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AEGのペーター・ベーレンス雇い入れの歴史的な背景

─経済市民層のユダヤ教徒の同化と教養─

 

竹原 有吾

 

 

1.はじめに

 

ユダヤ教徒のエミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)によって1883年にベルリンで設立されたドイツ・エジソン社(Deutsche Edison-Gesellschaft für angewandte Elektricität)が,1887年に組織転換して成立したAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)は,当時のドイツを代表する電機会社であった。この大会社AEGは,20世紀にかけて商標や宣伝用のパンフレットのカバー,商品,工場などのデザインを芸術家に頼って行っていた。特にペーター・ベーレンス(Peter Behrens)が1907年からAEGの芸術顧問として行ったデザイン活動は,AEGのコーポレート・アイデンティティを形作るうえで大きな役割を果たしていた。このように企業経営に芸術家が積極的に関わるといった点で工業化後のドイツを代表するような事例が,ユダヤ教徒が創業し,経営していた大会社で,どのような経緯で見られることになったのか。その歴史的な前提となった18世紀から19世紀にかけての時代に,ドイツ,とりわけベルリンにおいて,ユダヤ教徒が芸術についてどのように考えてきたのかを明らかにし,AEGが芸術顧問を雇い入れ,製品や工場等のデザインに芸術家を関与させていったことを歴史的にどのように位置づけることができるのか,検討したい。

このような19世紀から20世紀前半にかけてのドイツの人々と芸術の関係を歴史的に解き明かそうとする研究で,分析対象として注目されてきたのが,教養市民層(Bildungsbürgertum)であった。この教養市民層は,1970〜80年代に盛り上がったドイツの「特有の道」論争で,ドイツの市民社会の特殊性に焦点が当てられる中で注目されることになった人々であった1)。ドイツの市民層については,当初,誰が市民層の人々に該当するのかが検討されてきたが,のちに市民層が誰であるのかについて問うことはされなくなり,市民層なるものが存在することを前提としたうえで,市民層を特徴付けていたものが何であったのかを先に明らかにすることに力が入れられるようになった2)。そうした中で芸術を教養の一つととして捉え,どのように芸術が発展してきたのかを歴史的に分析する研究がなされることになった3)。ただこの市民層への関心が「特有の道」論争から始まっていることが関係しているためか,例えば市民社会についてドイツとイギリスを比較するといったように国家間の共通点や相違点を見出すことに注力している研究も少なくない。たとえ世俗化について注目していても,市民社会におけるユダヤ教218頁】 徒とキリスト教徒の関係というように,異なる宗教の信者同士の関係に焦点を当てたような研究はほとんど取り組まれてこなかった4)

ただそうした中でユダヤ教徒とキリスト教徒の関係の変化についても取り扱ってきたと言えるのがサロンに関する歴史研究であった。特に19世紀初頭のベルリンのサロンではユダヤ教徒の女性の活躍が目立っていて,またそうしたサロンにはユダヤ教徒に限らず,それぞれの政治や学問などで活躍するキリスト教徒も参加していたことから,サロンを研究することは結果としてユダヤ教徒とキリスト教徒の社会的な関係の変化を具体的に描くことに繋がっていた。しかしサロンに参加する人々の間で共有されていた教養や,またそのような人々の間から生み出された教養がどのように社会全体へと広がっていったのか,十分に考察がなされてきたとは言いがたい5)。こうした教養に含まれるものには,文学や音楽,美術に関わるものなどが挙げられる。特に美術については純粋美術と応用美術に分けられるが6),画家によっては純粋美術と応用美術の両方の制作に携わるようなこともありえた。美術を純粋美術と応用美術のどちらも含めた広い意味で捉えた場合に,19世紀にドイツの市民社会から生み出された美術はどのようなものであったのか,またそうした近代美術が生み出された歴史を踏まえると,AEGでインダストリアル・デザイン等に取り組んだ芸術家の活躍は,どのような歴史的な契機であったと言うことができるのかを検討したい。

このように歴史的な位置づけを明らかにしようとしているAEGでの芸術家の活躍については,主にAEGの歴史やデザイン史の研究で取り扱われてきた7)。そうした研究では,芸術と産業8),手工の協同が模索されている中でペーター・ベーレンスがAEGのためにさまざまなデザイン活動を行ったことが,画期的な出来事であったとされるだけで,ユダヤ教徒とキリスト教徒の関係の変化に注目した世俗化の歴史の中で,それがどのように位置づけることができるのかまでは考察されてこなかった9)

ベルリンの市民社会の歴史を踏まえると,AEGでインダストリアル・デザインが行われるようになった事実はどのような歴史的な契機と捉えることができるのかについて,本稿では検討していく。そのため,芸術が中世以降にどのように発展してきたかを概観したうえで,ベルリンのサロンが芸術の発展にどのように関わっていたのかを見ていく。もっともそこではサロンが芸術家を生み出す中で果たしていた役割を確認するために,芸術と言っても美術ではなく,ユダヤ教徒の芸術家がいち早く生まれることになった音楽の分野に注目することにする。そのうえで,19世紀のドイツの市民社会で絵画をはじめとする美術品の場合は,どのように評219頁】 価されてきたのかに関して,当時の美術品の収集の実態について把握し,またドイツを代表するようなユダヤ教徒の画家が市民社会の中から登場してくることになった過程についても確認することにしたい。そして最後に,ユダヤ教徒が創業し,経営していた大会社AEGでペーター・ベーレンスがどのような活躍をしていたのかについて見ていくことにする。

 

2.ベルリンのサロンにおける世俗的な文化の形成

 

(1)ヨーロッパの芸術の担い手と支援者の変化

画家や彫刻家,建築家が,芸術家として見なされるようになったのはルネッサンス期のイタリアであったとされている。それまで彼らは単なる職人として同業者の組合へ加入させられていた。また彼らは学問に従事している人々と比べられ,社会的に評価の低い職業に従事している者とされていた(高階,1997,1-8)。

