17〜18世紀ドイツの宮廷ユダヤ教徒台頭の
社会・経済的な要因
竹原 有吾
17〜18世紀ドイツでは,経済活動においてさまざまな制約を課されている宗教的なマイノリティという立場であったのにも関わらず,宮廷ユダヤ教徒の経済的な活躍が目立つようになった。特にこの時代に台頭した宮廷ユダヤ教徒の一族の豊富な資金は,例えば19世紀のプロイセン王国では,ユダヤ教徒が市民権を獲得するのを実現させたり,鉄道会社や大規模信用銀行の設立に必要な資金となることで工業化に貢献したりすることに繋がった。もっともこうした宮廷ユダヤ教徒の一族は,資金の提供者となっていただけでなく,のちにユダヤ啓蒙主義運動の担い手になっていった人々に教育を施した学者や,政治的な解放を実現するために活躍したユダヤ共同体の長老,信用銀行の設立者となる銀行家など,人材輩出という面でも重要な役割を果たした。このような宮廷ユダヤ教徒の一族が,17〜18世紀のドイツ各地でどのようにして現われることになったのかを本稿では検討していく。
ドイツの宮廷ユダヤ教徒に関して,1920年代と30年代に研究が盛り上がりを見せ,その後,1980年代以降にもまた学問的な関心が高まってきたことが指摘されてきた(Ries, 2002, S. 12)。宮廷ユダヤ教徒を扱った研究は極めて多く,宮廷ユダヤ教徒が扱われている研究のテーマは多岐にわたる。具体的には特定の宮廷ユダヤ教徒の一族に焦点を当てた研究1)に加え,宮廷ユダヤ教徒だけに焦点を当てたわけではないが,例えばドイツ歴史学派によってなされたプロイセン王国の重商主義政策の研究2)や,広くベルリンの市民社会に焦点を当てた研究(Rachel & Wallich(1967))などがある。ただこうした宮廷ユダヤ教徒に関する諸研究の中でも特に注目すべき研究が,ドイツ各地の宮廷ユダヤ教徒について体系的にまとめたゼルマ・シュテルンの研究(Stern(1950)3))とハインリッヒ・シュニーの研究(Schnee(1953; 1954; 1955a; 1963; 1965))である。ゼルマ・シュテルンは,研究者本人がユダヤの出自で,宮廷ユダヤ教徒がユダヤ社会や宮廷に対して果たした役割などテーマに沿って,主に18世紀前後に活躍した宮廷ユダヤ教徒について研究をまとめた。それに対して,ハインリッヒ・シュニーはドイツ諸邦ごとに活躍した宮廷ユダヤ教徒の歴史についてまとめた。ただハインリッヒ・シュニーについては【160頁】 ナチス期に宮廷ユダヤ教徒の研究を進めた歴史家として,国家社会主義との関わりが指摘されたことがある4)。このように宮廷ユダヤ教徒を扱った研究では,宮廷ユダヤ教徒が重商主義政策を採用する国の中でビジネス機会をうまく利用し,経済的に豊かになっていった様子が描かれてきた。けれども,なぜいくつかの特定のユダヤ教徒の一族が目立って宮廷ユダヤ教徒として台頭してくることになったのかが十分に分析されてきたわけではなかった。17〜18世紀に現われた特定の宮廷ユダヤ教徒の一族にどのような特徴があったのかを明確にするために,彼らとそれよりも古い時代に活躍した宮廷ユダヤ教徒の一族の間で何が異なっていたのかを検討する必要がある。
ところで宮廷ユダヤ教徒という言葉は,これまでの研究では当然のように用いられてきたが,宮廷ユダヤ教徒は宮廷の組織において存在した役職ではなく,宮廷ユダヤ教徒の定義が具体的にあるわけではない。すでに挙げた宮廷ユダヤ教徒に関する先行研究でも宮廷ユダヤ教徒の定義が一様に定まっていたわけではなかった5)。こうした状況を踏まえたうえで,本稿で宮廷ユダヤ教徒は,商業活動を通して宮廷と経済的な取引関係を築いたユダヤ教徒の商人を指すものとして分析を進めていく。
考察の進め方としては,まず中世以降のドイツでユダヤ共同体がどのように形成されてきたかを確認する。宮廷ユダヤ教徒はユダヤ共同体で代表的な立場にあることが少なくなかった。ユダヤ共同体の形成に関する歴史を振り返り,特定の宮廷ユダヤ教徒の一族が台頭してきた要因を明らかにする手掛かりを得たい。次に14〜16世紀と17〜18世紀に分けて,それぞれの時代にブランデンブルク選帝侯領やその周囲の地域で宮廷ユダヤ教徒がどのように現われ,どのようにビジネスを展開していったのかなどを見ていく6)。それによって14〜16世紀と17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒でどのような違いがあったのかを明示する。そのうえで17〜18世紀に活躍した宮廷ユダヤ教徒に見られた特徴が,彼らを取り巻くユダヤ教徒にどのような影響を与えていたのか,そうした宮廷ユダヤ教徒と姻戚関係やビジネスでの取引関係があったグリュッケル・フォン・ハーメルン(Glückel von Hameln)7)の回顧録8)を史料として分析する。この回顧録は,後世に当時のユダヤ教徒の生活を伝える資料として,また近世ドイツのユダヤ教徒の家庭における女性の生き様を明らかにするための素材として取り扱われてきた9)。そのため回顧録から読み取れる商業活動や婚姻戦略など,ユダヤ教徒の商人に見られた特徴を,17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒の一族がドイツ各地で台頭してきたこととどのように結びつけることができるの【161頁】 か,考察があまり行われてこなかった。グリュッケルの回顧録の分析によって,17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒の周りで活動していたユダヤ教徒の商人が,どのような商業活動を展開し,いかなる婚姻戦略を採っていたのかを確認する。そして,そうしたユダヤ教徒の商業活動や婚姻戦略の特徴が,宮廷ユダヤ教徒の一族の台頭とどのように関わっていたのかを考えていく。さらに本稿では,17〜18世紀に活躍した宮廷ユダヤ教徒が,同じ時期のドイツで活躍したキリスト教徒の宮廷商人と比べ,どのような点で異なっていたのかも見ていく。宮廷ユダヤ教徒の特徴と見なしているものが,実はキリスト教徒の宮廷商人にも同様に見られるものである可能性はないのかを確認し,それでもなおユダヤ教徒にしか見られない特徴について探っていく。
17〜18世紀に活躍した多くの宮廷ユダヤ教徒がユダヤ共同体で中心的な役割を担っていた。ここでは中世ドイツの都市でユダヤ社会がどのように生まれ,その中でユダヤ共同体がどのように形成されてきたのかを中世都市の形成やキリスト教徒の都市共同体の成立と関連付けながら確認していく。
