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日本における電機産業の発展史

(3)高度経済成長期各メーカーの動向

 

石井 晋

 

1.はじめに

 

本稿は,前稿「日本における電機産業の発展史 (1)論点の整理と課題の設定」,及び「日本における電機産業の発展史 (2)研究開発体制と技術導入の影響」で提示した研究課題の設定と分析を踏まえ1),戦後,高度経済成長期における日本の電機メーカーの成長プロセスについて,可能な限り包括的にとらえることを目的とする。

石井晋[2021]では,日立製作所(以下,日立),東京芝浦電気(以下,東芝),三菱電機の技術導入・研究開発と事業展開との関係について検討を行った。主たる分析対象は重電機を中心とする総合電機メーカーであったが,本稿では分析対象を拡大し,重電機メーカーだけでなく,通信機メーカー,家電メーカーを取り上げる。

本稿では,高度経済成長期(1950年代初頭から1970年まで)を対象とし,各メーカーを比較しつつ,企業としての成長のプロセス,事業内容の変化について,各社「有価証券報告書」のデータを利用して事実を確認する。目的は,電機メーカーとしてのタイプ(総合電機,通信機,家電)ごと,および各メーカーの事業展開の特徴を把握することである。

対象とするメーカーは,重電機をベースとする総合電機メーカーである日立,東芝,三菱の3社,通信機メーカーである日本電気,富士通(1967年6月以前は富士通信機製造),沖電気工業(以下,沖電気),日本無線の4社,家電メーカーである松下電器産業(以下,松下電器),シャープ(1970年1月以前は早川電機工業),三洋電機,ソニー(1958年1月以前は東京通信工業)の4社,の合計11社である。

 

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2.企業成長の動向

(1) 成長率

最初に,各電機メーカーの成長率を確認する。

図1−(1)には,対象とする全11社のデータを入手できる1955-1970年度における,売上高,有形固定資産の15年間の平均成長率(名目)を掲げた2)

 

 

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メーカーのタイプごとに比較すると,家電メーカーの成長率が高く,中でも新興企業のソニーがとりわけ高い成長率を記録している。通信機メーカーについてはバラツキがあり,富士通,日本電気は比較的高い成長率を達成した3)。これに対して,総合電機メーカーの成長率は相対的に低いが,3社とも売上高で20%超,有形固定資産で15%超の成長率を達成しており,かなり高い成長を遂げたものといえる。なお,これらの数値はすべて名目値であるが,この15年間の企業物価指数の年平均上昇率が1.0%程度4)であったから,実質成長率も非常に高かったことは間違いない。電機メーカー全体として高い成長率を記録する中でも,通信機メーカー,家電メーカーの成長率がとりわけ高かったものと見てよいであろう。

次に,1950年代前半(1952-1955年度),高度経済成長期前半(1955-61年度。いわゆる「神武景気」から「岩戸景気」まで),高度経済成長期後半(1961-70年度。「岩戸景気」後の景気後退から「いざなぎ景気」終了時まで)に区分して,それぞれの時期の動向を検討する。ただし,1950年代前半については,松下電器以外の家電メーカーの数値は得られない。

 

 

一見して,有形固定資産の成長率が高いが,戦後インフレに対応するために行われた資産再評価の影響が大きく,企業ごとにその影響が異なるため,あまり参考とはならない。一方で,売上高成長率は,図1−(1)に掲げた1950年代半ば以降の高度経済成長期の数値に比して,おおむね低い値にとどまっている。その中でも,松下電器のみ,高い成長率を記録している。もっとも,後述するように,この時期の松下電器の売上高規模は総合電機(この時期はほぼ重電機)244頁】 メーカーに比して低い。重電機メーカーは,この時期の国策であった電源開発の推進に対応して売上が増加し,一定の成長率を達成しているが,通信機メーカーは相対的に低い成長率にとどまっている。なお,松下電器以外の家電メーカーはまだ小さな規模であり,企業基盤を確立しつつある時期であった。この時期の電機産業は,重電機を主とした戦後復興の延長線上での発展が中心であり,家電産業勃興の胎動が見られた時期と考えることができる。

 

 

図1−(3)の高度経済成長前半期の成長率は,きわめて高い水準を記録した。相対的に見れば家電メーカーの成長率が高く,通信機メーカーの成長率はバラツキが大きく,総合電機メーカー3社のバラツキは小さい。後述するように,各メーカーの事業内容の変遷を検討する際により詳細に触れるが,前の時代に重電機を中心に発展した日立,東芝,三菱電機が本格的に家電市場に進出し,通信機メーカーにおいては,通信機部門だけでなく,電子部門が急速に拡大した。この時期の電機産業は,家電事業の急拡大と電子化(電子部品・電子技術の高度化と各種電子機器事業の拡大)が進展した時代と考えることができる。

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図1−(4)に示した高度経済成長後半期には,また様相が変化する。この時期には,家電メーカーの成長率が依然として高いものの,前の時代よりは若干低下した。また,家電メーカーの中でも,電子部品を活用する情報機器5)の割合が高まる傾向にあった。一方で,通信機メーカーの成長率の高さが目立つ。ただし,後述するように,通信機メーカーの中では,電話・無線通信関連の部門の割合が低下し,コンピュータを含む情報関連機器や半導体を含む電子部品の急拡大が見られる。総合電機メーカーについては,相対的な成長率は低いものの,この間に家電,電子機器,電子部品の割合が高まっている。高度経済成長後半期は,電子化・情報化が進展した時代と見ることができるだろう。

以上は,各メーカーの成長率であったが,図2には,各メーカー間の相対的な売上高規模の変化の推移を掲げた。

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図に示したのは,各年度の日立の売上高を100とした時の指数である。この期間を通して,総合電機メーカー3社の売上高の相対規模は,それほど大きくは変わらず,また,1950年代に比して1960年代には相対比率が安定している6)。通信機メーカーについては,1950年代には大きな変化は見られないが,1960年代になると,富士通,日本電気の相対規模が顕著に高まっている。家電メーカーについては,いずれも上昇傾向にあるが,とりわけ1960年代後半に急速な高まりを見せる。

 

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(2) 売上高営業利益率と総資産回転率

次に,各メーカーの業績の特徴をとらえるために,売上高営業利益率と総資産回転率の動向を見てみよう(表1)。

 

 