画家や彫刻家,建築家が,芸術家と見なされ,それまでより高く評価されるようになったのは,芸術作品を理解し,経済的に支援してくれるパトロンの登場と密接に関わっていた。例えばフィレンツェでは,当初,芸術作品の制作と見なせるような事業(聖者像の制作や礼拝堂の建築など)は,さまざまな同業者組合同士で競うように芸術家を支援する形で行われていた。それが15世紀に入ると同業者組合だけでなく,メディチ家のような一族がパトロンとして出現してくるようになった。しかしながら,この時期の芸術作品は基本的に宗教芸術であり,パトロンが芸術家を支援したのは,純粋に芸術作品そのものを評価していたというよりも,キリスト教の信仰心が関係していたと考えられている。この時代にパトロンになったのは,経済的に豊かになった一族とは限らなかった。パトロンとして活躍した人々の中には,教皇をはじめとした高位聖職者もいた(高階,1997,7-49)10)

その後,西欧で国王がパトロンになるような事例も見られるようになった。16世紀に入るとそのような中で新たに国王の権威を示す宣伝画として国王の肖像画が描かれるようになり,美術作品の世俗化が進んでいくことになった。またオランダが経済的に台頭すると,オランダでは市民や市民団体も芸術家のパトロンとして活躍するようになった11)。そして風景画や静物画など宗教とは関わりのない美術作品がますます制作されるようになっていった。さらに17世紀前半には,オランダでパトロンだけでなく画商も多く登場してくることになった(高階,1997,52-102)。

そうした17世紀には,フランスでは,ルイ14世によって絵画彫刻アカデミーが設立されることになった。このアカデミーはフランス革命の際に解体されることになったが,新たに設立された組織によってそのアカデミーの役割が引き継がれることになった。ただこれは組織の形はそのままで,単に名前が変わったということではなかった。これには,この組織の下で開催されていたサロンと呼ばれる公式の展覧会に,国籍を問わず誰もが参加できるようになるといっ220頁】 た大きな変化が伴っていた(高階,1997,103-154)12)。フランスではこのようなサロンが芸術の発展の中心となり,またのちにそうしたサロンが批判されることによって芸術の発展が促されることになったのであるが,そうしたサロンと呼ばれるものは,もともとそのような定期的に開催される,人々に開かれた集まりを指す言葉ではなかった。17世紀においてサロンは城の「謁見の間」を意味していて,18世紀になると「集会の間」を意味するようになった。定期的に開催される展覧会としてサロンと呼ばれるものが登場したのも18世紀前半で,サロンと呼ばれるものに討論や批評といった要素が組み込まれたのは18世紀半ば以降のことで,ドニ・ディドロ(Denis Diderot)が雑誌に定期的に「サロン」と題した美術批評を載せるようになってからのことであった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 29-32)。

それではドイツ,特にベルリンの場合,サロンと呼ばれるものはどのようにして生まれ,また芸術の発展において,そうしたサロンがどのような役割を果たしていたのか,次に考察していくことにする。

 

(2)ベルリンのサロンの形成と文化の発展

美術サロンや文学サロン,音楽サロンをはじめ,ベルリンのサロン13)には実にさまざまな種類があったが,その多くは文学サロンであった。プロイセン王国で,当初,文化を推進する役目を担ったのは国家であり,特にフリードリヒ1世の妻ゾフィー・シャルロッテ(Sophie Charlotte)が国の文化の発展に尽力したことが知られている。ナントの勅令の廃止でフランスを逃れてきたユグノーは,宮廷の人々や裕福なベルリンの住民に対する教育係としての役割を果たすことはあったが,基本的にベルリンでサロンを設立するといったことはなかった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 43-48)。

ベルリンにサロンが設立された背景には,ユダヤ教徒の女性の存在があった。特に裕福なユダヤ教徒の家庭に生まれた女性は,ドイツ社会で宗教的な少数派として政治的に差別的な扱いを受けていたのに加え,ユダヤ社会では伝統的なユダヤ社会の慣習に縛られているような状態にあり,そうした中で自由な社交を求めて,フランスのサロンを手本にして設立したのがベルリンのサロンであった。ちなみにそうしたベルリンのサロンの先駆けとなったのは,ユダヤ啓蒙主義運動の中心人物であるモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)が自宅で開いていた文学や芸術をテーマとした集まりであった。18世紀にサロンに参加していたユダヤ教221頁】 徒の女性の大半が,このモーゼス・メンデルスゾーンの自宅の集まりに参加していた(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 48-60)。

この時代はフランス文学だけでなく,新たに英文学への関心も高まっていた。またドイツ文学が大きく発展した時期でもあり,サロニエールとして活躍したユダヤ教徒の女性をはじめとした若者たちは,シュトゥルム・ウント・ドラングの文学にのめり込んだ人々であった。ユダヤ教徒のサロニエールは,こうした中で,当初,文学に関心のあるユダヤ教徒以外の同年代の人々も巻き込む形でサロンを発展させていった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 57-60)。

