175頁】

 

現代の「日本的経営」論(1)

 

手塚 公登1)     小山 明宏2)

 

 

はじめに

「日本的経営」というコトバが初めて使われたのがいつであったか,筆者らには定かでない。Japanese(style)management あるいはjapanisches Management という用語はすでにかなり前から目にしており,筆者の一人が30年前にドイツで公刊した論文3)でもすでにそれを用いていた。当時のレフェリーもその用語を承知していた,ということである。

ただし,1980年代,いわゆるバブル経済の進展にあたり,日本企業の急成長を目の当たりにしていた欧米の経営学研究者が,そのような急成長の原動力となっているもの,少なくともその一因が日本企業の経営方法,まさに「日本的経営」なのだろうと思っていたことは,まずは肯定されるであろうと思われる。

当時は『人本主義』をはじめとして日本の研究者たちから世界に向けて日本的経営の優れた点,メリットとされるものが数多く発信され,それによって多くの日本人研究者たちが注目を得られたことは記憶に新しいところである。前述の人本主義も,peoplism などと訳され,ドイツでは大家のアルバッハ教授がこれをkaltes Trauen(冷静な信頼)などと訳して,筆者の一人は首を振った記憶がある(そういう意味ではないと思う)。

このようなバブル経済が激しく破裂した後,欧米では日本的経営に対する評価は大きく,敢えて言えば180度変わってしまい,現在に至っている,という感触を筆者らは持っている。日本企業の停滞後は前述の日本人研究者たちによる,それに対する言い訳がしばらく続いたと思われるが,いわばその場しのぎの言説に終始していて,いつの間にか目につかなくなっていた,ということであろう。

現代においては,バブル期の日本企業の大きな成長は,世界経済全体のパイがぐんぐん大きくなっていて,それに首尾よく乗っていたことによるもので,日本企業の経営方法が優れていた,という要因が第一の原動力だったわけではないだろう,という考え方に落ち着いている,という気がしている。

とは言っても,ではこのような日本的経営というものにはもはや見るべきものがないのか,というと,そうは思えない。筆者らはこうした日本的経営について,できるだけ過去の議論を知り,そして現代におけるその意義(あるいは有用性)というものを見出して,これからの日 176頁】 本企業の成長につながるものを見出すことができれば,と希望している。

 

1.戦後日本の経済成長と日本的経営

 

奇跡的とも言われた戦後の日本経済の発展は,世界から驚異の眼で見られた。終戦直後の荒廃した状況から幾多の試練に見舞われながらも,産業構造の転換を図りつつ,急速な復興を遂げてきた。1956年度の『経済白書』では,「もはや戦後ではない」と高らかに宣言されて1960年代から70年代にかけての高度経済成長,そして80年代の安定成長期を経て,日本はもはや欧米から学ぶものはないという強気の言葉も聞かれた。

なぜ,こうした成長が可能になったのか。それは政府と民間が一体となって,欧米先進国に追いつき,キャッチアップしようという雰囲気や意志が国民全体に共有されていたことが大きかったと思われる。経済成長を通して豊かな生活を実現することが戦後の焼け野原を体験した国民の切実な願望であった。

そのために,政府は必要と思われる経済政策や産業政策を策定し,国の向かうべき方向を示し,重点的に育成する産業を決め,傾斜的な資金配分を行った。そして民間の側ではその方針に概ね従いつつ,それぞれの産業において個々の企業が戦略を練り,欧米先進国から学んだ近代的なマネジメント方法の導入・確立に注力した。

戦後の日本の成長に大きく貢献したのは,政府なのか,民間企業なのかに関しては色々な議論があるが(三輪・ラムザイヤー(2001))4),恐らく双方の役割は無視できず,結果的に相乗効果が働いたのではないかと考えられる。民間企業が企業経営を効率的に行ううえで,資本市場の役割は重要であるし,人材を確保するための労働市場も必要であり,また製品市場も企業間競争が公正に行われるように整備されていることが大事である。効率的な資源配分を実現するための市場機構は先進資本主義国においては欠かせない条件である。しかしながら,後発国が一足飛びにその状態に達することができる,あるいは到達すべきであるとは言えないと思われる。

