ベーシック・インカムの実現可能性に関する一考察*
鈴木 亘**
コロナショックの経済対策として行われた国民一人当たり10万円の特別定額給付金を契機に,ベーシック・インカムの導入論が再び盛り上がりを見せている。本稿は,我が国におけるベーシック・インカム導入の実現可能性をその財源面から検討した。すなわち,ベーシック・インカムを導入するとどの程度の年間支出額になるのか,その財源として歳出削減からどの程度捻出できるのか,残りの金額を所得税や消費税の増税で徴収した場合にどの程度の税率になるのかを試算した。
ベーシック・インカムを,15歳以上の国民が月額10万円,15歳未満が月額6.6万円と設定した場合,その年間支出額は145.5兆円になる。それに対して,ベーシック・インカムと同様の機能を持つ生活保護制度や基礎年金制度,所得控除制度などを廃止すると,99.4兆円の歳出削減が可能である。両者の差額である44.5兆円を消費税で徴収した場合には21.7%の増税,所得税で徴収した場合には23.1%の増税が見込まれる。
ベーシック・インカム,給付付き税額控除,特別定額給付金,自己申告制度
全国民に政府が一定額の生活費を支給するという「ベーシック・インカム」の導入論が,コロナ禍で再び盛り上がりを見せている。マスコミなどで活躍する論客,政府の専門家会議委員,野党政治家などがたびたび提案をしているほか,主要な経済雑誌で特集が組まれるなど,ベーシック・インカム(BI)という言葉を見聞きする機会が急に増えてきた(竹中(2020),週刊エコノミスト(2020),月刊世界(2020))。
今回のブームのきっかけは,10万円の特別定額給付金であろう。これは1回限りの一時金であったが,所得制限をかけずに全国民に同じ金額を配るというアイディアは,ベーシック・インカムそのものであると言って良い。また,コロナショックによる景気悪化が続いていること 【314頁】 から,2回目の10万円給付を望む声も少なくない。それならいっそうのこと,毎月10万円を支給することにしてはどうかという発想であると思われる。
もちろん,1回限りの給付でも約13兆円の予算を必要としたのであるから,財源的には実現は容易なことではない。特別定額給付金を毎月行うとなると,10万円×12ヶ月×日本の人口(約1億2500万人)で年間約150兆円の予算が必要となる。2020年度の国の一般会計の当初予算が約100兆円であるから,その1.5倍もの金額となる。もし両者を単純に合計すると,年間250兆円もの予算規模となるが,これは我が国のGDPの約半分に当たる。政策の実現は非常に困難であることが予想される。
ただ,今回のような経済ショックが起きた際に,そのダメージを強く負った生活困窮者,低所得者などに対して,政府がセーフティーネットとして,一定の生活支援を行うべきことは言うまでも無い。今回も,当初は所得制限付きで世帯当たり30万円の給付を行おうとしたが,その際に露呈したことは,政府が国民の所得や資産を把握できていないという現実であった。誰が支援の対象か,対象でないのかを迅速に線引きできない以上,今後も持続的に弱者を支援するためには,全国民への10万円給付−つまり,ベーシック・インカムを行わざるを得ないという主張には,一定の合理性が感じられる。
また,近年,地震や洪水などの自然災害が頻繁に起きているし,リーマンショック,東日本大震災,コロナショックと,100年に一度と言われる経済ショックが3回も起きた。こうしたリスクに対する保険として,政府が基礎的な生活水準を保障する仕組みを整えるべきだという 考えにも,傾聴に値する面がある。
そこで,本稿は,我が国でベーシック・インカムを導入する場合にどの程度の財源が必要なのか,その財源を捻出するための歳出削減や課税などが現実的な規模になるのかどうか,簡単な試算を試みることにする。
そもそもベーシック・インカム(Basic Income)という言葉は,日本語で「基礎的所得」を意味する。つまり,政府が全国民に対し,健康で文化的な生活を送るための所得を給付する制度である。健康で文化的生活を送るための制度と言うと,真っ先に思い浮かぶのが生活保護制度であるが,まさに生活保護を全国民に広げるイメージである。