アルプス山脈以北のヨーロッパでどのように都市が形成されてきたのかは地域によって異なると考えられ,一概には言えないが,古代ローマの時代から存在していた都市でも,都市の歴史において古代と中世の間で必ずしも連続性が見られるわけではなかった。古代ローマ帝国の衰退が進む中で,人口の減少や都市の規模縮小,都市内部の荒廃などが起こっていて,中世に入りキリスト教が広まり教会や修道院が市内に建設されるなどする中で,教会や修道院を中心とした都市が形成されていった(河原,2009,9-38)。フランドル地方で確認されているように,特に10〜11世紀には都市の増加とその規模の拡大が見られはじめた。ただそうした都市では修道院や宮廷などに隣接する形で商人や手工業者の定住地が形成されていて,必ずしも交易の拠点として都市化したものではなかった。例えば領主が生活していた荘園館が城塞へと発展したような地域では,城塞の倉庫に領内で生産された食糧が集められ,その倉庫に貯蔵された食糧が市場で販売されるようになることで,そこが交易拠点のある都市として発展していった場合もあった(Verhulst, 1999, pp. 44-118)。ドイツでユダヤ共同体が見られるようになったのも,このような都市化が進んでいった11世紀以降のことと考えられている。12世紀までには,ライン川やモーゼル川,マイン川,ドナウ川沿いの大聖堂のある都市にユダヤ共同体が見られるようになった10)。
そもそも中世都市に共同体なるものがどのようにして形成されたのかということであるが,少なくとも都市共同体の成立に先立って,地域に根ざした兄弟会の形成があったことがヨーロッパの都市を事例に示されてきた。兄弟会というのは,宣誓の有無を問わず,また特定の地域に根ざしているのか,いくつかの地域に渡って活動しているかを問わず,「宗教・祭祀に基づく兄弟契約」によって組織されていた団体で,商業ギルドや手工業者のツンフトもこうした兄弟会の一つとして数えられることがある。兄弟会は宗教的な祭儀や共同の食事を行うため,宗教が相異なる者同士が一緒に同じ兄弟会に参加することは困難を伴う。そのため,兄弟会は【162頁】 キリスト教徒とユダヤ教徒で別の組織が築かれたと考えられる11)。特にキリスト教徒の兄弟会は,都市共同体の役割の一部を果たすようなこともあり,都市共同体が禁じられた場合には共同体の代わりを担うような事例もあった。兄弟会は都市共同体の運営にも深く関わっていて,中世都市の共同体は,兄弟会の発展と密接な関係の中で形成されていった(Haverkamp, 2006, S. 153-192)。中世ドイツのユダヤ共同体は,ユダヤ教徒を取り巻く兄弟会や都市共同体の発展に影響されて成立することになったと思われる。
またユダヤ教徒がなぜドイツ諸都市で生活するようになったのかであるが,それについては都市の政治的な支配者と都市へ移住してきたユダヤ教徒の両方の視点から説明されてきた。中世のドイツ諸都市へユダヤ教徒が移住した経緯は時代や地域によって異なり,明確になっているわけではない。ただ9世紀に南イタリアでキリスト教への改宗をユダヤ教徒が強制されたという衝撃や,10世紀のビザンツ帝国内で起こっていたユダヤ教徒の迫害,反ユダヤ主義的な考えを広める人々の10世紀末ローマでの活動,プロヴァンス地方にまで及んだ9世紀後半から10世紀後半のムスリムによる掠奪の被害など,地中海地域がユダヤ教徒にとって以前ほど安心して暮らせる環境ではなくなっていたことがあった。一方でキリスト教徒の側にはユダヤ教徒を受け入れることにどちらかと言えば積極的になりうる状況が生まれていた。10世紀以降のドイツの司教座都市では,司教が都市を聖地イェルサレムやローマを模倣したものにしようとしていた。特にローマには古代からユダヤ教徒が生活していて,例えばマインツではローマを模倣した都市にするために,都市内部にユダヤ教徒を定住させることが必要であると理解されていた12)。それに加え,ドイツでは司教がユダヤ教徒のヘブライ語聖書から得ている知識を重宝していた。実際,ザーリアー朝の王国内でユダヤ教徒が住み着いたのは,世俗諸侯と司教が都市の支配をめぐって争っている地域ではなく,司教の都市支配権が認められていた地域に限られていたように,ユダヤ教徒の受け入れは司教が主導していた(Haverkamp, 1987, S. 119-156; Haverkamp, 2013, S. 45-87)。
ドイツ諸都市では都市化が進む中で特に13世紀後半から1330年代にかけてユダヤ教徒の定住地域は大きく広がっていった。そして諸侯をはじめとする都市の領主と都市共同体の緊張関係の中で,ユダヤ教徒はその両方と繋がりを持つことで,自身の安全の確保に努めた。そうした領主と都市共同体の緊張関係の中で,都市によってはユダヤ教徒が市民権を獲得するようなこともあった。ただドイツでは14世紀半ば以降,帝国の支配の中心がオーストリアのある東部へ移り,1348〜50年にはペストが流行し,ユダヤ教徒が置かれた状況に変化が生じた。1390年以降ドイツ各地でユダヤ教徒の追放が見られるようになり,そうした追放が行われた地域の多くではユダヤ教徒の人口が大きく減少した。また都市の参事会の力が強くなり,ユダヤ教徒はその参事会の作った規範の下で生活することを強いられるようになり,ユダヤ共同体の数は減少した(Haverkamp, 1996, S. 103-136)。
このように中世ドイツにおいてユダヤ社会がどのように生じ,発展してきたかを見てきた。【163頁】 この歴史を踏まえて,その後,宮廷ユダヤ教徒がどのようにドイツで活躍するようになったのかを見ていくことにする。
ブランデンブルク=プロイセンやその周囲の国々を中心に,14〜16世紀と17〜18世紀で宮廷ユダヤ教徒にどのような違いが見られたのかについて確認していく。
(1)14〜16世紀のドイツ諸侯に仕えた宮廷ユダヤ教徒
