現代の「日本的経営」論(7)
手塚 公登・小山 明宏
すでに多くの面を観てきた「日本的経営」は,当然,まさに多様な側面を持ち合わせている。そしてそれは「上手くいっている面」と「上手くいっていない面」の両方があることも明らかである。従来の日本的経営研究の「成果」は,この点,前者を中心に繰り広げられてきていることも,また明らかであろう。筆者らは以前からの日本的経営の研究者だったわけではないが,こうして引き継がれてきている過去の研究者諸氏の成果についても,やはり見直しをすることが有意義であろう,と思うに至っており,それについて本稿ではゆっくりと考察してみたい。
1970年代,筆者の一人は大学キャンパスでインドからの留学生と話すことがあった。この留学生は大学院への入学を希望しており,日本企業の経営に興味を持っていた。この時彼と,日本企業の経営(当時は「日本的経営」あるいはそれに類する単語は,まだ一般的には知れ渡ってはいなかった記憶があり,「日本(の)企業の経営」に関する特徴(「特長」ではない))をあれこれと話していたのであった。そしてこの時,私が「おやおや」と思ったのは,彼が「日本(の)企業の経営」の注目点としてまず挙げたのが「天下り」だったことである。これには筆者の一人は大いに驚き,「それはまあ,そういうことは起こってはいるが,それが日本の企業の経営を代表するものかどうかは,ちょっと考えてみる必要があるだろうね」と答えた記憶がある。
このインドからの留学生は,結局大学院への合格はならず,連絡も途切れてしまったので,その後コミュニケーションすることはできなかった。
天下りはたしかに日本で特徴的なことなのかもしれないが,それが日本企業の経営を「支えて」いたかどうかは定かとは言えないと考えている。
天下りとは,ネットでの定義によると1)
「国家公務員が退職後,在職していた府省と関係の深い民間企業や独立行政法人等に再就職すること。国家公務員の昇進管理は将棋の駒(こま)の形にたとえられる。府省庁別に同期入職した幹部候補の,いわゆるキャリア公務員は,おおむね40歳くらいで課長職まで同時昇進するが,その後昇進ポストは狭まり,勧奨退職に応じた者は外部へ出る。外部とは在職していた府省の関係の深い独立行政法人,特殊法人等や民間企業で,これが天下りである。この天下りを繰り返すのが「渡り」であり,再就職先を退職するたびに高額の退職金を受け取ってきたもので,こうした慣行が強い批判にさらされた。
【388頁】2009年(平成21)に「天下りの根絶」を公約した民主党を中心とする政権が発足,閣議で天下りあっせんを全面禁止することが決定され,退職後管理の一元化等,法整備が進められている。また,天下りの縮小は在職者の滞留となるため,2011年度の国家公務員採用数を削減した(2009年度採用実績数の4割減)。なお,地方公務員についても同様の問題があるが,対応は自治体に任されている。」
筆者らの認識では,天下りは「悪いこと」とまでは言われていないが,「良くないこと」,あるいは「不正」とまでは言わないとしても,世間では「適正でない」と思われている,と認識している。すなわち,Expediaによると天下りは,
「単に退職者が所管団体や関連企業等に再就職する点に問題はないが,以下のようなことが問題として指摘されている。
• 官民の癒着,利権の温床化
• 人材の仲介・斡旋について,中央省庁の権限の恣意的な使用
• 公社・公団の退職・再就職者に対する退職金の重複支払い
• 実質的な終身雇用による官僚の成長意欲の低下,及び責任転嫁体質の定着
• 幹部になりづらくなることによる生抜き職員のモチベーションの低下
• 役職の水増しに伴う産業全体の生産性低下と生抜き職員に対する待遇へのしわ寄せ
• 天下りポストを確保することが目的になり,そのことによる税金の無駄遣いの拡大
• 公益法人の場合,認可の見返りの天下りによって,公益性を損なう
」
これはまあ,人によっては「妬み・嫉み」などと表現する人もいるようであるし,そもそも先述のインド人留学生は「日本の企業の経営は,天下りによって政府と首尾よく連携がとれていて,一貫した発展が可能になっている」という「プラス面」を強調していたことは強い印象を持っている。ただ,当時は「それはあるかもしれないが,それが日本企業の成長の大きな要因ではないだろう」という考えを伝えたと思う。今となっては,これも日本的経営のコンポーネントということになるのであろうか。
これに限らず,「態勢」あるいは「制度」というのは一度出来上がってしまうと,そこでの弊害を修正する(させる)のは大きな努力と犠牲を伴うものであることは良く知られている。政治態勢で言えば,ヒトラーやプーチンによる「支配態勢」がその典型ではないかと考える方は多いのではないか。
そしてまた,世間での認識として,やはり重要なのは,「失敗」や「望ましくないこと」が出現したとき,いかにそれに向き合うか,ということになるであろう。これらはいわば日本的経営の「曲がり角」についての議論,ということになるかと筆者らは考えている。
すなわち,日本的経営にbadsはあるか,ということである。badsについては「グッズとバッズの経済学―循環型社会の基本原理」2)という本があり,そこでは
「経済学で,財や資源が「グッズ」であるのに対して,処理をするのに費用がかかる廃棄物が「バッズ」である。ある人にとっては不要なごみ(バッズ)が,他の人にとっては必要なもの(グッズ)になることもある。」
【389頁】と定義しているようである。
ただし,badsの本来の意味はgoods(財)の反対で,負の財,負の効用をもたらすもの,という意味である。存在はするがその存在によって非効用を運んでくるものである。その存在によって「正当な競争」が妨げられる事態が起こる可能性を持つものである。
2022年の時点で,このような見方から採り上げられる可能性のあるのは,知る人ぞ知る,あるいはしばしば経済コラムで話題となるパワーハラスメントによる過労死・犠牲者の話である。その背後には,日本に典型である「先輩・後輩の関係」がある。それは本来goodsであるものが,善用されず「濫用」されることによってbadsとなってしまう危険もはらんでいると,筆者らは考えている。
