日本における電機産業の発展史
(2)研究開発体制の形成と技術導入の影響
石井 晋
本稿は,前稿「日本における電機産業の発展史(1)論点の整理と課題の設定」1)で提示した論点と研究課題の設定を踏まえ,引き続き,日本の電機産業の発展史についての検討を進めることを目的とする。本稿で焦点を当てるのは,前稿で強調した「寡占企業間の激しい競争」の一つの背景をなしていたと考えられる,企業の研究開発体制の形成とその特徴,および海外からの技術導入が企業経営に及ぼした影響である。
基本的な課題は,次の二点である。第一に,電機産業における研究開発体制は,戦間期から戦後初期までの間にどのように形成され,どのような特徴を持っていたのかについて検討する。これに関して,本稿の主な主張は次の通りである。この時期,日本の電機メーカーの研究開発体制は少しずつ拡充し,一部で研究開発を基盤とした事業発展も見られた。しかし,欧米の先進メーカーからの遅れは大きく,海外からの導入技術に強く依存した。特に戦後においては,海外からの導入技術の吸収・改良と製品化開発を効率的に行うことに研究開発部門の多くの資源が振り向けられた。この結果,研究開発体制にいくつかの問題が生じた。
第二の課題として,戦後初期における,海外からの導入技術が企業経営および事業展開に与えた影響について検討する。本稿で強調するのは,導入技術は,戦後日本の電機メーカーの発展にとって不可欠の要素であったが,その経営上のコストはかなり大きく,企業の経営のあり方や事業展開に大きく影響したことである。
これらの二つの課題を設定する理由は,第一に,戦後初期までに形成された研究開発体制や導入技術に依存した経営のあり方が,前稿で強調した高度成長期以後の電機産業における「寡占企業間の激しい競争」を生み出す主要な要因の一つとなり,また,日本の電機メーカーにおける研究開発体制と事業展開のあり方に長期的な影響を及ぼしたものと考えるからである。第二に,戦後日本の電機メーカーが導入技術に強く依存して発展したことは一般的によく知られているものの,導入技術が電機メーカーの研究開発体制や経営のあり方に,具体的にどのような影響を与えたのかについての歴史的な研究は不十分であると判断するからである。技術導入の効果に関しては,長谷川信[2006]による重電機の分析や平本厚[1994]によるテレビ産業の分析2)などにおいて断片的に触れられているが,それぞれの個別事業の発展への影響が強調 【184頁】 されるにとどまっており,電機メーカーとしての企業経営全般に及ぼした影響の分析がなされているわけではない。本稿は,そのような研究史上の不十分な部分を拡充することにより,戦後日本の電機産業の発展のあり方の特徴についての知見を拡充することを目ざす。
電機産業の中でも本稿で対象とするのは,第一次世界大戦から両大戦間期に企業基盤を確立し,重電機を主たる事業としつつ,戦時期から戦後にかけて軽電機械,通信機械,電子製品などに多角化を遂げていったメーカーである。この時期に資本金規模で上位3社であった日立製作所,東京芝浦電気(東京電気/芝浦製作所,以下「東芝」と略す),三菱電機を主たる対象とし,その中でも日立製作所を中心に取り上げる(第1表参照)3)。このうち,東芝はアメリカ・ジェネラル・エレクトリック(GE)社と,三菱電機はアメリカ・ウェスチングハウス(WH)社との提携・出資が企業発展の前提条件であった。これに対して,日立製作所は設立当初から自社技術を重視し,早くから自立的な研究開発に積極的に取り組んだ点でユニークである。日立製作所は,のちに火力機器において技術導入を行ったが,比較的はやくから自社における研究開発に積極的に取り組み,研究開発が事業発展の基礎となるとの強い意識を持っていた点で注目に値する。
以下ではまず,東芝,三菱電機について,主に社史を利用して,それぞれの研究開発体制の歴史について概要をまとめた上で,日立製作所における研究開発体制の形成と展開についてやや詳細に検討する。次に,戦後初期における海外からの導入技術が日立製作所の事業展開に与えた影響について,工場史や財務資料等を用いて検討する。
【185頁】よく知られているように,東芝(東京芝浦電気)は,1939年7月,重電機を中心とする芝浦製作所と,軽電機を中心とする東京電気の合併によって発足した。社史である『東芝百年史』によれば,合併により,@研究機関の総合強化,A事務組織の統一合理化,B技術上の能力増加,C事業設備の利用拡大,D工業所有権の使用,E原材料の利用節約などが期待された4)。この合併については戦時体制への適応という側面も有していたが,合併を主導したといわれる山口喜三郎・東京電気社長の「日本のGE社をめざす」という長期的な企業発展の方針を重視しておくべきであろう。山口にとって,電気関連事業の多角的な展開を目ざし,一大コンツェルンを築くことが主要なテーマであった5)。また,合併の目的の第一として,「研究機関の総合強化」が掲げられている点も注目に値する。研究開発と多角化が,電機メーカーとしての今後の発展の核になるものと考えられていたと理解してよいであろう。
もっとも,それまでの東芝の発展の過程では,長期間にわたって,自社による研究開発よりも,GE社からの技術導入が決定的に重要であった。1909年,芝浦製作所がGE社と提携した際,大田黒専務は,電機工場を作るための課題が「資本よりむしろ技術」であるが,芝浦製作所には「研究所をつくるだけの余裕がない」ため,GE社と提携し,「その知識と経験を吸収するのが得策である」と説いていたという6)。一方の東京電気も,電球市場での輸入品との競争により収益が悪化したことから,1905年,GE社の出資を受け入れ,技術導入することにより,ようやく企業基盤を確立した。その後,東京電気とGE社との提携は,1935年には電球だけでなく軽電関係一般に拡大された。さらに,東京電気は,無線機器関連については,GEの関連企業であるRCA社と提携し,多角的な発展を遂げていった。
東芝において,自社での研究開発への取り組みがいつ頃から本格化したのかは定かではない。芝浦製作所においては,導入技術の吸収から自立的な研究開発へと一歩進めたのは,1930年代初めのようである。1931年に鶴見研究所を独立させ,翌年頃から「重電機器関係の研究開発を始めた」とされている7)。同研究所は,合併による東芝発足後,芝浦支社研究所と改称される。水力発電機器に関しては,1930年代末から1940年代初めにかけて,世界最大級となる鴨緑江水豊発電所の設備を完成させているから8),技術的なキャッチアップはほぼ達成されていたと見てよいであろう。他方,火力発電機器に関しては,比較的小規模なものについては1920年代末までに開発していたが,大容量火力についてはGE社との技術提携が不可欠であった。戦後1960年代まで,段階的な大容量化の都度,技術提携が更新されるなど,長く導入技術依存が続いた。大容量火力について,本格的な自主技術開発が推進されるのは,1960年代以降と見てよいであろう9)。
なお,戦後における大容量火力発電機器については,「1号機輸入,2号機国産」政策が推 【186頁】 進されたことがよく知られている。輸入については,主にWH社,GE社が受注し,国産については,三菱電機,東芝,日立製作所が受注した10)。日本の3社の中では,1950年代初めには,WH社と提携する三菱電機が,高いシェアを占めていた11)。その後,発電設備の急速な整備が必要とされたことから,東京電力,中部電力がGE社への発注に切り替え,これにともなって,GE社と提携する東芝,日立製作所のシェアが拡大していった。その後,電力需要の急速な増加による発電機市場の拡大を背景に,大容量火力においては,3社による寡占競争が展開することとなった。
東芝の源流であるもう一方の東京電気については,三田工場の電球の実験室が発展する形で,1918年に研究所と呼ばれるようになった。研究所では電球製造技術の研究がなされたが,関東大震災で壊滅的な打撃を受けて一時停滞,1928年にようやく本格的な研究所が発足した12)。同研究所では,真空管・管球材料の研究が主で,エレクトロニクスにも手をつけ始めたという。合併後は,マツダ支社研究所となり,1942年,芝浦支社・マツダ支社両研究所が統合し,総合研究所となった。ただし,1943年には電波機器と真空管を研究する電子工業研究所が独立,翌1944年に鶴見研究所も独立した。なお,戦時期における研究は,軍の要請にしたがった研究に集中することとなった。戦後,研究所の再編により,1947年,マツダ研究所となり,マイクロ波管,トランジスタ,半導体,撮像管などのエレクトロニクス研究を推進した。
1961年に,東芝は研究体制を再編整備し,マツダ研究所と鶴見研究所を統合する形で,新たに中央研究所を発足させた13)。技術革新の進展とともに,重電機と軽電機の分野が必ずしも明確に分割できなくなったことによるという。そうした体制のもとで,半導体などのエレクトロニクス,家電製品,原子力を中心とする重電機関連の研究が中心となり,将来の事業展開が比較的幅広く視野に収められるようになった。1960年前後には,研究開発投資が増加するとともに,海外技術導入も増加しており,主に導入技術を吸収し,応用・改良することにより製品開発に結びつける体制が整備されたものと見ることができる。なお,研究分野としては,急速にエレクトロニクス分野が拡大していった。その後,1960年代半ばの不況期に東芝の収益が悪化する。そうした中でも研究開発費を売上高の3−4%程度確保するとともに,技術導入にともなうロイヤルティー支払い等のコストアップに対処するため,中央研究所において,「生産・販売に直結する重要製品の開発と技術導入抑制のための研究に重点を置き,研究成果を高めていった」という14)。このような技術導入コストの負担増の背景として,技術供与側のGE社,RCA社などは技術市場において独占的な地位を保ったが,日本国内においては技術供与を受ける企業が複数存在し,それにより激しい寡占間競争が展開し,収益が圧迫される傾向があったことが大きいものと考えられる15)。
1960年代末,資本の自由化や技術導入の自由化など開放体制の進展を受けて,東芝は研究開 【187頁】 発の方針を刷新し,外国技術への依存から,自主技術重視へと転換した。これにより,1968年から,中央研究所が先行的研究開発を行い,製品に近い研究開発を各事業部で行うこととした。さらに,1969年,「自主技術の確立」が全社的な方針として強調され,中央研究所を総合研究所と改称し,研究開発体制を専門分野別に再編強化し,材料研究所・電子部品研究所・電子機器研究所・電気機械研究所・精密加工研究センターの5つの専門研究所を設置した。
以上,高度経済成長期までの東芝の研究開発体制が整備する過程を素描したが,次の三点をその特徴として指摘しておきたい。
第一に,研究開発体制の整備に向けた動きは1930年代に始まり,戦時期までに組織的な体制が整備された。ただし戦時期には軍需対応が中心であり,研究開発から事業化に向けた一連の流れが定着するのは1960年前後である。
第二に,東芝の研究開発においては,長期間にわたって,導入技術の吸収・改良が中心であり,それをもとに早期に事業に結びつく製品開発が重視され,自主技術の確立は高度成長末期になってようやく主要な課題として重視されるに至った。
第三に,導入技術は東芝の企業としての確立・発展に大きな役割を果たしたが,戦後においては技術導入コストが次第に負担となり,経営上の課題となってきた。
三菱電機は,三菱の長崎造船所における船舶の電化事業に端を発している。その後,三菱財閥内における鉱山や電気事業向けの電気機器生産によって事業を拡大した。第一次大戦頃から日本においても電機事業発展が見込まれたが,造船所の一事業部門であることは発展の制約となった。そこで,第一次大戦終結後の1921年,三菱の神戸造船所の電機製作所が独立する形で,三菱電機が設立されたのである。のちに長崎造船所の電気部門もこれに加わって拡大,さらに新たに名古屋工場を建設することで企業基盤を整備した16)。しかし,その後の発展は必ずしも順調でなく,技術水準が不十分であったことから,製品品質の不良問題が頻発した。そこで,1923年11月,米ウェスチングハウス(WH)社と技術提携し,技術導入を本格的に推進することで,ようやく事業基盤を確立した。三菱電機にとって,1930年代半ばまでは,WH社の技術を吸収消化し,ほとんどの製品をWH社仕様に変えていく時代であった。