ベルリンで最初のサロンは,ヘンリエッテ・ヘルツ(Henriette Herz)によって設立された。ヘンリエッテ・ヘルツは,当初,夫マルクス・ヘルツ(Marcus Herz)が定期的に開いていた哲学や物理学の講義・談話に学者や学生とともに参加していたが,のちに夫の学問的な集まりが行われている部屋の隣で,文学を読み批評する集まりを開催するようになった。それが彼女の文学サロンとなった。もっともこの時代,文学批評がヘンリエッテ・ヘルツの文学サロンのみで行われるようになったわけではなかった。「お茶の会」のようなものがモーゼス・メンデルスゾーンの娘のところでも開かれるようなことがあり,また読書会や会員の専門分野に関する講演の場として新しく読書協会が設立されるようなこともあった。ヘンリエッテ・ヘルツやマルクス・ヘルツはそうした読書グループにも参加していた。そうした読書会のあとには,参加者で食事が囲まれることもあった。当時は文学サロンや読書グループの集まりが多く生まれただけでなく,さまざまな団体が組織された時代でもあった。ヘンリエッテ・ヘルツを中心に,文学サロンとは別に,道徳心を培うための会が組織されたこともあった。そのような時代の中でヘンリエッテ・ヘルツの文学サロンは模倣され,数多くのサロンが新たに生み出されてくることになった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 60-66)。

ナポレオン戦争でプロイセン王国が大敗を喫した際には,サロンの参加者がベルリンを去ったり,戦争で亡くなったり,戦争で捉えられたりしたことで,ベルリンのほとんどのサロンが消滅することになった14)。こうしたサロンが再び勢いを取り戻したのは,1808年以降のことであった。その後,1813〜1814年の戦争の時期にもサロンの活動は休止状態になったが,ベルリンの比較的大きなサロンは1808〜1812年の間は8個ほどであったが,1815〜1830年の間にはベルリンの主要なサロンが12個ほど見られることになった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 104 und 128)。

このビーダーマイヤー時代のサロンは,特徴として,サロンの参加者同士で互いが王室の人間であるのか,またはベルリンの市民であるのかについては問うことはせず,サロンの参加者同士が家庭的で打ち解けた関係にあったと言われている。これは双方が音楽に関心を持っていたことも関係していたとも言われている。そうした時代を背景にベルリンで音楽サロンが最盛期を迎えることになった。ベルリンのサロンの多くは,ときに音楽の演奏が行われるなど,音楽を大事にしていた。ただ,そうしたベルリンのサロンの中でも,ベーア(Beer)家とメンデ222頁】 ルスゾーン=バルトルディ(Mendelssohn-Bartholdy)家の音楽サロンは他を圧倒していた15)。ベーア家のサロンの特徴は,完全な音楽サロンであるという点にあった。この音楽サロンでサロニエールであったアマーリエ・ベーア(Amalie Beer)は,プロイセン王国の宮廷ユダヤ教徒であったヨスト・リープマン(Jost Liebmann)の末柄であり,非常に裕福な一族のユダヤ教徒であった。彼女のサロンは,著名な音楽家だけでなく,砂糖製造業を営んでいた彼女の夫がベルリンの劇場の創立メンバーであったこともあり,多くの俳優たちも通う音楽サロンになっていた。さらに有名人と交流できるサロンとして,文学者や外国の将校,外交官など多くの人々をひきつけていた。(Niggli, 1885, S. 631f; Deutsch & Mannheimer, 1906, pp. 297-298; Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 145 und 149-151)

このアマーリエ・ベーアの下で育ったのが,のちにジャコモ・マイアーベーア(Giacomo Meyerbeer)と名乗ることになる彼女の息子であった。彼はプロイセン王国の王室でピアノを指導していたフランツ・ラウスカや,作曲家・ピアニストとして有名であったムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi)からピアノを習い,ピアノの腕を磨くことになった。ムツィオ・クレメンティのようにベルリンへ演奏旅行にやって来る音楽家は旅費をでき限り抑えるために,音楽サロンのサロニエールに宿泊する場所を提供してもらい,音楽サロンに出たり,演奏の指導を行ったりすることがあった。演奏旅行をする音楽家に宿を提供するのも,音楽サロンの重要な役割であった。このように恵まれた環境で育ったジャコモ・マイアーベーアは,ユダヤ教徒の家庭であったのにも関わらず,音楽家として活躍し,のちにプロイセン国王から勲章が授与され,プロイセン総音楽監督に任命されるなどの栄誉を手にすることができた(Beci, 2000, S. 108-111)16)

ベルリンのサロンの歴史を踏まえたうえで,このジャコモ・マイアーベーアの事例からわかることは,サロンという宗教を問わず参加できる人々の交流の場で,ユダヤ教徒が世俗的な芸術と向き合っていくことを通して,ユダヤ教徒自らが世俗的な芸術を生み出していけるようになっていったということである。もっともここで世俗的な芸術家が誕生したと言っても,音楽家に関してのみ言えることであった。本稿のテーマに直接関係する美術の分野ではどうであったのか。次に画家の場合について見ていきたい。

ユダヤ教徒の画家がどのように登場したのかについて,美術サロンの歴史と関連付けながら分析していくのは容易ではない。というのもユダヤ教徒の音楽家の場合は早くから活躍が目223頁】 立ったが,それとは違い,ユダヤ教徒の画家の活躍の場合は,19世紀後半に入ってからの方が比較的確認しやすくなるといったことがあるからである17)。19世紀半ばまでサロンの参加者には,ユダヤ教徒の女性やユダヤ教徒を祖先に持つ女性がかなり多く,サロニエールにもそうした者が多かったとされているが(Beci, 2000, S. 101),ベルリンのサロンで世代交代が進んでいった時期とされている19世紀半ば以降,ユダヤ教徒やユダヤ教徒を祖先に持つ人々が運営するサロンは目立たなくなっていった(Wilhelmy-Dollinger, 2000, S. 202-203; Beci, 2000, S. 128)。そのため,ユダヤ教徒が芸術とどのように向き合っていたのかについて考察する本稿では,19世紀後半以降のベルリンのサロンに関して見ていくことにあまり意味はないと考える。むしろ個別の画家に焦点を当てることで,その画家がどのように画家として活躍するようになったのかを見ていく方が,ユダヤ教徒の画家が活躍できた要因を把握しやすいと考える。具体的にはAEGの創業者エミール・ラーテナウの従弟でもあるマックス・リーバーマン(Max Liebermann)がどのように画家として活躍するようになったのかを考察していくことにする18)。もちろん個別の画家がどのように活躍することになったのかを考察するのにあたって,その背景となる社会について全く分析を行わないわけではない。19世紀から20世紀にかけての時代,工業化で裕福になった経済市民層の人々の中には,ユダヤ教徒も含め,美術品の収集に力を入れていた者が少なくなかった。そうした美術品の収集がユダヤ教徒の画家の誕生と関係があったのかについても検討していくことにしたい。