ドイツで最初の宮廷ユダヤ教徒は,14世紀にマグデブルクの大司教に金貸しとして仕えたザムエル・フォン・デーレンブルク(Samuel von Derenburg)と見なされているが,それ以前にも南ドイツやオーストリアの宮廷の下で活躍するユダヤ教徒やトリーアの大司教に仕えるユダヤ教徒が確認されている(Schnee, 1953, S. 19)。ブランデンブルク選帝侯に仕えた宮廷ユダヤ教徒としてはまず16世紀に登場するミヘル(Michel)とリッポルト(Lippold)を挙げることができる(Schnee, 1953, S. 23)。ミへルはハルツ伯やブラウンシュヴァイク=リューネブルク伯をはじめ各地の宮廷で仕えたあと,最終的にブランデンブルク選帝侯の最初の宮廷ユダヤ教徒として活動することになった。1549年に彼が亡くなると,1551年にはかねてから債権者として厄介な存在として見られてきた彼の妻や子供たちがベルリンから追放されプラハに渡ることになったが13),1558年,1559年と,彼の妻は改めてブランデンブルク選帝侯に対する金貸しの業務を行っていたことが確認されている(Jaeger, 1994, S. 440-441)。ただブランデンブルク選帝侯のミヘルの地位を継いだのは,彼の一族ではなくリッポルトであった。リッポルトはプラハ出身で,1556年にブランデンブルク選帝侯領で貨幣鋳造所への銀の納入を義務づけられたユダヤ教徒の監督者に任命された宮廷ユダヤ教徒で,ブランデンブルク選帝侯のヨアヒム2世の錬金術の趣味や恋愛にお金を出すなどして,選帝侯から寵愛を受けていて,多くの貴族や市民とも経済的な取引関係を結んでいた。ただリッポルトのビジネスの進め方には批判も多く,1571年初めにヨアヒム2世が亡くなると逮捕され,最終的には処刑されてしまった。その後,彼の妻はウィーンに渡り,神聖ローマ皇帝に嘆願書を提出するなどし,ブランデンブルク選帝侯がリッポルトの財産を家族に引き渡すように働きかけていた(Menges, 1985b, S. 667-668)。このように16世紀のブランデンブルク選帝侯領の場合,宮廷ユダヤ教徒の一族が代々,その地位を継いでいくようなことは全く見られなかった。
同じ15,16世紀のブランデンブルク選帝侯領以外の地域の宮廷ユダヤ教徒の場合はどうであったであろうか。ハノーファーやブラウンシュヴァイク,ザクセンの場合を見ていく。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク伯の最初の宮廷ユダヤ教徒と見られているのは,ブランデンブルク選帝侯領でも最初の宮廷ユダヤ教徒として活動したミヘルであった。ミヘルは一時,ハノーファーで家族とともに生活していた。ブランデンブルク選帝侯の娘でブラウンシュヴァイク=リューネブルク伯の妻になったエリザベトは,このミヘルに対して債務を負っていたことがわかっている。同じ時代にミヘルの他にも宮廷ユダヤ教徒として活躍した者とし【164頁】 て,エリザベトの息子から担保を取って資金を貸し付けていたジモン・ギュンツブルク(Simon von Günzburg)がいた。彼は出身地のギュンツブルクにシナゴーグや墓地を建設し,のちにギュンツブルクの隣町ブルガウに移り住み,そこでユダヤ共同体の福祉のためにも働いた(Rosenthal & Seligsohn, 1906, p. 113)14)。宮廷ユダヤ教徒には他にも1560年代後半にヴンストルフの貨幣鋳造所の運営に関わっていた者がいた。
ザクセンでも14世紀にすでにライプツィヒで宮廷ユダヤ教徒の活動がいくつか確認されている15)。15世紀に入るとザクセン選帝侯のフリードリヒ1世やその妻と交流を持ち,少額の資金を貸し付けることもあったライプツィヒの宮廷ユダヤ教徒アブラハム(Abraham)がいた。このアブラハムは選帝侯の寵愛を受けたが,最終的に1436年に息子プシュマン(Puschmann)とともに逮捕され,自分たちの財産のことで裁判を起こせないことや,新しいフライベルク硬貨4,000ショックの支払い,借金に関するすべて手紙の破棄が条件となり釈放された。その後,ザクセンでは15世紀半ばにも宮廷ユダヤ教徒として銀を供給する者や宮廷の代官に命じられて穀物の代金の支払いを行う者がいた(Schnee, 1954, S. 167-168)。
ここまでに挙げた14〜16世紀のブランデンブルク選帝侯やブラウンシュヴァイク=リューネブルク伯,ザクセン選帝侯などに仕えた宮廷ユダヤ教徒の大半に共通していることは,その一族が基本的に,ほぼ一世代で宮廷ユダヤ教徒の役目を終えて,宮廷ユダヤ教徒として生活していた地域から追放されるなどしていなくなっていることであった。ギュンツブルク家に限れば, 18世紀末から19世紀後半にかけての東欧で経済的な活躍が見られることになる。しかしギュンツブルク家がジモン・ギュンツブルクのあと,ギュンツブルクやブルガウで宮廷ユダヤ教徒として活躍し続けたような情報は確認できなかった。
(2)17〜18世紀のドイツ諸侯に仕えた宮廷ユダヤ教徒
それでは17〜18世紀ドイツ諸邦で商人として目立って活躍していた宮廷ユダヤ教徒の一族は,それまでの宮廷ユダヤ教徒とどのような点で異なっていたのであろうか。さしあたりブランデンブルク=プロイセン(プロイセン王国)で活躍した宮廷ユダヤ教徒の事例について分析していくことにする。
17世紀のブランデンブルク=プロイセンで最初の宮廷ユダヤ教徒は,グローガウ(Glogau)出身のイスラエル・アーロン(Israel Aron)であった。彼は大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの時代にワインや食料品をはじめとした商品の納入を宮廷から依頼され,戦争の際には兵士や資金を供給することで活躍した人物で,のちにケーニヒスベルクからベルリンへ移り住んでからも,基本的には宮廷に対してワインや食料品,お仕着せ16)を供給していた17)。1673年にイスラエル・アーロンは亡くなったが,その3年後には,彼の妻であったエスター・シュールホフ(Esther Schulhoff)が,2人目の夫となるヨスト・リープマン(Jost Liebmann)がブラン【165頁】 デンブルク=プロセイン領内に移住するための許可を選帝侯に求めていた。ヨスト・リープマンはゲッティンゲン出身の貧しいユダヤ教徒で,当初,真珠の売買を商いとしていて,のちに婚約者であったエスター・シュールホフの求めでベルリンに渡ってからは,特にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(プロイセン王フリードリヒ1世)から寵愛され,宮廷にジュエリーを卸す宮廷ユダヤ教徒として活躍した18)。そのヨスト・リープマンも1702年には亡くなり,彼に相続人に指名された妻エスター・シュールホフが事業を引き継ぐことになった。ヨスト・リープマンとその家族は,他のベルリンのユダヤ教徒とは異なってさまざまな義務が免除されていて,彼女は夫の亡き後もその特別な地位を維持し続けることができたが,1713年にプロイセン国王フリードリヒ1世が亡くなると一時的に自宅に軟禁状態にされ,宮廷に対して多額な代金の支払いを要求することもあきらめなければならないような状況になり,まもなく彼女も亡くなった。