ここ数年で犠牲者が多数出ている会社では3),この8年で5人自死していて,サービス残業は自己研鑽だ,などという先輩から後輩への驚くべき強制が引き継がれ,技術系社員の「モットー」になって「いた」ことが知られている。死者が出るたびに社長が責任を取って,再発防止を口にして,涙を浮かべて退任しているが,それによってこの長年伝わってきている「伝統」を始末・除去・払拭することはできてはいないとされる。現場の,今まで何とかイジメに耐えて,「頑張って」ここまで来た,将来の「先輩」たちから激しい抵抗があるのか,と考えることもある。
津田真澂(1982)には,日本の労働社会の「年功的職場秩序」の存在が書かれている。いわゆる先輩∼後輩関係であるが,それが経験や知識の伝達・継承,テクニックの指導というプラスの面だけならいいが,歳上だという(だけの)理由で「威張る」面がまさってしまうと,こういうことも起こることになる。これを「年功的職場秩序」の二面性,と呼ぶことにする。
その例の一つが先輩(上司)の暴言であり,しかも直接的な暴言だけではないという。多くの人の前で,答えられない質問や人格否定を繰り返す行為が,被害者たちの残した記録からわかるとされる。被害にあった後輩には『説教部屋』と呼ばれる会議室があり,数時間にわたる叱責を受けた,など,長時間拘束する「指導」が複数の社員・元社員から聞かれたという。このような行為を行う「上司・先輩」が,ここで筆者らが考える,bads’である。彼らは会社のために働いてベネフィットをもたらす,goods’の面もさることながら,年齢が上だというだけの理由で威張る,パワーハラスメントを働く,などの,bads’の面の方が大きいと考えられる。有名でない大学の工学部から有名な大学(T大)の大学院に進学し,就職してきた後輩に「お前の経歴はいわばマネーロンダリングだな」などと苛めを行い,自死に至ったケースなど,明らかに「上司・先輩」と称する,bads’による妬みとコンプレックスによる犯罪だったことはとても残念である。
1.2 ,bads’を生じさせかねない日本的ルール,「長幼の序」
前述の通り,津田真澂(1982)の言う,日本的経営をいわば支えている大きな柱の一つである「年功的職場秩序」,いわゆる先輩∼後輩関係は,その根源・発生源を全体社会での「長幼の序」というものに見出す主張がある。西田(1982)では次のように述べている4)。
日本企業の特性の一つである年功序列は,日本の全体社会での「長幼の序」という社会秩序【390頁】 原理と密接に結びついていることが明らかになるのである。
西田によると,日本企業の特性の一つである年功序列は,日本の全体社会での「長幼の序」という社会秩序原理と密接に結びついていることが明らかである。長幼の序とは,いいかえれば年齢秩序であり,年上の人を敬い,その敬意の念を表わすために敬語を使い,また彼らのいうことに従うといった社会秩序である。この社会秩序原理は,徳川時代の日本社会に,主として武士階級のなかで確立され,明治以降,終戦までは教育勅語のなかに盛り込まれて,日本社会全体に浸透していった。もちろんこれは,戦後の民主教育では廃止された。しかし教える側に立つ者は,親であれ教師であれ,一般に教えられる側よりも年長であり,長幼の序は教える者にも利益になるということもおそらく作用して,今日に至るまで存続しているのである。
ともかく日本企業の特性の一つである年功序列は,全体社会での年齢秩序を企業という小社会に導入したものである。この意味でこれは,単なる企業レベルでの社会的仕組みではなくて,企業を含む全体社会での仕組みになっているといえるのである。
これに対して欧米ではどうであろうか。
欧米の企業は仕事のための社会ではあっても,日本企業のように,それとは別に身分社会の側面は持っていない。したがって,たとえ形のうえでは日本の年功基準に似たものがあっても,その本質はおそらく能力基準であろう。少なくともそれは,日本企業のように,身分序列の基準として存在するのではない。また日本企業のように企業全体を支配する基準ではないことは明白である。
欧米でも,全体社会のなかでは,年長者を敬うという空気は存在するであろう。文化人類学者がいうように,どんな社会にもそのような規範は存在する。というのは,年長者は若年者よりも長い人生経験を積み,そこからより多くのことを学んでいるからである。
けれども,このような規範は,少なくとも企業のなかには「侵入」していないらしい。欧米人は,たとえ自分より年の若い上役をもっても,日本人のように抵抗感をもたないという。欧米では,この点では全体社会と企業とは「切断」されている。
では,なぜ日本企業では年齢が問題になるのであろうか。すなわち,以上に述べたような欧米と日本の差はなぜ生じるのであろうか。
欧米企業の従業員が年齢を問題にしないのに対して日本企業では人々が互いの年齢を気にしあうのはなぜかという問題にたいする第一の回答は,西田によると欧米企業と日本企業の性格の違いに求められる。
すなわち,欧米企業であれ日本企業であれ,企業は,一つの小社会としてとらえることができる。一般に社会とは,複数の人間が直接あるいは間接になんらかの関係をもつことによって成立している人間集合体である。この意味では,企業は明らかに一種の社会なのである。
社会には,さまざまな種類がある。企業がどんな種類の社会かといえば,企業はなによりもまず,人々が仕事遂行のために協働という関係を結んでいる社会である。この意味で企業は仕事社会だといえる。この点では,欧米企業も日本企業も同じである。しかし両者の間には,次のような違いがある。
欧米企業は単なる仕事社会である。それは,仕事社会という面だけを持った小社会である意味で「一面的社会」である。これに対して日本企業は,単に仕事社会であるだけではなくて,身分秩序をもった身分社会の側面をも備えている。たとえば部長や課長といった称号は,仕事社会の面における職務の「位置」を示していると同時に,身分社会の面での身分序列における【391頁】 「位置」,つまり身分序列のなかでの「偉さ」の程度をも示しているのである。やや大げさにいえば,欧米企業が一面的社会であるのに対して,日本企業は全体社会に似た多面性をもつ「多面的社会」なのである。