売上高営業利益率については,メーカーごとの違いが大きい。総合電機メーカーでは,日立が比較的高水準で各年度の利益率が安定しているのに対し,東芝,三菱電機は変動が大きく,特に1960年代半ばの不況期の低迷が目立つ。通信機メーカーでは,富士通の利益率がきわめて高い水準で安定し,日本電気は若干それよりも低めだが安定的であるのに対し,沖電気,日本249頁】 無線については変動が大きい。家電メーカーは,総合電機・通信機メーカーに比して,利益率の変動は大きく,特に不況期に大きく下がる傾向にある。ただし,その中でも,ソニーはかなり高い水準で安定しており,松下電器がそれに次ぐ。タイプ別に見れば,総合電機および通信機メーカーに比して,ソニーを除く家電メーカーの利益率は低い水準にあることが多かった。

一方,総資産回転率については,総合電機メーカー・通信機メーカーの数値に大きな違いはないが,家電メーカーの値が明らかに高い。大まかにいえば,家電メーカーは相対的に「薄利多売」傾向にあり,営業利益率の相対的な低さを資産回転率(製造・販売スピード)で補うことにより,迅速に投資資金を回収し,急成長を遂げていたと理解することができるであろう。一方,総合電機メーカーと通信機メーカーについては,投資懐妊期間が比較的長く,安定的な長期資金の調達が重要な課題であったことが示唆される。

なお,1960年代半ばの不況期において,多くのメーカーが,営業利益率も総資産回転率も低迷したが,通信機メーカーのうち日本電気と富士通についてはどちらも顕著な低下が見られず,継続的に好業績を上げ続けたことが特筆される。

次に,表1の数値の全体像と時期ごとの特徴を把握するために,分析的に表現したものが図3である。

 

 

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図3−(1)には,15年間の売上高営業利益率と総資産回転率の各年度数値の平均値を散布図としてプロットした。曲線は,各数値の積が0.1(すなわち営業利益の総資産に対する割合が10%)となるラインである。前述したように,おおむね,家電メーカーは回転率が高い水準に散らばり,利益率が低めの傾向が見られる。一方,総合電機および通信機メーカーは回転率が低い水準に散らばり,富士通の利益率が突出して高く,日立,日本電気が比較的高い利益率を実現している。別の見方をすれば,家電メーカーと富士通がかなり高い総資産営業利益率を実現し,それ以外のメーカーの総資産営業利益率が低いということになる。また,家電メーカーの中でも,ソニーのみは,中間的な位置にプロットされており,「薄利多売」というよりは,一定以上の利益率を確保するために高付加価値製品を重視していたことが示唆される。

次に,高度経済成長期を3つの時期に分け,前期(1955-61年度の高成長期),中期(1962-65年度の調整期),後期(1966-70年度の高成長期)のそれぞれについて見てみよう。

 

 

前期においては,家電メーカーと,総合電機・通信機メーカーの差が顕著に表れている(図3−(2)。この時期には,家電メーカーの利益率の散らばりが小さく,その水準は全電機メーカーの中でも平均的な高さであり,また,きわめて高い総資産回転率を実現している。一方,総合電機・通信機メーカーは,総資産回転率には大きな違いはないが,利益率の散らばりが大251頁】 きく,通信機メーカーに比して総合電機メーカーが相対的に高い利益率を実現している。

 

 

次に中期の動向を見てみよう(図3−(3)。この時期の各メーカーの散らばりはきわめて大きい。高成長後の調整過程に対する各メーカーの経営戦略や耐性には大きな違いがあったものと見ることができるであろう。その中でも,以下のようにいくつかの特徴が見られる。家電メーカーの総資産回転率が大きく低下し,その中でも松下電器は比較的高い業績を維持しているが,シャープ,三洋電機は大きく低迷している。ソニーは,売上高営業利益率は一定の水準を維持しているものの,回転率の低下が大きい。この時期には家電市場の特徴である価格競争の激しさが顕著に作用し,全体としての利益率の低下傾向が見られるとともに,メーカー間の差が表れやすくなったものということができるだろう。通信機メーカーについては,売上高営業利益率が高まっており,不況の影響が相対的に小さかったものと見られる。総合電機メーカーについては,日立を除いて営業利益率の低下が顕著である。

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高度経済成長後期においては,各メーカーの散らばりはいっそう大きくなった(図3−(4))。家電メーカーは,景気回復にともなう総資産回転率の回復により,再びもとの成長軌道に戻ったものと考えられる。ただし,売上高営業利益率の散らばりが大きくなり,三洋電機の低迷とソニーの上昇が顕著である。一方,総合電機および通信機メーカーに関しては,売上高営業利益率において,富士通の高さが際立ち,これに次いで日立,日本電気がかなり高い水準であるのに対して,その他のメーカーが比較的低水準で推移した。経営業績の差が開く中で,各メーカーとも,経営戦略の再構築が求められるようになったものと考えられる。

 

(3) 小括

以上の検討を踏まえて,高度経済成長期における電機産業および主要各メーカーの動向についてまとめると,以下のようになる。

@ 高度経済成長期(1955-70年)を通して見ると,電機メーカーの成長率はきわめて高く,中でも,家電,電子機器,通信機器に関わる事業が大きく成長した。

A 1950年代前半は,電源開発を背景として,重電機を中心としつつ,家電事業が胎動した時代である。

B 1950年代半ばから1960年代初めにかけては,家電事業の急拡大と電子化(電子部品・電253頁】 子技術の高度化と各種電子機器事業の拡大)が進展した時代である。

C 1960年代前半は,各メーカーの成長が鈍化するとともに,経営業績のバラツキが拡大した時代である。

D 1960年代後半は,成長率が回復し,電子化の急速な進展に加えて,情報関連機器に関わる事業が拡大するとともに,各メーカーの経営業績のバラツキがさらに大きく拡大した時代である。

 

3.各メーカーの事業内容の変貌

 

ここまでは,電機メーカーの成長に関わる数量的な指標を分析してきたが,次に,各メーカーの事業内容について立ち入って検討し,その変貌の過程について明らかにすることを目ざす。

データとしては,1950年代初めの高度経済成長が始まる前の時期(データが入手できない企業の場合は,1950年代のできるだけ早い時期),高度経済成長期の前半が終わる1961年度(主に1962年3月期,メーカーにより有価証券報告書提出時期が異なるため若干のズレがある),高度経済成長末期の1970年度(主に1971年3月期)の3つの時点における事業部門,主要製品,各事業部門の生産額(ないし販売額)の割合を利用する。ただし,各メーカーとも,事業部門の分類が異なり,しかも時期ごとに変化しているため,数値のみを横断的に比較して分析することが困難である。このため,電機産業全体及び総合電機・通信機・家電の各タイプの動向を踏まえながら,メーカーごとに個別にそれぞれの特徴を抽出することを目的に,若干煩雑な作業を行うこととする。