この間,自社における研究開発の取り組みの重要性も認識されており,1926年に神戸製作所工作課のもとに工作研究係が誕生している。工作研究係は,材料・工作法の研究を行うとともに,各製作所の研究開発の依頼も引き受けるようになっていった。1930年代になると,三菱電機は,WH社のコピー製品の製造から一歩抜けだし,電車用モーターなどにおいて独自仕様の製品を生産するようになった。同時に,提携先のWH社やライバルの東京電気・芝浦製作所の技術発展が研究所に負うことが大きいと認識したことから,1935年9月,神戸製作所の一角に本店研究課を設置した。三菱電機社内においては,これをもって研究所の発足としている。
当初の研究課は小規模であったが,まずは電機製造においてきわめて重要な絶縁塗料の研究 【188頁】 で成果を上げ,社外購入から自社製造へと切り替える契機となった。さらに,以前から注目されていた無線機関係の研究が1937年から始まり,戦時体制下の軍需に対応するために,この部門が急速に拡大していった。1940年には,研究課が研究部に昇格,さらには無線機等の生産のための伊丹地区に新設された大阪工場地区に移転した。このとき研究部においては,高電圧,整流器,絶縁物,材料,真空管,無線などの専門研究者が育ちつつあった。しかし,戦争の拡大とともに,研究部は,軍の命令に対応した無線通信機,電波兵器の研究試作に専念した。同時に組織が拡大し,1944年には製作所のもとから離れて研究所へと昇格,同時に,独立した研究所本館が建設された。
戦時期の軍需向けの研究開発の成果は,必ずしも三菱電機のその後の事業展開に直結することはなかったが,無線通信機,電波機器の研究は無線・電子技術拡充の足がかりになった。戦時期に中断していたWH社との技術提携は1951年に復活,さらにはトランジスタ,半導体関連を中心にウェスタンエレクトリック(WE)社,RCA社との技術提携が加わり,導入技術の活用を中心とした研究開発が推進された。1950年代になると,新しい事業展開にあたっては,研究所と工場との連携が大きな役割を果たし,蛍光灯,電子管,無線機,電力用半導体,テレビ用ブラウン管などの開発・製品化が円滑に進められた。この間,次世代に向けて原子力,コンピュータの研究開発も進められた。研究開発のための組織の拡充も進められ,1959年には家電製品の改良と開発を目的とした商品研究所を新設した。また,1963年には従来からの研究所を中央研究所と改称して体制を強化17),同時に,各工場に研究室の分室を設置して研究開発から製品化への連携が強化された。さらに,1966年には,WH社との技術提携の更新にあたり,導入一辺倒から脱却して技術交換契約に改められた。その後,1970年代以降は,本格的な自主技術開発への取り組みが進められ,先端的なテーマが取り上げられるようになっていった。
三菱電機の研究開発体制においても,東芝についてまとめた特徴をほぼ同様に指摘することができるだろう。研究開発体制が1930年代から構築され始め戦時期にはほぼ体制が整備されたが,研究開発から事業化に向けた一連のビジネスの流れが定着したのは高度経済成長期前半であった。また,長期間にわたって,導入技術の吸収・改良が中心であり,それをもとに早期に事業に結びつく製品開発が重視され,自主技術の確立は高度成長末期になってようやく主要な課題として重視されるに至った18)。
日立製作所の創業から発展のプロセスについては,いくつかの先行研究により比較的よく知られているものと思われるが,ここでは,研究開発体制の形成に関連する点に注目して,主要な先行研究を簡潔に確認しておきたい19)。
【189頁】日立製作所の成立は,日立鉱山を経営する久原鉱業における電気機器修理部門に端を発する。創業に際しては,東京帝国大学電気工学科出身の電気技術者である小平浪平を中心とした電気機械技術者チームの役割が決定的に重要であった。久原鉱業のオーナーである久原房之助の明示的な承認を受けないままに,1910年,小平浪平は,電気機器製作工場を建設,1912年に分離して,日立製作所として発足させた(独立の株式会社として成立したのは1920年)。創業期の経営者となった,六角三郎(東京高等工業・機械),高尾直三郎(東京帝大・電気),馬場粂夫(東京帝大・電気),秋田政一(東京帝大・電気),森島貞一(東京帝大・電気),池田亮次(東京帝大・電気)らは,小平の技術者・経営者としての魅力に惹かれ,早くから一つの技術者チームとして結束していたといわれる。当初,日立製作所の設立や独立に反対の立場であった久原房之助の承認を得るに際しては,日立鉱山所長であった竹内維彦(東京帝国大学冶金学科卒で,小平は小坂鉱山時代に竹内とともに仕事をした経験を持つ)が終始一貫して,小平を支持したことが大きい。
以上より,日立製作所は,久原財閥の事業戦略の一環として設立されたというよりも,技術者チームが主導して設立し,財閥はそのためのバックアップとして活用されたものと理解するのが正しいであろう。もっとも,設立後の日立製作所の発展が目覚ましかったことから,久原は,収益源としての日立製作所に大いに頼っている。そうした意味では,1920年代初頭までは,財閥の論理と日立製作所の発展の論理は互恵的であったものと考えることができる。しかし,よく知られているように,1920年代を通じて久原財閥の経営は悪化し,1927年には破綻寸前に至った。そこで,戸畑鋳物を創業し,九州筑豊の貝島炭鉱の経営に関わっていた鮎川義介が,久原財閥の経営再建に乗り出し,日本産業(日産)を中心とする日産コンツェルンとして再編した。
久原財閥の経営悪化が進行する間,小平は,久原からの度重なる支援要請を退けながらも一定の関係を維持し,日立製作所を独立した企業として守り発展させることに精力を注いだ。ただし,資金調達においては,久原財閥が弱体化したことから困難を来し,1924年には,日立製作所が自力で第一銀行,日本興業銀行から借り入れを行ってしのいだ20)。結果的に,久原財閥の危機を乗り越えて,日立製作所は小平を中心とする技術者チームが経営的主導権を握る企業として生き残った。この間,資金調達に苦しむ久原との関係はしばしば緊張をはらんだものであったことから,財閥との関係は諸刃の剣であったことに留意しておく必要があるだろう。日立製作所の発展過程において,初期の納入先,信用形成,資金調達などの面で財閥の役割は重要であった。同時に,財閥のトップマネジメントから,経営の独立性を確保することもまた,決定的に重要だったのである。
1920年代末の日産コンツェルン設立当初は,金融恐慌後の不況,昭和恐慌による落ちこみなどが続いたことから,日立製作所の資金調達も必ずしも円滑でなく,第一銀行,日本興業銀行,さらには日本勧業銀行からの借り入れに多くを頼った。1931年の満州事変,金輸出再禁止を契機に,景気回復が進むと,日産コンツェルンはこれを最大限利用し,拡大戦略を積極的に展開 【190頁】 した。1933年,日産は,日本鉱業(旧久原鉱業)株式に続いて,日立製作所の株式の一部を市中売却した。これによって,日産は,株式公開による資金調達をてこにして,日産自動車の設立などコングロマリット的展開を開始する21)。
一方,日立製作所は,好景気のもとで内部資金の蓄積を進めるとともに,株式公開後は増資による資金調達を積極化した。経営拡大スピードが非常に速かったことから,内部資金と増資のみでは間に合わず,銀行からの借入金はその後も重要な資金調達手段となった。他方で日産の持株比率は徐々に低下していった。なお,日産は,1930年代前半において,傘下企業に対して,一元的な強力な管理体制の形成を目ざしたが,これは実現しなかった。これについては,宇田川勝が次のように的確に指摘している。「1935年以降日本産業の資金調達能力では傘下企業の増大する資金需要を賄いきれなくなっていた。そのため,傘下の主要企業は独自で金融を行う度合が多くなり,この面からも傘下企業の自立性は強まる傾向にあった」22)。
日立製作所の事業拡大にあたって,M&Aの役割は大きかった。吸収合併した対象企業としては,久原財閥・日産コンツェルン系企業が多くを占めている。このようなM&Aは,日立製作所の総合電機メーカーとしての発展に不可欠のものであったが,その経緯はさまざまであった。ここでは,M&Aのうち,日立製作所本体の主要事業となったものについて,簡潔に触れておきたい。
最初のM&Aは,1918年における,久原鉱業の機械製作事業部門であった佃島製作所(のち日立製作所亀戸工場)の吸収であり,これによって日立製作所は,電機と一般機械の統合経営に乗り出すことができた。このM&Aは,電機メーカーとしての発展を図る小平の主導によって実現したものである。第一次大戦終了直後,小平はこれに加え,久原財閥の傘下にあった日本汽船の笠戸造船所を加えた一体経営を構想するがこれは実現しなかった。しかし,その後,久原財閥の経営難から,久原側が小平に要請する形で,笠戸造船所が日立製作所に売却され,笠戸工場となり,鉄道機関車の専門工場に転換された。
日産コンツェルンの傘下となった後の時代における,最大のM&Aは,1937年5月の国産工業(旧・戸畑鋳物)の吸収合併であった。これについては,日産コンツェルン側の事情により,国産工業の創業者である鮎川から小平に提案されたものである。小平は,国産工業の冶金,鋳造,鍛造,特殊鋼などに関する技術力を評価し,原材料部門の拡充を期して,この提案を受け入れた。さらに,国産工業の傘下にあった電話機・通信機等を生産する東亜電機製作所(のち日立製作所戸塚工場)の吸収により,通信機,電子機器部門への足がかりを得ることとなった。
日中戦争開始後,日立製作所のM&Aにおいても,日産コンツェルンの論理を超えて,戦時統制経済下での軍需中心体制に向けた再編の論理が作用し始める。多くの軍需関連企業が日立製作所の傘下に組み込まれていったが,その中でも特筆すべきものが,理研真空工業の合併である23)。同社は,1935年に真空管,電球などを生産する企業として設立された。その後,軍需に対応して,真空管等の需要が大きく拡大した。理研真空工業は,理研グループの名を冠していたものの実質的な関係には乏しく,理研グループ全体が資金難であったこともあり,軍の事 【191頁】 業拡大要請に応えることができなかった。そこで,陸軍の要請を受けて,1940年に日立製作所は,理研真空工業の増資に応じて50%の株式を取得した。さらに,1943年にはこれを吸収合併して,日立製作所茂原工場としたのである。
(1)日立研究所の形成と展開
以上のような,第二次大戦期までの日立製作所の発展の歴史を顧みると,久原財閥,日産コンツェルンの傘下にありながらも相対的な自立性を保ちつつ,技術者を中心とする専門経営者チームの主導による経営戦略が基本的な発展の道筋を作り出してきたものということができる。財閥・コンツェルンは,創業初期および発展期における資金調達,M&Aによる多角経営への発展の足がかりとしてきわめて大きな役割を果たした。しかし,日立製作所は,財閥・コンツェルンの論理に決して埋没することなく,電機メーカーとしての自立的発展の論理を貫いたのである。
このような,日立製作所の独立志向の精神は,技術面でも際立っている。東京電気・芝浦製作所がGEと,三菱電機がWHと,富士電機がドイツ・ジーメンスと技術提携し出資を受けたのに対して,日立製作所は,創業当初から「自主技術による電気機器国産化」を標榜した。1919年9月,小平が久原に対し,日立製作所の久原鉱業からの独立案を提出した際,久原は,分離独立を急ぐのであれば,海外電機メーカーとの提携(ジーメンス社が候補とされた)を指示した。また,友人であった渋沢元治からも,小平の方針は,「無謀」と言われた。しかし,小平は,こうした助言に応ずることなく,自主技術開発方針を貫いた。