すなわち,日本企業は,少なくともそれが一つの身分社会だという側面を備えている。そのために,日本の全体社会での一つの身分序列原理である「長幼の序」が,企業という社会のなかに,年功原理という形で「侵入」しているのである。
それでは,なぜ欧米では企業が単なる仕事のためだけの,ごく限定された“一面的社会”なのに,日本では身分社会の側面をも含む“全面的社会”なのだろうか。
これは,企業と従業員および従業員相互の間の結合の仕方の違いで説明できる。欧米では,企業と従業員は,職務契約によってだけ結びついている。その結果として,従業員相互間の関係も,原則として職務記述書に記載された仕事上だけの関係となる。したがって企業という小社会は,単なる仕事社会という“一面的社会”になる。
日本企業で年齢が問題になるもう一つの理由があるとされる。日本企業で年齢を基準とする身分秩序があるのに対して,欧米企業ではこのような身分秩序がない理由について,もう一つのことが考えられる。それは,欧米企業が,程度の差はあれ,専門分野を異にする専門家によって成り立っているのに対して,日本企業は同質的な人々によって構成されていることである。
欧米企業内での異なった専門家の問では,どちらが身分が上か,つまりどちらが偉いかは問題になりえない。たとえば質を異にするマーケティングの専門家と人事管理の専門家のいずれが有能で,いずれが身分が上かは問題になりえないのである。(もっとも,同じ分野での専門家の間では問題になりうる。)
管理職もまた管理という仕事の専門家であり,したがってこの専門家の年齢がたとえ自分より若くても,他の分野の専門家は,なんら心理的な抵抗感もなく,その管理者の管理に従うのである。
これに対して日本企業では,人々は原則として定年まで同じ会社にとどまって,皆同じように「会社専門家」として成長していく。この場合には,各人の素質と意欲が同じなら,年齢の違いが会社専門家としての人々の能力の差を決めることになる。したがって,年齢によって人々の問に身分序列ができるのである。
人によっては,日本企業で年齢が問題になり,欧米ではそうはならないという現象は,この説明だけで十分であり,前述した第一の説明は不要だと考えるかもしれない。しかしけっしてそうではない。もし企業内での仕事上の専門性の確立だけが企業内で年齢が問題にならない原因であるのなら,日本の組織体で仕事上の専門主義が確立すれば,年齢序列は解消するはずである。しかし必ずしもそうはならないように思われる5)。
一般に日本の組織体が一面的な単なる仕事社会ではなくて,身分秩序をも含んだ全面的な社会であるゆえに,全体社会での年齢秩序が組織体にも侵入しているのだ,という説明もきわめて重要なのである。
西田のこのような解釈は非常に興味深く,また的を射ていると思われる。日本的経営の重要【392頁】 なコンポーネントとされる「ジョブローテーション」は,このような「同質的な人々」を作り出すことに大きな役割を果たしていると考えられるからである。「欧米企業が,程度の差はあれ,専門分野を異にする専門家によって成り立っているのに対して,日本企業は同質的な人々によって構成されていることである。」という西田の主張は非常に説得的である。そしてこれが西田の言う「会社専門家」の発生である。
そしてこれがまさに「年功的職場秩序」の二面性によって「濫用」されると,,bads’としての役割に転じてしまうことになると考えられる。
これを「是正」することは容易ではない,あるいは無理だろう,というのが我が国の企業での実情である。衆知のとおり,人間は,他人にいじめられるとそのreturnとして他人をいじめることが日常であると言わざるを得ない。これが日本人だけの特徴なのかは定かでないが,とりあえずわが国では非常によく見られる傾向であると思われる。そしてそれを完全に取り除くことは,現実としては非常に困難であろう。
ただ,これはもう無理です,と言って終わらせるわけにはいかないのは,誰もが感じることである。これを変えることは非常に困難であるが,女性,外国人社員の増加,ガバナンス改革による社外取締役の義務化等,企業内の同質性を変えようとするような動きもみられるので,それが’bads'を克服する契機にならないと日本企業の将来は大きく制約されることになるであろう。この種の事件が起こるたびにその処置,どのような手がうたれたか,などについては当該企業は明らかにしないのが通例であるが,同時に何らかの改革の姿勢が行われることが,曲がり角にある日本的経営,という認識のもと,その曲がり角を乗り切るために過去になく必要となっていると考えるのは筆者らだけではないと認識している。
これまでの筆者らの論考で,海外から異質であるとみられてきた日本企業の経営に関する諸特徴を取り上げて論じてきた。前節では,その日本的経営の’bads'を欧米企業と比較して検討してきたが,この節では政府と企業の関係における日本の特徴を考察したい。市場経済の下では企業は自らの責任のもとに,投資や生産量,価格等の決定を行い,基本的には政府や国から援助を受けたりせず,また政府は経営に対して介入することは許されない。国の基本的な役割は,市場における自由で公正な競争を担保する法やルールを整備することである。しかしながら,実際には,特に英米より産業化に遅れた国においては,自国の産業を発展させるべく,企業に対して資金的な援助をしたり,色々な形で産業活動への介入を試みている。わが国も例外ではなく,戦後の奇跡と呼ばれた経済成長の過程で,政府と企業・業界との間には複雑で多様な関係が観察されてきた。