その際,各企業および時期ごとに,生産のうち社内消費に向けられる部分の生産額の計上の方法が異なることがあることに留意しておく必要がある。このことは,特に,半導体や真空管の生産額割合を評価する際に問題となる。一般に,半導体や真空管については,生産のうち社内消費に向けられる部分が生産額に計上されているケースが多い。この取扱については,有価証券報告書には必ずしも明記されてはいないが,生産額に計上されたケースにおいては,半導体・真空管を含むセグメントの生産額と販売額がかなりの程度乖離している。逆に,社内消費分が差し引かれて生産額に計上される場合には,社内向け半導体の生産が急速に増加していた場合において,半導体の生産額が過少評価されることとなる。かなり大規模な半導体部門を社内に有していた総合電機メーカーと通信機メーカー(ただし,日本無線は自社内でなく,合弁子会社で半導体を生産),および家電メーカーのうち早くから半導体部門の割合の高かったソニーではこの点に特に留意する必要がある7)。そこで,半導体などの電子部品事業について検討する際には,各部門別の生産額の割合と販売額の割合の両方を掲げ,必要に応じて考慮することとした。

 

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(1) 日立

最初に,電機メーカーの中でも,事業分野を最も幅広く展開していた日立の事業部門と主要製品を見てみよう(表2)8)

この間に,日立の事業内容はかなりの変貌を遂げたが,そのなかでも第一に指摘しておくべき特徴は,1951年8月期における「鉄鋼」,「電線・絶縁材料」等の部門が,それぞれ鉄鋼→日立金属,電線→日立電線,絶縁材料→日立化成として,1950年第後半から1960年代前半にかけて,子会社として切り離されたことである。このうち日立金属は,主に1937年に日立製作所に吸収合併された事業部門の独立である。旧国産工業の事業のうち,通信機関連部門(国産工業が東亜電機を吸収合併した部門。日立製作所に吸収後は戸塚工場となる)を日立製作所に残す一方,戦時期に重要視された原材料部門が,1956年に日立金属として切り離されることとなった。日立金属と同時期に分離された日立電線は,第一次大戦期に電気機械製作のための銅線が不足したこと(外部購入していた)を契機として開始された事業である。また,1962年に分離された日立化成は,日立製作所創業間もない頃に,電気機械製作に必須の絶縁材料の自給をめざして開始された事業部門であった。いずれも,創業期から戦時期にかけて,主要な原材料がきわめて重要視されていたことから内部化されていた。戦後,復興が一段落した時期において,そのような原材料の制約が緩和されていった。そこで,原材料関連の事業の分離が行われ,日立の主たる事業が電気機械に集中されていったものと見ることができるであろう。

第二に,高度成長期を通じて,家電部門と通信機器・電子部門が大きく拡大し,売上高の割合も高まり,非常に数多くの新製品が生産されることになった。1960年代初めにおいては,日立の中でのこれらの部門はまだ小さく,「軽電機・計測器」と「通信機」を合わせても生産額の1/3程度である(トランジスタ,真空管等の社内消費があるため,販売額の割合は若干低下していると見られる)。1950年代の日立においては,鉄鋼・電線部門の切り離しによる電気機械全般への集中が大きな動きであり,電気機械の中での家電・通信機・電子機器部門の割合は,後述する東芝や三菱電機ほどまでには高まらなかった。その後,1960年代以降,これらの部門が急速に成長し,1970年代初めには「家庭電器」,「通信機・電子機器・計測器」を合わせて,生産額の50%超にまで拡大している(同じく電子部品の社内消費の影響により,販売額では50%弱)。1950年代初めのこれらの製品の比率はおそらく5%余りであったと見られる9)から,1970年代初めまでの20年間で,日立の事業内容の構成は,大きな変貌を遂げたのである。大まかにいえば,重電機・重機械・原材料部門から家電・通信機・電子機器部門へ,および受注型製品中心の構造から量産型製品の拡大へという大きな構造変化が進み,これに対応するため,販売組織の拡充もまた大きな課題となった10)

第三に,のちに見る東芝や三菱電機に比して,日立においては,産業機械および車両関連部門がかなりのウェイトを占め,1950年代には拡大している点が注目される。これと関連して,日立は,重電機部門に限っても,水車,ボイラー,タービン,発電機等をすべて手がけており,255頁】 東芝,三菱電機に比して事業分野の裾野が広い11)。前述のように,日立は,高度成長期において,原材料部門を切り離し,電気機械事業に特化する傾向があったが,重電機に関しては社内での一貫生産を堅持し,また大型製品である産業機械を幅広く展開する傾向が強かったのである。

第四に指摘しておくべき特徴は,日立,東芝,三菱電機に共通する動きであるが,重電機部門において,新たに原子力部門への進出が見られたことである12)

ところで,補論的な考察となるが,以上の特徴を踏まえた上で,戦前の日産コンツェルンの一角をしめた日立製作所が,戦後どのように変化したのかについて言及しておくことは,経済史的には重要な課題であるかも知れない13)。下谷政弘[2008]が指摘したように,日産は,新興コンツェルンの中では例外的に多くの産業を傘下企業として擁していた。日立が,1930年代から1950年代前半にかけて,電機メーカーの枠を超えて,鉄鋼,電線など原材料部門を含む電機・機械・金属・化学メーカーへと拡大したことは,日産コンツェルンに属していたことと無縁ではないであろう14)。ただし,同時に戦時期に資源制約が厳しくなったこと,電気機械製造に必須の絶縁素材(化学品)の発展が不十分であったことなどの歴史的な条件も重要であった。また,重電機の受注が電力会社の設備投資のリズムに大きく左右されることから,電気機械や産業機械を含めて幅広い事業を展開することにより,受注残を安定させて,稼働率を高める必要も大きかった。これらの環境条件が,同時期の日立の企業としてのあり方に影響しており,日産コンツェルンのロジックの影響はそれほど大きなものではなかった。

