欧におけるユダヤ教の学問的な中心地となった(市川, 2009, 49, 55, 66-69, 71-74)。こうして西欧では,民衆にキリスト教が普及するのと並行してユダヤ社会も発展し,ベルリンではユダヤ教徒の同業組合が設立されるほどであった(Kluge, 2007, S. 121)。ただこのようなユダヤ教徒の同業組合の発展は一時的なことであった。すぐにそうした同業組合のユダヤ教徒はキリスト教徒の同業者と利害対立を起こし,経済活動の範囲を制限されることになった(Heise, 1932, S. 31-32)。そのうえユダヤ教徒はキリスト教徒によって運営されていた商業ギルドやツンフトには参加できなかったので(Kluge, 2007, S. 121),中世後期からユダヤ教徒は,宗教的なマイノリティという立場で経済活動をしなければならなくなった。
修道院改革運動は,キリスト教を基盤とした商業ギルドやツンフトの形成の前提となっただけでなく,教会と帝国の関係を変化させる要因にもなっていた。帝国内ではクリュニー修道院【123頁】の改革運動に倣って改革が推し進められた。ただ当初は,修道院長の選挙をはじめ教会の人事から,世俗の人間である諸侯や貴族の影響力を排除することに重点が置かれた。それでも11世紀後半以降,教会に対する皇帝の支配にも批判が出されるようになった。また,そうした改革の指導者を教皇が担うようになった。そして皇帝がハインリヒ4世で,教皇がグレゴリウス7世の時代に,両者の対立は頂点に達した。1076年にグレゴリウス7世がハインリヒ4世を破門し,それにハインリヒ4世は対抗できず,教皇に許しを請うことになった。その結果,最終的に皇帝が教会の人事(司教の選任)を自由に決定することができなくなった(山田, 1997, 175-179, 188-191)。皇帝はそれまで司教や修道院長を自らの意思で決定し,教会組織を活用することで政治的な支配を確立してきた。しかし,この叙任権闘争によって,皇帝が思い通りに教会の人事を行えなくなり,政治的な支配を実行する手段を失うことになった(山田, 1992b, 27-28)。
この皇帝に代わって,地域の政治的な支配者として台頭してきたのが諸侯であった。当時,皇帝以外が築城することは禁じられていた。しかし諸侯はそれを無視して領内に城を築き,そこから直接農民を支配するようになっていた(山田, 1992b, 28-29)。教会組織以外に統治機関が存在しなかった帝国では,叙任権闘争によって,諸侯が実質的な地域の最高権力者としての地位を獲得することになった。そして最終的に13世紀前半の協約や法令によって,その地位は法的に認められることになった(山田, 1992b, 46-49)。こうして諸侯は,帝国と違って教会組織に頼らない領邦国家の形成へ向かっていくことになった。もっとも本稿が分析するブランデンブルク辺境伯領では,領内における諸侯の政治的な支配が確立されるまでに時間を要した。確かに13世紀は領内で暮らすアスカニア家がブランデンブルク辺境伯領を支配していた。ただ14世紀前半にアスカニア家が断絶してからは,都市が政治的な自立性を高めたうえ,辺境伯が遠方から統治するようになったこともあり,領内における辺境伯の政治的な影響力は低下していった。ブランデンブルク辺境伯領で諸侯が政治的な支配を確立するのは,15世紀にホーエンツォーレルン家が辺境伯に就き,都市から政治的な権力を奪還するようになるまで待たねばならなかった(瀬原, 1998, 714, 717-719)。
このように叙任権闘争によって政教分離が進展したが,宗教改革は領邦と教会の関係をさらに大きく変化させることになった。この宗教改革によって,帝国内に異なる宗派が共存することを認めるかが問題になった。中世以来,帝国や領邦はローマ・カトリックの教会の保護を担ってきた12)。ところが宗教改革期に起こった宗教戦争の終結が目指されるようになる中で,領邦がそれぞれ保護する教会を決定できるようになった(山田, 1992a, 3-4)。ブランデンブルク選帝侯も,宗教改革の際にルター派に改宗し,ルター派の教会を支配下に置くことになった。もっともブランデンブルク選帝侯領の場合はそれだけでは終わらず,さらに選帝侯が17世紀初頭にカルヴァン派に改宗した結果,一つの領邦の中にルター派とカルヴァン派という異なる宗派が対等な立場で共存するようになった(瀬原, 1998, 719-720)13)。