ただし,生活保護とは異なり,福祉事務所による資産調査などの審査は必要ない。国民は,スティグマを感じることなく,権利として給付金を受け取ることになる。また,生活保護は,働いて労働収入が得られると生活保護費が減額される制度(勤労控除)となっているが,そのような仕組みも必要ない。働きたい人はいくら働いても良いし,働いて得た収入は全て自分のものである。したがって,基本的に「貧困の罠」に陥る心配はない1)。
ところで,なぜ,政府がベーシック・インカムを給付しなければならないのかと言う点については,昔から様々な議論がある(山森(2009),原田(2015)。人が人として生きるための 【315頁】 生存権代だという論者もいれば,専業主婦の家事労働や家族介護など,アンペイドワーク(対価を支払われていない労働)の対価だと言う議論もある。ゴミ回収や清掃などの低賃金労働者が,尊厳や敬意を得られるようにするため手段であるとか,黒人差別やLGTB差別をなくすための手段であるとも言われる。
また,我が国では,生活保護制度の補足率(生活保護にかかるべきワーキングプアの中で,実際に生活保護にかかっている人の割合)が低いなど,既存の支援制度がうまく機能していないので,その代替手段とされたり,近年広がっている所得格差を縮小するための政策手段だという主張もある。ごく最近になると,今後のAI社会の格差拡大を防ぐための政策と位置づけられたり(井上(2018)),インフレ目標を達成するためのヘリコプターマネー政策に用いるべきとの提案もある。
このように様々な考え方,思想に裏付けられているベーシック・インカムであるが,制度的には非常にシンプルで,国民全員に一定額のお金を配るということだけである。配布する金額については月額7万円,8万円,10万円とか,大人と子どもの金額を分けるなど,論者によって様々なバリエーションがあるが,いずれにせよ膨大な予算が必要となる。その財源の捻出方法についてもいろいろな議論があり,大きく分けて,歳出削減,所得税増税,消費税増税,資産課税増税,国の借金増などの提案がある。
まず,歳出削減であるが,ある程度までは容易に達成が可能である。なぜならば,ベーシック・インカムと同じような目的で行われている既存施策がたくさんあり,ベーシック・インカム導入によって廃止が可能になるからである。本章では,歳出削減による代替財源がどの程度の金額になるのかを試算してみよう。
(1) 生活保護費
歳出削減の候補として,まずその筆頭に挙げられるのが,生活保護制度である。ただし,日本の生活保護は約半分が医療費(医療扶助)なので,この分をカットすることは適切ではない2)。カット可能なのは生活扶助と住宅扶助分に限られるだろう。
厚生労働省(2019)によれば,平成29年度の生活保護費負担金(事業費ベース)は3兆7485億円で,生活扶助費は1兆1570億円(31.6%),住宅扶助費は5978兆円(16.3%)である。この割合が変わらないという前提で,平成31年度(令和元年度)当初予算ベースの生活保護費負担金(事業費ベース)3兆8011億円に乗じると,1兆8207億円となる。この額を削減可能な金額とする(以下同様)。
【316頁】(2) 基礎年金
第2に,基礎年金も廃止可能であろう。もっとも,厚生年金(旧共済年金も含む)の2階部分である所得比例年金については,公費も入っていないし,基礎的な保障とは位置づけられていない。この部分は,納めた保険料に比例して受け取る私有財産という面が強いから,廃止は適切ではない。
厚生労働省(2020a)によれば,平成30年度の基礎年金勘定における基礎年金給付費(本来分)と基礎年金相当給付費(基礎年金交付金)の合計額は,23兆8644億円である。
(3) 失業給付・育児休業給付
第3に,職を持っているかどうかにかかわらず,ベーシック・インカムが支給されるのだから失業給付もいらないだろう。同様に育児休業給付も不要である。