そもそもの市場経済を機能させるための基盤整備は政府の役割であり,我が国においてもかつての大蔵省や通産省を中心に政策展開がなされてきた。その際,後発国として出発したわが国の特徴として,最初から政府の介入のない全くの自由な競争を認める方向ではなく,ある程度の上からの介入ないしは干渉を排除しなかった。その意味で最初から,理想的なあるいは教科書的な完全に自由な市場競争を目指すものでなかった。典型的には「護送船団方式」という言葉で表現されている体制がとられてきた。

企業経営においても欧米流の経営スタイルを全面的に採用するということにはならなかった。自由な労働市場で人材を確保し,自由な証券市場で資金調達をするという形で企業経営がなされたわけではなかった。先進国の合理的・近代的な経営手法を学びつつも,わが国独自のマネジメント・スタイルも展開されてきた。どこに起源を求めるかはさまざまな見解があるが,企業という組織の制度の捉え方が欧米諸国とは異なり,日本では企業という組織を,単なる契 177頁】 約関係で結ばれた合理的な経済人の集まりとは捉えてはいなかったといわれることが多い。むしろ生活の場,共同体として企業を捉え,そこから日本企業の独特の経営の在り方,経営者や従業員の独特の意識や考え方が導かれ,本稿で考察対象とする「日本的経営」が登場することになる。そしてその日本的経営がわが国の企業の成長発展,ひいては戦後の経済成長を支えたキーワードとして称賛されたこともあったが,その前近代性が強く非難されることもあった。近年は,日本の大企業の業績不振やイノベーションの停滞によって,成長の阻害要因として批判の対象となることも増えており,日本的経営の終焉や崩壊,改革の必要性が経済雑誌や書物でしばしば目にする。そうした指摘は,20年ほど前の飯田(1998)5)で詳しく紹介されているように,日本的経営が経営学の世界で論じられるようになった当初から繰り返しなされていた。

そこで,こうした毀誉褒貶の激しい日本的経営について,まずはわが国の経営学関連の学会でどのように論じられてきたのか,節を改めて振り返ってみよう。

 

2.日本経営学会での日本的経営に関する議論と本稿の問題意識

 

日本経営学会は設立されてから95年になる,わが国の多くの経営学者が集う経営学関連の中核的団体である。毎年一度開催されてきた全国大会での統一論題を眺めると,時代によって,どのようなテーマが重要であると認識されてきたのか掴むことができる。戦前と戦後ではかなり様相が異なるし,また戦後においても技術の発展や経済社会の動向,企業規模の拡大,産業の盛衰,企業の国際化の進展,環境問題の深刻化等々を反映して,わが国の企業の直面する現実の問題に,如何に学会があるいは経営学者がどう向き合うべきか真剣に討議されてきた形跡を見ることができる6)

その歴史の中で,本稿の関心である日本的経営あるいは日本型経営についても,統一論題で幾度か取りあげられている。

 

1977年 第51回大会 『日本的経営の諸問題』(経営学論集第48集所収)

1978年 第52回大会 『日本経営学と日本的経営』(経営学論集第49集所収)

1989年 第63回大会 『日本的経営の再検討』(経営学論集第60集所収)

2005年 第79回大会 『日本型経営の動向と課題』(経営学論集第76集所収)

2018年 第92回大会 『 日本的経営の現在−日本的経営の何を残し,何を変えるか−』(経営学論集第89集所収)

 

最初に統一論題で日本的経営が取り上げられたのは,1977年であった。高度成長を過ぎた後,石油ショックを乗り越えて,日本企業の強さが再確認されつつあった時期である。50年代,60年代はどちらかというと,日本の経営学者の中では,日本企業の経営や雇用の在り方の後進性 178頁】 が指摘されていたが,一方においてアメリカの経営学者アベグレンは,その著『日本の経営』(1958年)で終身雇用,年功序列など日本企業の独特の雇用慣行,人事制度の強みを評価した。その意味で,アベグレンの指摘は日本の経営学者にとっては極めて新鮮であった。そうした経緯も踏まえて日本企業の経営の特質を本格的に検討対象としたのが1977年で,続く78年の大会でも取り上げられたのである。