そのような経営方針のもと,日立製作所では,独立から3年目となる1914年に試験係を設置し,自主技術開発と製品の進歩改良を進めるとともに,設計業務と製作業務の連携の強化を図った。その後,1918年,試験係が試験課に昇格し,試験係・研究係の2係に再編される。この研究係が日立製作所における日立研究所の起源とされる24)。試験課においては,その設置当初から,工場からの独立,中立公正な立場での検討が重視され,そのうちの研究係においては自主技術開発理念が常に強調された。その後,1934年に研究係は研究所へと昇格し,研究体制が大きく拡充されるに至った。さらに,1939年には,職制上,研究所が日立工場から分離され,日立・多賀・水戸3工場の共通の研究機関として独立し,本社直属となった。なお,研究係・研究所では,初期においては,主として新製品の開発が中心であり,特に電気材料,絶縁物の改良・国産化の推進に向けた研究が行われた。その後,1932-33年頃になると,電気に関する現象の理論的究明,基礎研究が重視され,理学部出身者も採用されるようになった。
日立研究所の創設時期においては,設計部門からの要請に応じた研究が主であり,ヒューズの定格に関する実験,直流機の整流作用の実験,扇風機の試作,銅線の試験などがなされたという25)。1920年代半ばになると,いくつかの研究を重点的に行うようになり,油入れ遮断機, 【192頁】 水銀整流器,避雷器など,電気利用の安全性,安定性を高めることによる既存製品の改良が図られた。とりわけ,製品の故障に対する徹底的な究明が重視された。
その後,1934年に研究所として体制が整備されると,日立研究所は電気・機械・化学の3部門に分けられ,翌年には物理・金属部門が加えられた。また,1935年には日立工場に大規模の水力実験室が新設されるなど,基礎研究に向けた研究設備も拡充された。さらに,1937年頃からは,製品の改良,作業標準・規格の設定,工業の作業能率向上などを研究する「作業研究」と,学術上の基礎研究を行う「学術研究」の二本立てとなった。製品改良に向けた研究では,アルミニウム避雷器,ドライバルブ避雷器,誘導型保護継電器,水銀整流器,水電解槽,制弧型遮断機,合成樹脂製品などの開発が行われ,基礎研究においては,水車実験室・金属試作工場における諸研究,振動音響試験,高速写真,制御調整器,X線に関する物理的諸試験などが実施された。
戦時期になると,日立研究所においても例外なく,軍需関連研究に特化し,増産隘路の打開,新製品の開拓の工場と一体して協力することとなった。ただし,戦災により,終戦時には多くの研究設備が甚大な損傷を受け,研究機能がほとんど喪失した。そうした中で,終戦直後には,一気に民需転換が進められ,従来行わなかったラジオ,光学ガラス,電熱器,食料化学,工芸品,福利厚生製品などの試作研究を行うこととなった。1947年頃から,研究機能が本格的に回復し始め,1949年頃までに,水力実験室,金属工場,避雷器研究設備などの施設が整えられ,研究内容もおよそ戦前の状態に復帰した。これにより,水力機械,保護継電器,避雷器,水銀整流器,セレン整流器,電気刷子などの研究,電気絶縁特性・自動制御・燃焼・振動に関する研究が進められた。
以上のように,日立研究所においては,事業部門からの要請に応じた製品改良に始まり,1930年代後半頃から,比較的長期的な視点に基づく基礎的な研究への取り組みも進められるようになった。戦時期および戦後混乱期にはこの流れがいったん絶たれたが,1940年代末までに再整備されたのである。
(2)日立中央研究所の設立と電子顕微鏡の開発
1930年代末までの日立製作所における研究開発部門の機能は,東芝や三菱電機とそれほど大きく変わるものではなく,基本的には事業部門の各種具体的な要請に応える研究開発が主たる内容であったと考えてよいであろう。ただし,日立製作所の場合には,導入技術よりも独自技術の開発への志向性がより強く,研究部門の自立性が早くから重視されていた点が特徴的である。そうした志向性の延長線上に計画されたのが,他の二社に比してユニークな,中央研究所設立の試みであった。
日立製作所の中央研究所は,1942年4月に設立された。太平洋戦争中の発足となったが,建設計画が本格的に開始したのは,1939年7月である26)。設立にあたっては,小平浪平のイニシアティブが大きく,「現在のことも行うが,10年,20年後を目標とした研究を行う」ことを目的に,基礎的研究の拡充が強調された。初代中央研究所長の馬場粂夫によれば,各工場の研究部門はそれぞれの製品に関する技術を担当し,日立研究所は製品の開発を受け持ち,中央研究 【193頁】 所においては「基礎的学術のそれを目標とする考え」であったという。
もっとも,日立グループ内における,中央研究所の位置づけについては,当初から確固として定まったものではなかったようである。設立にあたっては,中央研究所を財団法人とすべきか,日立製作所の一事業所とすべきかについては,社内だけでなく,企画院,商工省などにおいても議論がなされたという27)。1917年に設立された理化学研究所が財団法人であったこともこの議論に影響を与えたものと考えられる。最終的には,日立製作所の経営首脳部の判断で,会社の事業所とすることが決定された。これについては,小平の次のような判断から,資金・設備面の拡充が重視されたためであろう。「アメリカやドイツには立派な研究所があるのに,日本には研究所らしい研究所もない。理研とか大学とかに研究機関があって,人材もあるが,金がなかったり,資材がなかったりして思うように研究ができぬ状態である。そこで日立もだんだん大きくなって相当実力もできてきたから,人をあつめ研究設備を充実して,実力ある研究機関を設けたいと考えた」28)。
企業内の一事業所としつつも,基礎研究を重視したことから,研究所の運営にあたっては,その経費支出の方法としては,次のような形がとられた。すなわち,研究題目別に関係工場に振替える方式をとるのではなく,一定基準の配賦率によって本店の経費から一括支出されることとなったのである29)。もっとも,初代所長の馬場粂夫は,「工場との連絡を密にする」ことを強調していたとされるから,中央研究所と事業部門との関連のあり方については,試行錯誤の過程が続いたものといえるだろう。将来的には研究開発をベースとする独自技術によるさまざまな事業の展開が構想されたものの,それが定着するまでには長期間を要することとなった30)。
中央研究所建設プランの策定が本格的に始まったのは,1940年1月の日立研究所における会議である31)。会議の主たるメンバーは,日立研究所の研究者であり,そのリーダーは笠井完であった。同年11月には研究所建設の大綱がまとまり,馬場粂夫専務のバックアップのもと,研究所の建設が進められることとなった。同年12月1日に,臨時中央研究所建設事務所が設置され,その所長には日立研究所の笠井完が就任,笠井は中央研究所建設にあたっての指導・監督の中心となった。
ところで,中央研究所建設のリーダーとなった笠井完は,京都帝国大学電気工学科卒業後,逓信省の電気試験所の技師となった研究者である。その後,ドイツ留学中に,オシログラフを 【194頁】 使った異常電圧と避雷の研究に取り組み,1940年に京都大学から,「陰極線オシログラフと之による避雷問題に関する実験的研究」との論文で博士の学位を授与されている32)。1930年代のドイツにおいては,オシログラフの改良研究から磁界レンズの作用が発見され,1930年代末の電子顕微鏡の開発へとつながった。
電気試験所在職時の笠井は,電子顕微鏡に着目し,日本学術振興会第10常置委員会委員長瀬藤象二にその研究の推進を進言した。これが契機となり,1939年に,日本学術振興会第三十七小委員会が組織され,電子顕微鏡の総合研究が開始されることとなった33)。その後,笠井は,1939年夏,日立製作所に入社し,日立研究所に移る。この経緯は十分に明らかではないが,笠井自身が,「国内でもすぐに製作できる体制を組織しなければならない」と考えていたことが大きいであろう。一方,日立製作所の日立工場計器部長の豊田博司が,上記の第三十七小委員会に参加しており34),日立製作所も電子顕微鏡研究には興味を示していたものと思われる。基礎研究機関を構築しようとする日立製作所の思惑と,設備・工作技術・資金等安定した研究基盤のもとで電子顕微鏡を早期に完成させたいという笠井の思惑が一致したことが,笠井の日立製作所への異動へとつながったのであろう35)。なお,電気試験所の笠井のもとで研究を行っていた只野文哉もまた,一足先に日立製作所に移った笠井の勧誘を受けて,1940年,日立製作所に入社した。笠井が早逝したため,只野は,笠井亡き後,初期の日立中央研究所において,電子顕微鏡研究のリーダーとなった36)。
中央研究所建設プランに初期から関与した浜田秀則は,笠井が日立研究所の赴任したことが,「中央研究所建屋建設の第一歩ではなかったかと思います」と語っている。また,「建設の実際の仕事は,笠井さんが,馬場さんや,小平社長の方針に基づき,日立工場の応援で始められた」という37)。笠井は,中央研究所建設の指揮をとったが,その完成を見ることなく,1942年2月に脳溢血で急逝した。しかし,笠井の設計をもとに,中央研究所発足以前に,1942年2月,日立研究所にて,試作機となるHU-1型電子顕微鏡を完成し,さらに1942年10月,構造・性能を改良したHU-2型電子顕微鏡を戸塚工場にて2台完成している38)。HU-2型のうち1台は中央研究所に設置され,もう1台は名古屋帝国大学に納入された。その後,軍需研究が中心となったことから,1943年頃には,日立中央研究所における電子顕微鏡研究は一時中断され,終戦後研究者を拡充して再開された。戦後においても長い間,電子顕微鏡は日立中央研究所の中心的な研究対象の一つであり続け,また,比較的早期から事業化が図られた分野ともなっ 【195頁】 た39)。
なお,電子顕微鏡において,日本は1960年代には世界有数の生産国となり,その優れた性能が世界的に高く評価されることになる。日立製作所のほか,日本電子,島津製作所などが主要メーカーとして開発を担った。前述した日立中央研究所の只野文哉は,戦時期から戦後復興期にかけての電子顕微鏡の開発の特徴について次のように述べている40)。「分科会41)の運営の特徴は,基礎面を担当するグループ(大学,試験所),試作を担当するグループ(メーカー),利用する立場のグループ(医学,生物学,金属学などの人)の三者が,はじめから一体となって一人のリーダー(東京大学の瀬藤象二教授)の指揮で動いたことである」。すなわち,強力なリーダーのもとに,組織横断的な形で,研究開発に関してきわめて合理的な分業が行われたことが強調されている。なお,分科会は戦時中も毎月続けられ,戦後には利用する立場の大学や研究所が日本製の電子顕微鏡を購入して実験し,問題点をメーカーにフィードバックし改良が続けられ,これが「電子顕微鏡の開発をいちじるしく発展させる原動力になった」という。
以上のように,電子顕微鏡の研究開発においては,欧米に比すれば後発ではあるものの,基礎研究,応用研究,製品開発に至るまで,日本独自の研究開発が組織横断的に進められ,大きな成果を収めた。そうした意味では,研究開発をベースとする産業発展のメカニズムの萌芽であり,日本の電機産業の歴史において,また日立製作所の歴史においても,画期的な出来事の一つであったといってよいように思われる。
ただし,組織横断的に研究開発の合理的な分業が行われて成果を上げたようなケースは,日本の電機産業において一般的であったとはいえず,むしろ例外的であったように思われる。なお,日立製作所においても,1950年代初めまで,電子顕微鏡研究は中央研究所の中で大きなウェイトを占めたが,事業展開においては小さな一部門にとどまった。後述するように,複数の事業分野においてそれぞれに進められた技術導入が,多角的な事業発展のベースとなるのである。
(3)戦時期の研究開発
中央研究所発足の際,職制が定められたが,この時,「中央研究所は日立製作所及びその仔会社における現在及将来の技術の基礎に関する科学的並に技術的研究をなし,以て我が国科学技術の進歩に寄与すると共に,日立製作所及びその仔会社の事業を通じて,我国工業の工場発展に資せんとするのが其の目的である」との高い理想が掲げられた42)。当初は,研究室制とされ,各研究室において主任研究員が置かれ,「各研究室には相当広い幅を持った研究問題を与え,研究員の研究活動に或範囲の自由性を認め,研究員の独創的業績を期待する」とされるなど,大河内正敏所長のもとでの理化学研究所のような体制43)が想定されていたように思われる。