まず,失業給付については,どの時点で費用を計算するかでずいぶん金額が異なるが,コロナ禍が起きる前の平成2年度当初予算ベースの失業給付費は,厚生労働省(2020b)から把握できる。令和2年度(当初)予算(労働保険特別会計雇用勘定)の失業等給付費1兆2481億円の他,関連事務の経費などを合計すると,約1.3兆円となる。育児休業給付費は6902億円である。さらに,職業紹介事業や高齢者や若者,障害者などに対する能力開発や就労支援事業をカットすれば,さらに大きな金額となるが,ここではそこまでは考慮していない。また,雇用調整助成金など,休業手当に対する補助金もカット可能となると思われるが,時期的な変動が大きいためにここでは考慮しなかった。
(4) 児童手当・児童扶養手当・教育無償化
第4に,子どもにもベーシック・インカムが支給されるのだから,児童手当や児童扶養手当も不要である。幼児教育無償化も廃止して,きちんと保育や幼児教育の対価を支払わせるべきである。
児童手当に関しては,地方分も含めた金額(令和2年度当初予算ベース)が内閣府(2020)にあり,2兆929億円である。児童扶養手当の1599億円も同様にカットする。
教育無償化の費用に関しては,厚生労働省(2020d)から幼児教育・保育の無償化予算の8858億円と高等教育無償化予算の5274億円を合計した(地方分も含む)。
(5) 社会保障関係費の医療保険,介護保険分
第5に,ベーシック・インカム導入を契機に,社会保険に対する野放図な公費投入(医療保険,介護保険の分)も廃止すべきである。なぜならば,公費投入は保険料や自己負担額を低く保つための補助であり,本来は低所得者への支援措置である(鈴木(2014))。低所得者でも一定の所得が確保されるのであれば,きちんと社会保険の対価を支払ってもらうのが筋と言えるだろう。厚生労働省(2020d)から,社会保障関係費の医療保険分12兆2674億円と介護保険分3兆4038億円を合計する。
(6) 配偶者控除・扶養控除等
第6に,現在の所得税には,様々な所得控除の仕組みがある。このうち,配偶者控除や扶養控除は,専業主婦や扶養家族(主に子どもたち)にかかる費用の一定部分を補助する制度であ 【317頁】 るから,ベーシック・インカム導入後は明らかに不要となる。社会保険料控除なども,きちんと対価を支払えるだけの所得が保障されるのだからカットできる。一方で,給与所得控除や基礎控除も不要と考える論者もいるが(週刊エコノミスト(2020)),これは本業の労働にかかる費用を控除するという意味合いなので,廃止は不適切な面があると考えられる。
財務省(2020)から,源泉徴収されている給与所得者および確定申告をしている者の配偶者控除,配偶者特別控除,扶養控除,社会保険料控除,その他控除を合計した。
また,税関係では,消費税の軽減税率も,低所得者に対する支援措置なので廃止できる。財務省(2019)によれば,8%から10%への消費税率引き上げに伴う軽減税率の負担軽減分は1.1兆円と試算されている。
さて,これらの歳出削減可能な「代替財源」をまとめたものが,図表1である。その合計額は99.4兆円に上ることがわかった。一方,ベーシック・インカム導入に必要な予算額は,月額10万円の特別定額給付金をベースに考えると年間151兆円程度になる。ただ,子どもまで月額10万円の給付というのは,当初から少しやり過ぎだという意見も多かった。そこで,15歳未満の子どもは大人の3分の2と考えて月額6.6万円の支給とする。すなわち,15歳以上の国民が月額10万円,15歳未満が6.6万円というベーシック・インカムを創設することにすると,その予算額は145.0兆円である。したがって,差し引き(145兆円−99.4兆円)約45.5兆円の財源不足が発生する。この45.5兆円という予算を何とか工面できれば,一応,ベーシック・インカムは実現可能になる。
まず,この45.5兆円を消費税増税で賄う場合を考えよう。消費税収を1%当たり2.1兆円で計算すると,21.7%の引き上げが必要である3)。現在の10%と合計して31.7%の消費税であり,しかも軽減税率はないから,国民の負担感はかなり高いものとなる。政策的には極めてハードルが高いと言えよう。