生前にベルリンのユダヤ共同体で彼女は上級長老マルクス・マグヌス(Marcus Magnus)と対立関係にあったが,そのマルクス・マグヌスが上級長老になった1709年に息子のイザークも上級長老になっていて,その弟も兄を継いで1714年に上級長老となった19)(Rachel & Wallich, 1967, S. 27-42)。ヨスト・リープマンの一族の末柄には,サロニエのアマリエ・ベアー(Amalie Beer)や音楽家のジャコモ・マイアベアー(Giacomo Meyerbeer)がいる。彼らは,リープマンの末柄と1764年に結婚して1886年にベルリンのユダヤ共同体の長老になった宮廷ユダヤ教徒のリープマン・マイアー・ビュルフ(Liepmann Meyer Wulff)の子であった(Rachel & Wallich, 1967, S. 393-396, 428; Deutsch & Mannheimer, 1906, p. 298)20)。
このように17世紀になると,イスラエル・アーロン,ヨスト・リープマン,エスター・シュールホフ,そしてその子供たちと,世代を超えて代々宮廷ユダヤ教徒として活躍する一族が見られるようになった。もっともそうした事例はこれだけではない。次に同じくブランデンブルク=プロイセンで活躍した宮廷ユダヤ教徒の一族,ゴンペルツ家の事例を見ていきたい。
ゴンペルツ家は17世紀以降,ドイツだけでなく欧米各地で様々な分野で活躍が見られるようになった一族である。ゴンペルツ家は1600年にユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国に受け入れられた2人のユダヤ教徒の1人ゾロモンを先祖とする一族で,そのゾロモンの父モルデヒャイ・グンペル(Mordechai Gumpel)にちなんでゾロモンの孫の代からゴンペルツ21)と名乗られるようになった。移住後の10年後に保護状は更新されたものの22),ゾロモンをはじめとす【166頁】 る一族は貧しく,この一族は三十年戦争の間に戦利品の売買に関与するところからビジネスを大きくしていったのではないかと考えられている。その後もゴンペルツ家の保護状の更新は続いた。ゾロモンの息子のうちモルデヒャイ・グンペル(Mordechai Gumpel)はクレーフェ公国とマルク伯領の主席ラビとしてエメリッヒで活躍し,ヤーコプ・ゴンペルツ(Jacob Gomperz)とダヴィッド・ゴンペルツ(David Gomperz)の2人はユダヤ教徒が定住可能な家族数が限定されていたためヴェーゼルに移住することになった。モルデヒャイの息子の1人もクレーフェ公国とマルク伯領のラビとして活躍することになった。もっともモルデヒャイの息子の中ではエリアス・ゴンペルツ(Elias Gomperz)が,ブランデンブルク=プロイセンの宮廷ユダヤ教徒として,軍需物資を供給する業者として,また多額な資金の貸し手として活躍し,非常に裕福になった23)。エリアス・ゴンペルツは大選帝侯を得意先としていて,クレーフェを拠点にビジネスを展開した。大選帝侯相手の商売は特に軍隊の世話や砦の修復に関係するものであった。ちなみにエリアス・ゴンペルツは,エメリッヒやクレーフェのユダヤ共同体が建てた記念碑から,宮廷ユダヤ教徒としての活動を通して一族の繁栄だけに力を入れたわけではなく,同じユダヤ教徒が安心して生活できる環境を築くために努力していたことがわかっている(Kaufmann & Freudenthal, 1907, S. 4-25)。
エリアス・ゴンペルツの息子ルーベン・エリアス・ゴンペルツ(Ruben Elias Gomperz)も宮廷ユダヤ教徒として,父より広い地域で経済的に活躍した24)。ルーベン・エリアス・ゴンペルツは,1673年にウィーンからベルリンへ多数のユダヤ教徒の家族が移住してきた直後にベルリンに住む許可を父に取得してもらっていたが,当初,ルーベン・エリアス・ゴンペルツはヴェーゼルからベルリンにあるブランデンブルク=プロイセンの宮廷やドレスデンにあるザクセン選帝侯の宮廷に仕え続けた。ルーベン・エリアス・ゴンペルツはそれ以外にもウィーンの神聖ローマ皇帝に仕えることもあり,各地の宮廷と経済的な取引関係を築いていた。ルーベン・エリアス・ゴンペルツはジュエリーや穀物だけでなく弾薬や手形も取り扱うことで利益を上げていた25)。ただ彼のビジネスがすべてうまくいったわけではなく,ザクセン選帝侯との取引では大きな損失を出したこともあった。また最終的には根拠がないとして釈放されたが,同じく宮廷ユダヤ教徒のザムゾン・ヴェルトハイマー(Samson Wertheimer)26)を殺そうとしたとして逮捕・投獄されたことがあった。ベルリンにビジネスの拠点を移してからもブランデンブルク選帝侯が支払いを行わないこともあり,大きな損失を出すことがあった。ルーベン・エリアス・【167頁】 ゴンペルツはユダヤ教徒でありながら,支払えない分の代償として選帝侯から重要な公的な役職が一時的に与えられたこともあった。ただ特に貨幣鋳造に関わる委員会での活動では彼の批判者が多く生み出され,プロイセン国王の支持を失ったルーベン・エリアス・ゴンペルツは再び逮捕されることになった。のちに彼はドレスデンの宮廷ユダヤ教徒ベーレント・レーマン(Berend Lehmann)に20,000ターラーもの保証金を負担してもらって釈放された(Rachel & Wallich, 1967, S. 43-47)。ルーベン・エリアス・ゴンペルツは1705年に亡くなるが,その息子はブレスラウでシュレージエンのラビとして活躍し,このラビの孫ルーベン・サミュエル・ゴンペルツ(Ruben Samuel Gumperz)は,19世紀転換期のベルリンで取引所の建物の建設に必要であった多額の費用を貸し出し,ユダヤ教徒とキリスト教徒が共同で取引所を管理する組合を設立し,そのユダヤ教徒側の代表として活躍し,またベルリンのユダヤ共同体の長老として,ユダヤ教徒の政治的な解放の実現に向けてプロイセン政府に働きかけるなどした(Rachel & Wallich, 1967, S. 62-63; Freund, 1912, S. 445)。
