田崎晴明ホームページ

『みすず』読書アンケートの記録

2006 年以来、毎年、年末に『みすず』の読書アンケートの原稿を書くのが恒例になっている(2017 年の年末だけは忙しすぎて執筆を断念した)。

その年のあいだに読んだ本(別に新刊でなくてもよい)についておおよそ 800 字の紹介・感想を書く。それが『みすず』の 1, 2 月号に --- 数多くの「文化人」の寄稿ととも --- に掲載され、書店に並ぶのだ。

以前は web 日記『日々の雑感的なもの』の記事の中で『みすず』への寄稿を紹介していたのだが、最近は日記をさぼっているので、読書アンケートも公開しなくなっていた。 せっかくなので、ここにまとめて掲載しようと思う。 (以下、各々の年のタイトル部分からリンクが取得できるようになっている。)


『みすず』2023 年 1, 2 月号掲載分

2022 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
[1] 手塚治虫『鉄腕アトム』全20巻(講談社手塚治虫漫画全集 1979-1981年、初出 1952-1968年)
[2] 埴谷雄高『死霊』全3巻 (講談社文芸文庫 2003年、初出 1948-1995年)
[3] 柞刈湯葉『まず牛を球とします。』(河出書房新社 2022年)
妻との午後の散歩でトキワ荘ミュージアムの前を通りかかると偶然にも『鉄腕アトム展』の最終日だった。不特定多数の集まる施設からはずっと遠ざかっていたが、これは別格だろう。

復元された手塚治虫ら漫画家の部屋、アトムの初代アニメなど、どの展示も楽しかったが、ガラスケースに並んだカッパコミックス版の『鉄腕アトム』全34巻が目に入ったとき時間が止まった。幼稚園から小学校にかけて定期購読し、それ以来くり返しボロボロになっても読んだシリーズだ。迷わず電子書籍で[1]を購入し、一日一巻ずつを読みながら(仕事以外には)アトムのことしか考えない日々を過ごした。

幼少のぼくがアトムから学んだのは、十分に進んだ知性は(様々な苦難を経たとしても)最終的には互いを尊重し合う道を選ぶという、理性への力強い信頼だった。アトムはその信念を誰よりも強く持つ故に時には孤独だった。誰も来ない高いビルの屋上の端にちょこんと座って車が行き交う夜の街を見下ろしながらひとり悩むようなアトムが好きだった。夢の中でぼくがアトムだったこともあった。空を飛ぶでも悪人をなぎ倒すでもなく、「ぼくはどうして人間ではなくロボットに生まれたんだろう?」と一生懸命に考えていた。

雑誌『みすず』が 2023 年中に休刊すると聞き、慌てて「文学好きの数理物理学者として、いつかは」と編集者のIさんと話していた[2]をとり上げることを画策したのだが、ぼくには未だ無謀と判断し断念。『読書アンケート』自体は末長く続くことを祈るばかり。

今年はアンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『火星の人』も愉しく読んだが、文学は形而上学に踏み込み得るからこそ愉しいという(おそらくは[2]から明示的に学んだ)嗜好からむしろ[3]所収の短編『ルナティック・オン・ザ・ヒル』をあげたい。設定も構成も巧みで、何より風景が美しい。世界観を心地よく揺さぶる仕掛けは2021年の『読書アンケート』で取り上げたアーロンソンの著作のとある論考とも共鳴する。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2022 年 1, 2 月号掲載分

2021 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。

広義の同業者による一般向けの書籍を四冊。

橋本幸士『物理学者のすごい思考法』 (インターナショナル新書、2021 年)
家族とギョーザを作れば手を止めて具と皮のバランスのための方程式を解き始め、渋滞に巻き込まれれば概算した平均時速から渋滞を抜けるまでの時間を推定する、などなどの「物理学者あるある」を描いた素粒子理論家・橋本さんのエッセイ集。気楽に書かれているようで、実は内容も構成も巧妙に練られていてる。うまいよなあ僕には書けないよなあと唸りながら読んだ。物理学者の本だと肩肘張らなくても、ちょっと知的でちょっと変わった読み物として楽しめる。理屈抜きでおもろいで。