また,消費税を財源とすることには,いくつか問題がある。例えば,ベーシック・インカム以外の所得がゼロの低所得者を考えた場合,月額10万円をすべて消費しても,7万6千円分の物品しか購入できない(2万4千円分は税金分)。つまり,ベーシック・インカムは実は10万円ではなく,7万6千円になってしまう。
また,消費税は逆進性があるので,低所得者に厳しい税制である。低所得者の支援,あるいは格差対策という目的を持つベーシック・インカムを実施するために,財源として消費税を選ぶことには矛盾がある。
一方,固定資産や金融資産への課税,相続税などの資産課税を,ベーシック・インカムの財源に充てることにも問題がある。こうした資産は,賃金所得など既に課税された所得を蓄えたものであるから,そこにまた課税をするということになると,言わば二重の課税となってしま 【318頁】 う。また,資産のようなストックを,毎月支払いが発生するフローの政策の原資とすれば,いずれ取り崩されてしまうので持続不可能である。フローの再分配政策には,ストックではなく,フローの財源を考えるのが基本と言えるだろう。
さらに,国が借金をさらに増やして,国債でベーシック・インカムの財源を調達すべきという考えもあるが,これも問題がある。確かに,ヘリコプターマネー政策(給付金などの財政政策を借金でさらに拡大し,発行した国債を日銀に引き受けさせて貨幣流通量を増やす政策)を行って,ある程度のインフレを起こし,デフレから脱却するという政策はマクロ経済政策としては理解できる面がある。しかし,それをベーシック・インカムと連動させることには問題が多い。
なぜならば,資産を財源にするアイディア同様,借金による財源調達は持続不可能であるからである。景気対策に使う公共事業とは異なり,一度作った社会保障政策はすぐさま既得権化するので,後で変更することが極めて難しい。例えば2%のインフレ目標を無事に達成できたので,ベーシック・インカムを廃止して元に戻しましょうということは,政治的に極めて難しいだろう。
それでも,まだベーシック・インカムを続けるということになれば,インフレがどんどん高進してゆくことになるが,そうなるとそもそもの10万円の価値が大きく目減りしてしまう。例えば,物価が2倍になるとすれば,10万円で買える物やサービスの量(購買力)は,今の5万円分と等しくなる。これでは,5万円しか給付していないことと同じであるから,ベーシック・インカムの趣旨に反する。
したがって,増税方法として自然なのは,やはり所得税であろう。低所得者は所得税も少なくなるから,再分配政策としても適切である。2020年度の給与所得と申告所得から,配偶者控除や扶養控除などを差し引いた金額を新しい「課税所得」と考えると,約197兆円になる。具体的には,財務省(2020)から,源泉徴収をされている給与所得者の課税所得見込額112兆1370億円および確定申告をしている者の課税所得見込額33兆6070億円を合計し,さらに図表1の諸控除51.2兆円を加えて計算した。
財源不足の45.5兆円をこの金額で割ると23.1%であるから,平均的に23.1%の所得税増税が必要ということになる4)。復興所得税のように,全国民に一律に課すフラットな所得税率を考えても良いが,この増税分も累進課税にして,低所得の負担をさらに軽減しても良い。ただ,いずれにせよ平均で23.1%増というのは大増税であるから,これも実現可能性は極めて低いと言えるだろう。
もちろん,財源捻出のためにさらに歳出削減を行えば,増税分はそれだけ圧縮できる。例えば,廃止する生活保護や諸手当,基礎年金の支給業務に携わる公務員や日本年金機構の職員を人員削減することが考えられる。特に,市区町村で働く地方公務員の多くは福祉的な業務に携わっているから,その人件費削減幅はかなりの規模になるだろう。しかし,公務員削減は,自治労などからの猛抵抗があることを覚悟しなければならない。まさに血を見る改革になる。