ベルリンで活躍したグンペルツ家の人間は,ルーベン・エリアス・ゴンペルツの家系の者だけではなかった。ルーベン・エリアス・グンペルツの従兄弟の子モーゼス・レヴィン・ゴンペルツ(Moses Levin Gumperz)は,1713年にフリードリヒ1世が亡くなりベルリンへの居住が認められると,そこでプロイセン王国に軍需物資を納入するなどのビジネスを展開するようになった。そうした中で1717年にはプロイセン国王からベルリンのユダヤ共同体の上級長老に任じられた。ベルリンではのちに従兄弟のエリアス・ゴンペルツ(Elias Gumperz)と一緒にビジネスを行うようになったが,新たな試みとして取り組んだタバコ工場の経営には失敗するなどエリアスと協力したビジネスはあまりうまくいかなかった。また彼らは貨幣の鋳造に関わる業務でも宮廷との契約を全うできず,プロイセン国王の怒りを買うことになった。事業の失敗が続いた結果,最終的にモーゼス・レヴィン・ゴンペルツとエリアス・ゴンペルツが一緒に経営していた商社は解体され,エリアス・ゴンペルツはベルリンを去ることになった。またモーゼス・レヴィン・ゴンペルツも最後はクレーフェに戻った。モーゼス・レヴィン・ゴンペルツを継いでベルリンで宮廷ユダヤ教徒として活躍したのは,その息子のヘルツ・モーゼス・ゴンペルツ(Herz Moses Gomperz)であった。彼はファイテル・エフライム(Veitel Ephraim)の妹を妻に迎え,当初はエフライムと協力して事業を行うこともあった。両者はのちに敵対するが,どちらも上級長老となり,宮廷ユダヤ教徒として貨幣鋳造業で活躍した(Kaufmann & Freudenthal, 1907, S. 140-155; Meisl, 1962, S. XXIV; Rachel & Wallich, 1967, S. 48-62)。
このようにグンペルツ家もブランデンブルク=プロイセン(プロイセン王国)で代々宮廷ユダヤ教徒を輩出していた。ブランデンブルク=プロイセン以外の地域でも,世代を超えてビジネスを展開していた宮廷ユダヤ教徒の一族は存在したのであろうか。ハノーファーやザクセンの場合について見ていきたい。
ハノーファーでは,ベーレンス家が1670〜1721年の間,3代に渡って宮廷ユダヤ教徒としてブラウンシュヴァイク=リューネブルク伯(ハノーファー選帝侯)に仕えた27)。初代はレフマン・べーレンス(Leffmann Behrens)で,彼はライン川下流域のボックムからハノーファーに移り住んで各地の諸侯と経済的な取引関係を構築した人物で,ブラウンシュヴァイク=リュー【168頁】 ネブルク伯が選帝侯に昇格するための資金調達や,ブランデンブルク=プロイセンがプロイセン王国を名乗るための資金調達に協力したことでも知られている。レフマン・べーレンスはタルムード学者を支援したり,息子とともに古くなったシナゴーグの建て替えを進めたりするなどしてユダヤ社会に貢献した。その後,レフマン・べーレンスが宮廷ユダヤ教徒として行っていた事業は2人の孫に引き継がれたが,うまくいかなかった。ただ彼の娘がウィーンの宮廷ユダヤ教徒ザムエル・オッペンハイマー(Samuel Oppenheimer)28)の甥でメーレン(モラヴィア)の主席ラビ,ダヴィッド・オッペンハイマー(David Oppenheimer)と結婚していて,その息子ヨーゼフ・ダヴィッド・オッペンハイマー(Josef David Oppenheimer)29)は,のちにハノーファーで神聖ローマ皇帝の宮廷ユダヤ教徒として活躍することになった30)(Schnee, 1954, S. 13-44; Schnee, 1955b, S. 12)。
ザクセンの宮廷ユダヤ教徒としては,ベーレント・レーマンがいた。彼の一族はもともとエッセンを生活の拠点としていたユダヤ教徒で,ベーレント・レーマンはそこを離れて,ハルバーシュタットを拠点としていた。当初,彼はレフマン・べーレンスと協力してビジネスを展開し,そうしてドイツ諸侯と経済的な取引関係を築いていく中で,ザクセン選帝侯のフリードリヒ・アウグスト1世31)にも宮廷ユダヤ教徒として仕えるようになった。そしてベーレント・レーマンはフリードリヒ・アウグスト1世がポーランド国王に選ばれるように資金集めや有権者の買収に奔走することになった。またポーランド国王となった際にも,ポーランド将校の支持を得るために贈り物をしたり,戴冠式の祝賀会を開催したりするのに多額の資金が必要になり,ベーレント・レーマンはそのための資金調達をすることになった。さらにスウェーデンとの戦争では,軍需物資をベーレント・レーマンとその兄弟が担うこともあるなど,ベーレント・レーマンは宮廷ユダヤ教徒としてビジネスを通してザクセン選帝侯を支え続けた(Stern, 2001, S. 66-79)。このベーレント・レーマンはユダヤ社会においては,まずドレスデンのユダヤ共同体の設立者であったことが知られている。また彼はハルバーシュタットとハレのユダヤ共同体やリッサ(現在のレシュノ)のユダヤ教徒を支援していた(Schnee, 1985, S. 68-69)。彼の宮廷ユダヤ教徒として行っていた事業は,2人の息子レーマン・ベーレント(Lehmann Behrend)とエリアス・ベーレント(Elias Behrend)に引き継がれることになった。宮廷商人と【169頁】 してのビジネスはさらにレーマン・ベーレントの子供たちにも引き継がれていった。宮廷商人として活躍した彼の長男と次男は,キリスト教へ改宗し,次男の娘はのちにザクセンの貴族と結婚することになった(Schnee, 1954, S. 202)。
以上,ここまででブランデンブルク=プロイセンやハノーファー,ザクセンで活躍したすべての宮廷ユダヤ教徒を扱うことができたわけではないが,それでも14〜16世紀と17〜18世紀で宮廷ユダヤ教徒には大きな違いがあったことがわかった。それは17〜18世紀に活躍した宮廷ユダヤ教徒には複数の世代に渡って宮廷ユダヤ教徒を輩出する一族がいくつも見られたということである。確かに14〜16世紀の段階では名字を用いていない宮廷ユダヤ教徒が大半で,出身地と名前で個々人が認識されているため,実際には世代を超えてドイツ各地で活躍した宮廷ユダヤ教徒がいたにも関わらず,確認できていないような事例が存在したかもしれない。しかし17〜18世紀に活躍した宮廷ユダヤ教徒には貧しい状況から脱して裕福になったものも多く見られた。その中には裕福になってから,16世紀以前から活躍していた宮廷ユダヤ教徒の子供と婚姻関係を築いている者もいた可能性はあるが,それは代々,特定の一族から宮廷ユダヤ教徒が輩出されている状況とは言えない。たとえあったとしても,14〜16世紀に複数世代に渡って宮廷ユダヤ教徒を輩出していた一族はかなり限定的であったと思われる。むしろ17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒が名字を利用するようになったことで,一族の名声がユダヤ教徒であるかキリスト教徒であるかを問わず広まるようになり,それによって特定の宮廷ユダヤ教徒の一族が,諸侯の信用を得やすくなったり,ユダヤ共同体の中で高い地位を就きやすくなったりしていた可能性はあったと思われる。