1942年4月20日,馬場粂夫所長のもと,3つの研究室と調査課,庶務課が置かれ,第1研究 【196頁】 室は精密工作・金属材料・無機化学,第2研究室は高周波絶縁材料・電子装置・電子光学装置,第3研究室は有機合成高分子化学を担当することとなった。また,1944年2月に機械関係の研究を担当する第4研究室が新設された。この間,戦争の激化にともない軍事関連の研究が増大したことから,中央研究所の人員は1942年8月の106名(社員76,工員30)から,1945年2月には339名(職員245,工員94)へと拡大していった。1944年11月以後,第○研究室という固定的な体制が改められ,研究室の改廃は実情に即し所長が決定することとなり,臨機応変に変化するプロジェクト制に近い形となった。この時,主任研究員は7名となっている。
第2表に,中央研究所設立時の1942年から1951年までの約10年間に実施された重点研究を掲げた。まず,重点研究のトップに「電子顕微鏡」が掲げられている。日立製作所にとっては,早期の成功が見込まれた電子顕微鏡の開発が,研究開発をベースとした事業発展のモデルケースとして位置づけられたものと考えられる。
このほか,1943年前半までの研究は,電気の性質に関する基礎的な研究や素材に関する研究を主としており,中央研究所は当初の想定通り発足できたといってよいであろう。しかし,戦争の激化に引きずられる形で,1943年半ば以降,軍事関連の研究,特に航空機と通信機を中心に展開せざるを得なかった。そうした中で電子顕微鏡そのものの研究は中断された。ただし,「応用」研究は続けられ,電子顕微鏡を利用したカーボンブラックや発煙剤の微粒子構造の解明に向けた軍事目的の研究がなされた。このうちカーボンブラックは,タイヤの国産化につながり,航空機・自動車工業に貢献したという44)。電子顕微鏡に関する基礎的な研究は,比較的早くから多方面の製品開発につながっていったのである。
軍事目的の研究では,航空機・兵器・通信機に関わる開発研究のほか,工場における真空管の大量生産に関わる研究(研究番号25)なども含まれている。これは,1943年9月に,日立製作所が吸収合併した理研真空工業の茂原工場における真空管生産への支援であった。日立製作所本社は,茂原工場の生産を画期的に増大させる方針を決定し,これにしたがって,1944年5月から,中央研究所の主任研究員らが交替で茂原工場に常駐し,「現場の各種不良対策や,量産に対する応援」を行った45)。なお,軍事目的の研究に移行する過程において,中央研究所は,日立製作所の各工場と連携を深めていったが,とりわけ通信機器に関連する戸塚工場,茂原工場との関係が密接であった。1943年8月に発足した電気通信連絡会などを通じて,中央研究所と両工場との間で情報交換や協力がなされた。また,戸塚工場では,前述のように,電子顕微鏡の試作2号機となるHU-2型が製作されている。
【197頁】
(4)戦後復興期の日立中央研究所
敗戦と戦後改革は,日立中央研究所のあり方に大きな影響を及ぼすこととなった。
敗戦直後には,軍需関連の研究はすべて打ち切られ,一時は,食糧難に対応して,アミノ酸の製造,植物ホルモン,甘味剤の合成,製粉機,電気的食料保存方法などが研究された46)。このため,戦時期における兵器・航空機関系の研究は断絶することとなった。一方で,真空管や通信機に関する研究は,平和産業に資するものとして継続された。軍需から民需への転換が進むと期待されたことから,中央研究所は,日立製作所が弱電に進出するとの想定のもと,研究の陣容の強化を図った47)。その中でも特に,テレビジョンと搬送電話などの通信機が重視され,敗戦後のかなり早い時期にテレビジョン研究が始められている(第2表の研究番号33)。もっとも,これについては,1945年12月にGHQの勧告を受けて中止された。そこで,真空管と通信機関係の研究に注力することとなった(第2表の研究番号30-32,34-37)。
1946-47年にかけて,財閥解体・過度経済力集中排除法を受けて,日立製作所は解体の危機に直面した。また,公職追放の拡大により,小平社長のほか中央研究所長の馬場粂夫も退任した。解体の可能性が示唆されたことに対し,日立本社では,各事業が「相互の技術的関連」を有し,「相互に技術的関連を基盤とする種々の緊密な経営書関係によって結合された一つの有機的生産単位に構成されている」ことを主張し,経営体としての合理性を示そうとした。同時に,万一,解体される場合には,旧国産工業系の鉄鋼部門と笠戸工場のみを分離する等の希望を政府に提出している48)。
中央研究所自体も存続が危うくなった。日立製作所本社においては,一時は,中央研究所を解体して各工場で人材を引き取るプランや理化学研究所に譲渡するプランの検討などもなされたという49)。そうした中で,中央研究所においては,解体を避け,日立内で生き残るために各工場との連携を強化することが重視された。同時に,解体された場合に備えて,研究成果を早期に実用化して自活する道も探った。具体的には次の通りである。
終戦直後,馬場所長は,中央研究所においても「工場との連絡を密にすべし」との方針を強調した。この方針に基づいて,中央研究所は,それまで戸塚・茂原両工場とのみ密接な連携を行ってきた体制を改め,その他の工場との連携に向けての取り組みを進めた50)。1946年3月,中央研究所は,試験室を開設し,各工場からの分析や試験依頼を引き受けることとなった。水戸工場の幾何光学・光学レンズ焦点距離及び収差測定,川崎工場の鋸盤帯鋸の振動,日立多賀工場の各種合成樹脂,栃木工場の冷媒の検定と精製,日立工場の電解槽隔膜,多賀工場の歯車・電解研磨・探傷装置,茂原工場の蛍光放電灯・整流管・ブラウン管・口金接着材・アルゴン精製,戸塚工場の気化器針弁・異種摩耗・電話機振動板・磁性材料・膠質黒鉛・ダイキャストなどであり,中央研究所における重要研究のテーマは大きく拡大した(第2表)。さらに,馬場所長退任後,1947年2月に,第二代中央研究所長となった鳥山四男は,「少なくともロン【200頁】 グランにおいてペイする」研究を強調し,1948年末頃から,各工場との研究連絡会を月1回程度開催することとした51)。
一方,中央研究所創設時の基礎科学研究所を目ざすという構想に基づいた自発研究も続けられ,具体的には計数管,分光測光法,高分子物質の熱分解,石炭成分の分離,高周波応用等の研究が行われた。このような各種研究を続けるためにも,解体の危機に対応して,研究経費の一部を自弁する構想も立てられ,1947年3月頃から,研究成果の実用化や試作研究も行われるようになった52)。戦時期から試作がなされてきた電子顕微鏡については,中央研究所で製作・市販する計画まで立てられた。研究費が厳しく制約される中でも研究の重点化が図られ,電子顕微鏡関係の研究が強化された53)。この成果として,1948年,電子顕微鏡HU-3型,HU-4型が製作され,北大,東大などに納入された54)。このほか,早期の製品化を目ざして,電話用炭素粉,蛍光体,電子回折装置,質量分析器,計数管,アイソトープ検定器,高分散型分光器,自記分光光度計,超遠心分離機,光電管,各種真空管などの試作が行われた。
結果的に,日立製作所の解体が回避され,中央研究所も日立製作所内にとどまったことから,電子顕微鏡は水戸工場に移管されて製品化されることとなった55)。このため,中央研究所が事業化そのものに乗り出すことはなかったが,早期の事業化を目指す志向性は,この時期に強化されたものと思われる。若干のちの時代になるが,1952年に日立製作所本社に電子工業開発部が新設されると,中央研究所において電子管,通信機用材料の研究に重点が置かれるようになり,小ロット品が研究所で試作され,その後急速に製品化されるケースが相次いだ56)。1952年8月には,蛍光放電灯用の白色蛍光体の試作が完了し,外国特許を使用しない日立蛍光ランプの販売がなされたが,この開発にあたっては中央研究所の役割がきわめて大きかった。
以上のように,日立中央研究所の位置づけは,当初の基礎研究を中心とした構想から大きく変化してきた。戦時期には,軍需研究一色となり,敗戦復興期においては,占領改革の影響のもと,生き残り戦略を模索する中で,新たな体制が徐々に形成された。1951年,第二代鳥山四男57)所長は,次のように述べている。中央研究所を「最初に計画した当時は,日立製作所に於ける基礎科学研究所と考え,必ずしも工場生産に直結した問題を探求する事を目標として居らなかった。然し,其後第二次世界大戦の勃発,之に次ぐ日本の敗戦と言う古今未曾有の出来事により,会社全体としても亦中研自体としても一段転換を為さざるを得ない事態となった。中 【201頁】 研は敗戦以後多少の紆余曲折があったが,目下大体落ち着く可き処に安定し,工場とも密接なる関連を持つ様になり,日立製作所としても欠く可からざる存在となって来た」58)。
戦後復興が一定程度進んだ1950年前後において,日立中央研究所は,日立製作所の各工場からの「依頼研究」と,基礎研究をはじめとする研究所の「自発研究」の二本立てとする研究開発体制が定着した。同時に,長期的な視野での研究開発の重要性が認識されながらも,研究開発から事業化に至るまでのスピードも重視されるようになったのである。
(5)1950年代の日立中央研究所
1950年代になると,工場からの依頼研究が増加し,日立製作所の事業展開における中央研究所の役割が次第に高まっていったものと見られる。そうした中で,中央研究所としては,日立製作所の事業展開に対応しつつも,その独自性を保つための努力を続けた。
鳥山所長が東北大学へ転出した後,第3代所長となった菊田多利男59)は,1952年に次のように述べている60)。「諸外国との交通自由となり,業界の競争激甚となるに伴い,外国の主な会社と対抗するために,研究を強化して技術の向上を図ることが不可避となった。研究に対する認識も深まると同時に,期待も大きくなり,工場からの依頼研究も逐年増加の一途をたどっている。限られた陣容と設備で能率よく運営するため,できるだけ雑依頼研究を制限し,研究所独自の重要な研究課題をとりあげ,会社経営等に貢献する方針をとった」。
この時期の中央研究所においては,独自研究の重要性を意識していたものの,急速に拡大したのは,導入技術をベースとしたエレクトロニクス関連の研究である。この契機となったのは,前述した1952年の日立製作所本社における電子工業開発部の設置である。これを受けて,中央研究所では,特に,電子管や通信機器用材料が製品の隘路になっていたことから,それらの研究に取り組んだ。研究推進のため,1953年9月,中央研究所内において初めて,鉄筋コンクリート2階建のエレクトロニクス研究建屋を建設した。従来の木造ではゴミ,湿度,温度等の影響を受けるため,研究遂行が困難になったことによる61)。以後,電子管やその材料のうち,新技術を必要とするものや工場の生産ベースに乗らない小ロット部品などが中央研究所で試作され,相当のスピードで製品化された。1950年代においては,中央研究所は,日立製作所の事業の中でも,真空管,半導体(含トランジスタ),通信機,コンピュータとの関係を深めていくこととなった62)。
【202頁】1950年代末以降の事業展開との関連で,特に重要なものの一つが半導体に関する研究である63)。日立中央研究所における半導体に関連する研究は,1943年のセレン整流器の研究に始まるといわれる64)。これに次いで戦後,1949年から,温度変化とともに抵抗が変化する金属の酸化物を活用した半導体であるサーミスタの研究が始まり,1950年から重要研究の一つとなった(第2表)65)。中央研究所においては,各種形態のサーミスタの抵抗変化の特性,素材,材料の安定性等についての研究が行われ,製品の開発がなされた。研究所内においてサーミスタの試作だけでなく,製品製造も行われるようになり(1963年に武蔵工場に製造移管),搬送電話利得調整装置,継電器回路への応用に始まり,電話機,交換機,温度測定用,マイクロ波測定用などの機器に使われた。これらの研究開発は,先進的な欧米技術を参考にしつつも,独自技術開発の色合いが濃いものであった。