また,我が国は,事後的な所得再分配の機能が貧弱で,むしろ事前的な所得再分配や所得維 【319頁】 持のために作られた政策が多いことが知られている。例えば,農林水産業への各種補助金,自営業・中小企業対策,公共事業,地域振興策などの目的で行われる地方への各種補助金は,明らかに所得再分配や所得維持を目的とした事業を多く含んでいる。これらの産業では,市場競争で勝ち負けが決まってから,負けた者への所得再分配を行うのでは無く,はじめから弱いと見なされた産業・地方に,勝ち負けにかかわらず再分配が行われている。非効率な事前的再分配政策である。
また,地方交付税交付金を原資として行われている地方自治体の民生費の諸事業(社会福祉,老人福祉,児童福祉など)も,ベーシック・インカムと重なる部分が多いので,本来は削減可能である。こうした諸事業をカットすれば,2012年時点で15.9兆円の財源が捻出できるという試算もある(原田(2015))。ただ,これらを実施することも政治的には困難を極めるであろう。長年にわたって凝り固まった既得権になっているし,各種補助金は競争を制限し,当該産業を保護するための岩盤規制と結びついているものが多い。単純に補助金だけを廃止するという訳にはいかないのである。
ベーシック・インカムの金額をもう少し下げるという方法もある。例えば,国民一人当たり8万円,15歳未満はその2/3である5.3万円という制度設計ならば,ベーシック・インカムの総予算額は116.0兆円になる(図表2)。財源不足は16.6兆円まで圧縮されるから,消費税増税で賄うとすると7.9%,所得税増税では8.4%である。もちろん,原田(2015)が挙げた追加的な歳出削減策をもし実行できれば,計算上は何とか増税をしなくても財源が確保できる水準となる。
ただ,これを実施するとなると,もはや改革というより革命と言った方が良いかもしれない。この国の形を大きく変えることになる。農林水産業や建設業,自営業,中小企業,地方,高齢者への事前の所得再分配政策や岩盤規制を廃止し,地方公務員も大幅に削減して小さな政府を目指すことになる。ベーシック・インカムという生活保障は確保されているのだから,企業や労働者は市場で激しい競争を行い,安心して成長のためのリスクを取ってもらおうということになるだろう。
実は,ベーシック・インカムの本当の意義は,その導入をきっかけに,この国を成長型の体質に作り替えるということにあるのかもしれない。そして,そこまでやる覚悟があるのであれば,ベーシック・インカムは将来のために,十分にやる価値のある大改革となるだろう。
したがって,国民にはそこまできちんとした説明をすべきである。ベーシック・インカムを「10万円の給付金が毎月もらえる制度」というぐらいにしか理解せず,甘い餌に釣られて賛成する国民では,この厳しい改革についてこられる訳がない。
ベーシック・インカムまで大きな風呂敷を広げずとも,ベーシック・インカムのエッセンスを取り入れ,なおかつ実現可能性のやや高い改革手法がある。それが「負の所得税」もしくは「給付付き税額控除」と呼ばれる制度である。
実は,18世紀から非常に多くの議論が行われてきたベーシック・インカムであるが,実際に国レベルで実行に移された前例は存在しない。最近では,2017年から18年に行われたフィンラ 【320頁】 ンドのベーシック・インカムが有名であるが,これは単なる社会実験で,対象者はわずか2000人に過ぎなかった。また,2016年にはスイスでベーシック・インカム導入に関する国民投票が行われたが,反対多数で否決されている。
一方,給付付き税額控除については,既にアメリカ,カナダ,イギリス,フランス,オランダ,スウェーデン,ニュージーランド,韓国などで実施されている。国によって様々なバリエーションがあり,@勤労税額控除,A児童税額控除,B消費税逆進性対策税額控除の3つに分類することができるが(森信(2008)),ここでは一括して給付付き税額控除と呼ぶことにする。
給付付き税額控除は,ベーシック・インカムと対比させながら理解するのがわかりやすい。まず,図表3は,ベーシック・インカムの財源を所得税で調達するもっとも一般的なケースを示したものである。横軸は,ベーシック・インカムを受ける前の課税前所得を示しており,原点は所得ゼロで,右に行けば右に行くほど高所得者となる。縦軸は課税後所得もしくは再分配後の所得である。課税前所得は,灰色点線@の45度線で示される。