その後,80年代の日本の黄金時代を経て,改めて日本的経営の長所,短所の考察を試みたのが1989年の第63回であった。90年代にはいると「失われた10年」という言葉に端的に示されているように日本経済は一気に崩壊の道を辿り,日本的経営への評価も様変わりし,アメリカ型経営の仕組みの導入が推奨されるようになった。そこから,企業の経営目標,ステークホルダーとの関係,経営トップのガバナンスの仕組みから,雇用,採用,昇進などの在り方,証券市場の活性化,系列等の企業間関係の変革など,日本企業の経営全般に渡り見直しを迫られることになった。2005年の大会では,統一論題は『日本型経営の動向と課題』とされ,日本的経営という表現が外されているところに微妙な雰囲気の変化を感じ取ることができる。それから暫くは,日本的経営への関心は大きく減少するが,格差拡大の元凶ともいわれるアングロサクソン流の経営への批判が2008年のリーマンショック以降,最近に至るまで強まったこともあり,2018年大会ではそうした点を意識して,日本経済・企業の将来を見据えて,改めて日本的経営の現状と本質,課題を探っている。2018年の大会の内容については,次節で詳述することにしたい。

日本経営学会以外でも,1982年に経営史学会において統一論題『日本的経営の系譜』の下で,日本企業の経営スタイルの特色や,戦前と戦後の断絶性と連続性を巡って議論が展開された。そして1997年には『コーポレート・ガバナンスの歴史と展望』というタイトルで,歴史学的アプローチの観点から日本企業の経営の過去と将来を問うている。

これ以外にも労務,財務,生産,商業,マーケティング,等々の様々な学会で日本的経営について論じられている。そのすべてをここで検討することはもちろんできないが,それぞれの分野において「日本的」とは何なのか,その本質,具体的形態,強み,弱み,海外への移植可能性などに関心が向けられてきたのである。

現在,日本企業は,グローバリゼーションの進展,IT 革命,少子高齢化の進行といった外部環境へ如何に対応していくべきか厳しく問われている。日本的経営なるものがあるとすれば,あるいはアングロサクソン流の経営に対してもし優位性を将来的にも持ち続けるとすればその本質はどこにあるのか,本稿ではそうした問題を過去そして現在において展開された議論を整理しながら,様々な角度から考察していきたい。その際,大事なことは,歴史や文化,社会から切り離して経営を,特に人間に関わる仕組みや制度を論じることはできないということである。

日本的経営という表現は,日本企業の経営の在り方が欧米先進国の企業の経営と違うこと,あるいは異質であることを表している。社会科学である経済学や経営学の観点からすれば,経済ないし経営の営みに共通する普遍的な何かを探り当てたい,と考えるのが普通であろう。科学なるものは,特に自然科学であれば,いつ,どこでも成り立つ法則をみつけることにその本質があるというものである。社会,経済,経営現象を説明する社会科学もおそらく同じように考えるとすれば経営の一般理論を確立することが第一義となる。

しかしながら,自然科学と異なって,観察される現象が場所,時代によって異なることが社 179頁】 会科学の対象の常である。従って,ある場所で見いだされた現象や事実が他の場所で見いだされるとは限らない。経営の場合でいえば,例えば,雇用システムー採用,昇進,人事異動などの具体的な態様は国によって異なる。そのため,そこに一般的理論を見出すことができるのか。極めて困難な課題ではあるが,経営という営み自体は世界各国で共通であり,目指すべきものは企業の成長であり,利益の獲得である。それを達成するためには,広い意味で合理性や効率性の実現が欠かせないのは間違いないと思われる。ただし,そのための制度やメカニズムにはそれぞれの国や地域の文化や歴史が反映されることになろう。