このように,半導体に関する研究は戦時期から続けられていたとはいえ,日立中央研究所においてその研究が本格的に始まったのは,1947-48年にアメリカ・ベル研究所においてトランジスタが開発された後,1951-52年のことであった66)。1953年には点接触型ゲルマニウム・トランジスタの試作に成功,翌1954年4月,最初のゲルマニウム単結晶の製作に成功した67)。この間,日立製作所は,1952年にアメリカRCA社と,1954年にアメリカ・ウェスタンエレクトリック(WE)社との間で,トランジスタに関する技術提携を行った68)。中央研究所のトランジスタ研究開発においても,RCAやWEからの導入技術によるゲルマニウム・トランジスタの吸収・改良が主となった69)。その後,トランジスタの研究開発は急速に進展し,1956年9月に中央研究所内にトランジスタ製造部が新設され,トランジスタの製品化が始まる。中央研究所の研究成果においても1957年から1960年代初めにかけて,トランジスタに関連するものが多くなる。1958年7月には,トランジスタ製造部がトランジスタ研究所に昇格し,翌年には武蔵工場と改称され,急拡大することとなった。1950年代後半の日立中央研究所は,トランジスタ技術のキャッチアップに注力し,その製品化に向けた開発に多くの資源を振り向けたのであ 【203頁】 る70)。
このように中央研究所は,半導体をはじめとする導入技術の吸収・改良とその製品化に対して大きな役割を果たすこととなった。ただし,設立当初から基礎研究志向の強かったことから,中央研究所の研究内容は,導入技術の吸収・改良とその製品化にとどまるものではなかった。1950年代から1960年代初めまでの中央研究所の研究内容全貌をとらえることは資料的な制約もあり困難であるが,1962年の二十周年記念論文集を見ることにより,代表的な研究の概要をある程度把握することができる(第3表)。
研究内容は,大まかに以下のように分類することができる。
@電子の性質や物質に関わる基礎研究(1,2,5,7,8,13)
【204頁】A軽電機及び関連材料(10,14)
B半導体・通信機・コンピュータ関連(3,4,15,16,17,18)
C重電機・機械関連(9,11,12)
D原子力関連(6,20,21)
このうち,@は比較的汎用性の高い基礎研究である。また,Aのうち10,Bのうち3,4,15などは,導入技術をもとにして,基礎的な物理現象や物体の性質の中に位置づけながら,関連領域に展開しようとしたものである。これらの研究により,導入技術の吸収・改良にとどまることなく,より汎用的な原理に解明に向けて,基礎研究方向に深化させていったものということができるだろう。そのような研究の志向性は,おそらく,中央研究所が導入技術の吸収・改良を進めていく上でも必須の基盤となり,長期的には幅広い成果につながっていったものと思われる。そうした意味では,日立中央研究所は,設立当初の目標に掲げられた基礎研究中心の研究所とはならなかったものの,基礎研究の強化を意識的に心がけたことによって,電機メーカーとしての長期的な事業発展のベースとなったものということができるだろう。
実際,1960年代になると,たとえば,トランジスタ研究などにおいて,日立製作所は世界的にも先端的な成果を挙げ始めた。1960年代前半には,ゲルマニウムを中心とした導入技術研究に飽き足らずにシリコンに注目し,中央研究所から武蔵工場開発部に異動した大野稔が中心となり,MOSトランジスタを開発した71)。これは,RCA社やフェアチャイルド社とほぼ同時期における先端的な開発であり,導入技術の吸収・改良にとどまらずに,基礎研究を深化させた成果ということができるであろう。大野によるMOSトランジスタの開発はその後のIC開発につながるものであり,特にそのうちのMOSの結晶面依存性の発見と〈100〉結晶のデファクト化は世界各国において特許を認められた画期的な技術であった。
もっとも,このような画期的な研究成果を生み出しつつあったものの,1960年代におけるICおよびLSIの開発においては,日立製作所はじめ日本の電機メーカーは,アメリカのTI社,フェアチャイルド社等に遅れをとることとなった72)。第3表に見られるように,日立中央研究所において,1960年代のエレクトロニクス産業においてきわめて重要な技術となった半導体IC,コンピュータに関わる研究は,この時点では乏しい。大野のMOSトランジスタの研究も,当時の日立製作所の半導体研究全体の中では当初は傍流であった。民生品向けゲルマニウム・トランジスタの全盛時代であり,テレビやFMラジオ向けのトランジスタの販売が急速に拡大する中で,次世代に向けた技術への関心が十分であったとはいいがたい。
IC開発においては,単体トランジスタと異なり,電子の振る舞いに関する基礎研究の深化や材料に関する技術だけでなく,回路設計に関するシステム的な技術や高集積化・微細化を可能とする技術が必須となる。このため,開発にあたっては従来以上の広い範囲における関連分野の研究者間の協力と集中的な資源投下が必要であったものと考えられる。1960年代初めまでの日立製作所の研究開発体制は,半導体に関する基礎技術を深化させ,一定の範囲で画期的な 【205頁】 技術を生み出すほどに拡充していたものの,ICに至るような先端技術を先駆的に生み出すまでには至らなかったのである73)。
(6)研究開発体制に関する若干の考察
これまでの検討から,1950年代までの日立製作所の研究開発体制の形成・展開について,およそ次のようにまとめることができる。
戦前における日立製作所の研究開発体制は,事業と密接に関連したものであり,研究開発そのものから事業が生まれる可能性には乏しかった。しかし,製品の改良に向けての研究開発が進展して技術水準が高まり,中央研究所の新設に象徴されるように,自立的な研究開発体制の形成に向けた試みがなされた。もっとも,戦時期に突入したことから軍需研究に忙殺され,研究開発は完全に軍事的な要請に従属することとなった。しかし,電子顕微鏡の開発に見られるように,独自の研究開発が事業を生み出すという新たなメカニズムが発生する萌芽が生まれた。
戦後になると,当初は大きく混乱し,紆余曲折を経たが,そうした中で,中央研究所の事業部門との関連が重視され,研究開発を早急に事業化する必要に迫られるようになった。日立研究所では,重電機に関する導入技術の吸収・改良が中心となり,中央研究所においては,RCA・WE等からのエレクトロニクス関連の導入技術の吸収・消化と製品化開発が重視された。このため,中央研究所は,必ずしも,設立当初に想定されたような基礎研究中心の研究所とはならなかった。ただし,事業部門からの依頼研究に取り組む一方でその拡大を抑制し,既存事業にとらわれずに将来の事業に結びつく可能性のある研究の重要性を常に意識し,基礎研究を深めていったことには注目すべきであろう。このような研究開発のあり方は,のちの事業の核となる半導体,コンピュータ等の開発に大きく貢献したものと考えてよいであろう。
もっとも,中央研究所設立後から20年ほどの間の日立製作所を取り巻く環境変化はあまりにも大きく,中央研究所の位置づけは大きく揺れ動いてきた。そうした歴史的経緯を背景として,日立製作所の研究開発体制が一定の課題を抱えていたことも軽視できない。
本稿のこれまでの検討において,1950年代の東芝,三菱電機,日立製作所の研究開発体制において,導入技術の吸収・消化に多くの資源が振り向けられる傾向があったことを強調した。最後に,このような導入技術の吸収・消化に特化する傾向の強かった日本の研究開発体制のあり方に関する同時代的な評価および課題の指摘について,若干触れておきたい。
1957年,日本生産性本部が,アメリカ各地の研究機関に使節団を派遣し,詳細な調査を行った上で,日本の研究機関のあり方と比較してその問題点を指摘した報告書がある74)。その報告書の中で,日本の民間企業における研究開発は,「先進工業国に比較すると研究費は総額にお 【206頁】 いてはもちろん売上高との比率についてもいちじるしいそん色を示している。研究内容においても,日常の生産上の問題の解決や,外国の情報の追試などが多く,独自の研究開発のための研究に乏しいものとみられている」(p96)。また,上記の使節団のリーダーであった内田俊一は,日本の研究開発体制においては,欧米に比して,基礎・応用・開発・完成技術といった研究開発のそれぞれのプロセスの相互における結びつきが弱いとの強い印象を述べている。同時に,導入技術に頼る日本では,上記4つのプロセスにおいて,それぞれ別々に海外の動向を取り入れることに注力しており,この結果,基礎研究から製品開発に至るまでのプロセスが連携せず,研究開発システムとして十分に機能していないことを強調している(p119-120)。
このような内田の見解は,1960年代後半に記述された,日立中央研究所の只野文哉らによる日本の研究開発体制に関する分析においても踏襲されている75)。只野らは,内田が指摘した課題に加えて,企業における研究開発のあり方に関連して,アメリカ企業の経営と研究開発との関係のあり方を踏まえながら,次のように指摘している。RCAなどのアメリカ企業では,長期的な経営計画に基づき,数年後の製品開発に向けて,綿密な開発スケジュールを立て,自社内における研究開発,導入技術,M&Aなどの戦略を検討し,合理的な戦略をシステマティックに樹立することが重要視されている。しかし,日本においては,経営計画が十分に整備されておらず,経営と研究開発との関連も明確でなく,研究の目標設定においては研究所内で十分にコーディネートされず,テーマがバラバラになりがちであると述べている76)。しかも,各研究チームないし研究者の自立志向が強すぎ,定められた目標に向けて協力する志向性に乏しいこと,それぞれが狭い視野のもとにテーマを決めていることなどを強調している。前述のように,電子顕微鏡開発においては,強力なリーダーのもとに組織横断的に研究開発の合理的な分業と協力が行われたことが指摘されていたが,一般的には研究開発の現場ではそれとは対照的な状況が展開していたということになるだろう。
このような只野らの問題意識は,日本の電機メーカーが急速にキャッチアップしつつも,先端技術の開発において,多くの場合,欧米企業の後塵を拝し続けているとの具体的な認識を背景としている。そのうち半導体開発に関して,1950年代後半から1960年代前半にかけて日本が民生用トランジスタの開発・生産に注力している間に,アメリカではIC研究が進み,テキサスインツルメント(TI)社等が主要な特許を確立したことを指摘して,只野は「みずから顧みて忸怩たるものがある」と述べている77)。このような指摘は,当時の日本企業の研究開発体制の課題を考える上で示唆的である。
日本の電機産業は,導入技術を急速に吸収・消化し,製品開発・改良を行うことにより,順調に発展しつつあったように見える。しかし,それを支える基盤となるべき研究開発体制において,固有の課題を抱えていた可能性が高い。このような日本の電機産業における研究開発体制の課題については,別の機会により詳細に検討したい。
【207頁】(1)1950年代における事業構造
1950年代の日立製作所の事業発展を支えたのは,初期には戦前以来の蓄積がある重電機・機械・鉄道車両などであった。1950年代半ばになると,導入技術による新たな製品分野(テレビ,トランジスタ等),及び戦時期までには十分な蓄積に乏しかった事業(火力発電機器,通信機,電子管,家電製品など)のウェイトが増していった。創業以来,国産技術へのこだわりが強かった日立製作所は,1950年代以降,導入技術への依存度を急速に高めていったのである。導入技術の経営への影響を確かめることが本節の目的であるが,その前提として,まず,日立製作所の事業構造の変遷を確認しておくこととする。
1950年代における日立製作所の事業別販売高構成の半期ごとの推移は,第4表の通りである。ここでは,有価証券報告書から連続したデータが入手可能な1952年度以降を対象としている。また,第5表では,この間の事業ごとの伸びを示した。なお,各事業に分類された主要製品については,年度ごとに若干の変化が見られるが,第6表に1956年度のものを掲げた。
創業期以来の主力事業であった重電部門(原動機・重電機)の構成が1950年代を通じて高く,若干ウェイトが低下しつつも安定した割合を示している。これに対して,もう一つの事業の柱であった産業機械については,1950年代前半には停滞気味であったが,「神武景気」から「岩戸景気」の投資ブームに乗って大きく拡大した。1920年代の笠戸工場吸収再編以来の歴史を持つ鉄道車両事業は,1950年代前半までは復興需要を受けて日立製作所の経営上でも比較的大きな役割を果たしたが,1950年代後半にはウェイトが低下した。最も大きく伸びたのが家電製品を中心とする軽電機であった。10年弱の間に30倍以上の金額となり,1960年代初めには経営上のウェイトにおいても重電機と並んだ。これに次いで,通信機(真空管等電子部品も含む)の伸びも大きかった。