全卓樹 『銀河の片隅で科学夜話』(朝日出版社、2020 年)
垢抜けた美しい装丁と組版に驚き、格調高くも詩情豊かな名文に引き込まれ、多彩な題材と絶妙の切り口に舌を巻く。理論物理学者の全さんの随筆集である。『思い出せない夢の倫理学』は、夢で詩を授かった英国詩人の逸話から始まり夢見る人の脳の血流測定から夢を読み取る実験を論じて併せて脳神経科学の倫理に及ぶ。『銀河を渡る蝶』など題を見て想像に耽るだけでも愉しいではないか。寺田寅彦記念賞などの高い評価も肯ける。書架に並べて損はない。私も自分と母に二冊を買ったほどである。

大栗博司『探究する精神』 (幻冬舎新書、2021 年)
著者の大栗さんは言わずと知れた高名な素粒子理論家です。「先生の来し方をベースに基礎科学の意義についてのお考え」を書くという編集者の狙いのとおり、子供の頃のエピソードから始まり、文字通り世界を股にかけて活躍する著者の履歴を軸にして、物理学の研究・教育、研究所の運営、科学と社会の関わりなど様々な話題が明晰な文章で綴られます。「一人の人間が六十年に満たない人生でこれだけのことを達成できるのか!」と驚いているうちに科学や人間社会について多くを学ぶことのできる一冊です。

志村五郎『記憶の切繪図』 (ちくま学芸文庫、2021 年)
2019年に没した孤高の数学者・志村五郎先生の自伝だが内容には触れない。私が何を書いても陳腐な紹介にしかならないからである。
出版されたときに入手した本書を再び文庫本で買った。スタンフォード大の数学者・時枝正さんによる新しい解説が今回のお目当てだ。時枝さんは、絵を描き、数カ国語を自在に操り、古今東西の書に通じ、物理も深く理解していて必要に応じて実験も手がける万能の才人。もちろん日本語の文章の達人でもあり、私は彼の岩波『図書』の連載を愛読している。そんな人が解説する、唯一無比の文庫本。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2021 年 1, 2 月号掲載分

2020 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 藤井啓祐『驚異の量子コンピュータ:宇宙最強マシンへの挑戦』(岩波科学ライブラリー)
(2) Scott Aaronson "Quantum Computing Since Democritus"(スコット・アーロンソン『量子計算:デモクリトス以来』) (Cambridge University Press)(邦訳『デモクリトスと量子計算』が森北出版から出版されている。以下の引用は拙訳による。)
(3) Hal Tasaki "Physics and Mathematics of Quantum Many-Body Systems"(田崎晴明『量子多体系の物理と数理』) (Springer, Graduate Texts in Physics)
何年も読んでいたロレンス・ダレル『アヴィニョン五重奏』をようやく読み終えたが、5 巻を閉じるや 1 巻を開き初読とは全く異なって見える世界に埋没し読み耽っている。というわけで(そして他の異例のことでも時間をとられ)読んだ本は少なかった。

(1) 著者は量子計算の理論研究を牽引する若手研究者。不勉強のまま量子計算機は実現できないと思っていた私を折伏してくれた友人でもある。今の私は量子計算機が人類に新たな風景を見せてくれる日を心待ちにしている。

過剰宣伝の多い分野だが本書の解説は堅実だ。重ね合わせやエンタングルメントなどの概念を噛み砕いて説明する著者の努力も身にしみる。これでわかるとは言いきれないがバランスの取れた展望を得るための好適の書である。

(2) 量子計算や計算複雑性の分野で有名な著者による深い示唆に富む異色の書。

『計算機科学』はむしろ『定量的認識論』と呼ばれるべきだろう。それは我々のような有限の存在が数学的真実を学びうる能力を研究する分野だ。(p.200)
という思想のもと、計算理論、量子論、宇宙論から自由意志の問題までを縦横無尽に語る。一般書を謳っているが内容は高度で容赦なく数式を使い証明にまで踏み込んでいく。読み込むには広い分野の専門知識が必須だ(私にも歯が立たない)。

一方で、マニアックなネタや冗談に溢れた本でもあり、くだらないネタは真にくだらない!