つまり,一つの制度やルールをあらゆる国の,どの時代の企業にも適用するのが正しいとは限らない。そうした点をふまえて,日本にとって,日本企業にとってどんな制度が望ましいのか考えていきたい。それは欧米諸国とは違うものなのか,同じものなのか,考察していきたい。

 

3.現代の「日本的経営」論についての考察

 

前述の通り日本的経営についての議論がいつから行われていたのか,筆者らには定かではないが,まずは最新と思われる日本的経営論について知ることは不可欠といえるであろう。この点で,2018年9月5日(水)〜8日(土)に新潟国際情報大学で開催された日本経営学会第92回大会で行われた議論は,注目しなくてはならない。

そこでの日本経営学会第92回大会論題趣旨は,

1.統一論題「日本的経営の現在−日本的経営の何を残し,何を変えるか−」

サブテーマ@ 日本的経営とは何だったのか?

サブテーマA 日本的経営の何を残し,何を変えるのか?

サブテーマB 日本の「会社主義」はどうなるのか?

となっている。そこでの92taikai_shushi というファイルには次のように記されている7)

2.統一論題設定の趣旨

日本企業はこれまでどのような経営を行ってきたのか。また現在,日本企業の経営はどうなっているのか。そして今後,日本企業はどのような経営を行っていくべきなのか。

グローバル化の時代と言われてすでに久しく,日本企業も単一化されたグローバル市場の中で,世界の企業と日々激しい競争を強いられている。そして今,AI などの新技術の急速な発展が人々の生活や人間の働き方を劇的に変えていく可能性がにわかに語られるようになってきた。こうしたイノベーションの進展は従来なかった新商品の開発を企業に促し,また生産性の大幅な増大なども期待される。そしてそれは人々の生活の利便性を大きく向上させることにもつながるであろう。しかしAI がすべての問題を一挙に解決してくれるわけではない。日本国内では少子高齢化の進展でさまざまな問題がすでに顕在化してきている。労働力不足が現実のものとなってきて,女性や高齢者も含めた「一億総活躍社会」が標榜されているが,その一方で若年労働者にとってはブラック企業・ブラックバイトの存在が当たり前のようになっており,過労死・過労自殺がもはや無視できない状況にまで至っている。そうした中で政府主導の「働き方改革」がすすめられようとしている。日本人の働き方そして企業経営の在り方が根本 180頁】 から問われているのである。

ところで周知の通り,戦後,日本は高度経済成長を成し遂げ,世界第2位の経済大国にまで上りつめた。それを牽引した日本企業の経営のやり方は日本的経営と呼ばれ,欧米の経営とは異なる独特の経営スタイルを採っていることが注目された。日本的経営とは,主として企業の人事労務管理の分野を中心とする経営慣行を指して用いられており,日本独特のものとされている。一般の人々には,アベグレンが唱えた終身雇用,年功序列,企業別組合の「三種の神器」が有名であるが,日本的経営の研究者の間では,むしろ日本における歴史的な経営体の論理としての「家」論などをキー概念として分析が行われてきた。その日本的経営が大きな注目を集めたのは,70年代の石油危機などにも柔軟に対処して高いパフォーマンスを示したからであり,一時は「Japan As No.1」と持ち上げられ,Japanese Style Management は世界的な関心を集めた。しかし,80年代後半のバブル経済とその崩壊 を経て,90年代以降わが国経済は「失われた10年」あるいは「失われた20年」とまで言われるようになり,長期の経済的低迷に喘ぐ事態に至った。そうした中,アメリカからコーポレート・ガバナンス論が入ってきて,アメリカ流の経営こそがグローバル・スタンダードだと喧伝され,株主重視が叫ばれた。低迷する経済の中で過剰な従業員を抱えたままの日本企業に対しては,日本的経営などに拘っているから業績低迷から抜け出せないのだと厳しい批判が展開された。つまり日本的経営はグローバル経営の時代にはもはや不適合なやり方だというのである。

では今日,日本企業の経営はどうなったのであろうか。日本的経営は過去のものとして捨て去られ,これまで日本的経営とされてきたさまざまな経営慣行は消滅してしまったのであろうか。