ここで,ベーシック・インカム(BI)は,もともとの所得の違いに関係なく,国民全員に一定額B(例えば1人月額10万円)が配られる制度なので,縦軸Bから出発する横向きの黒実線Aとして描かれている。もともとの所得@とベーシック・インカムAを合計すると(両線を縦方向に足し合わせると),黒点線Bとなる。
ただし,ベーシック・インカムを実施するには,財源がなければならない。その財源を所得税増税で調達すると,その分,手取りの所得が減って灰色実線Cのようになる。つまり,シャドーがかかっている部分が所得税として課税された分である。最終的には,国民は灰色実線Cの課税後所得に直面することになる。
一方,給付付き税額控除は,一定額の課税前所得を上回る中高所得者からは所得税を徴収するが,一定額を下回る低所得者からは税を徴収せず,逆に還付金を給付する制度である。プラスの還付が受けられるということは,マイナスの所得税が徴収されるということなので,「負の所得税」と名付けられた(Friedman and Friedman(1962))。
図表4の黒点線Aが給付付き税額控除を表したものである。横軸と交わる点T以下の低所得者には給付(プラス),それ以上の所得者には税(マイナス)が課されている。このAの黒点線を課税前所得@と合計すると(縦方向にグラフを足し合わせると),手取り所得Bとなる。実は,これは図表3のC課税後所得と全く同じものである。
つまり,ベーシック・インカムとまったく同じ政策効果が,給付付き税額控除を実施することで得られるのである。このことは,数式を使って記述した方がむしろわかりやすいかもしれない。課税前の所得をI,所得税率をt(現実の制度は累進課税であるが,ここでは単純化して一定率の所得税を考える),ベーシック・インカムをBとしよう。この時,課税後所得(再分配後所得)は,ベーシック・インカムと所得税課税後の手取り所得を合計したB+(1−t)Iで表される。
次に,給付付き税額控除については,図表4でT以上の課税前所得がある場合には,課税後所得(再分配後所得)はI−(I−T)tで表される。第2項が所得税額である。一方,T未満の課税前所得の場合には逆に還付が受けられるので,課税後所得(再分配後所得)はI+(T−I)tと表せる。この両者は,整理すると全く同じものであるから(負の所得税の連続性),課税前所得がT以上であろうと未満であろうと,I+(T−I)tと表すことができる。
ここで,課税前所得が0の場合(I=0の時)の還付額をBと表すと,B=0+(T−0) 【321頁】 t=tTである。したがって,給付付き税額控除を行った後の課税後所得I+(T−I)tは,I+tT−tI=B+(1−t)Iであるから,先のベーシック・インカムの時の課税後所得B+(1−t)Iと同一のものになる。
政策効果が同じならば,ベーシック・インカムでも給付付き税額控除でも,どちらでも良いような気がするが,実務的には大違いである。10万円の特別給付金を巡る大騒ぎからもわかるように,政府が国民に給付金を配ることは,特に我が国の場合,困難を極める大事業となってしまう。現行法が,税務当局(税務署など)が把握している個人の銀行口座番号を,市役所や区役所が利用することを禁じているからである。
そのため,まず,世帯ごとに郵送で案内を通知して,銀行口座番号を役所に提出してもらう必要があった。これが大変な混乱を招いたのである。しかも,実はこうして把握された口座番号は,給付作業が終わったら破棄しなければならないことになっている。このため,もし,今後,2回目の特別給付金を実施しようと思ったら,また,同じように各世帯に案内を送り,再度,銀行口座番号を提出してもらわなければならない。実に非効率極まる話である。ベーシック・インカムを実施する場合にも,同様の手続きを行わなければならないため,膨大な事務作業が発生するだろう。
一方,給付付き税額控除の場合には,給付金の代わりになるのが低所得者への還付金であるが,還付自体は通常の徴税事務でも頻繁に発生していることである。実務上,何の困難もない。すなわち,還付金を振り込む銀行口座番号は既に税務当局が把握しているものであるし,還付するのは低所得者のみであるから,事務量も格段に少ない。