確かに12世紀から13世紀にかけて,都市の中だけでなく帝国でもユダヤ教徒はキリスト教徒【124頁】と法的に区別して扱われるようになり,皇帝や諸侯がユダヤ教徒を差別的な法制度によって支配するようになった(Helbig, 1973, S. 35; Toch, 2013, S. 47-48)。しかし領邦が教会から自立して政治を行うようになっていく過程で,宗教改革期には,ブランデンブルク選帝侯領では財政的な必要性からユダヤ教徒をキリスト教徒と同じように宮廷商人として活躍させ,経済的に利用しようと考える選帝侯が現れるようになった。ブランデンブルク選帝侯領では,ミヒャエル(Michael)が最初のユダヤ教徒の宮廷商人として14),選帝侯のヨアヒム2世(在位:1532-71年)に資金の貸し付けを行うようになった15)。もっともキリスト教徒の宮廷商人が選帝侯に貸し出している金額に比べれば,ミヒャエルの貸していた金額は少なかった。当時のブランデンブルク選帝侯領の金融業では,ユダヤ教徒よりむしろキリスト教徒が活躍していた。それでも贅沢三昧で高級なものを買いあさっていたヨアヒム2世には,裕福なユダヤ教徒も必要とされていた。ちなみにミヒャエルの亡き後,さらにもう一人,ユダヤ教徒が宮廷商人として現れ,ヨアヒム2世の下では計2人の宮廷商人が活躍することになった(Mieck, 2002, S. 11, 14-17)。その後,ユダヤ教徒が追放されていた期間を除き,非常に多くのユダヤ教徒が宮廷に仕えるようになっていった。ユダヤ教徒で宮廷に仕えた者の数は,フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位:1640-88年)の時代に22人,フリードリヒ3世16)(在位:1688-1713年)の時代に11人,フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位:1713-40年)の時代に30人,フリードリヒ2世(在位:1740-86年)の時代に95人,フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(在位:1786-97年)の時代に57人,フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(在位:1797-1840)の時代に90人と推移した(Mieck, 2002,S. 15)。このように宗教改革後,特に17〜18世紀にかけて,領邦が宗教の違いに拘らず,都市市民の社会から排除されていたユダヤ教徒を経済的な取引相手として積極的に認めるようになっていった。こうして,宮廷商人のユダヤ教徒が現れるようになる中でユダヤ教徒は貨幣鋳造業に従事するようになった。具体的にどのようにユダヤ教徒が貨幣鋳造業で活躍するようになったかを次に見ていきたい。
4.プロイセン王国の貨幣鋳造業と貴金属取引におけるユダヤ教徒の台頭
(1)中世以前の貨幣鋳造業
貨幣は,前7世紀の小アジアにあったギリシア人の諸都市で初めて造られたと考えられている。前3世紀には,ローマ帝国の各地で3世紀まで主要な貨幣として流通することになったデナリウス銀貨が造られるようになり,初代皇帝のアウグストゥスの下では大量の貨幣が発行されることになった(Greene, 1986, pp. 48-49)。古代にはユダヤ教徒が,ローマ帝国に対抗して貨幣を造ることもあった。132年に起こった第二次ユダヤ戦争(バル・コフバの反乱)で一時的に,ユダヤ教徒がエルサレムを奪回した際に,それを記念した貨幣が造られていた(市川,【125頁】2009, 50)。西欧ではフランク王国で7世紀後半から金貨や銀貨が造られるようになり,カロリング朝の時代に本格的に貨幣制度が整備されることになった。ただカロリング朝の時代は基本的に農業中心の社会であったため,貨幣の需要が非常に小さかった。10世紀に入り銀の増産によって銀貨が造られ,遠距離交易で用いられるようなこともあったが,西欧で貨幣経済が拡大したのは中欧で銀鉱山が発見された12世紀後半以降のことであった(名城, 2000, 155, 160-162)。