敗戦と占領による日産コンツェルンの解体は,日産が「満州」へ進出した頃にはすでに進展していたコンツェルン内各企業の自立傾向(資金的には,政府系の日本興業銀行などへの依存の増大)を確定的にするものではあった。しかし,すでに進んでいた流れの中での出来事であったため,このことが大きな影響を持ったとはいいがたい。むしろ,終戦直後の日立にとっては,電機メーカーとしての発展には必ずしもつながらない,戦時期において政府からなかば強いられた軍需生産部門を整理して民需に転換することが重要課題であった。その後,1950年代後半以降は,資源制約が弱まるなど電機産業を取り巻く条件が変化したことを受けて,日立製作所本体は次第に電機・産業機械に特化し,鉄鋼,電線,化学,建機部門等を切り離し,子会社としてグループ化していった。

戦後に形成された日立グループは,グループ戦略が必ずしも明確であったわけではない。このため,評価が困難なので,ここでは素描にとどめる15)。日立グループは,日立製作所が株式所有を通じてバックアップすることにより,「日立」ブランドの「評判」をベースに,取引先,銀行,投資家などからの信用獲得を得るための緩やかな企業グループとなっていった。また,戦後の日立製作所そのものについていえば,銀行を中心とする特定の企業集団に強く依存した256頁】 り,そのロジックや利害に左右されたりすることはほとんどなく,電機メーカーとしての発展の道筋を自立的に追求する経営を展開した。日立製作所の有力子会社となった日立金属,日立電線,日立化成,日立建機などについても,独立後の自立的な経営展開が強調されることが多いから,おそらく同様のことがいえそうである。したがって,戦後の日立製作所は,日産コンツェルンの一角ではなくなり,また,下谷政弘[2008]のいうところの「相互に関連し合う生産や販売をもとに形成された,一つの産業体系を基盤とする有機的な親子型の企業グループ」という意味でのコンツェルンを形成したとも言いがたい。海外技術の導入や独自の研究開発を通じて技術水準が高まり,新たな市場が急速に拡大したことにより16),また投資資金の調達ルートも戦前に比すれば拡大したことも背景として,関連する各産業は自立的に発展し,戦間期の新興コンツェルンのような形態が必要とされる環境ではなくなっていったものと解釈できるであろう17)

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(2) 東芝

次に,東芝の事業展開を検討してみよう(表3)18)

第一に,1950年代初めにおいて,東芝の事業分野は,日立に比してかなり狭く,中でも電球,真空管の占める割合が非常に高い。ほぼ,「管球」部門と「電機」(日立では「電気機械」ないし「重電機」及び「車両」)部門に事業分野が限定されていた。その後の20年間で,東芝の事260頁】 業分野は,電気機械及びエレクトロニクス全般へと大きく拡大することとなる。日立のように幅広く産業機械を手がけることはなかったものの,重電分野でのエレベータ事業への参入やタービンの製作など,重電機部門においても幅広い分野への展開が見られた。

第二に,1960年代初めまでに,東芝は,家電,通信機・電子機器部門を急速に拡大させており,「家庭電器」と「通信機器・電子機器」の生産額の50%超となった。日立に比すれば,1950年代における東芝におけるこれらの部門の割合は,より早い段階で高まったものといえる。ただし,この2つに,「電灯・電子管・半導体」部門を加えると全体の65%強でおり,管球部門(電球,真空管等)の比重が低下したことから,1950年代初めにおける「管球」・「通信機」・「機器」の合計58.3%からの変化はそれほど大きくはない。日立の場合には,重電から軽電へという大きな構造変化が進んだが,東芝の場合には,軽電部門内での製品構成の変化,すなわち,電灯・電子管から,家電・電子機器・半導体へという形で進展した。また,1960年代にも,東芝の家電,通信機・電子機器部門の拡大は続き,1970年代初め時点で生産額の約2/3にまで高まったが,同時期の日立に比すれば,東芝の事業内容の構成変化は小幅にとどまった。この背景の一つとして,「岩戸景気」後の景気後退時(1961-62年頃)において,日立が急速に設備投資にブレーキをかけたのに対し,東芝の対応が遅れ,日立に比して東芝の業績の低下が大きく,その後の経営の立て直しに時間を要したことが挙げられる19)

 

 

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(3) 三菱電機

次に,三菱電機について見てみよう(表4)20)。三菱電機については,事業部門の分類の仕方が,日立,東芝と異なる点が多いことに注意する必要がある。

三菱電機の特長は,第一に,1950年代初めの時点で,重電機(「一般電気機器」と「車両用電気機器」の合計)および「産業機械」の生産額の合計の割合が67.9%と,日立,東芝に比して高い。もっとも,日立の場合には,電線,鉄鋼部門の比重が高く,それらを除けば,日立と三菱電機の事業の構成は類似している。また,三菱電機は日立に比すれば,家電・通信機器(三菱電機の分類で「家庭用電気機器(含軽電機器)」)の割合は高かった点には留意する必要があろう。その後,重電機部門の割合は低下傾向にあったが,1960年代初めの時点でも,重電機,標準電機(比較的小型の産業向け電気機械で,日立では,「原動機・重電機」ないし「交通機器その他」に分類され,東芝では「重電機」に分類されている製品が多く含まれる),「車両・産業機器」に,「電子・原子力機器」のうちの「原子力機器」を加えれば,おそらく60%に達するものと思われる。また,1970年代初め時点では,「重電機器」と「標準電機」で53.8%,これに「電子産業機器」のうち「エレベータ」以下の製品(日立では「交通機器その他」,東芝では「重電機」に分類されている製品)を加えれば,おそらく60%近くになるであろう。以上より,三菱電機においては,重電機・重機械の割合が高い傾向が継続し,日立,東芝に比すれば,事業内容の構成変化は大きなものではなかったということができる。

第二に,そうした中でも,三菱電機の家電・通信機・電子機器部門は1950年代から拡大し,1960年代初めには,「家庭電器」だけで生産額の26.2%,これに「電子・原子力機器」の「テレビジョン受像機」から「その他半導体製品」までを加えれば,おそらく40%近くになるものと予想される。この時期における三菱電機は,東芝と同様に,日立よりも若干早く,家電・電子機器部門の割合を高めたものと見られる。一方,1970年代初めにおいては,「家庭電器」が22.8%にとどまり,これに「電子産業機器」のうち「各種無線通信機」から「半導体集積回路」までの製品を加えても,家電,電子機器,通信機器の生産額合計は40%前後にとどまるものと思われる21)。東芝と同様,三菱電機の1960年代の事業内容の変化は小幅にとどまり,重電機・産業機械中心という三菱電機の特徴は維持されたのである。また,「重電機器」,「標準電機」のそれぞれの分類において,製品品種の幅がかなり拡大したことは,東芝と類似した傾向であった。