戦後の日本の経済成長を実現させた要因は様々であろうが,英米的な経済システムあるいは企業体制とは異なった日本独特の経済・企業システムを要因の一つとして挙げる議論も数多く展開されてきた。日本独特の企業経営の在り方については,これまでのわれわれの一連の論考【393頁】 でも取り上げてきたところであるが,ここでは企業の雇用システムや生産体制や企業間関係といった日本的経営を構成するとみられる要素それ自体ではなく,企業経営を取り囲むあるいはその在り方を規定すると考えられる政府の様々な政策がどのような影響を企業の意思決定や行動に及ぼすのか,あるいは及ぼしてきたのか,検討してみたい。国や政府の立法措置や政策が企業経営の展開に深い関わりをもち,何らかの影響を及ぼすことは言うまでもない。政府と企業の間の相互作用はどの国でもみられることではあるが,戦後日本の政府・企業間の関係や政府の行動には他国にはあまりない独特の様式があったと言われる。この日本に特有のシステムがどのようなもので,いつ成立したのか,ないしその原型がどこにあるのかに関しては,日本経営史の専門家を中心にたくさんの研究が積み重ねられてきた。この問題について論者の間で意見の一致をみていないが,ここでは野口(2010)の議論を基に考察を加えていきたい。
日本の経済経営システムがユニークであるとか,異質なものであるという議論は戦後長らく言われてきたが,その中身が何であるのか,そしてその起源はどこに求められるのかまたそれは持続可能なものなのか,等に関して様々な見解がある。野口は「現在の日本経済を構成する主要な要素は,戦時期に作られた」という仮説を1995年に出版した書物で提出し,これを「1940年体制」と名付けた。その名称の第一の意味として,日本型企業,間接金融中心の税体系,中央集権的財政制度などは,もともと日本にはなかったものであり,戦時経済の要請に応えるために人為的に導入されたものである,と主張する。第二の意味としては,それが戦後に連続したことである。つまり,未だに戦時経済に適合するように導入された諸制度設計の基本理念が日本経済に残存していると論じている。そして,野口は1940年体制はもはや持続可能なものではなく,2010年の増補版において,克服すべき課題として指摘している。
これに対して日本経営史の通説では,戦後の民主化によって日本の社会経済体制は一変したとされている。財閥解体や農地改革,新たな労働立法によって,経営者の入れ替えが強制的に行われ,農村において小作制は消滅し,労働者には労働組合の結成や団体交渉権が幅広く認められた。GHQの主導によって進められた民主化は,日本の経済システムを根本的に変えたと評価されているのである。この見解では戦後と戦前・戦時の体制は不連続とであるとされる。つまり,敗戦によってわが国の人々の意識,社会・経済システム,政治や企業経営の在り方,基本理念等は全面的に変わったと論じられる。こうしたドラスチックな制度改革,そして戦後の自由な開かれた民主教育を通じて,日本人の考え方も大きく変化し,勤勉かつ平等主義に根差した働き方が定着し,そのことが日本の高度経済成長をもたらした要因であると位置付けるのである。
しかしこうした見方に対して,野口は連続説を唱えている。戦後の改革が日本企業や経済システムに重要な影響を与えたことを認めつつも,戦後の経済・政治・企業システムの根幹のところでは,戦時経済体制の思想や理念が強力に反映されていると主張している。日本的な企業の特徴は終身雇用,年功序列賃金,企業別労働組合,さらに経営者の内部昇進,集団主義,平等主義といった点に求められるのであるが,それらは,総じていえば,企業は株主に所有されているというよりも従業員の共同体的な性格が色濃いことを反映している。こうした日本企業の姿は,戦後に新しく誕生したものではなく,戦時体制の一環として,1940年前後に形成されたものである((野口(2010)22頁)。そしてそれは,戦前の日本企業の特徴とも異なる,と野【394頁】 口は論じる6)。
40年体制以前の日本企業は,今でいうアングロサクソン流の教科書的な古典的な企業像に近かった。資金調達面では,株式による資金調達の割合が大きく,戦後の日本企業に比べて自己資本比率が高かった。労働市場をみると,明治期には労働者の勤続年数は短く,雇用調整もかなり速く行われていたが,第1次大戦以降,ホワイトカラーの登場とともに,次第に雇用が長期化し,年功的な報酬の原理が導入されるようになった。それでも,ブルーカラーである工員の雇用は依然スポット的性格が強かった。
こうした状況は戦時経済体制の進展とともに大きく変化していくことになる。国家による強力な統制が進み,経済の隅々まで中央集権的なプロセスが確立する。それを象徴するのが1938年に成立した「国家総動員法」であり,国の資源と労働力のすべてを戦争目的のために動員することが目指された。この中で,企業経営に関わる面では,株主の権利が制限され,企業の配当に規制が加えられ,また大企業で採用されていた長期雇用契約や年功型賃金が全国的に制度として定着していくことになった。給与の決定においては勤続年数が重視され,初任給も公定されることになった。また,企業別の労働組合の原型もこのころ見られた。労働争議の多発に衝撃を受けた政府は,労使双方が参加する新しい事業別の組織(産業報国会)をつくり,労使の懇談と福利厚生を促した。さらに,それまでは,日本の大企業は部品を自家生産していたが,戦時期の増産に対応するため下請方式の採用が進んだのである。
次に,金融システムの在り方についても,戦後の日本には大きな特徴がみられる。一般的に後発工業国では間接金融の占める比重が高いが,戦前の日本では必ずしもそうではなかった。むしろ株式市場を通じた資金調達(直接金融)が大きな割合を占めていた。しかしながら,太平洋戦争遂行のため資源を軍需産業に傾斜配分をさせる目的のため,1940年前後に行われた制度改革が間接金融体制を日本経済に根付かせることになった。
この体制が少なくとも戦後,バブル経済崩壊まで長く続いた。そこでは都市銀行がオーバーローンとなって,日本銀行に依存するようになり,企業は設備投資などの資金調達のため借入に大きく依存するようになった。また円滑な資金供給を行うため,三井,三菱などの都市銀行を核とする金融系列が形成された。