実際に17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒にはユダヤ共同体の設立者になっている者がいて,上級長老や長老,主席ラビなどユダヤ共同体を代表する立場の人間が複数世代に渡って特定の宮廷ユダヤ教徒の一族から輩出されるような事例も多く見られた。17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒はただ宮廷相手にビジネスを展開するだけでなく,ビジネスで稼いだ資金や宮廷とのコネクションを利用してユダヤ社会の発展に努め,ユダヤ共同体を設立したり,ユダヤ社会のためにシナゴーグや墓地32)の建設を推し進めたりするなど,ユダヤ社会において自らの名声を高めていた33)。すでに確認したように中世後期にかけての時代のドイツでは都市共同体が強力で,ユダヤ共同体は数を減らしていた。ただその後,都市共同体が自治権を奪われ,領邦国家の政治的な管理下に置かれていく時代になってからは,ブランデンブルク=プロイセンをはじめとした地域でユダヤ共同体の設立が以前よりも容易になったと考えられる。こうして17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒は,それまでの宮廷ユダヤ教徒ができなかったユダヤ社会の発展に向けて積極的に貢献するようになった。そしてユダヤ共同体の設立や重要な宗教施設の建設などを実現した宮廷ユダヤ教徒の一族の名声は,地域からユダヤ教徒が追放されることなくユダヤ共同体が後【170頁】 世まで続くものが増えていく中で,世代を超えてユダヤ社会で通用することになっていったと考えられる。
このように17〜18世紀に活躍した宮廷ユダヤ教徒は,14〜16世紀の宮廷ユダヤ教徒と異なり,ユダヤ社会における名声を重視していた34)。また17〜18世紀のドイツの諸都市には彼らが名声を誇れるユダヤ社会が多く生まれてきていた。ただこうしたユダヤ社会における名声は,17〜18世紀に活躍した特定の宮廷ユダヤ教徒の一族だけが追い求めたのであろうか。宮廷ユダヤ教徒にはならずに商業を展開したようなユダヤ教徒はどうであったのか。その疑問を解決するために,宮廷ユダヤ教徒と同じようにヨーロッパ各地で商業活動を展開したが,宮廷と経済的な取引関係は結んでいなかったユダヤ教徒の商人の一家であったグリュッケル・フォン・ハーメルンの回顧録を分析していく。
回顧録を執筆したグリュッケル・フォン・ハーメルンは,本人によると父がもともとヘッセンの全ユダヤ共同体の統括者(Vorsteher)を務めていて,その後,長期にわたってアルトナのユダヤ共同体の統括者を務めることになった人物であった(Feilchenfeld, 1913, S. 27, 36)。グリュッケルの最初の夫は商人のハイム・ハーメルンで,このハーメルン家は1614年にフランクフルトを追放されてハーメルンに渡ったゴルトシュミット家であった。ゴルトシュミット家からはヨーゼフ・ハーメルン(Joseph Hammeln)の娘(グリュッケルの義理の姉妹)がハノーファーの宮廷ユダヤ教徒レフマン・べーレンスの妻になったことが知られている。またこのゴルトシュミット家にはフランクフルト・アム・マインを追放されてカッセルに渡った人々もいて,彼らは宮廷ユダヤ教徒として活躍した(Schnee, 1954, S. 13-14)35)。グリュッケルの夫婦は回顧録を読む限りでは宮廷と経済的な取引をしていたわけではなかったと見られ,宮廷ユダヤ教徒ではなかった。それでも宮廷ユダヤ教徒との関わりが深かったユダヤ教徒の一族のグリュッケルが書いた回顧録というのは,宮廷ユダヤ教徒について理解するうえで有益な情報を提供してくれる史料であると考えられる。
この回顧録には,グリュッケルが直接目にした実際の出来事だけが記載されているのではなく,失踪した人物の話など部分的に創作された物語が付け加えられている。またこの回顧録では,グリュッケルがさまざまな事柄をユダヤ教の教えと関連付けながら書いている。デービスの研究では,この回顧録はただ教訓を伝えたり,憂鬱な気分を紛らわせたりすることだけが目的ではなく,彼女の宗教的な信仰心から「主への嘆き」を書くことも目的であったとしている(Davis, 1995 p. 53)。このようにこの回顧録は歴史を正確に描くことが目的ではないため,脚色された歴史が語られている可能性がある。ただそれでも当時の商業や婚姻に関わる慣例等をすべて創作して回顧録に描いたとは考えにくい。ここではあくまでそうした慣例等は事実で【171頁】 あったと見なして回顧録の分析を進めていく。
まず宮廷ユダヤ教徒と同じように主にドイツ各地で商業活動を展開していたユダヤ教徒の商人が,具体的にどのように商売を行っていたのかについて回顧録の内容から確認していく。ハイム・ハーメルンは,グリュッケルと結婚して1年後にハーメルンから夫婦でハンブルクに移り住んだところから,積極的に商業活動を展開していくことになった。彼は歩き回って金を買い取り,その金を金細工師や婚約中の商人に売って利益を上げるような商売をしていた。当時はジュエリーを身につけるよりも金の鎖を身につける方が流行していて,贈り物も金で行われていた(Feilchenfeld, 1913, S. 47-48)。ハイム・ハーメルンがよく従事していた金や真珠などを扱った商売は投機的な取引であった。そうした投機的な取引で,ハイム・ハーメルンらは手形の支払いに追われるなどして,常に大きなリスクを背負って商売していたことがうかがえる36)。ここから宮廷にジュエリーを卸す商売は,貴金属等の転売で利益を上げようとする投機的な取引に比べると,ほぼ同じような商品を扱っているのにも関わらず,宮廷が代金を支払うかどうか以外にはあまりリスクのない商売であったことに気付かされる。宮廷ユダヤ教徒が宮廷と経済的な取引関係を構築しようとしたのは,宮廷との取引がそれ以外の商売に比べ,リスクが小さく,おそらく儲けも悪くなかったことが影響していたと考えることができる37)。