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(4) 日本電気

通信機メーカーは,1960年代以降,総合電機メーカーに比して高い成長率を実現した。その中でも日本電気と富士通は,家電メーカーの中でも成長率の高かったシャープやソニーに匹敵するスピードで成長し,しかも高い利益率を維持した上,1960年代半ばの景気後退期においても顕著な業績の悪化が見られなかった。

まずは,通信機メーカー業界トップの日本電気の事業内容の変化の特徴を見てみよう(表5)22)

 第一に,日本電気は,1950年代初めの時点では,日本電気の生産額の半分弱が「有線機器」(主に電話機と交換機)であり,また通信機の合計(「有線機器」,「伝送機器」,「無線機器」の合計)は80%近くにのぼり,ほぼ通信機専業メーカーであったといってよいであろう。通信機部門の割合は,その後低下する一方,電子部門(電子機器,電子部品,家電等)の割合が上昇し,1970年代初めには,通信機部門と電子部門がほぼ半分ずつを占める構造へと変化した。また,1950年代初めにおいては,販売先の約70%が官公需であったが23),1970年代初めにおいては,通信機部門を中心に輸出が一定の割合を占めている24)。電子部門は民需の割合が比較的高かったから25),官公需への依存度の高さは継続したものの,民需の拡大によって大きく成長を遂げたものということができるであろう。

第二に,1950年代初め,ほぼ通信機専業メーカーであったとはいえ,真空管市場においては,1951年第一四半期の生産シェアが22.0%に達しており,東芝と並んで比較的高い地位を占めていた26)。当時の通信機の主要部品である真空管は,通信機メーカーとしての存立の要でもあり,これが電子部門ののちの発展の素地となる。その後,1950年代には,半導体部門が誕生して急速に成長し,1960年代初めには真空管部門に置き換わるように全生産額の8%余りとなる。同時に,戦前から開発経験のあるテレビの生産などにより家電部門(「商品」)が9%に達するなど,多角化が進んだ。こうした点では,日立など重電機をベースとした総合電機メーカーと類似した戦略展開である。1960年代には,「家庭電器」の割合が縮小する一方,コンピュータ,データ通信機器などの「電子機器」部門が大きく拡大し,1970年代初めに30%近くにまで達する。この間,半導体生産は拡大したものの,1970年代初めの「電子部品」は16%強にとどまっており,1960年代初めの「真空管」と「半導体」の合計と一見あまり変わらない。しかし,1971年3月期の社内消費分の電子部品は,生産額合計の12.4%にも達している。この点を考慮すれば,1970年代初めの日本電気の事業における電子機器・電子部品の比重はより高いものであり,通信機をかなり上回っていたものと見ることができる。

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(5) 富士通

次に富士通を見てみよう(表6)27)

第一に,1950年代初めの富士通は,日本電気よりもさらに通信機専業メーカーの性格が濃厚であり,通信機の中でも「電話交換装置」と「電話機」が生産額の80%超を占めていた28)。電子部品や応用製品の生産が限られており,また,企業規模も小さく,いわゆる「電電ファミリー」3社(日本電気,沖電気,富士通)29)の中でも最小規模であった。しかし,前述したように,総合電機および通信機メーカーの中で,高度経済成長期を通じて,最も成長した企業であった。その成長プロセスは,通信機メーカーとしての成長というよりは,事業内容を大きく転換させながらの成長である。1950年代には,通信機部門では,交換機・電話機中心の構造から,新たな通信システムとして当時注目を集めていた無線通信システムを中心とする「伝送機器」に注力するとともに,半導体,コンピュータなどの新たな事業を開始した。この結果,1960年代初めには,半導体などの「電子機器部品」とコンピュータ(電子計算機)などの「特殊装置」の合計が26.3%に達している。1960年代にはさらに大きく事業構造が変化し,1970年代初めにはコンピュータ,データ伝送装置などの「情報機器」が生産額の約60%となり,これに「電子部品及特殊装置」を加えるとほぼ3/4となる。高度経済成長期の20年間で,富士通は,通信機メーカーからコンピュータ・メーカーへと転換したのである。

第二に,富士通においても,1960年代以降,コンピュータのIC化とともにIC開発が重視され,1968年の神戸工業の合併により半導体部門が強化された。しかし,日本電気が,半導体や家電など多角化への志向性がより強く見られたのに対し,富士通はコンピュータ,データ通信およびその関連機器に経営資源を多く投入し,集中する志向性が強かったことが注目される。

270頁】

 

271頁】

 

(6) 沖電気

次に沖電気を取り上げる(表7)30)

第一に,沖電気の1950年代の事業展開は,富士通と類似していた。沖電気もまた,1950年代初めの事業構造は,「交換機」と「電話機」が生産額の80%超を占めており,売上の79%が官公需であった31)。その後,1960年代初めまでに,通信機部門内では「無線・伝送機」の割合が拡大するとともに,レーダーなどの「測機」,コンピュータ・事務機械などの「電信事務機」が成長を遂げ,この2つの部門と半導体を含む「その他」と合わせれば,生産額の1/3にまで達した。

第二に,沖電気もまた高度経済成長期を通じてかなりの成長を実現したものの,1950年代後半から1960年代前半にかけて,売上高の相対規模では停滞傾向にあった(図2)。1950年代末には,電電ファミリーの中でも最小規模であった富士通に売上高で逆転され,1960年代半ばには有形固定資産,総資産規模でも後塵を拝する。1968年には,神戸工業を合併した富士通に,272頁】 企業規模では大きく差をつけられることとなった。そうした中でも,1960年代には,コンピュータ関連機器,半導体などの事業が拡大しており,日本電気や富士通と類似した戦略を展開した。もっとも,1970年代初めにおいて,「交換機」と「電話機」の合計が生産額に占める割合が依然として45.8%と高く,日本電気や富士通に比すれば,通信機メーカーとしての性格が色濃く残存したのである。

 

 

273頁】

 

(7) 日本無線

通信機メーカーの最後に日本無線を取り上げる(表8)。

第一に,日本無線は戦後初期から,マイクロ波多重無線通信や気象レーダーの開発に取り組むなど,1950年代半ばまでは企業規模こそ小さかったものの,比較的高い成長率を実現していた。戦前から真空管事業も手がけており,1950年代後半以降積極的な技術導入も進めていたから32),その後も高い成長が期待される素地は十分にあった。しかし,現実の経営業績を見る限り,高度経済成長期を通じて,相対的に控えめな成長にとどまった33)。官公需により豊富な資金が流入しやすかった「電電ファミリー」に比して,成長の条件が乏しかったことが一つの背景であろう。