もう一つ,40年体制を形成した重要な要素が官僚機構である。官僚機構自体は古くからあるが,戦時期に戦後につながる官僚の発想法,官対民の関係が生まれたといわれる。政府と民間企業との関係は複雑かつ微妙であり,教科書的な理解では,市場での私企業の活動には政府は介入すべきではなく,基本的には自由な競争に任すべきであるということである7)。しかし,実際には特に後発工業国ではそうではないケースが多い。なぜなら,市場に任せておくだけでは,戦略的に重要と思われる産業や企業の育成ができないからである。先進諸国の大企業と競争するためには,一定期間,技術や労働力,資金といった経営資源を蓄積しなければ,対等に競争することはできないだろう。自国経済の成長・発展には外資規制や税制優遇,補助金の交付といった,様々な施策を伴う政府の介入が不可欠であろう。
戦時期の政府の介入,表現を変えれば,官僚機構を通じた規制であるが,それは1920年代後【395頁】 半から1930年代初めにかけての昭和恐慌を背景に始まった。その統制は各種事業法の制定などを通じて次第に強化されていった。この「計画経済」の遂行を主張する,官僚や軍部の介入に対して,財界は「官僚統制」を批判し,「民意の創意」の尊重を要求した。資本主義経済の下では,たとえ非常時といえども,官僚による統制経済的発想がそのまま経済界を承服させるとは限らないのであり,実態的にも政府が直接統制するのは困難であり,形式的には民間の自主規制となり,業界ごとのカルテル団体が作られ,統制が行われた。
このような戦時経済体制が現在に続く日本の経済システムの骨格を形成したと,野口は主張した。政府と企業や業界,経済界との関連に着目すれば,英米からすれば異様ともいえる経済の姿の原型がそこには見えるのである。この政府と業界の密接な関係が戦後日本の特徴であるとして指摘した文献に米国の商務省が1972年に発行した報告書がある。そこでは,いみじくも国全体が一丸となって復興から経済成長を目指す体制を「日本株式会社」と呼んでいる。政府と民間企業や財界との関係がどのように捉えられているのか,節を変えて検討していこう。
1972年に米国商務省は「日本株式会社」という書物を刊行した。戦後の日本の驚異的な成長を分析したこの報告書は,成長を説明する複数の要因を挙げている。プロテスタント精神を想起させる,勤勉で,消費を繰り延べてまで貯蓄や投資に励む態度を有する日本人の性格がまず挙げられる。また,伝統的に高い教育水準は,労働力の熟練度と適応性を高め,そうした労働者を豊富に集めることができたことも要因の一つである。そして終身雇用制や経営者の家父長的態度を基盤とする良好な労使関係と海外の近代的技術の導入や活発な設備投資は生産性を大きく向上させ,賃金も労働者の要求を満たしつつ,大きく上昇した。
この他,日本人の文化的,社会学的特性を挙げている。単一民族であることが凝集性を高め,国家の近代化を目指すという目的に邁進することができたというわけである。西欧の高い生活水準に追いつくという目的の達成のために一丸となって努力するにあたって,民族的同一性は有用であった。もちろん,米国の占領軍が進めた財閥解体や民主化路線は,日本の産業の転換や再編成に役立ったことは言うまでもない。
こうした多様な要因が戦後日本の成長を牽引したと考えられるのであり,多くの研究で指摘されてきた。それぞれの要因の貢献度のランク付けは難しいが,この報告書では,これらの要因以外の決定的に重要な要因として,「日本政府が経済発展を指導してきた特殊で特異なやり方,および日本経済を特徴づけている政府と企業の内部協調関係(Interaction of Government and Enterprise)」を挙げている。日本経済は市場の自由な競争に委ねられるのではなく,政府が日本経済の目標や優先順位を決定し,目標達成に努力してきた。しかし,それは全面的な計画経済ではなく,民間企業や財界は政府の行政的な指導にある程度は従いつつも,企業側にかなりの主導権と自主性が認められていたというのである。
同じく,日本経済の急成長を通産省の役割に焦点を当てて検討した文献として,ジョンソン(1982)がある。彼は,日本の急成長を説明するいくつかの理論を検討した後,自らを経済的奇跡における発展指向型国家の役割に注目する学派に位置づけている(ジョンソン(1982),15頁)。つまり,国家自体が産業化を推進させるという役割を担ったという点に着目する。産業化の開始が遅れた国ではよくみられる類型である。ジョンソンによると,一般に民間経済活【396頁】 動に対する向き合い方として,2つの異なった姿勢,規制型・市場合理型と発展指向型・計画合理型があり,政府と企業の関係は異なる。前者は,競争のルールには関与するが,産業の存続や撤退には関与しない。後者は社会的・経済的目標を設定し,経済における国家の優先度を選択する。前者の典型が米国であり,日本は後者に該当し,政府は民間の経済活動に実質的に関与を試み,成功した国であると評価している。
国家が介入する発展指向型の場合にも様々な方法があり,日本の介入の仕方は,例えば経済目標を決めるに際して,政府が一方的に決定するのではなく,互いにコミュニケーションする気風があり,対立がある場合にはできるだけ合意をまとめるように努め,調和を維持しようとした点に特徴がある。こうした経済運営の仕方は,日本社会における集団の調和と合意を重んじる傾向を反映しているといえよう。政府の指導や介入は,必ずしも法律に基づくとは限らず,行政指導による調整は無形で,複雑な態様をとっている。こうした方法は,日本独特のものであり,日本全体が一つの株式会社として機能しているという意味で,「日本株式会社」という名称が与えられたのである。