貨幣経済が発展した12〜13世紀には,各地で貨幣が造られるようになる中で(名城, 2000,163),銀貨の貨幣鋳造権が辺境伯にまで与えられるようになった17)。もっともブランデンブルク辺境伯領では,辺境伯が自ら貨幣鋳造業を指揮せず,都市に貨幣の鋳造を任せていた。例えばベルリンは,1369年に高価な貨幣鋳造所を買い取り,貨幣鋳造権を獲得した18)。ただ明確な理由はわかっていないが,ヨアヒム1世(在位:1499-1535年)の時代までその貨幣鋳造権は行使されることのないまま19),権利だけ保持されることになった(Bahrfeldt, 1895, S. 7; Mieck,2002, S. 6)。
(2)16世紀ブランデンブルクの貨幣鋳造業とユダヤ教徒の企業家活動
ヨアヒム1世の時代に,ブランデンブルク選帝侯領の貨幣鋳造業に関するそれまでの仕組みに変化が加えられることになった。16世紀に帝国各地で経済が成長へと転じる中で,ブランデンブルク選帝侯は自らの下で貨幣の鋳造を統一的に管理しようとした。1538年の指令によって,貨幣の価値基準が明示され,ベルリンとシュテンダールの2都市以外は貨幣を鋳造できなくなった(Bahrfeldt, 1895, S. 173; Mieck, 2002, S. 11)20)。こうして16世紀には,選帝侯が都市における経済活動に強い影響力を持つようになり21),貨幣鋳造業に宮廷商人のユダヤ教徒が従事することが認められることもあった。
ブランデンブルク選帝侯領で初めて貨幣鋳造業に従事することになったユダヤ教徒は,ミヒャエルの亡き後,宮廷商人になったリッポルト(Lippold)であった。彼は1556年に選帝侯からベルリンとシュテンダールの貨幣鋳造所の監督を任された。またこの時に,貨幣鋳造所に銀を供給することがユダヤ教徒に義務付けられることになった。この1556年に領内のユダヤ教徒に課されていた税金は彼を通して支払われるようになり,そうした中で,その後,リッポルトは貨幣鋳造業の親方を任され,1565〜70年の5年間,実際にベルリンの貨幣鋳造所を指揮することになった(Bahrfeldt, 1895, S. 220-221; Heise, 1932, S. 265-267)。ただ1571年に選帝侯が反【126頁】ユダヤ主義者であったヨハン・ゲオルク(在位:1571-98年)に代わった際に,リッポルトは失脚し,最終的に領内からユダヤ教徒が完全に追放されることになってしまった(Heise, 1932,S. 278-288)。そのため,しばらくの間,この地域でユダヤ教徒の貨幣鋳造業者は見られなくなった。
このように16世紀に領邦が宗教を選択できるようになったことは,政治的な力関係において領邦が教会に対して優位な地位を獲得することになった。そのことは選帝侯がユダヤ教徒と経済的な取引関係を結ぶことを以前よりも容易にしたと思われる。そして,そうした状況でユダヤ教徒は,諸侯を取引相手として見出すことができた。
(3)プロイセン王国の貨幣鋳造業とユダヤ教徒の企業家活動
@プロイセン王国の財政政策と貨幣制度の変遷
領邦の財政22)は,1472年の時点ですでに負債が10万フランあったが,ヨアヒム2世が亡くなったころには200万フランに達していた。その後も負債は増え続けることになった。特に三十年戦争(1618〜1648年)の結果,宮廷の収入は大きく落ち込み23),領邦の財政はイングランドやフランスに対して多額の借金を負わなければならない状況に陥った。もっともこの三十年戦争は領邦が軍事国家化へ踏み出した契機でもあった。選帝侯は傭兵を増やし,その結果として形成された傭兵軍を常備軍化していったため(上山, 1964, 120-121, 146, 162-163, 172)24),財政負担は増すばかりであった。そうした中で選帝侯のフリードリヒ・ヴィルヘルムは予算制の採用,直轄地の土地改良,直轄地の規模拡大,騎士領における新たな税制の導入,消費税(Akzise)25)を全国に適用することで,外国の資金に頼らない形で財政再建を推し進めようとした(上山, 1964, 146, 173)。
このような領邦の財政政策は,軍事国家化に向けて,貨幣の獲得を重視していた(上山,1964, 178-179)。そのため貨幣の価値が安定することが望まれていた。1617年以降,悪貨の流通26)によって急速にインフレが進行し,国際的な交易にも支障が出るようになる中で,1623年以降ベルリンで悪貨の回収が進められ,こうした危機は克服された(Trapp, 1999, S. 79; Mieck,2002, S. 19)。しかし三十年戦争後,再び悪貨が流通するようになったうえに,鉱山から産出される貴金属の量が減少し,あまり貨幣鋳造が行われず,オランダやフランスの貨幣が流入してくることになった。