日本的経営を先に挙げたアベグレン流の捉え方で見る限り,現在の日本企業でそのまま通用すると考える人はもはやほとんどいないであろう。もともと「三種の神器」論は,高度成長期において見られたかなり限定的なものだという指摘もある。ましてや今日のように非正規雇用が全体の4割近くを占めるようになり,雇用そのものが不安定で流動的になってきている中では,この主張は説得性を持ち得ない。若者の多くは,同じ会社に定年まで勤めることをもはや当たり前とは考えなくなってきている。また企業の側も,昇進や賃金の面で年功序列的な処遇ではやっていけなくなっている。つまりアベグレン流の日本的経営論はすでに過去のものに なったと言ってもよかろう。また日本的経営をより広く株式会社論の観点から見た時,日本企業の大きな特徴であった企業間の株式持ち合いなどもその比率が大幅に縮小し,盤石な安定株主構造に守られ経営を行うという従来のスタイルを見いだすことは難しい。株主重視のコーポレート・ガバナンスが勢いを増してきているからである。バブル崩壊から四半世紀を経て日本的経営に対する関心は失われ,いまさら積極的に取り上げる意味は無いかのようである。

しかし,そう言いながらも日本企業の現実はそれほど単純ではないのも事実である。確かにこの30年ほどの間に,日本企業を取り巻く経営環境は大きく変化し,それに合わせて企業も自らの経営の在り方を問い変革を行ってきた。ただし,そうではあっても日本企業がアメリカや欧州の企業を真似た経営スタイルに完全に方向転換した訳ではない。つまり日本企業からは依然として「日本的」な特質を看取できるのである。そうだとすれば日本企業はこれまでの経営スタイルの何を捨て,何を残そうとしているのであろうか。また,それはどういう理由からであろうか。そしてそれによって日本企業の強みと弱みはどう変化したのか。さらに「日本的」 と言われるような特質は今後も続いていくのであろうか。

181頁】

今大会の統一論題は以上のような問題認識に立ち,日本的経営に焦点を当てることで,日本の企業経営の過去,現在,未来を考察する。日本的経営はいずれ消えゆく運命なのか,それとも形を変えながら生き延びてゆくのか。「日本的経営の現在」というタイトルは,グローバル時代における日本企業の経営に流れる論理と実態をいま一度問い直し,21世紀における新「日本的経営」の可能性の有無を探ろうとするものである。

@ 日本的経営とは何だったのか?

日本的経営をどう捉えるのか。この「日本的経営とは何か」という問いをめぐっては,これまで多くの研究が行われてきた。特に日本的経営を如何なる概念のものとして捉えるかによって,過去,現在,そして今後の日本企業の経営に関する見方や評価も異なったものとなる。本セッションでは,日本的経営の概念を含めて,日本的経営とは何だったのかを論じる。そして日本的経営の理論的枠組みは現在そして未来を照射する上で有効なのか,もし問題があるとすればどのような理論枠組みを採るべきなのかを議論したい。ここでは日本的経営の功罪を含めて,その論理を改めて問う。

A 日本的経営の何を残し,何を変えるのか?

日本企業の経営にはさまざまな特徴が見いだせるが,これまで日本的な特徴とされた年功序列や終身雇用が大きく後退し,代わって成果主義的な人事労務の政策が取り上げられるようになった。また非正規社員の大幅な増大は社会に大きな歪みをもたらし,これに対応すべく政府の「働き方改革」は「同一労働同一賃金」の実現を謳い,同じく長時間労働の解消を目指すべきことが目標として掲げられた。このように大きな変化の兆しが見えるが,その一方で,日本的経営の根幹と言われた新規学卒一括採用は依然として健在である。日本企業は何を残し,何を変えようとしているのか。このセッションでは,日本的経営の現状と今後の展望を検討する。

B 日本の「会社主義」はどうなるのか?