政府と経済界と濃密な関係を表す代表的な事例として,日本の産業政策を検討していこう。産業政策とは,鈴村・奥野(1993)によると「競争的な市場機構になんらかの機能障害が発生する場合に,特定産業間の資源配分に介入したり,特定産業の産業組織に競争制限的な介入を行うことによって,一国の経済厚生を高めようとする政策」である。内容的に見て,特定の産業を保護・育成・振興を図り,経済的厚生を高めようとする「戦略的産業政策」と競争的市場機構の失敗を個別的に補正することで,経済的厚生を高めようとする「補正的産業政策」の2種類に大別でき,政策手段は「規制的政策手段」と「誘導的政策手段」に類型化できるという。前者は法律に基づく許認可権限や法的根拠が必ずしも明確でない行政指導を通じて,民間企業の意思決定に介入し,政策当局の望む行動を取らせようとする政策手段で,後者は金銭的ないし非金銭的誘因を提供することで,民間企業の行動に間接的・誘導的に介入して,政策目的と整合的な行動をとらせようとするものである。
こうした政策手段を用いた介入は,戦後,通産省を中心に積極的に進められた。それは,過当競争の抑制のための参入規制,産業構造の調整,研究開発活動に対する援助政策などであった。そうした政策が経済理論的にみて正しい論理に基づいていたかどうかには大いに疑問も呈せられたが,官僚による干渉は高度成長期間を通じて試みられた。その産業政策が常に官僚の思い通りになったわけではないが,民と官の対立と協調を含みながら,日本の高度成長が実現したのである。その頂点となる動きは,1963年の特定産業振興臨時措置法案の制定を巡って,官僚と政財界を巻き込んで行われたが,最終的にはその法律は成立しなかった。この紛争の結末は,官僚主導の産業政策の挫折を示したが,日本の内部協調体制の崩壊を意味するのではなく,少なくともバブル崩壊までは,官界,経済界双方のインフォーマルな関係は継続したと考えられる。それは日本的な労使関係や企業間関係とも補完性をもって,日本の経済システムを特徴づけていたといえよう。
終戦直後の産業政策は,戦時経済統制の影を色濃く残しており,1950年代後半までは直接統制を典型とする直接介入政策がとられた産業が多くみられた。一方,前記した日本に特有な産業政策の頂点は1960年代に最盛期を迎え,1970年代に入ると,産業政策の様相は異なってくる。【397頁】 国,通産省の介入の度合いは弱まり,民間企業の主導する経済成長が実現することになるのである。
次に,いくつかの個別の産業の状況を簡単に見てみよう。
1)コンピュータ産業8)
コンピュータ産業は1950年代に誕生した新しい産業であり,極めて短い期間に日本のメーカーが産業を立ち上げ,キャッチアップを果たした。当時の世界的大企業はIBM であったが,急速にその牙城に迫った。通産省はこの産業の将来的な発展の可能性や他産業への広範な影響を見越して,国家的な見地から助成し,振興を図ることを決意したと言われる。
資金投入にあたっては,大蔵省は予算の効率化のため業界の整理・統合を要求したが,民間企業側は技術開発や販売への助成は求めたが,民間企業の経営の主導権を奪うような全面的統制には反対した。こうした相反する要請を受けながら,通産省は効率的な競争と計画を実現すべく努力を続けることになった。
ここでの大きな課題は,当時幼稚産業と位置付けられたコンピュータ産業を保護することは市場の失敗を補う政府の介入を正当化するが,保護政策はコンピュータ・ユーザーに負担をかけ,他の産業の競争力を低下させる恐れがあったことである。外国メーカーとの競争の脅威に対処するため構想されたのが,国策会社案であった。それによって,資金の効率的活用,技術者の重点的配置,生産機種の分担,計画的生産体制の確立等を実現しようとしたが,最終的には民間側の反発で当初の構想どおりには実現しなかった。
しかしながら,IBMを始めとする外国勢に日本市場を席巻させることなく,通産省はどの機種を保護するのか,どの機能を競争させるのかといった巧みなコンビネーションを実現し,結果的には民間企業の競争インセンティブを失わない形での,市場化と計画化を融合した産業育成政策を行った成功例として評価されている。
伊藤(1993)によると,産業政策が日本の自動車工業の発展にどのような影響をもたらしたかに関しては,顕著な意見の相違があるという。一方には,産業政策は産業の発展や企業の成長に悪影響を与えただけどいう見方がある。国民車構想や産業再編成の失敗などをその理由として挙げることができる。これはコンピュータ産業における国策会社案の失敗と類似している。官僚による計画化の意欲が強くですぎて,それが経済界の反発をかった結果,挫折した。この側面を強調する論者は企業の努力と活力が自動車産業を発展させたとみなす。
これに対して,もう一方には,産業政策こそ日本の自動車産業の成長を支えたとする見方がある。自動車産業は,戦後の日本の幼稚産業の代表例であり,輸入制限や外国企業の直接投資の制限などによって手厚く保護された。この保護が時限的なものであることが周知されていたため,設備投資欲を高めたのである。
おそらく両方の見方とも正しいのであり,計画化と市場化が巧みに組み合わされたことで自動車産業の急成長が実現したと考えられる。幼稚産業であることから,一定期間の保護政策は不可避であり,それなくしては,先進国の巨大な一流企業には対抗できなかったであろう。し【398頁】 かしながら,保護政策を漫然と継続するならば,市場の競争原理が働かず,競争を通じた企業の成長を促すことはできなかったと思われる。
さらに日本の自動車産業の特色は,多数の中小企業からなる部品メーカーの下請けネットワーク構造にあるが,部品メーカーに対して直接補助・融資が与えられ,それが部品費用の低下と品質向上に寄与し,幅広い外部経済が生み出された。このことが効率的な日本の自動車産業の系列下請関係を支える要因となったのである。