第二に,日本無線もまた,他の通信機メーカーと同様に多角化を進め,1970年代初めには,生産額に占める無線通信装置の割合が低下し,電子計算機・電子会計機などの事務機器,ロラン受信機やレーダー・ビーコン装置など航空・船舶の航行支援装置などの割合が高まった。これに加え,真空管および半導体(子会社の新日本無線で生産)など電子部品も重視され,各市場において一定の地歩を占めたことは注目される。

274頁】

 

275頁】

 

(8) 松下電器

以下では,家電メーカーを取り上げる。

家電に関わる製品に関しては,電気の利用技術の様相に即して大きく2種類に分類しておきたい。一つは,電気を運動エネルギーに転換して仕事34)をしたり,電気を熱エネルギーに転換して加熱・冷却などの制御を行うことにより,さまざまな機能を果たす製品とその部品である(電球,冷蔵庫,洗濯機,炊飯器,冷暖房器具,調理機器,アイロンなど。モーター,電熱器具を主要部品とし,機械としての設計が重要な役割を果たす)。さしあたり,この分野の製品を「エネルギー機器」と呼ぼう。もう一つは,電気・電子のさまざまな性質を活用・制御して各種の情報伝達に利用する製品とその部品等であり(テレビ,ラジオ,ステレオ,テープレコーダーなど。電子管,半導体を主要部品し,電気回路の設計が重要な役割を果たす),この分野の製品を「情報機器」と呼ぶこととする。

ただし,電池,変圧器,コンバーター,インバーター,小型モーターなどどちらにも利用される基礎的な部品も少なくない。また,電子管の一種であるマグネトロンが電子レンジに利用されており,さらに1970年代以降は,半導体がモーターや電熱器の制御に利用されるケースも増え,複雑化している35)。近年では照明器具に利用される半導体であるLEDなどもあり,実際にはさまざまな技術が入り組んでいる。そうしたことに十分に留意する必要はあるが,高度経済成長期の家電産業の動向を分析する際には,技術や主要部品の観点から比較的クリアーに分276頁】 離でき,同時に技術的な特性や主要部品との関連を示しやすくなるので,「エネルギー機器」,「情報機器」に二分することは有用であると考えている。

なお,エネルギー機器は,モーターや電熱器具など比較的古くから存在する電気利用と関わっているのに対し,情報機器は第二次大戦後に開発された半導体と大きく関連している。家電製品を二分する際には,高度経済成長以後の時代まで続く電機産業の展開を分析する上で,半導体事業の発展がきわめて重要な役割を果たしているという認識を念頭に置いている。高度経済成長期においては,エネルギー機器については従来技術が活用されることが多かったのに対し,情報機器については半導体に関わる技術導入がきわめて重要な役割を果たした。

 

家電メーカーについて,まず,松下電器の動向を見てみよう(表9)。

第一に,1950年代初めの松下電器においては,「モーター等」,「自転車部品」など典型的な家電製品とはいいがたい製品が少なくない。このうち自転車部品・乾電池等を除いて,情報機器とエネルギー機器への分類を試みよう。「モーター等」については,「モーター」をエネルギー機器に,「フォノモーター」を情報機器に分類し,それ以外の製品は除く。また「管球」については,「各種電子管」を情報機器に,「電球」「蛍光灯・同器具」をエネルギー機器とする。また,「ラジオ等」,「ラジオ部品」,「真空管」を情報機器,「電気アイロン」,「電気コンロ」,「電気コタツ」,「扇風機」をエネルギー機器として分類する。この結果,情報機器とエネルギー機器との生産額の比率は,58:42となり,情報機器の方が多い。

次に,1960年代初めの「有価証券報告書」では,品目別生産額・販売額の詳細が不明であるため,推計に頼らざるをえない。情報機器としては,「無線機器」のうち「ラジオセット・同部品」「テレビ・同部品」「録音機」及び,「管球」のうち「各種電子管」を含めるものとすれば,前者が生産額の40%弱,後者が生産額の約3.0%程度36)と推計され,合計40%強となる37)。一方,エネルギー機器は,「家庭電化機器」35.5%と,「管球」のうち「電球」「蛍光灯・同器具」4.6%(「電子管」の推計比率を差し引いた残り)の合計とすれば,これも40%強となる。さらに,「電機」のうち「モーター」,「クーラー」,「電気ミシン」などもエネルギー機器の家電と考えれば,45%前後に達するものと思われる。したがって,1950年代の松下電器の事業展開においては,情報機器の伸びもきわめて大きかったが,エネルギー機器の伸びがそれを若干上回った。全体として,多様な家電の品揃えが重視されたものということができるであろう。

第二に,1950年代とは逆に,1960年代の松下電器においては,情報機器がより大きく成長した。1970年代初めには,情報機器(「無線機器」のうち通信機以外、および「管球」のうち「電子管」)は生産額の50%超に達するものと思われ,エネルギー機器(「家庭電化機器」および「管球」のうち「電球」・「蛍光灯」の合計)の35%程度(「電機」の一部を含めても40%前後)を大きく上回った。同時期には,電子部品の真空管から半導体への置き換えが大きく進展していたから,松下電器においては,このような品目構成の変化とともに,各種電子部品や子会社の277頁】 松下電子等から調達する半導体の役割がより重要性を増したものと思われる38)

 

 

278頁】

 

(9) シャープ

次に,シャープの動向を見てみよう(表10)。図1に示したように,家電メーカーすべてがきわめて高い成長を遂げたが,その中でも松下電器,三洋電機に比して,シャープ,ソニーの成長率がより高いことに留意しておこう。その上で,シャープの事業内容の変遷には以下のような特徴が見られる。

第一に,1950年代初めの時点で,シャープの生産のほとんどはラジオとテレビであり,ほぼ情報機器に特化していた。その後,1950年代には,エネルギー機器にも力を入れ,1960年代初めにはエネルギー機器がほとんどを占める「家庭電気器具」が生産額の1/3程度に達している。したがって,松下電器と同様に,多様な家電の品揃えが重視された。ただし,シャープにおいては,情報機器のうち「音響機器」が主な分類として特筆されており,高級ラジオやステレオなど趣味性の高い製品を重視する傾向が注目される。この動きは,家電全般をとりそろえて販売するという点で競合する松下電器等に対する差別化戦略と見ることができるが,後述するソニーと類似した戦略でもある。