また,給付付き税額控除の場合には,現行の生活保護制度や基礎年金を廃止する必要は必ずしもない5)。単に,生活保護世帯や年金受給世帯に還付金を行わなければ良いからである。その他,児童手当や配偶者控除・扶養控除などの仕組みとも共存可能である。もちろん,その分,制度が複雑になるし,ドラスティックな改革にはならないが,この現行制度との調和性の高さが,多くの国で給付付き税額控除が採用された理由の一つであろう。
また,給付付き税額控除は,財源調達できる金額に合わせて,低所得者への還付金額を加減できる利点もある。単なる還付金なのだから,生存権の保障という制約が課される必要がないからである。むしろ生存権の保障自体は,生活保護制度に任せておけば良い。最初は現実的に月額5万円ぐらいからスタートし,歳出削減や増税で財源調達ができれば,徐々に7万円,8万円,10万円とその金額を増やして行く。その時に初めて,生活保護制度の廃止を検討すれば良い。
国民が,低所得者への最低保障や,経済ショックや災害発生時の最低保障保険(例え中高所得者であっても,経済ショックなどで所得が激減して低所得者になった場合,最低保障額が得 【322頁】 られるという意味での保険)を,本気で充実させたいと望むならば,歳出削減や税制改正の痛みにも耐えるであろう。その意味で,給付付き税額控除は改革推進の駆動力にもなる。ベーシック・インカムほどドラスティックではないが,給付付き税額控除には漸進的な改革を進める力がある。
ただ,給付付き税額控除の弱点は,税務当局が国民の所得をきちんと把握していなければならないことであると言われる。税務当局が,誰が本当の低所得者なのかきちんと分かっていなければ,給付付き税額控除は単なるバラマキに終わってしまうからである。
しかしながら,わが国では,クロヨン(9:6:4)とかトーゴーサン(10:5:3)等と言われるように,自営業者や農林水産業従事者の所得把握率はとても低い6)。
そして,税務当局に所得を把握されないことが,一種の既得権益になってしまっているために,なかなか改革が進まない。例えば,マイナンバーカードに銀行預金の情報を紐付けて,政府が所得や資産を把握できるようにしようというアイディアもあったが,いつのまにか立ち消えとなってしまった。マイナンバーカード自体の普及率もいまだに非常に低い。歳入庁のような強力な徴収機関を作って,税務調査をしっかり行うというアイディアもあるが,これもなかなか進まない。
しかし,マイナンバーの普及・機能強化や,歳入庁設立のような改革が実行されない限り,給付付き税額控除が始められないかと言うと,必ずしもそういうことはない。低所得者自身に,自分の所得を証明してもらうという方法があるからである。給付を希望する低所得者自身に自己申告してもらう制度(経済学の専門用語で言えばシグナリングの応用)は,以前から鈴木(2014)が提案している。
低所得者は自分が低所得者であることを証明すれば,最低保障の還付金という特典が得られるのだから,自ら進んで自分の所得を明らかにする動機がある。具体的には,低所得者に最寄りの税務署に来てもらい,自分の所得を,資産を含めた証書類(確定申告書,所得証明,預金通帳,銀行への照会を税務署が行ってもよいという承諾書)と伴に申告し,給付付き税額控除を受ければ良い。
税務署が各銀行に照会できるようにするのは,所得が少ないことを,銀行預金の増減額で確認できるからである。例えば,所得をゼロと申告した低所得者の銀行預金を調べたところ,預金残高が大幅に増加しているのであれば,それは虚偽の申告をしていた可能性が高い。
同様に,今は低所得者ではないが,将来,経済ショックなどで所得が激減した際,迅速に還付を受けたいと思うのであれば,同じように所得と資産を税務署に申告し,銀行への照会にも承諾しておいてもらう。