また1566年に1マルクの重さの銀から9ターラー分の貨幣を鋳造することが帝国の貨幣基準として定められたが,その基準を下回った貨幣が一般的になり,その貨幣基準【127頁】に復帰するのが難しくなっていた。そうした問題に対処するために,1667年にブランデンブルクとザクセンの領邦間で新たな貨幣基準(Zinnascher Münzfus)を設けることで一致した27)。それでも大量の悪貨が出回り,銀の価格を上昇させたため,そうした悪貨の除去に向けて新たにライプツィヒで貨幣基準が定められることになった28)。そして,それが諸邦共通の貨幣基準として受け入れられていった(Schrötter, 1904, S. 53, 73; Bahrfeldt, 1913, S. 25; Trapp, 1999, S. 87-88)。
プロイセン王国では貨幣の不足を外貨で補う必要があった(Trapp, 1999, S. 89)。そうした状況においてプロイセン王国で行われたのが,グラウマン(Johann Philipp Graumann)による貨幣制度の改革であった。グラウマンはブラウンシュヴァイクに生まれ,長い間,ハンブルクで商人として活躍していた。ただ彼は1741年にはブラウンシュヴァイクで商業や造幣に関する委員に就任していて,ブラウンシュヴァイクに貨幣鋳造用の貴金属を供給するようなこともしていた。さらに1747年には公爵(Herzogtum)の命令を受け,ハンブルクやリューベックの金融情勢について調べ,貨幣鋳造業に従事するようになった。そうした中で1749年にグラウマンは貨幣に関する理論を提示した書籍を出版した。それが貨幣制度の改革の必要性を感じていたプロイセン国王の目に留まり,グラウマンはベルリンに招かれることになった。プロイセン国王は,新たな貨幣基準を導入することによって,金貨と銀貨の交換比率に注目した貨幣の投機売買が起こり,国家が決めた価値で貨幣を流通できなくなることを心配し,新しい貨幣制度を採用することに躊躇していた。グラウマンは,新しい貨幣制度によって外貨が不要になること,貨幣鋳造で利益が生じること,ベルリンの産業が発展すること,鋳造費用を減らせることなどを挙げて国王を説得し,1750年にグラウマンの貨幣制度が採用された(Schrötter, 1908, S. 67-69, 74-75; Suhle, 1966, S. 8-9)29)。
Aプロイセン王国におけるユダヤ教徒の貴金属取引と貨幣鋳造業
このように領邦の財政政策や貨幣政策が大きく転換していく過程で,17世紀から18世紀にかけてブランデンブルク=プロイセン30)のユダヤ教徒は,どのように貨幣鋳造業へ関与するようになっていったかを見ていく。リッポルト以来,初めてブランデンブルク=プロイセンで貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒は,宮廷商人のアーロン(Israel Aaron)の妻エステル(Esther)であると思われる。彼女は,アーロンの亡き後,商人のリープマン(Jost Liebmann)と再婚したが31),さらに1702年1月にこのリープマンも亡くなると,同年末にはベルリンとマグデブルクで貨幣鋳【128頁】造業に従事するようになった(Schnee, 1953, S. 59, 70; Flumenbaum, 2002, p. 19)32)。同じ時期,やはりユダヤ教徒の宮廷商人であったグンペルツ家もブランデンブルク・プロイセンの貨幣政策に関与することがあった。グンペルツ家はエリアス・グンペルツ(Elias Gumpertz)とリーマン・グンペルツ(Liman Gumpertz)といった2人の兄弟が,ブランデンブルク選帝侯との間に取引関係を結んでいた。その後,エリアス・グンペルツの息子ルーベン・エリアス・グンペルツ(Ruben Elias Gumpertz)が,領邦のために軍事品や宝飾品を供給するようになった。彼は1698年には3万ターラーほどもするダイヤモンドを調達したが,選帝侯が代金を払えず,クレーヴの上級徴税官という国家官職を得たことがあった。その際に,彼は貨幣鋳造に関する委員会で活動していた(Schnee, 1953, S. 96; Mieck, 2002, S. 23, 27)33)。このグンペルツ家では,さらにエリアスの孫のモーゼス・レヴィン・グンペルツ(Moses Levin Gumpertz)と,祖父と同じ名前であるエリアス・グンペルツ(Elias Gumpertz)が,その後,ベルリンの貨幣鋳造所の経営に関与することになった。