日本的経営は会社の構造や企業関係とも密接不可分の関係にある。企業集団や系列といった独特の構造が形成されてきたが,こうした企業間関係も変化してきている。株主重視の経営が標榜される中で,持ち合いの解消が進展し安定株主構造は大きく転換した。では,かつての従業員共同体的な側面を持っていた「会社主義」とでも呼べる特徴はどうなったのであろうか。それと関連してガバナンスの構造と機能を見たとき,日本の会社は誰の利益を重視して経営しているのか。内部留保を大きく積み上げる日本企業の姿には,株主重視とはまた異なる特質が見て取れる。本セッションでは,日本的経営の現在を株式会社の観点から考察する。

以上の設定の下に会場では何人かの発表者が持論を述べたが,その中で行われた上林憲雄・神戸大学教授による発表は,その後「消えゆく日本的経営――グローバル市場主義に侵食される日本企業――」という形で要約された。

上林教授の見解では,日本的経営はグローバル市場主義によって著しく侵食され,もはや風前の灯火の状態にあるという。日本的経営として取り上げられる要素では必ずしもないものの,評価基準を自国や自企業(己自身)にではなく諸外国や他企業という「外」に置く点も変わらぬ日本的特徴である,ということである。今後ますますグローバリゼーションが進展する中,日本企業が世界に伍していくためには,外部に基準を求めそれに合わせようとするのでは 182頁】 なく,自らで納得する基準を作り,それに沿ってユニークな人材を育成していくことが重要で,グローバル市場主義が日本企業や社会に対しもたらす負の側面にも十分に配慮する必要があるとされる。

そこでは日本的経営の要素として今日まだ辛うじて残っている特徴は「人材の育成志向」くらいである,と主張されている。この点については,元々日本的経営のコンポーネントをどのように考えるかに大きく依存する話ではあるだろう。

筆者の一人はまだ海外で日本的経営の「優良性」が信じられていた頃ドイツに5年在住し,海外での日本的経営の評価について研究,教育を行っていた。そこでは日本的経営については次のように言及する必要があった。

すなわち,いわゆる「日本的経営」には少なくとも二つの側面があり,一つはトップマネジメントレベルの日本的経営,もう一つは現場レベルでの日本的経営である。前者はアベグレンが言及したものに代表される,@終身雇用制,A年功制,B企業別労働組合,などのトップマネジメントレベル,すなわち企業全体の枠組み・制度に関わるものである。一方の後者は,現場レベルで実行される,経営の現場技術とも呼ぶべき「日本的経営」のコンポーネントである。前者についてはおそらく,おおむね世間での見解には共通なものがあると思われ,説明は不要であろうが,後者は若干の言及が必要であろう。その代表と考えられるのは鈴木滋(2000)に 代表される,まさにTQC を含む日本的経営の現場技術とも呼ぶべきものである。上林教授のいう「人材の育成志向」はこの2つのなかでは後者に属するものだろうと思われる。

 

鈴木滋(2000)の,アジアにおける日系企業の経営〜アンケート・現地調査にもとづいて〜第1章アジア9か国における日系企業の経営,では次のように述べられている。因みにそこでは「日本式経営」という用語が用いられている。

本書では日本式経営の基本的特質を4つのグループに大分類している。集団主義管理,定着維持管理,帰属意識管理,現場志向型生産管理である。また,グループ全体で28個の管理項目を設定している。集団主義管理,定着維持管理,帰属意識管理,現場志向型生産管理の具体的内容は以下の通りである(鈴木滋(2000),p.11の表による)。

183頁】

集団主義管理は,意思決定または経営組織の特徴であり,コンセンサス重視,稟議制度,大部屋制度,職務規程の弾力的運用の4項目が含まれる。

定着維持管理とは,労働者を企業内に定着させ転職が不利になるような制度を意味している。この管理項目には,雇用安定,新規学卒採用や企業内教育,企業内でのみ通用する非専門的キャリアを形成する配置転換,さらに年功賃金・年功昇進や賞与,退職一時金,通勤・住宅・家族など様々な手当の支給等の勤続累増的な報酬制度の9項目が含まれる。