もし,自営業者や農林水産業従事者が,本当は低所得者ではないのに低所得であると嘘の確定申告をしているのであれば,そもそも預金通帳を持って税務署には来ないだろう。したがって,この自己申告制度によって真の低所得者を効率的に選別することができる。逆に,確定申告で所得を低く報告しながら,給付付き税額控除の申請をしない人がいれば,それは虚偽の申告をしている可能性が高い。税務署は,そうした人々に集中的に税務調査に入れば,効率的に税収を上げることができる。
【323頁】最初から完璧な制度など無いのであるから,国民全員の所得や資産を把握する制度を整備することはひとまず諦め,まずは,低所得者の自己申告制をベースに,小規模でも給付付き税額控除を立ち上げてはどうであろうか。そこから徐々に税務当局による所得,資産の把握を進めるとともに,各種の改革で財源を作り出し,還付金額を最低保障と言えるだけの金額に増やしてゆく。制度が立ち上がれば,国民も還付金額が増えることを望むはずだから,その力を利用して改革を進めて行けば良いと思われる。
阿部彩・國枝繁樹・鈴木亘・林正義(2008)『生活保護の経済分析』東京大学出版会
井上智洋(2018)『AI 時代の新・ベーシックインカム論』光文社
厚生労働省(2019)「生活保護制度の概要等について」第1回生活保護基準の新たな検証手法の開発等に関する検討会資料
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厚生労働省(2020a)「平成30年度公的年金財政状況報告―国民年金・基礎年金制度―」
https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/000615577.pdf
厚生労働省(2020b)「労働保険特別会計雇用勘定・歳入歳出予算の概要」(令和2年度当初予算)
https://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/kaiji/roudou45.html
厚生労働省(2020c)「令和2年度ひとり親家庭等自立支援関係予算案の概要」
https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000581310.pdf
厚生労働省(2020d)「予算案の概要」(令和2年度当初予算)」
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週刊エコノミスト(2020)「ベーシックインカム入門」週刊エコノミスト2020年7月21日号
月刊世界(2020)「【特集1】ベーシックインカム・序章」『世界』2020年9月号(Vo.936)
鈴木亘(2014)『社会保障亡国論』講談社
鈴木亘(2020)『社会保障と財政の危機』PHP 研究所 財務省(2019)「平成31年度予算とわが国の財政事情」
https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/gov_debt_management/proceedings/material/d20190308-1.pdf
財務省(2020)「令和2年度 租税及び印紙収入予算の説明」
https://www.mof.go.jp/tax_policy/reference/budget_explanation/008aR2a.pdf
竹中平蔵(2020)『ポストコロナの「日本改造計画」デジタル資本主義で強者となるビジョン』PHP 研究所
内閣府(2020)「児童手当制度の概要(令和2年度)」
https://www8.cao.go.jp/shoushi/jidouteate/gaiyou.html
原田泰(2015)「ベーシック・インカム 国家は貧困問題を解決できるか」中公新書
森信茂樹(2008)『給付つき税額控除―日本型児童税額控除の提言』中央経済社
山森亮(2009)『ベーシック・インカム入門』光文社新書
Friedman, Milton and Friedman, Ros(e 1962)Capitalism and Freedom, University of Chicago Pres(s ミルトン・フリードマン(村井章子訳)「資本主義と自由」日経 BP 社)