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の時代も貨幣鋳造に必要な銀を調達することは簡単ではなく,銀を調達するためにユダヤ教徒に頼らざるを得なかった。当時,ユダヤ教徒の商人ファイト(Levin Veit)がマグデブルクの貨幣鋳造所に銀を納入していた。プロイセン政府は,ファイトにクールマルク(ベルリンやポツダムがあるブランデンブルク選帝侯領の中心部)やポメラニア,ケーニヒスベルクで銀の取引をする特権を与え,ベルリンの貨幣鋳造所にも銀を納めさせた。ただファイトとプロイセン政府の間で結ばれた契約は1721年まで実行されたが,ファイトが亡くなってしまったため,プロイセン政府は再び銀の不足に悩まされることになった。そうした中で,1723年にタバコの取引で活躍していたモーゼス・レヴィン・グンペルツとエリアス・グンペルツが,ベルリンの貨幣鋳造所に銀を納入し,貨幣鋳造に係る費用を負担するといった契約をプロイセン政府と結ぶことになった。それまで税収は,ラインラントのケルンの銀行家にプロイセン王国の貨幣へ両替してもらったり,手形を売ってもらったりしてベルリンに送られていた。しかし新しい契約では,そうした税収の一部を銀の形でベルリンの貨幣鋳造業所に納入するといったものであった。しかし銀の価格上昇や為替レートの変化によって契約しただけの量の銀を納入できず,1726年にはこの契約は解消されてしまった(Stern, 1950, pp. 165-166; Redlich, 1951, pp. 164-165; Schnee, 1953, S. 96)。
もっともプロイセン王国で貴金属取引と貨幣鋳造業でユダヤ教徒の活躍が目立つようになったのは,グラウマンの貨幣制度の改革で貨幣の増産が進められるようになってからのことであった。はじめにプロイセン王国では,貨幣鋳造所に貴金属を納入するユダヤ教徒が多く見られるようになった。1751年にはユダヤ教徒の商人で,兄弟であったアブラハム・フレンケル(Abraham Fränckel)とモーゼス・フレンケル(Moses Fränckel)がケーニヒスベルクの貨幣鋳造所に対して,価格にして1,000,000ターラーもの銀を納入するようになった。またユダヤ教徒の商人のイツィッヒ(Daniel Itzig)とフリース(Moses Isaac Flies)も,フレンケルと同じように,価格にして1,000,000ターラーもの銀をシュテッティンの貨幣鋳造所に納めるようになった。さらに1753年にはモーゼス・レヴィン・グンペルツの息子ヘルツ・モーゼス・グンペルツ(Herz Moses Gumpertz)が,80,000ターラー分の金貨をベルリンの貨幣鋳造所に送り届けてい【129頁】た34)。このように貴金属取引でユダヤ教徒がプロイセン王国の貨幣鋳造業の発展に貢献するようになる中で,ユダヤ教徒自身が貨幣鋳造所を経営するようになった。なぜなら国王が通貨発行益の少なさに失望し,プロイセン政府が貨幣鋳造所の経営を民間に委託することにしたからであった。1755年10月にプロイセン政府は,ヘルツ・モーゼス・グンペルツとイツィッヒ,フリースに対して,国内にあるすべての貨幣鋳造所の経営を委託することにした35)。さらに1756年に七年戦争がはじまりプロイセン王国がザクセンを占領した際には,占領したライプツィヒとドレスデンの鋳造所をエフライムに貸し出した36)。どちらもベルリンのユダヤ共同体を代表する上級長老(Oberältesten)であり,同じ貨幣鋳造業者として活躍していたヘルツ・モーゼス・グンペルツとエフライムは対立関係にあった。ただ1758年にヘルツ・モーゼス・グンペルツが亡くなると,翌年には,それまでヘルツ・モーゼス・グンペルツに従っていたイツィッヒやフリースがエフライムと協力して貨幣の鋳造を行うようになった(Redlich, 1951, pp. 165-167; Lowenstein, 1994, p. 26; Flumenbaum, 2002, p. 38; Keuck, 2011, S. 135-136)37)。彼らはプロイセン政府の指示に基づいて,不足する戦費を補うために貨幣の鋳造を進めた。1758年末には,1マル クの重さの銀から19.75ターラー分の貨幣が鋳造されるようになり,プロイセンの支配下に入ったザクセンでは,最終的に1マルクの重さの銀から50ターラー分のザクセン銀貨が作られるようになった。