産業政策の代表的な類型の一つとして,「設備投資調整」がある。鉄鋼業は通産省の産業政策が成功した産業の一つと言われることも多い。1960年代に西ドイツを抜き,1980年代にはアメリカを凌ぐまでに成長した。しかし,その成功が民間企業主導のものか,通産省をはじめとする官僚主導によるものかについては,意見が分かれる。三輪(1990)は,設備投資調整が日本の鉄鋼業にどのような影響を及ぼしたか,また大手企業にどんな影響を与えたかを分析している。その結論は,鉄鋼業の設備投資調整は,少なくとも直接的には明確な経済的インパクトを各企業の設備投資行動に与えるものではなかったというものである(三輪(1990)239頁)。鉄鋼業の設備投資調整は,1950年代後半から始まり,具体的には各企業の話し合いにより設備投資量を調整しようとする「自主調整」が基本であった。そして政府あるいは通産省が設置した審議会が各企業に,あるいは調整の場に働きかけるという形で行われた。
この設備投資調整は,鉄鋼業の需要予測について慎重派と積極派が入り混じっていることにより,難航を極めた。その結果,各社の設備投資計画の合計量は需要想定を上回り,着工枠の長期配分ルールを決めようとする試みはことごとく失敗したと評価されている。三輪によると,通産省の関与は主に自主的な調整の場で結論に達するのを容易にするという役割を果たしたが,企業の設備投資に実際に影響があったとは考えられないとしている。ただし,生産販売面での協調行動と設備投資調整は表裏一体であり,生産販売面での協調体制の維持に果たした役割は小さくなかった。
そうした点からすると,設備投資の調整には通産省の指導は直接的な影響力はなかったが,業界全体の協調体制には少なからぬ影響を与えたともいえるのではないかと考えられ,その意味では産業政策は一定の役割を果たしたと評価ができる。
こうした事例を振り返ると,各産業の成長の要因が民間の能力や市場の力にあったのか,官僚の計画的誘導にあったのか評価を下すのは簡単ではないが,民間企業・経済界と政府,特に通産省の官僚(現局)9)との間で,激しい対立があったにもかかわらず,両者の間で産業の将来に関する見通しや政府の日本経済の将来ビジョンに関して,各種審議会の場を経由してコミュニケーションが図られ,両者の意思と行動の相互作用の結果として高度経済成長が実現されたといえるのではないだろうか。そこにおける官民協調体制は,利害対立を含んだものであり,決して平板なストーリーで語られるようなものではないが,やはり日本独特の共同体的な意識が当事者に内包されていたと思われる。その意味で,日本型の経済・企業システムの成功【399頁】 を支えた一つの要因として日本的な政府・企業間関係があったと言えよう。
次に,戦後の日本の経済を特徴づける金融システムを見てみよう。金融政策の在り方が,日本的経営あるいは日本型の企業システムを特徴づけてきた,と野口(2010)は論じている。そして,その政策が実は,企業の資金調達の方法に影響を与えるにとどまらず,ガバナンスや労働市場の働きとも関連していることを寺西・長瀬(2017)は指摘している。政府,この場合,大蔵省の官僚主導の政策運営が日本的経営の柱ともいえる雇用慣行にも影響を及ぼしていたことを示している。
戦後の金利規制の下での,事実上の課税と補助金のシステムの下で公社債が銀行に割当保有されたこと,その割当システムを日銀が市中銀行に対する流動性の受動的供給によって行ってきたことが,戦後日本において銀行に産業向けの長期資金供給の主体としての地位を付与し,そのことによって株主の利益を無視した日本型企業システムの成立を可能ならしめたと寺西・長瀬(2017)は論じている。本来,長期資金の供給には不向きな銀行が戦後日本において,中心的な貸し出し主体となれた背景には日本独特の金融規制があったのである。
日本的経営の中核として指摘される終身雇用・定期昇給・企業内訓練などは,労働市場内部の問題ではあるが,金融システムの在り方とも強く結びつていている。戦後の特にブルーカラーのホワイカラー化という日本に特有の現象が大きく関係しているのである。というのは,工員のブルーカラー化は企業内に平和をもたらし,労使紛争を減少させ,企業特殊技能への投資を増加させ,企業の長期成長に貢献した。しかしそれは一方において,ブルーカラーのボーナス制度への参加を促し,株主の利潤配分を減らす恐れがあった。これに対して,銀行中心の金融システムの成立が株主のパワーを封じることで,安定的な経営者主導の企業システムが確立できたのである。
また,間接金融体制の下で,資金の流れが強くコントロールされ,人為的低金利政策によって信用割当がなされ,基幹産業と輸出産業に資金が重点的に配分された。さらに金融鎖国体制を敷いて,国際的な資金の流れを閉ざした。これが護送輸送船団体制と呼ばれるわが国独特の金融システムに繋がった。戦前は,日本も株主重視の経営で,英米的な証券市場が機能していたが,戦後少なくともバブル経済崩壊までは企業の資金調達の場面で直接金融が大きな役割を担うことはなかった。株主の不在を戦後の日本的経営の一つの特徴と挙げることができるが,それは政府による金融規制と深く関わりを持っていたのである。
日本的雇用慣行の特徴の一つである長期雇用は,一定の条件の下ではそれ自体経済合理性に基づく企業行動であるが,政府の税制の在り方や従業員の解雇に関わる規制によって下支えされてきた面もある。労働市場や労使関係について国や政府が一切関わりを持たないことは世界的に見てもあり得ず,各国の違いは政府の労働立法や労働政策の相違を反映している。宇田川・阿部(1995)は政府を企業,市場と区別して,サード・ハンドと呼んでいるが,その働きはかなり大きいと思われる。ここで述べる政府の関与は,上述した特定産業を保護したり,産業組織の再編成を誘導するといった産業政策と異なる。労使間の賃金や労働時間の問題に直接的に干渉するものではなく,その意味では政府と企業との関係といってもいわゆる産業政策と【400頁】 は多少意味合いが違うが,法律や規制の在り方が日本的経営の存続に結果的に貢献したという観点から政府・企業間関係の問題として論じることができよう。
わが国の雇用慣行の柱となる終身雇用や年功序列は,企業の生産職場における働き手の確保やインセンティブ供与のための企業の経済合理的な行動の結果であるが,その慣行がわが国において他国に見らないほど深く根付いた理由として,それを後押しする税制や解雇法制があったと思われる。一つには,特定の企業で長期間勤続したのちに受け取る退職金への税制上の優遇措置がある。長期に勤務するほど,税金が優遇されため,働く側からみて転職への誘因が少ないのである10)。