そこでまず市民社会で美術作品がどのように受入れられていたのか,19世紀ベルリンの市民社会における美術品の収集の実態について確認していくことにする。そのうえでマックス・リーバーマンの活躍を見ていくことにする。

 

3.ベルリンの市民社会における美術品収集とドイツを代表するユダヤ教徒の画家の登場

 

(1)ベルリンの美術品収集の実態について

19世紀に美術品の収集がヨーロッパ全土で幅広く行われ始めた背景には,フランス革命による世俗化や移民の受入れによって,教会や個人が所有してきた美術品が広く流通するようになったということがあった。また19世紀に入ると,農産物の価格の低下によって収入が減少した地主の貴族が,所有していた美術品を売りに出すようになったことも美術品が多く流通するようになることに繋がった。そのような状況において,公の美術館が発展しただけでなく,工業化が進んだことによって,そのようにして流通している美術品を購入できるだけの資金を224頁】 持った企業家や銀行家が増え,彼らがそうした美術品を生活の中に取り込むようになっていった。このように19世紀に入ると都市の住民,とりわけビジネスで活躍する裕福な人々が美術品の収集の主要な担い手として台頭してくることになった。ヨーロッパでは19世紀前半にはパリやロンドン,マンチェスターなどで都市の富裕層が美術品の収集に取り組んでいたが,ベルリンでは19世紀後半以降に美術品の収集が活発化することになった。もっともドイツではケルンでいち早くそうした裕福な個人による美術品の収集が盛んになった。ケルンではナポレオン占領下で「営業の自由」が実現し,またどの宗教・宗派の信者であるのかを問わず互いに対等な市民権が得られるようになる中で,企業家や銀行家が台頭してきたことに加えて,中世の沢山の美術品が教会や修道院から放出されて美術品市場が形成されたことが大きく関係していた。ちなみにケルンはこのあと1870年代までドイツの美術品市場の中心地であり続け,ミュンヘンがそれに次ぐ中心地となった。ベルリンで美術品の収集が活発に行われるようになったのは,ドイツ帝国が成立してからのことであった。それまでは美術品の取引は限定的で,業者間の価格競争があまりなかったことから,ベルリンで取引される美術品の価格が比較的高く設定されていたような状況であった(Kuhrau, 2005, S. 27-30)。

ドイツ帝国成立後,個人所有の美術品や工芸品の展覧会が頻繁に開催されるようになるなど企業家や銀行家といった裕福な人々が美術品を購入するようになったことに加え,国が美術館を拡張していこうとしていったことも影響して,ベルリンは国内の美術品市場の中心地となり,1890年代までにベルリンで開かれていたオークションに海外の古い美術品が出品されるまでになった。そして1900年代にはベルリンが国際的な美術品市場の中心地になるまでになった(Kuhrau, 2005, S. 30f)。

このドイツ帝国成立後はベルリンが帝国の首都として,政治や経済の中心地として,ベルリン外の多くの人々をひきつけることになった。そのため美術品の収集を行うベルリンの人々の出身を確認すると,ベルリン生まれ以外の者が多数を占めるようになっていた。ただベルリン生まれで美術品の収集を行っていた人々に注目すると,そうした人々にはユダヤ教徒やユダヤ教徒にルーツのある人々が非常に多かった。例えば,アドルフ・リーバーマン・フォン・ヴァーレンドルフ(Adolf Liebermann von Wahlendorf)やマックス・リーバーマン,パウル・フォン・メンデルスゾーン(Paul von Mendelssohn-Bartholdy),エルンスト・フォン・メンデルスゾーン=バルトルディ(Ernst von Mendelssohn-Bartholdy),ジャック・ミューザム(Jacques Mühsam),ジェイムス・ジモン(James Simon),エドゥアルト・ジモン(Eduard Simon)19),パウル・フォン・シュヴァーバッハ(Paul von Schwabach)がいた。貴族や宮廷の役人の多くは19世紀半ばの時点で,もはや自分の力で美術品のコレクションを作り上げるようなことはしなくなっていた。それは19世紀後半に美術品の価格が高騰したのに対して,貴族や役人は国際的な美術品市場で225頁】 美術品を手に入れるだけの十分な経済力を持っていなかったことが原因であった20)。そうした中で美術品の収集は,経済力を誇った企業家や銀行家によって担われるようになっていた21)(Kuhrau, 2005, S. 46f)。

19世紀末のベルリンでは,企業家として経済的な成功を収め,商業顧問官(Kommerzienrat)の称号が与えられていたとしても,社会的に特別な評価を受けることはあまりなく,宮廷のメンバーであるか,教養をそなえたエリートであるかが社会的な名声を左右していた。そのため,ビジネスで成功を収めた企業家や銀行家は,手に入れた経済的な富を美術品等に費やし,それを誇示することではじめて社会的に高い評価を得ることができた。貴族の称号を得るために,社会的な名声を得て宮廷に認められようと,美術品の収集に力を入れるようなこともあった(Kuhrau, 2005, S. 56-58)22)