さらにポーランドではザクセンで鋳造された銀貨が使われていたが,そのポーランド向けに1マルクの重さの銀から40ターラー分の銀貨が鋳造されるようになった(Henderson, 1963, p. 40; Michaelis, 1976, S. 209)38)。このようにユダヤ教徒は貨幣鋳造業に従事することを通して,大きな通貨発行益を生み出し,プロイセン王国の戦費の約17% を賄うなど(Redlich, 1951, p. 172),戦時中という一時期ではあったが,ユダヤ教徒が国家財政において重要な役割を担うことになった39)。
18世紀には,貨幣を鋳造する際に必要な技術を得ることは,難しいことではなくなっていた(Redlich, 1951, p. 163)。そのため,悪貨が生産されないように政府の役人によって厳しく監視されながら営まれるようになった貨幣鋳造業では,どのように原料となる貴金属を確保するかが,採算が合うように事業を遂行するうえで重要になっていたと思われる。だからユダヤ教徒が貨幣鋳造業に従事することによって国家財政に貢献できたのは,ユダヤ教徒が貴金属取引に精通していたからであると考えられる。かつてイツィッヒとフリースが,貨幣鋳造業に関わっ【130頁】ていた役人を買収して,不法に悪貨を流通させたことがあった。それに対して国王はユダヤ教徒の商人の代わりにベルリンのキリスト教徒の商人から協力を得て貨幣の鋳造を進めようとした。ただその方法はうまくいかず,結局ユダヤ教徒の商人を頼ることになってしまった(Redlich, 1951, p. 166)。このようにプロイセン国内では,当時,ユダヤ教徒に取って代われるようなキリスト教徒が存在しないほど,ユダヤ教徒は貨幣の鋳造に必要な貴金属を調達する力に優れていたと考えられる40)。ユダヤ教徒がこうして貴金属取引で活躍できた要因は,プロイセン王国の周辺地域でユダヤ教徒が置かれていた状況が関係していると思われる。当時,アムステルダムとポーランドは銀の一大供給地であった。1741〜60年の間に産出された銀の量は,メキシコで年間301,000kg,ペルーで年間103,000kg,それ以外の南米諸国で年間66,000kgであった。その一方で同時期のヨーロッパでは,オーストリアで年間24,000kg,オーストリアを除く諸邦全体でも年間21,000kgの銀が産出されていたに過ぎなかった(Michaelis, 1976, p. 206)。このように南米諸国が銀の産出地として台頭する中で,アムステルダムには南米諸国の銀の巨大市場が形成されることになった(Redlich, 1951, p. 172)。このアムステルダムでは,17世紀初頭からスファラディ41)が増え始め,17世紀後半にかけてアシュケナジ42)も多く生活するようになった(Bloom, 1937, p. 31)。オランダでは,17世紀の時点ですでにスファラディが西インド会社に出資していて(Bloom, 1937, p. 125),18世紀初頭には東インド会社が輸入したダイヤモンドを購入しているなど(Bloom, 1937, p. 43),少なくともスファラディとキリスト教徒の間では宗教の違いに拘らず取引関係が構築されていた。そしてアシュケナジは,そのスファラディから支援を受けながら経済活動を行っていた43)。そのためアムステルダムでプロイセン王国のユダヤ教徒が銀を獲得することは,難しいことではなかったと思われる。またポーランドでは,17世紀以来,経済が低迷する中で,貴族が銀の食器やそれまで貯めてきた貨幣を売り払って生活するようになっていた。ポーランドではそうした食器や貨幣をユダヤ教徒の行商が購入し,溶かすなどして,ライプツィヒやフランクフルト・アン・デア・オーデルの大市(Messe)に持ち込んでいた(Redlich, 1951, p. 162)。プロイセン王国のユダヤ教徒は,そうして大市で銀を購入することができた。実際,18世紀半ばプロイセン王国の貨幣鋳造業で活躍したユダヤ教徒の多くは,こうした国際的な銀市場で取引関係を容易に構築できたと思われる。グンペルツ家は,クレーヴやベルリンだけでなくヨーロッパ各地に経済活動の拠点を築いていて(Mieck, 2002, S. 23),アムステルダムでもグンペルツ家は活動していた。1674年時点ですでにグンペルツ家はアシュケナジの社会で最も裕福な一族になっているほどであった44)。