第二に,1970年代初めには,いわゆる家電(情報機器である「テレビ」・「音響機器」,エネルギー機器である「家庭電気器具」)の割合が低下し,電卓をはじめとする電子機器が生産額の1/3にも達している点が特筆される39)。また,太陽電池,光電変換素子など,半導体の活用としては当時の主流とは異なる方向性を重視している点も注目される。1960年代の成長の過程で,シャープは家電メーカーの枠からはみ出る傾向を強めたものといえる。同時に,電卓開発のため,主要部品となる半導体(IC,LSI)の役割40)がきわめて重要性を増し,1970年代以降の半導体事業への本格的な進出につながることとなる。

279頁】

 

280頁】

 

281頁】

 

282頁】

(10) 三洋電機

次に,三洋電機を取り上げる(表11)。三洋電機の「有価証券報告書」が得られる時期は1954年5月期が最も早いので,1950年代については他のメーカーより若干後の時期のデータとなる。また,1960-70年代については,参考数値として東京三洋電機の数値も掲げた。

三洋電機の第一の特徴は,1950年代前半には,自転車用ランプ・部品が生産額の半分近くを占め,家電では,情報機器(「無線機器」の22%),エネルギー機器(「電気機器」の22.6%)がほぼ半分を占めていた。1960年代初めには家電中心へと事業内容が大きく変化し,家電の中では松下電器やシャープと同様に,エネルギー機器部門が若干より大きく拡大しており,多様な家電の品揃えが重視された。また,トランジスタ・ラジオ事業拡大のため,子会社の東京三洋電機において半導体製造に乗り出したことが注目される。

第二に,1960年代には,松下電器と同様に,情報機器がエネルギー機器に比してより大きく拡大した。シャープのような事業展開のユニークさには欠けており,高率の成長を遂げたものの,経営的に密接な関係を持つ松下電器と非常に類似した事業内容の構成であった。ただし,1970年代初めには,東京三洋電機における半導体の生産額割合が高まった点には注目しておくべきであろう。

 

 

283頁】

 

(11) ソニー

最後にソニーを取り上げる(表12)。ソニーについて,「有価証券報告書」の最初のデータが得られるのが,1957年4月期と遅い。

ソニーの特徴は,第一に,家電メーカーの一角に属するとはいえ,当初は放送業界などから284頁】 のビジネス需要の比重も高く,情報機器のみを取り扱っており,いわゆる「総合家電メーカー」ではなかったこと,またその中でも創業商品であるテープ・テープレコーダーや音響機器,ビデオコーダーなど趣味性の高い製品の割合が高いことである。

第二に,1957年4月期から1962年4月期の間は,テープレコーダー中心からテレビ・ラジオ中心の事業構造に大きく変化したが,1960年代にはその事業内容の構成の変化はあまり大きなものではない。よく知られているように,カラーテレビなどの比較的限られた事業において,より高い付加価値を追求した開発を目ざしたものと言えるだろう。

第三に,1955年8月発売の日本初のトランジスタ・ラジオが注目を浴びたことに象徴されるように,1957年4月期には,ソニーの半導体素子の生産額割合は21.6%と非常に高い割合を占めていた。このうち,ラジオ組み込み分は44%であるから,半分以上は外販していたことになる。そうした初期の動向からすれば,ソニーは半導体メーカーとして発展していく素地を有していた可能性が高い。しかし,時代が下るごとに半導体の生産額割合は低下し,1970年代初めには推計で10%強程度となり,また外販はほとんど行われなくなった。より大規模な電機メーカー(日立,東芝,三菱電機,日本電気,松下電器,三洋電機)が1960年代以降,半導体事業に力を入れる傾向にあったのに対し,先駆者であったソニーにおいては,半導体の比重が低下していった点は注目される。このソニーの動きに関しては,創業社長であった井深大が,IC時代に突入した半導体事業の競争の激しさや技術導入コストの高さを懸念して,積極的な事業展開を回避したとの指摘がなされている41)。実際,当時のソニーの企業規模は小さく,単体トランジスタを超えてIC,LSIと急激に高集積化が進む半導体事業への大規模な投資を行うことは困難であったものと思われる。そのような制約の中で,ソニーは,電子部品である半導体よりも,ユニークな最終製品を重視したということができるであろう42)

 

 

285頁】

 

(12) 小括

以上述べてきた各電機メーカーの動向については,メーカーのタイプごとにおよその類似した傾向が見られるとともに,メーカーごとの個性も小さくない。そこで,最後に,総合電機(重電機),通信機,家電の3つのタイプに分けて,簡潔にまとめておきたい。

まず,総合電機メーカーにおいては,3社とも,重電機中心の構造から,家電・通信機・電子機器部門の割合の上昇という変化が見られた。3社のうち日立においては,比較的大きな事業部門であった鉄鋼・電線・化学・建機部門を分離するなど,事業を集約化する傾向が見られた。これに対して,東芝と三菱電機においては,重電機や産業機械および機械向け電気品において製品の幅を拡大させる傾向が見られた。また,東芝,三菱電機については,家電・通信機・電子機器部門の割合の上昇が日立よりも若干早く,逆に1960年代の事業構造の変化は控えめであったが,日立においては1950-60年代を通じて変化し続けた。ただし,日立においても,重電機・産業機械が事業構造において重要な役割を果たし続けたことも間違いない。

286頁】

次に,通信機メーカーにおいては,日本電気・富士通・沖電気の3社についていえば,1950年代には,電話機・交換機が成長しつつも無線通信部門が大きく拡大し,さらに日本無線を含む4社とも電子部品・電子機器部門の比重が増した。1960年代になると,コンピュータ・半導体などの電子部品・電子機器部門が急拡大し,企業によっては通信機メーカーのイメージから変貌を遂げた。このうち,最も大きく事業構造を変化させたのが富士通であり,1970年代初めにはコンピュータ・メーカーと呼ばれるにふさわしい存在になった。日本電気においては,コンピュータに加え,半導体事業等も大きく展開し,より多角化志向であった。沖電気も富士通・日本電気の2社と類似した展開を示したものの,事業構造の転換はより緩やかであり,成長率も相対的に低かった。日本無線もまた合弁子会社の形で半導体事業に進出したが,「電電ファミリー」3社ほどには成長しなかった。