1950年代前半における主力事業であった重電機・原動機について,もう少し詳細を検討してみよう。この時期は,電源開発が政策的に強力に推進された時期に重なる。電源開発の推進は,日立製作所の事業拡大を強力に後押しした。1950年代半ば頃まで,電源開発において大規模水力発電の開発が主軸となっており,このことは,重電4社の中でも特に水力発電技術に優位性を持つ日立製作所にとって大きなメリットとなった78)。第7表に見るように,この時期の日立製作所の重電部門が手がけた発電設備のうち大半は水力関連である。
もっとも,水力発電を中心とするいわゆる「水主火従」の電源開発は長くは続かなかった。1950年代初め頃,火力発電による発電コストは水力に比して割高と見られていたが,高温高圧の大容量火力発電設備の開発とともに熱効率が高まり発電コストが低下してきたこと,水力発電のための新たな大規模ダム開発が次第に限界に達し,より奥地でのダム建設となったことでコスト高となってきたことが背景にある。このため,国策会社である電源開発(株)が水力に注力したのに対し,地域独占の民間企業となった9電力会社においては,次第に大容量火力発電を中心とした電源開発に移行し始めた。さらに,1956年12月策定の「電力5カ年計画」では,水力・火力の最適な組み合わせを考慮し,高能率大容量火力発電の開発促進に重点を置くなど,それまでの「水主火従」方針が修正されるに至った79)。
水力に優位性を持つ日立製作所においても,「水主火従」から「火主水従」への変化が生じつつあることは,比較的早くから認識されていた80)。1956年1月の『日立評論』では,1955年において,政府のデフレ政策に加え,電力界の有力者であった松永安左エ門が「火主水従」声明を発したことなどにともない,水力関係の受注が振るわなかった一方,火力電源開発が好調であったことが報告されている81)。翌1957年初めには,「火力発電用機器については最近の火主水従の線に沿って大きな進歩の跡が見られた」として,大容量化の進展が指摘されている82)。
「火主水従」への移行を促進する大きな条件となったのは,火力発電機器の大容量化による熱効率の向上,発電コストの低下であった83)。
【211頁】1950年代を通して,日立製作所は,電源開発株式会社の佐久間,御母衣,関西電力の黒部第四など大規模な水力発電設備を受注した。そうした中でも,1950年代半ば以降になると,次第に火力発電設備の受注のウェイトが高まっていった。この変化の動向を見るために,若干煩雑になるが,第8−1〜第8−5表に,1951年度から1959年度のうち5つの会計年度における,四半期ごとの日立製作所の大口受注品の推移を掲げた。この表は,日立製作所全体として主要な大口受注品の変化を示すもので興味深い変化が少なくないが,ここではまず,発電設備関連の受注変化の動向を確認しておこう。
1955年度までは,大口受注のうちの多くが水力発電設備であった。これに対して,火力発電設備で大規模なものは,東京電力の潮田,鶴見第二,新東京火力発電の設備などに限られており,その他は企業の自家発電等小規模なものが多かった。しかし,1957年度以降になると,発電関係の大口受注の多くは火力発電設備となった。また,これに加えて,配電・送電や電力制御に関連する変圧器・配電盤・遮断機・柱上変圧器等も増加している。前述したように,1950年代を通して原動機・重電機は日立製作所の事業構成において高いウェイトを占め続けたが,その主要製品は,水力発電設備を中心としたものから,大容量火力および送配電・電力制御関連機器を中心としたものへと大きく変化していった。日立製作所は,戦前から優位性を築いてきた自社開発の水力発電技術に依存し続けることが困難となり,大容量火力に関する導入技術に強く依存することとなったのである84)。
【212頁】
(2)1950年代の技術導入─ボイラー・タービン
1950年代の日本の電源開発において,水力中心から大容量火力中心への移行が進んだことは,水力に優位性を持つ日立製作所にとって,事業構造の大きな転換であり,また,研究開発のあり方にも影響を与える要因となった。
日立製作所における火力発電機器事業の歴史は,1920年代後半に始まる85)。その主要機器となるボイラーとタービンの製造については,水力発電機器と異なり,当初から海外メーカーとの技術提携に依存した。1927年秋,日立製作所は,当時のボイラーの権威であった海軍技術者の助言に基づき,イギリス・ヤーロー社との間で,ボイラー機器に関する技術提携契約を締結した。当時,日本国内のボイラー製造においては東洋バブコック社が独占的な地位を築いていたが,三菱長崎造船所などでも大型ボイラーの製造に乗り出しつつあった。日立製作所は,ヤーロー社の設計図面,主要部品の提供を受けてボイラー製造を開始した。その生産が本格化したのは,重化学工業において自家用火力発電所が続々と建設された1932年以降である。その後,1936年には十分に技術を習得したとして,日立製作所はヤーロー社との契約を解消し,独自の設計に移行した。戦前から戦時期までに製作されたボイラーは,主に製鉄所の自家発電所向けのものが大半を占め,そのうち最大のものは,1938年に完成した八幡製鉄所枝光発電所納めボイラー(蒸気量100t/h,蒸気圧53kg/cm²,上気温435°C)であった。ただし,この製品はいくつかの主要部品については輸入に頼っている。
一方,タービンについては,1930年代初めの日本において,三菱長崎・神戸造船所,石川島造船所が海外企業との提携のもと,すでに十数年にわたって製造を行っていた86)。日立製作所は,火力発電への参入にあたって,後発の劣勢を急速に補うため,1931-32年にドイツAEG社と技術提携し,1933年から製造に乗り出した。タービンについても企業の自家発電向けの比較的小型ものが多かったが,次第に電力会社向けの受注の獲得に成功するようになった。戦時期までの記録品となったのは,1939年に完成した中部共同火力名港発電所向けタービンであり,タービン容量5.3万kW,気圧40kg/cm²,温度435°Cであった。このときの名港発電所においては1〜3号機までの発電設備が設置され,ボイラーはすべて三菱神戸造船所製,タービン・発電機は1,2号機が三菱長崎造船所・三菱電機製であり,3号機のみが日立製であった。戦後初期に至るまで,火力発電設備においては,三菱グループが優位に立っていたのである。なお,AEG社との技術提携契約は,第二次大戦の勃発とともに自然消滅したため,その後は日立製作所の独自設計によってタービンの製作が行われた87)。
戦後,1950年代において,火力発電設備の拡充が政策的に図られるようになった時,強く認識されたのがアメリカからの技術的遅れであった。1952年3月,九州電力の築上火力発電所1号機(三菱グループが受注)の3.5万kW,気圧60kg/cm²,温度482°Cが最新鋭機として完成したが,当時のアメリカにおいては,気圧90-100kg/cm²,温度510-540°C程度の高温・高圧で熱効率の高い大容量機が標準となっていた88)。電気事業再編成によって,1951年に発足した9電力会 【219頁】 社においても,戦中・戦後の空白を埋めて世界的な技術水準にキャッチアップし,アメリカ並みの水準に近づけることが急務と認識されていた。
このうち,東京電力は,「米国の先進的な火力技術を吸収して,火力発電技術の飛躍的向上を図る構想」を立てた89)。大容量火力発電に関して,国内の電機メーカーに対する信頼は乏しく,アメリカの電機メーカーとの契約を強く選好したのである。もっとも,電力需給の逼迫に早期に対応する必要性から,1952-52年に計画された鶴見第二火力発電所,新東京火力発電所については,国内メーカーに発注することとした。この結果,1954年3月までに着工された両火力発電所の設備については,鶴見第二火力1−3号機が三菱グループに,4号機が日立製作所に発注された。また,新東京火力1号機が日立製作所,2号機が三菱グループに発注された。国内電機メーカーへの発注は,東京電力としては,緊急対応のためのやむを得ない選択であったと理解すべきであろう。
1954年計画の千葉火力発電所第1号機において,東京電力は最新鋭の大容量火力の導入が不可欠と判断し,アメリカGE社と契約し,12.5万kW,127kg/cm²,538°Cの設備を建設,1957年4月から運転開始した。東京電力は,これに続いて,千葉火力発電所第2号機においても輸入を考えていたが,朝鮮戦争休戦後の外貨不足を背景に,これを断念し,国内電機メーカーに発注することとした。これを受けて,GE社の設計をもとにした第1号機と同一仕様の第2号機が,東芝および三菱グループによって製作され,1957年11月に運転開始となった。なお,千葉火力発電所においては,3号機(1959年1月運転開始)がB&W社(ボイラー)とGE社(タービン)に,4号機(1959年8月運転開始)がバブコック日立(ボイラー)とGE社(タービン)に発注されている。よく知られているように,発電設備について「1号機輸入,2号機国産」との行政指導が通産省によってなされていた90)ものの,少なくとも1950年代半ばまで,大容量火力発電設備を発注する電力会社側においては輸入志向が強力であったものといえるだろう。
大容量火力発電設備の導入が本格的に検討され始めた1950年代初め,日立製作所は,この動きにどのように対応するかについて,決断に迫られた。実際,当時の日立製作所では,危機感をつのらせており,「技術水準の立遅れを急速に回復する為,三菱,東芝では,既に,WH,GEとの技術提携をなし,新三菱重工では,エッシャーとの提携の交渉をなしている。最近の九州電力相ノ浦,築上,東京電力鶴見第二の例が示しているごとく,純国内技術のみを以ては,製品の受注は勿論,引合にも参加出来ぬ現状」と認識されていた91)。
そうした認識のもと,日立製作所は,1952年12月,ボイラーについてはイギリスB&W社と,タービンに関してはアメリカGE社との間で技術援助契約を締結した92)。このうち,B&W社との契約は,「水罐式蒸気発生装置およびその部品ならびにこれに使用するための装置設備の製造据付・運転販売に関する援助,技術情報・設計資料・図面の供与,特許権の独占的実施権の供与」という包括的な契約であった。対価は,一時金3万ポンド,売上に対して3.5%(舶用ボイラーなど一部については5.0%)のロイヤルティーを支払う(ただし最低保証料年3万ポンド)こととされた。これに加えて,1953年7月,B&W社が戦前以来日本に保有していた合 【220頁】 弁会社の東洋バブコックを引き継ぐ形で,日立バブコック社(日立製作所,B&Wが折半出資)が設立され,技術援助契約は同社に受け継がれることとなった。
一方,GE社(実際にはGE海外部門のIGE社との契約)との契約は,「スチームタービンおよびこれに直結する火力発電機,舶用スチームタービンおよびこれらの部品とその他製造機械の製造情報,図面等の提供,特許権の非独占的実施権の供与」などである。対価は,一時金10万ドル,売上に対して当初4年間3%(最低保証料年10万ドル),その後の4年間2%(最低保証料5万ドル)のロイヤルティーを支払うこととされた93)。このGE社との契約について,日立製作所は,「収支面に於て当分の間は利益を期待する事は困難であるが,高温,高圧に向かいつつある今日提携せざれば,大容量のタービンに於ては日立は全く受注の外におかれ,延いては今回B&Wと提携完了したボイラーの受注にも悪影響を及ぼすこと」となるため,GE社との提携が「絶対不可欠の条件」と考えていた94)。