このように19世紀後半のベルリンにおける美術品の収集の歴史を分析する研究で強調されてきたことは,美術品の収集が社会的な地位向上のための手段であったということである。とりわけ社会的な評価を上げることが,差別されてきたユダヤ教徒やユダヤ教徒を先祖に持つ人々にとってより重要なことであった。だからこそ,彼らは目立って,美術品の収集を進めた。経済的に豊かになったユダヤ教徒がキリスト教徒の社会へ同化していこうとすることは,19世紀初めにかけての時代にも見られたことではあった。そこでユダヤ教徒がキリスト教への改宗を選択するかどうかは,それぞれの家や個人によって判断が異なっていたが,ベルリンのユダヤ教徒のすべてではなくても,彼らの中に周囲のキリスト教徒の社会に溶け込もうとする傾向は見られた。美術品の収集の歴史研究からわかることは,美術品を収集して,それを飾った部屋へ高貴な人々を招いて交流を深めていこうとする姿勢の背景に,一面には差別を乗り越えて社会的な上層の人々の中に溶け込んでいきたいとするユダヤ教徒の思いがあったということである。

こうして美術品の収集で活躍した裕福なユダヤ教徒がキリスト教徒の社会的な上層の人々の中に溶け込もうとした傾向が見られた点を踏まえたうえで,具体的にユダヤ教徒の画家マック226頁】 ス・リーバーマンが,ユダヤ教徒という立場にありながら,どのようにして画家として活躍するようになったのかを次に見ていくことにしたい。

 

(2)ユダヤ教徒の画家マックス・リーバーマンの芸術活動について

19世紀のベルリンでどのようにユダヤ教徒の音楽家が活躍するようになったのかについては,すでに確認をした。経済的に裕福なユダヤ教徒の一族の女性が音楽サロンを設立して,そこに著名な音楽家を招くなどして,サロニエールの子供たちに音楽家としての高い技能を身につけさせ,その子供たちがユダヤ教徒の立場にありながら,キリスト教徒からも評価される世俗的な作品を生み出すようになっていった。

画家となったマックス・リーバーマンも実家が経済的に裕福な家庭であったという点では音楽家を生み出したユダヤ教徒の家庭と共通していた。リーバーマン家は,19世紀前半にメルキッシュ・フリードラント(現在のミロスワビエツ)からベルリンに渡ってきたユダヤ教徒の一族であった。マックス・リーバーマンの祖父ヨーゼフ・リーバマン(Joseph Liebermann)は,1812年に「ユダヤ教徒の解放勅令」が出されたのち,まもなくプロセイン王国の市民権を申請し,認められていて,商人として特に絹や木綿製品を取り扱っていた。彼ら家族は1920年代にベルリンに移り住み,そこで木綿製品を取り扱う商社を設立するなどして木綿製品の取引に従事し,さらに19世紀半ばにはシュレージエンの鉄鋳物工場や,もともと製鉄所で圧延加工を行っていた工場を購入するなどして経済的に活躍した(Scheer, 2008, S. 46-48, 68f, 81 und 145)。またマックス・リーバーマンの叔父ベンヤミン・リーバーマンはベルリン商業会議所(Berliner Kaufmannschaft)の副会頭やドイツ商業会議(Deutsche Handelstag)の議長を務めるなど(Panwitz, 2007, S. 107),ベルリン,そしてドイツ全体の経済市民層の利害を代表するような立場にあった。このベンヤミン・リーバーマンの弟の3番目の子供として,1847年に生を受けたのがマックス・リーバーマンであった(Sandig, 2005, S. 179)。

マックス・リーバーマンの父親は芸術にはあまり興味がなかったようであるが,息子が知的教養を身につけることができるように力を入れていた。そうした家庭で育ったマックス・リーバーマンはギムナジウムに通う傍ら,母親や母方の親戚から芸術的な才能を見込まれて画家エドュアルト・ホルバイン(Eduard Holbein)から指導を受けることができた。マックス・リーバーマンは他にも,母が肖像画を描いてもらうなど画家アントニー・フォルクマン(Antonie Volkmann)と交流があり,そうした中でフォルクマンがマックス・リーバーマンの描いた絵を見る機会があり,彼女の紹介で画家カール・シュテフェック(Carl Steffeck)から指導を受けることもできた。マックス・リーバーマンは1866年にアビトゥーアを受験したあとにもカール・シュテフェックの教室に通っていた。その後,マックス・リーバーマンはフリードリヒ・ヴィルヘルム大学哲学部に入学し,化学23)を専攻したが,そこではほとんど学ぼうとはしなかったという。父親には芸術家を目指していることを伝えてはいたが,当初,必ずしも理解が得られていたわけではなかった。ただ最終的には両親の理解を得て,1868年から1873年の間,ヴァイマールの美術大学に通うことになった。彼は在学中に絵画を描く技術を高め,在学中も国内外を旅してフランス印象派の美術などにふれ,また大学を出てからも,パリやオランダなどに滞227頁】 在し,現地の芸術に触れ,創作活動に励んでいくことになった(Sandig, 2005, S. 183-201)。

1870年代末には芸術家の招きに応えてマックス・リーバーマンはミュンヘンに滞在することになった。そのときに彼は彼にとって最初で最後の宗教画作品となってしまう『神殿における12歳のイエス(Der zwölfjährige Jesus im Tempel)』を描き,その作品がバイエルン州議会の議題で取り扱われるほどの問題となり,ミュンヘン以外の場所でも作品が非難されることになった。もっとも彼がドイツ国内で有名になったのは,1883年にミュンヘンの王立ガラス宮で開催された展覧会に『靴職人の工房(Schusterwerkstatt)』を出品してからのことであった。彼はさらに1884年には『ミュンヘンのビアガーデン(Münchner Biergarten)』を描き,パリで大きな成功を収めた。そして,この作品が彼の才能を示す代表作とされ,この作品によって彼は確かな人気を手にすることになった(Sandig, 2005, S. 201-206)。