次に回顧録の考察を通して,当時,婚姻関係の形成に際して,どのようなことが重視されていたのかについて見ていく。回顧録に記載されている結婚持参金の額が記されている結婚は次の通りであった。グリュッケルの姉ヘンデレ(Hendele)は結婚持参金1,800ターラーで,モルデヒャイ・グンペル(ゾロモンの息子)と結婚した(Feilchenfeld, 1913, S. 20)。またグリュッケルの叔母ウルリケ(Ulrike)はかつてフリースラントで主席ラビであった者の息子と結婚したが,その際にそのラビの息子が500ターラーを結婚持参金として持ってきた(Feilchenfeld, 1913, S. 27)。グリュッケル自身はハイム・ハーメルンと結婚した際,2,000ターラーの結婚持参金を受け取り,ハイム・ハーメルンに対してはグリュッケルの父から1,500ターラーの結婚持参金を出してもらった(Feilchenfeld, 1913, S. 37)。グリュッケルの長女がエリアス・ゴンペ【172頁】 ルツ38)の息子と結婚した際は,ハイム・ハーメルンは娘の結婚持参金として2,200ターラーを準備し,それとは別に婚礼の費用の分担金100ターラーを負担した(Feilchenfeld, 1913, S. 116-117)。また最終的には実現はしなかったが,グリュッケルの息子がザムエル・オッペンハイマーの娘と縁談が進められた際には,ハイム・ハーメルンは息子のために2,400ターラーの結婚持参金を準備したのに対して,ザムエル・オッペンハイマーの方では4,000ターラーを結婚持参金として用意した(Feilchenfeld, 1913, S. 134-136)。ハイム・ハーメルンはまた別の息子の結婚でも2,000ターラーの結婚持参金を負担した。この結婚で相手側は3,000ターラーを娘の結婚持参金として用意した(Feilchenfeld, 1913, S. 169)39)。
このように回顧録からは結婚持参金の金額が夫婦のどちらか一方のものしかわからない場合もあるが,そもそも回顧録に結婚持参金の額を記載するところから,当時の宮廷ユダヤ教徒と同じように活躍するユダヤ教徒にとって,婚姻関係の形成で結婚持参金がいかに重要であったのかが伝わってくる40)。結婚で相手の家族の資産が重視されていたことは,回顧録の中で持参金の話以外のところでも確認できる。例えばグリュッケルの義姉イェンテ・ハーメルン(Jente Hameln)とザロモン・ガンス(Salomon Gans)という人物の縁組みに関する話が回顧録に挙げられている。この話は,ゾロモン・ガンスの父親が10万ターラーは持っていると言われた裕福な人物であったものの,この父親がこの結婚の前に亡くなってしまい,ゾロモン・ガンスがその父親の資産をほとんど相続できなかったことから,イェンテ・ハーメルンの父親が縁組みを解消しようとした出来事であった41)(Feilchenfeld, 1913, S. 41-42)。グリュッケルの子は幼くして亡くなった者を除き12人すべてが結婚した(Davis, 1995, p. 12)。これら12人の子供たちすべてにそれなりの額の結婚持参金を持たせたと考えると,その総額はかなり大きくなる42)。ハイム・ハーメルンやグリュッケルは,宮廷ユダヤ教徒をはじめとする裕福で名声を誇るユダヤ教徒の一族との結婚を実現させるために,子供たちの結婚持参金を稼ぐことに力を入れていた。経済活動を通して裕福になることは,たとえ経済活動を行っている本人が宮廷ユダヤ教徒にならなくても,その子供たちが宮廷ユダヤ教徒の一族と婚姻関係を結ぶことで,少なくとも子供たちの代からはユダヤ社会の中で宮廷ユダヤ教徒の一族と同等の名声に預かることができる可能性があった。
回顧録の考察からわかったこととして,宮廷と経済的な取引関係を構築することが,それまでのユダヤ教徒の商売からすれば比較的リスクの小さいもので,ユダヤ教徒の側には積極的に【173頁】 宮廷ユダヤ教徒になろうと考えてもおかしくない状況があったということがある。ただ回顧録からは,たとえ宮廷ユダヤ教徒になれなくても,裕福になろうと努力することが報われるシステムがユダヤ社会の中に生まれていたことも見えてきた。ユダヤ教徒は結婚持参金の金額を重視した婚姻戦略を採用していたため,沢山稼ぐことができれば,子供たちがすでに名声を誇っていたユダヤ教徒の一族と結婚することで,ユダヤ社会で名声を獲得することができた。17〜18世紀の宮廷はユダヤ教徒にとって魅力的なビジネス相手であり,宮廷とのそうした経済的な関係は宮廷ユダヤ教徒にとってできる限り長く維持させたいと考えるようなものであったと思われる。そしてそうした宮廷とのビジネスは,名声を重視するユダヤ社会を背景に,宮廷ユダヤ教徒の子供たちと商業で活躍する裕福なユダヤ教徒の一族の人間が結ばれることで世代を超えて継承されるようになったのであった。
5.17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒と市民権のないキリスト教徒の宮廷商人の違い
これまで宮廷ユダヤ教徒を扱った研究では,宮廷と経済的な取引関係を築いていて大きな富を築いたキリスト教徒の大商人と宮廷ユダヤ教徒が比較されることはあまりなく,宮廷ユダヤ教徒にだけ見られる特徴としてどのようなものがあるのかが考察されてこなかった。本稿では最後に17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒が,同時期に活躍したキリスト教徒の宮廷商人と比べ,どのような点で異なっていたのかを検討する。