またグン【131頁】ペルツ家の競争相手であったエフライムの場合は,織物製品の販売や貴金属取引に従事していた父親と一緒に働いていたころ,定期的にライプツィヒの大市を訪れていたので(Michaelis,1976, S. 204-205),この大市の取引に精通していた。同じようにイツィッヒも両替商の下で働いていた際,その両替商の代理人として1745〜50年にライプツィヒの大市を訪問していて(Keuck, 2011, S. 134),その中で大市での取引に関する知識を得ていたと考えられる。このようにユダヤ教徒は,彼らにも開かれた国際的な市場に進出することで,プロイセン政府に対して見出したビジネスの機会を活用することができた。
帝国と教会が一体であった中世前期は,主に政治的な支配者の宗教が問われていた。だから帝国領内にユダヤ教徒が生活していたことが,それほど大きな問題にはならなかった。修道院改革運動が起こると,都市ではキリスト教徒がユダヤ教徒を宗教的に異端な存在として認識し,ユダヤ教徒とキリスト教徒の間に経済的な利害対立が生じることになった。そして帝国にとってもユダヤ教徒は,本来は排除しなければならない存在になった。帝国や領邦は,ローマ・カトリック教会を保護することが義務付けられていたからである。しかし宗教改革やその後の宗教的な寛容政策を機に,少なくともブランデンブルク選帝侯領では,保護すべき対象は選帝侯自らが決定できるようになり,複数の宗派・宗教を同時に保護するようになった。こうして政教分離が進展し,領邦の政治に対して教会の影響力が弱まった。そのうえ,もともと選帝侯は都市のキリスト教徒と違って,必ずしもユダヤ教徒と経済的な利害が対立していなかったことも有利に働き,選帝侯が必要であると考えれば,ユダヤ教徒であっても他のキリスト教徒と同じように宮廷商人として利用するようになった。こうして諸侯と都市市民の間で生じていた世俗化の進展の差を活用したのが,貴金属取引や貨幣鋳造業で活躍したユダヤ教徒の企業家活動であった。ユダヤ教徒は,彼らにも開かれていた国際的な市場を利用することで,世俗化の進展の差から生じた経済的な取引の機会を有効に活用できた。
ところで本稿では詳しく扱うことができなかったが,リッポルトは貨幣鋳造業に従事するとともに,ユダヤ教徒の税金の徴収を任されるなど選帝侯の政治的な支配下でユダヤ社会を代表する地位を担わされていた。このように,18世紀に貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒もユダヤ社会を代表する立場を任されていた。1700年の指令でユダヤ共同体の長老は,年間3,000ターラーの保護税の集めることが義務付けられていた(Meisl, 1962, S. XVII)。こうした長老を代表する立場にあったのが,上級長老45)であった。ユダヤ共同体の上級長老は,肩書だけで共同体内では他の長老と同じような立場にあったが,上級長老に任命される際に長老である必要はなく,国王から直接任命された。この上級長老には,18世紀半ば以降,ヘルツ・モーゼス・グン【132頁】ペルツ46)とエフライム,イツィッヒ,ヤーコプ・モーゼス(Jacob Moses)47)が就いていた(Meisl,1962, S. XXIV)。彼らのうち少なくとも3人は貴金属取引や貨幣鋳造業に従事していたユダヤ教徒であり,プロイセン国王がユダヤ教徒の中でも特に貴金属取引や貨幣鋳造業に従事していた者をベルリンのユダヤ共同体の代表に選ぶ傾向にあったことがわかる。こうして貨幣鋳造業に従事したユダヤ教徒は,ユダヤ社会の代表者を担って,プロイセン国王(もしくはブランデンブルク選帝侯)の政治的な支配下にユダヤ社会を組み入れる役割を担っていた。
反ユダヤ主義的な法制度の下ではあったが,ベルリンのユダヤ教徒は貨幣鋳造業者をユダヤ社会の代表者として,国王が主導する経済政策に貢献し,国王を指導者とした政治支配体制に組み込まれていった。こうしてユダヤ教徒は,都市社会では与えられなかった居場所を国家の中に見出していった。ユダヤ教徒が都市市民のキリスト教徒ではなく,世俗化の進んだ領邦国家と取引関係を結ぶことで貴金属取引や貨幣鋳造業で活躍したことは,結果的に国王を頂点とした「国民経済」に,ユダヤ共同体が統合されていく出発点となっていた。
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