マックス・リーバーマンが人々によく知られた画家になるまでの過程を見てきたが,ここから見えてくるのは,彼がベルリンの経済市民層の裕福なユダヤ教徒の家庭に育ったということが,彼の画家としてのキャリア形成に大きな影響を及ぼしていたのではないかということである。彼が画家を目指すようになった背景には,子供を芸術家に育てあげようとする思いがあったのかどうかは別として,他の経済市民層のユダヤ教徒同様に芸術を大切するといったリーバーマン家の家庭環境があったと思われる。彼の母親が肖像画を描いてもらうなど画家と交流があり,身近に優れた画家を紹介してもらえるような環境があったことは,彼が画家としての才能を磨いていくうえで大きな意味があったと思われる。また経済的に裕福な家庭であったことも無視することはできない。彼自身が作品でいくらかは利益を得ていたと思われるが,彼がヨーロッパ各地に滞在して,比較的自由に画家としての経験を積むことができたのは,実家の経済的な支援があったからこそであったと考えられる。

経済市民層のユダヤ教徒が教養を重視することで,社会的な地位向上を目指していたことはすでに確認したが,芸術を所有するだけでなく,そうした芸術を自ら制作することも社会的な地位向上に繋がると考えてもおかしくはない。もっともマックス・リーバーマン自身が社会的な地位向上のために意識的に画家を志していたとは必ずしも言えないが,マックス・リーバーマンが宗教画を描いて非難の嵐にさらされ,個人的な葛藤があったにしても,宗教画を一切描くのをやめ,世俗的な絵画の制作に集中し,そうした世俗的な絵画で人気を得るようになったことを踏まえると,彼には世俗的な市民社会の中で認められようとする思いや姿勢があったと見ることもできる。

こうした著名なユダヤ教徒の画家は,経済市民層のユダヤ教徒が教養を重視する社会的な上層に同化しようとする過程の中で生まれていた。また,確かにこの時代の芸術はあくまで社会的な上層の人々に向けて制作されていたものではあったが,たとえユダヤ教徒によって制作された芸術作品であっても,それを作り上げた技能や作品のテーマに関しては,ユダヤ教徒とキリスト教徒がときには議論し,互いに切磋琢磨してきた中で作り上げてきたものであった。それは世俗的な芸術であった。

以上,ユダヤ教徒の芸術家がどのようにキリスト教徒が多数派を占める社会で活躍するようになったのかを見てきたわけであるが,逆にユダヤ教徒によって設立された大会社でユダヤ教徒ではない芸術顧問が採用されたというのは,歴史的にどのような転機であったと言うことができるであろうか。最後にペーター・ベーレンスがAEGに雇われ,活躍していく過程について見ていくことにする。

 

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4.ペーター・ベーレンスの活躍とAEG

 

(1)第二帝政期ドイツの工芸とペーター・ベーレンス

AEGにおけるペーター・ベーレンスの活躍については,主にデザイン史や建築史の中で語られることが多い。実際,ペーター・ベーレンスはAEGにおいて,製品や工場の設計などを行っていた。そこでまず本稿では,19世紀末から20世紀初頭にかけての時代が,ドイツのデザイン史において,どのような時代であったのかについて確認し,またそうした時代の中でペーター・ベーレンスがどのような活動していたのかについて見ていくことにする。

ドイツでは第二帝政期に首都ベルリンが芸術文化の中心地となっていったことはすでに述べたが,それでもなお依然としてミュンヘンが芸術文化の中心地の一つとしてありつづけた。実際,そうあるためにバイエルン王国は芸術家を支援していた。そうした中で1876年に開かれた第1回工芸展では,ミュンヘンで作られた家具が高く評価されたことで,ミュンヘンは工芸の中心地としても注目されることになった。そのミュンヘンでは1893年にミュンヘン芸術家組合(Münchner Künstlergenossenschaft)を脱退した78人の芸術家によってミュンヘン分離派が組織され,伝統的なものに抗って,それまでと比べてより個性的な芸術作品が生み出されるようになっていた。そしてその傾向は工芸作品の制作においても見られるようになっていた。またミュンヘンでは都市の経済市民層向けに4つもの芸術雑誌が刊行されるようになった。さらにミュンヘンでは,ミュンヘン分離派に対する人々の支持がなかなか得られなかった中で,ミュンヘン分離派の芸術家を支援するものとして,英国のアーツ・アンド・クラフツ運動で起こっていたことにならって,芸術家の工房がドイツで最初に設立された。これにはペーター・ベーレンスも関わっていた24)。ミュンヘンでは他にも彼らの考えを広めるための学校も設立されることになった。こうした活動に対して,バイエルン政府の対応は冷たく,彼らを計画的に支援するようなことはしなかった。そうした中で1897年から1902年にかけて多くの芸術家がミュンヘンを去って行くことになった。ペーター・ベーレンスも1899年にダルムシュタットへと活動の拠点を移した(Maciuika, 2005, pp. 26-34)。

ペーター・ベーレンスが移り住んだダルムシュタットの芸術家コロニーは,ヘッセン政府が経済発展や文化的な威信のために積極的に芸術家を勧誘することで作り上げたものであった。そこでペーター・ベーレンスは例えば自宅を設計する機会にも恵まれたが,他の芸術家同様,1903年までにダルムシュタットを去ることになった(Maciuika, 2005, pp. 35-45)。その後,彼はヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius)とともにプロイセン王国の工芸教育改革に力を注ぐことになった。