さしあたりプロイセン王国でキリスト教徒の宮廷商人(銀行家)として活躍したシュプリットゲルバー(Splitgerber)家の一族がどのようにビジネスを展開したり,婚姻戦略を採っていたりしていたのかについて見ていく。そうした一族のビジネスに関しては,軍需物資の供給や都市や領邦国家のための資金調達なども行っていて,宮廷ユダヤ教徒とビジネスの方法にあまり違いがなかったことがわかる。そのうえ17〜18世紀から活躍が目立つようになった彼らも代々宮廷商人(銀行家)としてビジネスを展開していた。18世紀前半にダビット・シュプリットゲルバー(David Splitgerber)は,ゴットフリット・アドルフ・ダウム(Gottfried Adolph Daum)と一緒に武器や弾薬の取引に加え,銅のハンマーの製造工場を借りたり,鉄砲工場を建設したりしていた。またロシアとの交易でも活躍し,ワインや植民地商品(Kolonialwaren)の取引にも関与するようになり,さらにダウムの死後は砂糖の生産も始めた。七年戦争では軍需物資の納入や資金供給でも活躍した。シュプリットゲルバーの事業は,彼が亡き後,彼の義理の息子ヨハン・ヤーコプ・シックラー(Johann Jacob Schickler)らによって引き継がれた(Escher, 2010, S. 731-732)。そしてシックラー家は,一族がユダヤ教徒と同じように国際的に散らばって生活するようになった。ダビット・シュプリットゲルバーの孫ヨハン・エルンスト・シックラー(Johann Ernst Schickler)は,バーゼル出身の娘を妻に迎え,ボルドーに移住した(Strauß, 2005, S. 731-732)。ただシュプリットゲルバー家やシックラー家の人々が選択していた結婚相手は,宮廷ユダヤ教徒がユダヤ教徒の商人やラビの一族と結婚することが多かったのと比べ,比較的,多様であった。確かにダビット・シュプリットゲルバーの娘たちは,彼の事業経営に加わっていた身近な人間と結婚していた。ただ孫たちは貴族や軍の少尉と結婚していた(Escher, 2010, S. 731-732)。また宮廷ユダヤ教徒がユダヤ共同体への貢献を重視していたり,ユダヤ共同体を代表する地位に就いたりしていたのとは異なり,市民権を持たないシュプリッ【174頁】 トゲルバーらは商業ギルドの外で活動していて43),少なくとも当初はキリスト教徒の都市共同体とほぼ無関係であった。
ここからわかることは,宮廷と経済的な取引関係を結ぶことは,少なくともユダヤ教徒だけでなく,同業組合の外で活動していたキリスト教徒の商人にとっても魅力的であったということである。そして重商主義政策が採られる中で,そうした宮廷が提供するビジネス機会は増えていったと考えられる。しかし婚姻戦略や共同体との関わり方からわかるように,ユダヤ教徒の場合は経済活動に努めて裕福になることで最終的に目指されるのが,キリスト教に改宗しない限り,基本的にユダヤ社会における社会的な名声の獲得であったということである。こうした姿勢は市民権を持たないキリスト教徒の宮廷商人がキリスト教徒の都市共同体に対してとった態度には見られないものであった。
なおこの点に関して,18世紀に都市の市民権を持っていながら,宮廷商人として活躍したベートマン家に関しては,都市の市民社会に対する貢献が見られた。ヨハン・フィリップ・ベートマン(Johann Philipp Bethmann)は弟とともに,諸邦の資金調達に協力していて,その仲介手数料で儲けていた。そして彼らは1746年以来,フランクフルト・アム・マインの市民で,市民のための病院を支援するなどしていた(Beutin, 1955a, S. 186-187)。彼の息子ジモン・モーリッツ・ベートマン(Simon Moritz Bethmann)は,ナポレオン戦争期に外交の舞台で活躍し,またフランクフルト・アム・マインでは政治的な助言者として最も重要な立場にあり,アートコレクターやパトロンとしても活躍した(Beutin, 1955b, S. 187)。宮廷ユダヤ教徒がユダヤ社会で名声を高めていたように,キリスト教徒の都市市民の宮廷商人は,都市市民の社会の中で名声を高めることに繋がる活動をしていたことが確認できる。
すでに中世ドイツのユダヤ共同体が地域を実効支配していた司教にユダヤ教徒が結びついていたことを確認したが,領邦国家が地域を実効支配する主体となっていく過程で,ユダヤ教徒が結びつきを求める相手は領邦国家となっていったのであった。これはユダヤ教徒の定住を認めるのが,実際に地域の政治的な支配を確立した行政主体によってなされていたことが関係していると考えられるが,それに加えて,都市の同業組合の外で活動することが強いられ,職業が制限されてきたユダヤ教徒にとって,宮廷相手のビジネスがそれまでに従事してきたビジネスと比べて,決してリスクが大きいものではなかったことも関係していると思われる。17〜18世紀は重商主義政策によって,そうした宮廷相手のビジネスは増加する傾向にあったと考えられる。
もっともそうした宮廷相手のビジネスは,キリスト教徒かユダヤ教徒かを問わず国際的にビジネスを展開する商人であれば,誰もが参入することができた。そうした競争が激しい中でも各地で特定の宮廷ユダヤ教徒の一族が何世代にもわたって宮廷相手のビジネスを展開できたの【175頁】 は,ユダヤ教徒の商人にユダヤ社会における名声を重視する姿勢があったことが関係していた。そういった姿勢がユダヤ教徒にあったからこそ,宮廷を通してユダヤ共同体の設立を実現したり,ユダヤ共同体の上級長老の地位に就いたりしてユダヤ社会における名声を誇れるように宮廷ユダヤ教徒になったり,宮廷ユダヤ教徒の地位を維持し続けたりしようと努力することに繋がった。またたとえ宮廷ユダヤ教徒になれなくても,経済活動で利益を上げて裕福になることができれば多額の結婚持参金を準備できることになり,ユダヤ共同体を代表する地位にある宮廷ユダヤ教徒と婚姻関係を形成することができ,子供たちが宮廷ユダヤ教徒の一族と同じような名声を得ることが期待できたことから,宮廷ユダヤ教徒以外の者も商業活動に力を入れることになり,世代交代に際して宮廷ユダヤ教徒のなり手が不足するようなことにはならなかったと考えられる。
多くのユダヤ教徒がユダヤ社会における名声を重視していたのは,ユダヤ教徒がキリスト教徒の都市市民とほぼ同等の市民権を得て,それまでユダヤ教徒に課されていた職業等の様々な制約が撤廃されるまでのことであった。ユダヤ教徒が様々な分野で名声を高めることができるようになる中で,ユダヤ社会において名声を高めることは,ユダヤ教徒それぞれが選びうる人生の目的の一つでしかなくなっていったものと思われる。
17〜18世紀にユダヤ教徒の間でそれまではできなかったユダヤ社会の名声の重視がなされるようになったのは,19世紀以降にドイツ社会の名声を重視するようになっていく過程における一つの前の段階であったと思われる。17〜18世紀の宮廷ユダヤ教徒の台頭は,都市共同体が中世後期にかけて強力になる中で減少していたユダヤ共同体が増加に転じ,19世紀にさまざまな人々が国家市民へと統合されていく準備段階として,同じ宗教の信者同士がまとまっていく中で起こったことであったと考えられる。
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※本研究はJSPS科研費JP18H05686およびJP19K20887の助成を受けたものです。