帰属意識管理は,会社への好意的態度を形成するための管理であるが,日本企業の場合会社と従業員個人を同一化(または一体化)しようとする傾向が強いと思われる。和の精神を強調する精神主義的経営理念,企業内部で昇進する,内部昇進,処遇・待遇面で大きな格差をつけない平等主義,社宅・独身寮・社内食堂の設置や運動会・社内旅行などの文化・体育活動のように緊密な人的接触にもとづく企業内人的ネットワークの形成,会議を開催する前に予め根回しをして情報を共有することによる一体感の形成,提案を通じて企業意識・参加意識を形成する提案制度,労使協議制など労使協調のための制度・活動の8項目がその管理手段である。

現場志向型生産管理とは,日本企業の生産「現場」を重視する生産管理の特徴を意味している。この特徴を表す言葉として,現場主義,現場イズム,知的熟練などが指摘されており,かつ著者自身が訪問した日系企業でも現場の重要性がたびたび指摘されていた。著者自身は,この特徴を「改善・参加・情報の共有などの諸行動を通じて生産現場の知恵を活用する制度」と定義している。このグループには品質検査のみでなく現場の生産要員も参加した品質管理活動,整理・整頓・清掃・清潔・躾などの実施(3S〜5S),TQC(全社的品質管理)の実施,QC サークルなどの小集団活動,JIT(ジャスト・イン・タイム)生産方式の実施,多能工,下請け制度の7項目が含まれる。

 

こうして観ると,ここに挙がっている多数の現場レベルの「日本的経営」の技術を考えるとき(これは最新の状況とは言えないかもしれないが),現代日本において,上林教授のいう「人材の育成志向」以外の要素は,あるいは日本的経営の要素として今日まだ辛うじて残っている特徴は「人材の育成志向」くらいである,という主張は,そのままあてはまるであろうか。そこまで「日本的経営」は変貌してしまっているか。

筆者らの印象では,「日本的経営」を支える重要な要因として,鈴木滋(2000)にいう「帰属意識管理」が重要なのは事実で,それは「人材の育成志向」においても,いわば中心的な役割を果たすものではないかと考えている。ただ,同時にこれ以外の諸要素も,今もなお日本企業の活動を支える大切な柱になっている,という感触を持っている。

 

4.会社主義――日本株式会社の再設計について

 

前述の日本経営学会第92回大会論題趣旨における,B日本の「会社主義」はどうなるのか?,は,まずは考えておかなくてはならない重要な問題点である。

経営学論集89集に掲載されている小松氏の論文「日本株式会社の再設計」は,1990年代以降に始まった日本の証券市場の改革や日本企業に対するガバナンス変革への圧力が,株主利益の重視へ偏りすぎていると論じ,それは日本の企業や経済に対してプラスの方向に働くのではな 184頁】 く,むしろ逆作用を及ぼしていると認識している。

小松氏によると,そもそも株式会社に限らず企業については,2つの見方がある。「企業は利益を産出する資本の組織,営利機構であるとする企業観」と「社会的生産を営む人間の組織「生産共同体」であるとする企業観」。

小松氏は後者の立場をとり,日本企業が雇用の確保を優先するのは間違いではなく,日本の伝統と適合的であるとしている。そして,だからと言って,日本企業は株主を軽視してきたわけではなく,そうした批判は,短期的,投機的利益の獲得を旨とする欧米の投資ファンドによるものであるが,長期的にみると利益を配当に回すのが適切であるとは限らないのである。投資のための内部留保と配当が慎重に勘案されるべきであるとしている。

日本のコーポレート・ガバナンス改革は,2000年代初めのアメリカ流の委員会設置会社の導入により急速に進むことが期待されたが,現実には伝統的な監査役設置会社が依然として多い。またコーポレート・ガバナンス改革の一つの目玉として,社外取締役の設置が求められており,設置しない場合にはその理由を開示させるなど,かなり強力な圧力がかかり,表面上は上場企業においては相当程度進んでいるが,その実効性に疑問を呈している。実際,社外取締役の確保に多くの企業は苦労しており,特に独立社外取締役の人材は不足していると言われている。したがって,形式的なガバナンスの整備が果たして有効に働くであろうか,ということになる。