そのヘルマン・ムテジウスは,20世紀転換期,渡英してイギリスの工芸や技術教育の動向等を調べ,それをプロイセン政府に報告するといった仕事に従事していた。もともとプロイセン王国は工芸教育の管轄をめぐって文化省(Kultusministerium)と商務省(Handelsministerium)が対立関係にあるといった問題を抱えていたが,それぞれの管轄が規定されて商務省が大半の229頁】 工芸学校を管理下に置くようになってからも,工芸教育等の現状を大きく変えるような特段の施策を行わない状況が続いていた。そうした中でイギリスに派遣されることになったのが建築家のヘルマン・ムテジウスであった。彼はイギリスの工芸や技術教育の実態を詳細に把握し,それをそのままプロイセン王国で実現しようとするのではなく,イギリスの例を参考にプロイセン王国の社会に合わせて工芸教育改革ができないかについて検討を進めた。ムテジウスはベルリンに戻る直前,プロイセン政府に対してイギリスへ視察団を派遣させ,技術教育を行っているいくつもの学校を視察させていたが,そこにはペーター・ベーレンスも加わっていた。 その後,商務省で働くことになったヘルマン・ムテジウスや,新たにデュッセルドルフの工芸学校の校長になったペーター・ベーレンスは,プロイセン王国の工芸教育改革に努めていくことになった(Maciuika, 2005, pp. 69-103)。

1906年にドレスデンで開催された第3回ドイツ工芸展覧会は,ドイツ各地で工芸教育改革に努めてきた人々が顔をそろえる機会となった。この工芸展覧会を経て,ドイツ国内の工芸教育改革の推進者たちをまとめた組織として,1907年にドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)が設立されることになった。もっとも本稿で重要になるのは,この工芸展覧会がペーター・ベーレンスとAEGを結びつけるきっかけになっていた点である。そのため本稿では,ドイツ工作連盟については特に扱わず,工芸展覧会がどのようにしてペーター・ベーレンスとAEGを結びつけたのかを見ていく。

この工芸展覧会は,一面では,デザイナーと仕事をすることで,製品の質が高められ,ビジネスにおける競争力が得られることをドイツの企業経営者に認識させるような展覧会でもあった。ペーター・ベーレンスは,1900年にデルメンホルスト・リノリウム社(Delmenhorster Linoleumfabrik)のためにリノリウムの模様のデザインをしたり,1905年にオルデンブルクで開催された博覧会ではデルメンホルスト・リノリウム社のパビリオンを設計したりしてきたが,このドレスデンの工芸展覧会でもこの企業のパビリオンを設計していた。このパビリオンの正面図はこの工芸展覧会のカタログの裏表紙にも広告として載せられていて,また工芸展覧会の多くの会場で床材としてデルメンホルスト・リノリウム社の製品が使われていた。これらを目にしたことでAEGの経営役員のパウル・ヨルダン(Paul Jordan)は,ペーター・ベーレンスをAEGに雇い入れることを決めたとされている(Maciuika, 2005, pp. 154-158)25)

 

(2)AEGの芸術家の利用とペーター・ベーレンスの活躍

AEGにペーター・ベーレンスが雇い入れられる前から,AEGは芸術家に依頼して,商標のデザインや工場の設計をしてもらっていた。例えばAEGが成立した翌年に買収して電気機器の製造工場に改装した工場があったが,1894〜1895年に行われたその工場の増改築にはその工場のファサードの設計を,鉄道会社の建築家として駅舎等の設計で活躍していたフランツ・シュヴェヒテン(Franz Schwechten)にAEGは依頼していた。もっとも増改築する工場内部のことについては,彼を頼らず,社内の技術者が担当していた。芸術家が設計に関わっていたのはあくまでファサードなどの工場の外観ついてのみであった。また20世紀はじめに行われた230頁】 AEGの本社屋の建築でも外部の建築家に設計を依頼していた。ベルリンのデパートを設計するなどして活躍していたアルフレッド・メッセル(Alfred Messel)に設計を依頼したAEGの本社屋は,ルネッサンス様式の宮殿のような外観で,内観は19世紀初頭のプロイセン様式の装飾になっていたとされる。その他,ヨハン・クラーツ(Johann Kraaz)という建築家が1905年にベルリンの鉄道車両工場のファサード部分についてのみ,設計に関わっていた。ちなみにこのヨハン・クラーツは,のちにエミール・ラーテナウの息子のヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau)の自宅の設計を任されていて,さらにエミール・ラーテナウの自宅の設計にも関わっていたと言われている(田所,1997,124-128)。

AEGと芸術家の関係については,工場や社屋の設計だけに限らなかった。AEGでは早くから会社の商標をデザインしてもらって利用していた。1894 年からAEGのレターヘッドやカタログ,ポスター,パンフレットには「光の女神」と呼ばれる,白熱灯を夜空に掲げて車輪の上に座っている女神が描かれたものが会社の商標として用いられていた(Buddensieg, 1990, S. 21)26)

AEGといった社名のロゴのデザインにも芸術家が関わっていた。1896年の段階ではAEGの社名のロゴは,文字と言うよりも絵のような歴史主義的なデザインであった。ただその後,日本の筆文字の影響を受けて作られたエックマン書体(Eckmann-Schrift)のロゴが,ユーゲントシュティールの芸術家であったオットー・エックマン(Otto Eckmann)によってデザインされることになった。ちなみに最終的にはペーター・ベーレンスによって,特に装飾のない,はっきりとした文字で書かれたロゴがデザインされることになった。このオットー・エックマンは,1900年にパリで開かれた万国博覧会で,AEGの広告に載せる絵のデザインも行っていた(Buddensieg, 1990, S. 20-22; ハウフェ,2007, 57)。

このようにAEGはペーター・ベーレンスに芸術顧問になってもらう前から芸術家の力を借りて経営を行ってきた。ただその特徴としては,工場内部の事柄には関与させないなど,専ら企業に対する外部からの見た目の評価を重視した中での芸術家の利用であったことが確認できる。工場の外観の設計を任せている人物に自宅の設計も任せるなど,芸術家の利用がAEGという会社やその経営者の社会的な評価の向上を狙ったものであったと考えることができる。