また,経営者が解雇することが簡単にできないことも長期雇用の理由としてあげられ,これが雇用の流動性を妨げていると近年では批判されることも増えている。ただ,解雇規制については,経営者が自由にレイオフできる米国を例外とすれば,西欧各国でも一定の制約がある。
OECDの2019年のデータによると,雇用保護規制指標11)は2.1で,アメリカやイギリスよりは高いが,ドイツやスウェーデンなどの欧州の大陸諸国よりは小さい。日本の解雇規制が格段に厳しいとは必ずしも言えない。ただし判例などを見ると,「解雇回避努力義務の履行」が重要で,整理解雇は実際にはなかなか難しいのが現実である。もちろん法律上の規制の厳しさと社会通念上許される解雇とは異なるが,いずれにしろ日本においては,実際には正規雇用に関する限りかなり難しいのである。ただし非正規雇用や中小企業での雇用慣行を勘案すると,それほど経営者の裁量の余地が小さいわけではないことも確かでもある。そのことは正規労働者の長期雇用を守ることにつながり,社会的にみると,正規労働者と非正規労働者との格差をもたらすという別の問題を発生させた。
税制,解雇規制,日本的長期雇用慣行の3者には,いわば制度的補完性が働き,正規雇用者を保護してきたといえるかもしれない。こうした状態を社会的な摩擦を伴わず解消することは容易ではないが,そのまま放置することはもはや許されないだろう。特にこれはジェンダー平等の問題などを踏まえると早急に改善が求められる重大な課題である。ただ長期雇用に関係するすべての規制が悪だと一概には決めつけることはできないと思われる。転職の自由な社会,雇用流動化が日本経済の活性化のために必要である,と最近声高に主張される場面が目立つが,普通の労働者の生活を経営者の安易な解雇から守る規制も依然としてわが国では大切であると思われる。
政府は2023年にかけて,ジョブ型雇用の普及を促す指針を取りまとめるとの報道もあるが(日本経済新聞2022年10月26日付夕刊),メンバーシップ型雇用とジョブ型雇用では仕事の内容や働き方は大きく異なってくるので,企業経営の観点からも,従業員の生活の観点からも拙速な全面的導入を企業に強いることは避けなければならないと考える。
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これまでの議論で,政府の様々な政策が産業の発展や企業間関係の形成,雇用慣行,資金調達に影響を及ぼしたことを確認してきた。政府や官僚の行動がわが国の企業の戦略や経営の在り方をある程度は規定してきたといえるのであり,90年代に入るまではそれなりに効果はあったのではないかと,総括できると思われる。戦後のキャッチアップ経済での産業政策は,日本の進むべき方向について政府と民間が目標を共有できたので,かなり有効であったとジョンソンは評価している。もちろん具体的な産業再編成や合理化を巡っては,政府と業界との間で,また業界内部で深刻な対立や矛盾を内包していたが,そのことが逆説的に戦後の経済成長をもたらした側面もあると思われる。日本ばかりでなく市場合理型と評されるアメリカにおいても軍産複合体と呼ばれる一部特定産業を育成・補助する産業政策はある。わが国においてはそれが広範な産業に及び,かつインフォーマルな形式で行われてきたところに特徴がある。
インフォーマルな調整というやり方は,政府と民間企業との間に癒着や役人の天下りといった一時期,盛んに批判の対象となった不透明な出来事を招来したことも確かであろう。しかし,こうした官民協調は環境変化に柔軟に適応するという面で長所を有し,日本的な良さであったと考えられる。
ただ,時代は変わりつつある。上述した野口(2010)では,戦時体制から続く日本型経済システムの変革を強く求めている。確かに日本経済・企業を取り巻く環境は大きく変化しており,制度も意識も変わらなければならない。現在は,高度成長期とは異なり,日本経済を支えると期待される産業は,重厚長大型の製造業ではなく,情報コミュニケーション産業やソフト産業にシフトしている。技術環境も手塚・小山(2022)で論じたように劇的な変化に直面している。デジタル化,オープン化が強く求められる環境で,政府と業界や企業がどのような関係を構築すべきなのか,新たな観点から検討が必要であろう。
バブル崩壊後のコーポレートガバナンスの改革によって,株主の権利が重視され,護送輸送船団体制も過去の遺物となった。朝日新聞(2022年5月16日付)の社説には,最近の半導体産業への政府による補助金政策を巡って,過去の産業政策の失敗を繰り返すな,との主張が掲載されている。政府の審議会が「経済産業政策の新機軸」を掲げた議論を進めており,財政資金を投じて民間産業への介入を強めようという方向性がみられるが,過去の産業政策の失敗を繰り返すことにならないか,重大な懸念があるという。社会的合意のあるエネルギー開発のためのインフラ整備や基礎研究を超えて,政府がどの程度の財政出動をすべきか慎重な検討が要請されるのは間違いない。たが,かつての産業政策がほとんど失敗であったかどうか,見解が分かれるところであることは上述した通りである。企業の自主的な競争を妨げる過度な政府介入はさけるべきであるが,新しい時代に向けて官民協調的な要素を残した,日本的な強みを発揮できる,より開かれた形での,長期的な視野に立った政府・企業間関係の展開がより熾烈なグローバルな競争が予想される経済・技術環境だからこそ,必要ではないかと,筆者らは考える。
※本号は杉田善弘教授の定年退職にあたっての特集号である。筆者の一人・小山は同教授が彼の母校・学習院大学に奉職されて以来30年以上にわたって交流を持ち,さまざまなお世話になったことに心から感謝申し上げ,今後のご健康をお祈りしたい。
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