家電メーカーについては,1950年代には,エネルギー機器,情報機器の双方が急速な成長を遂げ,中でもエネルギー機器の成長の方が若干上回った。1960年代になると,各メーカーとも情報機器部門がより高い伸びを示した。このうち,松下電器と三洋電機は,エネルギー機器,情報機器の全般をバランスよく品揃えする,類似した経営戦略を展開した。また,両社とも関連会社において半導体を開発・生産し,1960年代には事業上の重要性を増していった。これに対して,シャープは,家電全般を取りそろえたものの,より情報機器に注力し,1960年代には電卓など電子機器を大きく展開し,松下電器や三洋電機に比して相対的に小さな企業規模ながら半導体への参入をうかがう動きも見せた。一方,ソニーは,家電では情報機器のみに特化する一方,1950年代には半導体事業も展開した。しかし,1960年代になると,半導体事業の割合は縮小し,限定された情報機器分野で高付加価値化を目ざす戦略を展開した。

小括の最後に,戦後に導入された新技術である半導体に関して,触れておきたい。本稿で対象とする全社が海外企業からの技術導入により,自社内ないし関連子会社において,半導体の開発,生産を行った。半導体は,市場勃興期の1950年代には市販されるケースが少なくなかったものと見られる。しかし,1960年代以降,半導体使用量が急速に増大したにも関わらず,各社の半導体事業の割合はそれほど大きくは高まらず,市販ないし外部調達が大きく拡大したとは言いがたい。トランジスタで先駆的な事業化を図ったソニーにおいては半導体事業を外販ビジネスとして拡大する志向は次第に弱まり,各メーカーにおける内生が半導体事業発展の基本方向となった。各電機メーカーの半導体事業は大きく発展したが,半導体事業を中心とするメーカーの発展は見られなかったのである。

 

4.おわりに

 

本稿においては,総合電機(重電機)メーカー,通信機メーカー,家電メーカーのタイプごとに11社の電機メーカーを取り上げ,各メーカーを比較しつつ,企業としての成長のプロセス,事業内容の変化について,第一次接近的な分析を行い,いくつかの特徴を見出した。その内容については,第2節と第3節の小括でまとめたので詳細は繰り返さないが,これらを踏まえて,高度経済成長期の電機産業の発展のあり方について,石井晋[2020]で検討した先行研究との関連で簡単に述べておきたい。

先行研究においては,戦後日本の電機メーカー間の「寡占企業間の激しい競争」が強調され,287頁】 特に「同質的な競争」ととらえられることが多かった。「同質的」の意味合いは明確に定義することが困難であり,論者によってニュアンスが異なる。さしあたりは,電機産業をより細かい部門に分類した場合に,複数のメーカーが同一部門内の競合する製品を生産したり,同一ないし類似した技術の導入・開発に注力したり,どの部門にウェイトを置くかが類似していたり,全体としての部門構成が類似しているような状況を指すものと考えよう。実際,高度経済成長期において,総合電機メーカーが重電機から家電や電子・通信機器へ,通信機メーカーが電話機・交換機・無線通信機器から電子・情報機器へ,家電メーカー(ソニーを除く)が1950年代にはエネルギー機器と情報機器をバランスよく取りそろえようとしたが1960年代には情報機器をより大きく拡大させていったこと,すべてのメーカーが半導体の技術導入に注力したことなど,「同質的」と見られる現象は少なくない。しかし,そうした中でも,本稿第3節で各メーカーについて指摘したように,それぞれのメーカーごとにかなり多様性のある経営展開を示したことは強調しておきたい。各社の経営のあり方を特徴づけるさまざまな個性は,20世紀末以降,日本の電機産業が停滞期に陥り,株主等から「選択と集中」が強く求められた時の経営戦略に,かなりの影響を与えたように思われるからである。

最後に,本稿で明らかにしたことと関連して,いくつかの論点を付加的に指摘しておきたい。

第一に,総合電機(重電機メーカー)については,政策的に資金供給が優遇された電力会社43)からの大規模な発注を受けていたこと,通信機メーカー(日本無線を除く)と日立については,国家予算に支えられた資金で運営される電電公社からの発注をかなりの程度独占的に受けていたことを背景として,長期資金が比較的円滑に調達できた可能性が高い。これらの結果,各企業とも総資産回転率は比較的低水準であったものの,多くの資金と長期の懐妊期間が必要とされるコンピュータや半導体などへの投資もまた円滑に行われ,事業構造の変化を実現していったものと思われる。ただし,本稿で明らかとなったように,事業展開には企業ごとに異なる点も少なくない。資金調達のあり方の影響や企業ごとの経営のあり方についてはまだ研究が不十分であり,今後の課題としたい。

第二に,家電メーカーについては,より熾烈な競争の中で,売上高営業利益率が低下しやすい傾向にあったことから,高い総資産回転率を実現することで迅速に資金回収を行うことが経営的に重要であった。とりわけ不況期の総資産回転率の低下は,各企業にとって苦境となり,経営業績の差となって表れた。そうした中で,松下電器は松下電子での半導体生産を重視しつつも販売システムの再構築を経営展開の中心に据え,シャープは電卓事業の拡大と並行して半導体開発に乗り出し,三洋電機は東京三洋電機での半導体生産に力を入れたた。これに対して,より小規模のソニーにおいては事業展開を限定したまま高付加価値製品の開発に注力する一方で半導体部門の割合が縮小し続けた。このような企業ごとに異なる経営展開のあり方が,その後の各企業の経営業績や日本における半導体産業のあり方にどのような影響を与えたのかについては,あまり本格的な研究はなされていない。これについても今後の研究課題としたい。

第三に,戦後,1950年の外資法制定以後,海外からの技術導入が急速に進み,どのタイプの電機メーカーにとっても新たな事業を展開するための重要な条件となった。石井晋[2021]で検討したように,技術導入は電機メーカーの経営にさまざまな影響を与えた。また,技術導入にあたっては通産省等による認可が必要であり,認可の際には産業政策的考慮がなされたが,288頁】 多くのメーカーが同種の技術導入を行うケースが少なくなかった。このため,類似した導入技術をいかに迅速に活用して収益化するかをめぐって,「同質的」な激しい競争が展開したケースが少なくない44)。ただし,電機産業における技術全般をより広く見わたしてみると,メーカーごとに導入のあり方に多様性があり,それは各企業の事業戦略や自社内における研究開発能力によって規定された。このような海外からの技術導入の実態についてさらに検討することも今後の課題である。

第四に,自社ないし関連会社における内生を中心とする半導体事業の発展のプロセスは,いくつかの有力な半導体専業メーカーが誕生したアメリカに比すれば,日本において特徴的な現象であったように思われる45)。これについても,各メーカーの動向を踏まえてより詳細に検討することが必要であり,今後の課題としたい。

 

参考文献

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289頁】

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