以上の契約に記されているように,ロイヤルティー支払いは決して小さくはなかった。当時の固定為替レートで換算するならば(1ポンド=1,008円,1ドル=360円),技術提携による年間最低支払いが,ボイラー(B&W社)については3,024万円,タービン(GE社)については3,600万円となる。一方,1954年度において,日立製作所におけるボイラーの売上高は9.5億円,タービンの生産は9.0億円であったから,2社へのロイヤルティー支払いは,最低でも対象品目の売上の3.6%程度であったことになる。1954年度の日立製作所全体の売上高営業利益率が12.2%であったから,ロイヤルティー支払いによるコストアップは収益を圧迫する要因として比較的大きなものであった。先発する東芝,三菱との激しい競争とロイヤルティー支払いに伴う収益低下が予想されたが,日立製作所は,大容量火力発電に本格参入する道を選んだのである。
(3)1950年代の技術導入─真空管・ブラウン管
戦後初期における日立製作所の技術提携において,ボイラー・タービンと並んで重要であったのが,RCA社との電子部品に関する技術提携であった。前述のように,日立製作所では,戦間期の国産工業の合併により通信機事業(戸塚工場)を獲得し,戦時期の理研真空工業の吸収によって真空管事業(茂原工場)を傘下に収めており,これらの事業は戦時期に大きく拡大した。このうち茂原工場は,敗戦後,軍需の消滅によって生産量が激減したことから,整理案さえ考えられた。しかし,電子工業の発展についての将来的な期待も存在したことから,1940年代末までに,再建のための人材が集められるとともに,他の工場に先駆けて合理化が進められた95)。
電子部品に関する海外企業との提携も早くから進められた。1949年9月,日立製作所は,アメリカでラジオ等の無線機を中心に生産する電機メーカーであるフィルコ社との間で,冷蔵 【221頁】 庫・真空管等に関する技術導入契約について合意した96)。フィルコ社との提携についてはGHQの認可が下りずに解消されたものの,フィルコ社からミニアチュア管製造機が輸入されて茂原工場に設置されるなど,日立製作所における戦後の真空管生産体制の拡充につながった。
もっとも,後発の日立製作所の真空管は,戦後民需転換後の主たる需要者であるラジオ・セットメーカーからの大口需要を獲得することができず,1950年に戸塚工場でのラジオ生産が中止となって以後,販売が低迷した。一方,1950年代初頭には,FM無線通信網やテレビの実験放送開始など新たな動きが生じてきたことを受けて,真空管市場の拡大が期待された。
そこで,1952年2月,日立製作所はアメリカRCA社との技術援助契約を締結するとともに,同時期には,日立製作所本社に臨時に設置された電子工業開発部が中心となって,「電子工業5か年計画」を策定した。こうして,全社的に電子工業の強化が図られることとなり,RCA社からの技術援助を前提として,茂原工場において新たな真空管工場の建設が計画されることとなった97)。
日立製作所とRCA社との技術援助契約の詳細は次の通りである98)。技術援助の対象となる品目は,@受信管・トランジスタ,Aブラウン管・送信管,Bテレビ受像機・電子管であり,売上に対するロイヤルティー(特許使用料および技術援助料)は,@3%,A5%,B2%(ただし,最低保証料年6万ドル),期間は10年と定められた。このうちトランジスタを除く品目は,茂原工場の生産品目であり,1954年度における真空管(受信管,送信管,ブラウン管を含む)の販売額は合計4.98億円程度であった99)から,円換算のロイヤルティー最低保証料2,160万円は,1950年代前半の日立製作所にとっては大きな負担であったことは間違いないであろう100)。収益を実現するためには,量産化の実現による単位あたりコスト削減と売上の拡大が必須であった。
(4)技術提携の効果
日立製作所にとって,大容量火力発電機器に関する技術提携の効果は大きかった。提携後の第1号は,中国電力三幡発電所向け75t/h,425°Cボイラーと小規模な製品であったが,その後急速に大容量化し,1956年には東京電力鶴見第二発電所向け280t/h,513°Cボイラーを完成した。これらの実績が認められ,輸入品志向を強めていた東京電力千葉発電所4号機のボイラーの受注に成功,1958-59年にかけて,590t/h,571/543°Cのスペックを持つ日立製作所にとっての当時の記録品を製作した101)。ただし,千葉発電所納めボイラーについては,ドラムと高温部の一部はアメリカ・バブコック社からの輸入品であった。一方,タービンについても,GE社との提携後に東京電力鶴見発電所向け66,000kW,88kg/cm²,510°Cタービンの受注に成功し,1954年に完成した。その後,1959年に東京電力品川発電所向け125,000kW,102kg/cm²,538°Cタービンを,1960年に東北電力仙台発電所向け175,000kW,169kg/cm²,566/538°Cタービンを完成するなど, 【222頁】 日立製作所としての記録品を続々と製作した。
一方,RCA社との提携は,電子管に関わる事業の拡大に大きな貢献をした。前述のように,RCA社との技術提携を事業に有効に活用するためには,量産化と拡販が必須であった。このために,日立製作所は,1954年初め,茂原工場に,当時「東洋一」の規模といわれる「電子管工場」を完成した102)。電子管では後発の日立製作所が大規模な工場を建設したことは,業界では驚きをもって受け止められるとともに,先発で優位に立っていた東芝,日本電気などとの競争が激化する要因となった。
同時期,ラジオの需要が大きく,テレビ放送が開始したことから,日本の真空管市場においては,受信管,送信管,ブラウン管の需要拡大が見込まれていた。もっとも,日立製作所としては,大規模な「電子管工場」建設の際,具体的な販売先を十分に想定していたわけではなく,初期には拡販に苦労した。ラジオ受信管については保守用を含めて需要が大きかったものの,日立製作所がラジオ製造から一時撤退していたこともあり,日立製の受信管を使用したラジオセットはほとんどなく,他社製の受信管が指定買いされることが多かった。また,テレビ用ブラウン管に関しても初期においては信頼性の高い輸入品が使用されていた。
このような日立製作所の苦境を打開したのが,1954年半ばの早川電機(のちのシャープ)との契約であった。これは,日立ブランドのラジオを早川電機に委託生産してもらい,その生産に対して茂原工場で生産する受信管を供給する契約であった。これにより,受信管の一定量の需要先の確保が実現した。当初,早川電機との取引は,金額的には僅少であったが,これがすぐに大きく発展することとなる。1954年9月,日立製作所は,早川電機からテレビ用ブラウン管500個という,当時においては大型の受注を獲得したのである103)。これが契機となり,テレビ生産の初期にはブラウン管を生産していなかった松下電器等からの受注も獲得するなど,日立製作所のブラウン管事業が拡大した。テレビ向けブラウン管需要の急速な拡大を受けて,1958年1月,日立製作所は,茂原工場において,新たにブラウン管専門工場を完成させた。これにより生産能力が飛躍的に拡大したことを受けて,前掲した第8−5(1),8−5(2)表に示されているように,1950年代末,日立製作所は,早川電機,三菱電機から相次いでブラウン管の大口受注を獲得している。
(5)ロイヤルティー支払いによる収益の圧迫
1950年代半ば以降の日立製作所の事業において,火力発電機器,電子管ともに大きく拡大したものの,前述したようにロイヤルティー支払いの負担は大きかった。また日立製作所の本格的な参入により,火力発電機器,電子管ともに他のメーカーとの競争が激化した。これらの要因は,日立製作所の収益を圧迫する要因となり,1950年代半ばの日立製作所の経営において重要な課題となった。
このうち,火力発電事業に関しては,資料の制約のために明確な数値は得られないが,かな 【223頁】 りの長期にわたって赤字が続いたようである104)。また,電子管関係についても初期には赤字が続いた。日立製作所内において,「独算制」が重視され,工場ごと,製品ごとの収益が求められる傾向が根強かったことから,真空管生産に大きく依存していた茂原工場では,設備拡張に向けての社内からの資金調達さえ必ずしも円滑に進まなかった105)。したがって,当初から,技術導入を基盤とした事業発展が順調に展開したとはいいがたい。
資料の不足から,各事業における収益の全貌については定かではないが,第9表に断片的な数値を示した。1955年度において,ボイラー,タービン,受信管の営業利益率はマイナスであり,ブラウン管のみがプラスとなっている106)。なお,ボイラーについては1954-1957年度,タービンについては1954-56年度の間,製品ごとに見た営業利益率はマイナスであった。ブラウン管は1954年度,受信管は1954-1956年度上期までマイナスであった。
以上の検討から,B&W,GE,RCA等海外企業からの技術導入は,ロイヤルティー支払いの面において,1950年代半ばにおける日立製作所にとってかなりのコスト負担となり,収益を圧 【224頁】 迫する要因となったものと考えられる。この固定部分の大きいコスト負担をカバーするため,日立製作所の各事業部門は,それぞれに売上の拡大に注力した。大容量火力発電機器については,国内電力会社を中心に激しい受注競争を展開し,先発の三菱グループ,東芝を急速に追い上げていった。電子管事業においては,ブラウン管のテレビセットメーカーへの売り込みに注力し,ブラウン管製造能力のないテレビセットメーカーに主要部品を供給することにより,その発展を支えた。このことは,同時に,テレビセットメーカー間の競争を激化させる要因ともなった。
(6)ブラウン管とテレビ
ブラウン管事業に関連してもう一点,言及しておくべきことは,日立製作所が,1956年にテレビセットメーカーとして新規参入したことである。
1950年代半ばまで,日立製作所のテレビ事業に対する姿勢は揺れていた。前述のように,終戦直後に中央研究所において一時テレビジョン研究がなされるなど,研究開発の素地は存在していた。その後,1954年頃から,通信機を製造する戸塚工場において,テレビ開発が行われたが,本社経営陣が一時中止を指示することもあったという。このようなテレビに対する初期の消極姿勢の理由については,経営陣の中に経験の乏しいテレビへの進出は危ういと主張する声があったこと,茂原工場でのブラウン管生産が軌道に乗るまで待つべきであると判断されたこと,などいくつかの理由が断片的に指摘されているが,定かではない107)。日立製の最初のテレビは,1956年,「日立」ブランドを掲げることを許されず,日立製作所の子会社である「昭和電子」の製品として販売されることになった。当初は明らかに,かなり消極的な姿勢で市場への参入を図ったのである。しかし,発売開始後,売れ行きが急速に伸びたことから,日立製作所はテレビ事業を積極展開し,1958年には,テレビ受像機市場において東芝,松下,早川に次ぐシェアを獲得するに至った。
この間,日立製作所内においては,大西副社長が中心となって家電事業の推進を積極的に進め,1954年頃から販売体制の整備に取り組んだ。1955年に家電販売を専門とする100%子会社として日立家庭電気販売を設立した108)。従来,日立製作所の家電製品は,商品事業部の中で,小型モーターとともに扱われる小さな存在でしかなかったが,販売体制が急速に強化されたのである。日立製作所の家電製品のうち,当初は電気冷蔵庫のウェイトが高かったが,1950年代末にはテレビがトップとなる。1955-56年頃においては,日立製作所のテレビへの進出姿勢はきわめて消極的であったが,その後わずか数年にして,家電部門拡大のため,テレビが必須の製品となったのである。
日立製作所のテレビ事業の急速な展開に象徴されるように,この時期,三菱電機,東芝,日立製作所などの重電機メーカーの家電への進出が本格化し,既存メーカー(松下,早川,三洋など)との競争が激化した。重電機メーカーの家電への進出に関して,竹内宏[1966]では,生産の多角化が必然的であったこと,1954年頃からの景気後退や電源開発が一段落したことにより重電部門の一時的頭打ちが生じたことから景気変動の緩和が必要であったこと,電子工業の急速な発展が予測されたことから電子管・半導体部門の採算的な維持拡充が必要であったこ 【225頁】 とが指摘されている109)。そうした一般的な指摘はおおむね妥当であると思われるが,日立製作所においてはテレビへの進出に当初消極的であったことに見られるように,家電への進出が「必然的な」多角化への動きであったとは言いがたい。社内に家電進出や多角化志向が醸成されていたとはいえ,本格的に踏み出して行くための契機が必要であった。