こうした見方は,近年の企業統治改革は日本的経営の良き面を圧殺する流れを加速しており,見直すべきであるとする,加護野(2014)の立場と共通する8)。これまでのアングロ・サクソン流の株主重視とは異なった企業統治の在り方を考えるべきだという提案につながるのである。

具体的には,小松氏は企業を生産共同体と位置づけ,もっとも中核的な立場にある従業員を重視し,既にある従業員持ち株会を通じて経営参加させることを,容易に実現可能な日本の株式会社の再設計の第一の提案としている。そしてより長期的には,株主や従業員とは切り離された企業主体の存在を認め,そこに利益を帰属させるというアメリカの会計学者アンソニーの考え方に賛同し,そうした方向での改革が生産共同体としての日本企業を取り戻す道だとする。

ただ,筆者らからすると,従業員持ち株会はそもそも設立された趣旨が根本から違うのであり,果たして従業員の意思を代表できるのか大きな疑問が残る(久保(2010))9)。経営参加するためには経営に関する様々な情報を共有することが前提となると思われるが,それがどのようにして可能になるのか。また正規,非正規などの従業員間の利害対立をどう調停するのか,あるいは解消できるのか,そして外部と切り離された形での従業員のパワーの拡大はかつて土屋が『日本的経営の神話』(1978)で主張した企業カプセル化10)につながり,それが現在のような企業の社会的貢献や環境との共生が強く要請される時代に望ましいのか,という懸念が残る。

185頁】

アンソニーの企業主体論については,小松氏も懸念されているが,経営者の専横につながるのではないか,それをどうチェックするのか,株主が最終的に任免権を持つというだけでは,チェック機能がうまく働くか,疑問がある。そもそもバブル崩壊時の大企業における不祥事,最近の日産や東芝の問題をみると,独裁的な経営者の害は計り知れないものがある。それをどのようにけん制するか。アンソニーの企業主体論はこれからの日本企業の拠るべき理想なのか。会計学において一つの立場を形成しているようであり,筆者らも基本的にはすべての利害関係者から離れた中立的な実体としての企業の存在を認めることに賛成であるが,それをもっ て直ちに生活共同体としての企業と結びつくとは思えない。共同体としての企業が従業員や地域社会とどのようにかかわるべきか,慎重に検討され,適切な制度設計がなされる必要があろう。

日本的経営を語る上では,どうしてもつきまとうそのシステムの閉鎖性と公開性のバランスをどうとるか。固定性と流動性のバランスをどうとるかが今後とも重要な課題になると思われる。

(未完)

*筆者らは,現在の時点での「日本的経営」について今一度検討し直そうと考え,そのきっかけとして本稿にあたることとなった。すでに周知の通り日本的経営には,元来非常に多様な側面がある。ただしその中で,やはり今日まで,いわば「優位性」を念頭に,あるいはイメージして,中心的に採り上げられてきたのは人事・労務・組織の側面である。雇用関係を中心として,日本的経営の「優れた点」として,それはこの40年来採り上げられてきたものではあるが,それだけではなく,筆者らの関心としてこれから考えていきたいと思っているテーマを大雑把に要約すると,次のようになるであろう(順不同)。

 

・日本的経営の原点をどこに求めるか

・普遍論対特殊論,人本主義の評価

・経営目標の変遷とガバナンス

・雇用・労使,採用,昇進,報酬関係

・財務

・系列・取引関係

・組織編成・意思決定関連

・生産システムの発展

・日本的経営の将来

 

参考文献

アベグレン,J. (1958),『日本の経営』,ダイヤモンド社

飯田史彦(1998),『日本的経営の論点―名著から探る成功原則』,PHP 研究所

加護野忠男(2014),『経営はだれのものか』,日本経済新聞社

上林憲雄(2019),『消えゆく日本的経営――グローバル市場主義に侵食される日本企業――』,経営学論集第89集,pp.38-46.

久保克行(2010),『コーポレート・ガバナンス−経営者の交代と報酬はどうあるべきか−』,日本経済186頁】 新聞社

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