それでは具体的にペーター・ベーレンスの場合は,AEGでどのような活動をしていたのかについて見ていくことにする。ペーター・ベーレンスがAEGに雇われるのにあたって,ドレスデンの第3回ドイツ工芸展覧会でデルメンホルスト・リノリウム社のために制作したパビリオン等が重要な役割を果たしていたと言われてきたことはすでに確認した。これはAEGがパビリオンをデザインできる人物を探していたことが関係していたと考えられている。当時のAEGでは,この工芸展覧会の後に,1907年,1908年とAEGが出展予定の展覧会が控えていて,そこに建てるパビリオンの設計者が求められている状況であった27)。その結果,確かにAEGに雇用される少し前からAEGのアーク灯のデザイン28)に携わってはいたが,AEGと関わりを持231頁】 つようになった中で,ペーター・ベーレンスにとってパビリオンの設計が最初の大きな仕事となっていた(田所, 1997, 119-120, 145)。そのうえでAEGにおいて彼が行っていたのが,工場の設計であった。

AEGは騒音や臭いなどが問題にならないベルリンの郊外に工場を新しく建設し,都市部の生産設備を移転しようと土地を探していて,最終的に1909年にヘニングスドルフに工場用地を手に入れた。この1909年から1915年にかけて,ペーター・ベーレンスはその工場用地に作られることになった磁器工場や塗料・断熱材工場,機関車工場,新しい航空工学部門のホールなどの設計に携わることになった。また彼はタービン工場の敷地に建てる新しい組立ホールや,それとは別の敷地に建てられることになった大型機械製造用の組立ホールの設計も行った。彼は工場の設計に限らず,ヘニングスドルフの敷地内に建設されることになった労働者住宅の設計も行った(Pohl, 1988, S. 171-175)。ペーター・ベーレンスの工場設計への関与は,19世紀末にAEGと関わりを持った大半の芸術家とは大きく異なっていた。彼はそれまでのそうした芸術家とは違い,工場のファサード部分の設計だけに関わるのではなく,AEGの工場長やAEGが契約した技術者などとともに工場の内部についても設計を行っていた(田所,1997, 124-129, 162)。このようにペーター・ベーレンスは,それまでの芸術家以上にAEGの工場の設計に深く関わっていた。

 

5.おわりに

 

ユダヤ教徒にとって19世紀に彼ら自身も作品の制作を担うようになった芸術は,必ずしも啓蒙思想が広まる18世紀以前の時代においては,決して身近なものではなかった。ユダヤ教徒は自らの社会的な立場の改善,キリスト教徒と同等の社会的な評価が得られる社会の実現に向けて,キリスト教徒で占められていた社会の上層の人々と交流を深めていった。その際に道具として用いられたのが,当初は文学であった。そしてのちに音楽や美術もその道具としての役割を担うことになった。そうした中でユダヤ教徒自身も音楽家や画家としてヨーロッパの芸術文化の発展に寄与するようになったのであった。19世紀末の芸術は各国のキリスト教徒やユダヤ教徒が切磋琢磨して生み出してきたもので,その芸術はそのどちらの宗教の信者にも,批判的にも肯定的にも受入れられてきた,世俗的なものであった。そうした芸術をユダヤ教徒が創業した大会社がインダストリアル・デザインや工場の設計等で受け入れることは決して特別なことではなかった。ただ19世紀の芸術の多くは社会的な上層の人々によってのみ理解され,楽しまれてきたものであった。

ユダヤ教徒によって設立された企業がペーター・ベーレンスを芸術顧問として雇ったことに関して,ペーター・ベーレンスの中に工業分野で芸術を活かしていこうとする考えがあったとしても,大会社AEGを経営するユダヤ教徒の企業家に,その考えがあったとは必ずしも言えないのではないかと考えられる。むしろ別の意図があってペーター・ベーレンスをAEGに雇い入れていた可能性を考える必要がある。本稿からわかることは,ユダヤ教徒が美術品や壮大な邸宅を持ってして,プロイセン王国の社会的な上層に溶け込もうとする姿勢であり,それはエミール・ラーテナウやその息子のヴァルター・ラーテナウにも見られた。彼らは確かに高価な美術品を多く買いあさってはいなかったと思われるが,芸術家を頼って自宅を建てていた。232頁】 本稿での考察を踏まえると,たとえ企業がデザイナーを雇うことでその企業の製品の質を上げることが可能で,それによって競争力を得られるようになると理解していた者が当時のAEGの経営役員にいたとしても,またそうしたデザイン活動が結果的にAEGのコーポレート・アイデンティティを確立することに繋がっていたとしても,AEGでペーター・ベーレンスを雇うことが認められたのは,エミール・ラーテナウをはじめとしたユダヤ教徒の経営役員が,会社経営の面でも上層の社会への同化を重視していたからであったと十分言えるのではないかと考えられる29)

もっともペーター・ベーレンスが雇用されたことで,労働者の働く工場や労働者が手にする電機製品にもインダストリアル・デザインとして芸術が取り込まれることになった。そのことで,社会的な上層の人々の間でのみ鑑賞されてきた芸術を労働者も目にして,批評できる環境が生み出されることに繋がった。もちろん社会階層によって芸術が区別されていた時代ではあったが30),それでもペーター・ベーレンスの場合はAEGに関わりがあったそれまでの芸術家とは違い,工場のファサードだけでなく,工場内部の設計にまで関与していた。それはユダヤ教徒とキリスト教徒の芸術家によって作り上げられてきた芸術が,社会的な上層の人々だけでなく,労働者にも受入れられていく可能性を生み出していたと言えるのではないであろうか。

 

233頁】

参考文献

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※本研究はJSPS科研費19H01512の助成を受けたものです。