このような契機に関して,本稿のこれまでの検討を踏まえるならば,電源開発の主たる方向が大容量火力中心へと変化し,各企業とも新たな技術導入が必須となり,コストアップが予想されたこと,電子工業においてもそのほとんどを導入技術に依存しており,早急な事業の拡大による導入コストの吸収が必要とされたことの影響を強調すべきであるように思われる。とりわけ,火力発電機器や電子管において後発だった日立製作所にとって,技術導入コストの負担は大きかったものと見られる。導入技術に依存する事業部門は,大容量火力発電設備の積極的な受注や,ブラウン管およびこれと関連するテレビを中心とする家電製品販売の急速な拡大といった新たな展開により,技術導入コストの早急な回収を図ることを強く求められていたのである。
もっとも,このような事業展開は,繰り返し述べてきたように,当然のことながら各製品分野における競争を激化させる要因となった。このことは,寡占体制が維持された重電事業よりも,新規参入が相次いだ家電事業において顕著であった。日立製作所の場合には,ブラウン管の量産体制を早期に築いて,テレビセットメーカーに供給するだけでなく,自らテレビ生産に乗り出すことで,二重に競争を激化させた110)。
以上のように,激しい競争が背景にあったことから,1950年代半ば以降,テレビをはじめとする家電事業の伸びはきわめて急速であったが,利益率においては必ずしも高くなかった。第10表に見るように,日立製作所においては,交流機(発電機器)が比較的安定した利益率を計上しているのに対し,家電製品はしばしば赤字を計上しており,全体に低い数値にとどまっている。テレビについては,売上高の伸びが大きかったことから,利益額は大きく伸びたものの,収益率の向上は容易に見込めなかった。しかし,1950年代以降,家電販売網を大々的に整備しつつあった日立製作所にとって,家電部門全体として売上高を高めることは必須であった。家電の中でも最も消費者への訴求効果が強いと考えられたテレビを開発・販売し続けることによって,販売店の集客の確保を図った。こうして,日立製作所は,家電事業に深く関与していくこととなったのである。
(7)総合電機メーカーとしての発展と個別事業における最適化
1954年度以降,日立製作所の主たる製品の売上高は,第11表のように推移した。1954年頃までは,水力発電機器を中心に重電機部門が大半を占めていたが,1956年から冷蔵庫・洗濯機を中心とする家電製品と自動交換機が伸び始めた。1957年以降はテレビが急増し,これに続いてボイラー・タービン等火力発電に関連する機器の伸びが目立つ。
1950年代後半頃から,日立製作所は,重電機メーカーから総合電機メーカーと呼ばれるようになり,家電,通信機,電子管等の電子部品も含めた事業展開を本格化させることとなった。同時に,それまでの水力発電機器中心の構成から,火力発電機器,変圧器等の拡大により,重電機事業部門内においても事業の総合化が進展した。1950年代末から1960年代初め頃,日立製作所は,少なくとも事業構成の上では,総合電機メーカーと呼ばれるにふさわしい企業に発展したということができる111)。
一方で,各事業を持つことの企業全体としての意義や事業構成のあり方に関する全体としての合理性が,日立製作所の経営を統括するトップマネジメントにおいて,どこまで検討されたのかについては,資料の不足から十分に明らかにはできない。GEのような総合電機メーカーとなることが漠然とした目標であったことは確かであろうが,総合電機メーカーとしての統合的な戦略が十分に考えられていたのかどうかについては,定かではない。
戦後の日立製作所がB&W社,GE社,RCA社との技術提携に積極的だったことに示されるように,技術導入が主要事業の発展にとって決定的な役割を果たすとの認識は確かに存在した。その中でも火力発電機器に関わる技術導入については,収益面での困難は当初から予想されていた。それにも関わらず本格参入したことは,莫大な投資を継続的に行う電力会社から発 【227頁】 電機器を長期にわたって受注し続けること,関連する送配電関連設備の受注機会の拡大が想定されたものと見ることができる。そうした意味では,総合重電機メーカーとしての統合的な戦略はある程度存在していた可能性はあろう。ただし,火力発電機器の赤字が比較的長期にわたって継続したと見られることなどから,長期的な視点から十分に経営戦略が検討されたとは考えにくい。技術導入しなければ,大容量火力発電の受注が困難になるという危機意識がきわめて強力であり,他の選択肢を考慮する余裕がほとんどなかったというのが実情であろう。
一方,エレクトロニクスや家電への進出については,比較的多くの選択の余地があった。その中でも,テレビ事業への参入が遅れたことに見られるように,日立製作所の家電への進出は当初は及び腰であった。おそらく,1954-55年にかけての重電機需要の停滞や火力発電機器の収益性への懸念,技術導入コスト負担など,厳しさを増した事業環境の打開が本格的な進出の契機になったものと見られる。
家電製品のうち冷蔵庫・洗濯機等は重電機と技術的な関連が深かったが,テレビに関しては重電機とほとんど関係がなかった。テレビは,日立製作所が劣勢に立つ電子管事業や無線機器事業との関連が深く,テレビの部品として中核となる電子管事業においは,導入技術の早期収益化という観点から,ブラウン管のテレビセットメーカーへの販売が優先された。RCAと技術提携を結び,茂原工場に大規模な電子管工場を建設した時には,ブラウン管の量産化は明確な目標であったが,テレビ事業への積極的な進出が定まっていたわけではない。テレビ受像機市場の急速な拡大を受けて,日立製作所もテレビに本格参入し,その後は継続的に新製品開発への関与を深めていくこととなったが,かなり後追い的な展開となった。このような展開は家電販売網を整備し,消費者への認知度を高めていくという,1950年代後半に新たに重要性を増してきた家電販売戦略のロジックに基づいていた。
一方で,立ち上げ期の電子管事業において規模の経済を実現することは決定的に重要であり,自社によるテレビ事業への進出を前に,日立製作所はテレビセットメーカーへのブラウン管の大量販売に乗り出した。テレビ事業への本格進出後においても,ブラウン管のテレビセットメーカーへの大量供給を持続しており,このことは,テレビ受像機市場での競争を激化させ,利益率を低下させる要因となった可能性が高い。これらのエレクトロニクス及び家電事業に関する一連の戦略の整合性が,日立製作所の中で十分に検討されていたとはいいがたい。前述のように,1952年,日立製作所本社において,「電子工業開発5か年計画」を策定したことは確かである。しかし,この計画は,主に茂原工場に新設する真空管工場の1953年以降の5か年間における受信管,送信管,ブラウン管をそれぞれどれだけ生産して販売するかという机上の数値目標を掲げたものであり,それらの数値についての「具体的な目算はなかった」という112)。大規模な真空管生産は,テレビ生産や通信機生産に関する社内および社外の動向を踏まえた上でそれらと十分にリンクすることなく計画され,かなり漠然とした需要拡大見込みのもとに推進されたのである。
これらの事実から,日立製作所においては,電子管,テレビ,およびそれを含む家電それぞれの事業に関して,時々刻々と変化する環境に短期的に適応する形で,個別に最適化戦略が追求されていたものと理解するのが妥当であるように思われる。少なくとも本稿の対象とした1950年代末までにおいては,各事業は大きく拡大したから,このような個別事業ごとの逐次最 【228頁】 適化戦略は一定の成功を収めたものといえるであろう。しかし,電子工業全般について統合された戦略は不在のままであった可能性が高い。
以上の検討から,1950年代の日立製作所は,重電機に関しては比較的統合された戦略を意識していた可能性はあるが,電子管,家電など新たに拡大しつつあった事業においては,十分に統合的された戦略を構築しなかった。日立製作所は,総合電機メーカーと呼ばれるにふさわしい多角化された事業展開を示した。しかし,その内実においては,個別事業において逐次最適化を図る戦略が追求された。それぞれの事業は分散して展開する傾向が強く,総合電機メーカーとしての統合された戦略が明確な形で現れることはなかったのである。
このような統合的な戦略を構築することは,外部環境がめまぐるしく変化し,激しい技術導入競争が展開した1950年代には困難であったことは間違いない。日立製作所においては,1960年前後から,自他ともに総合電機メーカーであるとの認識を確立する中で,統合的な戦略の必要性が意識され始めることとなるが,これについての具体的な検討は,本稿を超える今後の研究課題である。筆者としては,現時点では,このような総合電機メーカーとしての初期の経営のあり方は徐々に克服されていったものの,本質的な部分はかなりの期間継続したと考えている。すなわち,総合電機メーカーとしての統合的な戦略の形成は,しばしば意識されたものの先送りされることが多く,その後の日立製作所において長期的な課題であり続けたように思われる。また,以上のような特徴は,総合電機メーカーとして日本で最大規模をほこった日立製作所のケースの特徴であるが,東芝,三菱電機,さらには,より小規模ではあるものの多角的に事業を展開した多くの日本の電機メーカーについても,一定程度あてはまるのではないかと推測している。
本稿では,その前半で,戦後初期までの,東芝,三菱電機における研究開発体制の形成と展開に簡単に触れ,それらと対比する形で,日立製作所における研究開発体制の形成と展開をやや詳細に検討した。検討の結果,戦時期から戦後初期において,企業内における独自の研究開発を基盤とした事業展開メカニズムの萌芽が見られたこと,同業他社に比して日立製作所は研究開発体制の整備に早期から取り組み,その後の事業発展の成果につながったことを強調した。ただし,1950年代の日本の電機メーカーにおける研究開発体制においては,導入技術の早期の吸収消化と製品化が強く求められた。そうした動向を背景に,高度経済成長前半期の日本企業の研究開発体制においては,研究開発の各プロセスの連携が弱く,経営全体のシステムの中において,必ずしも合理的に機能していないという課題を抱えていた可能性が示唆された。
一方,本稿の後半では,日立製作所の事例を中心に,戦後における技術導入が事業展開に与えた影響について,主要事業に立ち入って考察した。1950年代半ばにおいて,電源開発が水力中心から火力中心に変化することにより,水力に優位性を持つ日立製作所は,事業展開の大きな転換を迫られていたこと,状況を打開するためには本格的な技術導入が必須であったこと等を指摘した。そこで,戦前以来自主技術へのこだわりの強かった日立製作所は,重電に加え,電子工業関連の技術導入を積極的に行う方針へと大きく転換した。1950年代においては,技術導入コストの経営上の負担は大きく,日立製作所は可能な限り早期な事業展開を図り,コスト 【229頁】 の回収を図った。多角的な事業展開により日立製作所は総合電機メーカーと呼ばれるようになったものの,各事業の展開においては個別に最適化を図る志向性が強く,総合電機メーカーとしての統合された戦略は十分に構築されなかった。
発電事業においては,技術導入によって大容量火力発電機器への参入が可能になったことにより,受注競争が激化した。技術導入コストを吸収するために早期の収益化が図られたことから,家電や電子部品事業においては,個別事業における最適化戦略が逐次展開された。このことは,企業間競争を激化させる要因となった。
このようなきわめて競争的な環境を背景として,海外からの技術導入を早期に吸収消化し,迅速に製品開発に結びつけたことで,多くの日本の電機メーカーが高度経済成長期に急速な発展を遂げたことは間違いないであろう。しかし,研究開発体制に課題を抱えるとともに,企業全体としての統合的な戦略の構築が不十分なままに個別事業の逐次最適化による事業展開が図られたことは,経営上の影の部分となり,その後も繰り返しトップマネジメントを悩ませる要因となったのではないかと思われる。
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