PP (Probabilistic Polynomial-Time):うん。命名者のギルさえこれが酷い名前だと認めていたみたいだ。だが、これは真面目な本なので男子中学生的ネタは一切許されないのである。(p.78)
といった具合である(PP はペニスの隠語)。

(3) 5 月に出版された拙著。校正のため(ダレルを除けば)最も時間を使って読んだ本だ。逃げも隠れもしない専門書だが漫画家おかざき真里による表紙画を含めた四点の素晴らしいイラストを(検索して)是非ご覧いただきたい(web 版付記:本のサポートページをどうぞ)。私が彼女のために書いた「自発的対称性の破れを伴わない長距離秩序を示す量子多体系は必然的にシュレディンガーの猫となる」といった解説を「経典を読むように百回くらい読んで」独自のイメージで描き出された世界は私にも新鮮で刺激的だ。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2020 年 1, 2 月号掲載分

2019 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 劉慈欣 (Cixin Liu) (a)『三体』(早川書房)(b) 『黒暗森林 (The Dark Forest)』 (Head of Zeus) (c) 『死神永生 (Death's End)』 (Head of Zeus)
(2) 伴名練 『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)
(3) Ted Chiang "Exhalation" (Knopf)、 テッド・チャン『息吹』(早川書房)
2017 年 1 月、ぼくは台北の活気溢れる食堂街にいた。量子エンタングルメントに関する国際会議に集ったアジア・欧米の研究者たちとの夕食だった。在米のインド人素粒子理論家と SF の話題になると最近は中国の作家が面白いという。「Ken Liu のことか?」「いや、彼ではない。Cixin Liu の The Three-Body Problem という小説だ。」

話題の (1a) を半ばまで読んだところで二年以上前の台湾での会話を思い出した。なるほど、これだったか。「文学的に完成度の高い現代の SF」などではない。人間描写も筋書きも豪胆で不満点も多い。物理についていえば、表題の三体問題の扱いは恣意的、(三部作を通じて重要な役割を果たす)量子エンタングルメントに至ってはデタラメだ。それでも、読み始めるとつい引き込まれてしまう。現実の枠に縛られず読者を驚かし楽しませるという娯楽小説の原点を感じる。『三体』は長大な三部作の一作目に過ぎないと知り、そのまま一気に英訳で (1b), (1c) を通読した。(1c) はこれまでに読んだ中でも最も痛快な娯楽長編 SF だったかもしれない。

弾みがついたのか若い友人に勧められて日本の若い SF 作家の (2) を読む。小説の巧みさに舌を巻く一方、共通のテンプレを前提にした最小限の情景描写、アニメ化された映像が脳内に即座に浮かぶ筆致、そして、プロットについて誤解の余地を与えない親切さなど、慣れ親しんだ小説とは少し違うスタイル(←ラノベ的というのか?)にも心地よい戸惑いを感じた。古い小説の読者には先ず『ゼロ年代の臨界点』を勧めたい。

期せずして SF の年になったが、真打ちは寡作で知られるチャンの十数年ぶりの短編集 (3) だろう。大部分の作品は既読だったが、それでも日本語版の出版を待てず英語版も購入し英日両方で読んだ。『商人と錬金術師の門』はチャンの小説技巧が光る古典的な佳作。表題作の『息吹』は SF ならではの冷徹な表現法で描かれた生命・知性への賛歌だ。チャンにしか書けない物語であり、21 世紀初頭を代表する SF 短編となるだろう。これら二作品を読むためだけにでも手に取る価値のある一冊だ。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2019 年 1, 2 月号掲載分

2018 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 伊勢田哲治『科学哲学の源流をたどる』(ミネルヴァ書房)
(2) ロレンス・ダレル、藤井光訳『アヴィニヨン五重奏』(河出書房新社)、Lawrence Durrell "The Avignon Quintet" (Faber and Faber)
(1) 科学哲学者の伊勢田哲治氏が、十九世紀前半のハーシェル、ヒューウェル、ミルの論争から約百年後のウィーン学団の成立までの科学哲学の流れを代表的な論者の思想を中心にまとめている。詳細な注釈と多くの参考文献のついた科学哲学史の本だが、軽いエピソードも多く読み物として楽しめる。個人的にはダランベールらと実証主義の関わりを論じた4章、マッハ、ボルツマン、ポアンカレらの原子の実在をめぐる論争の登場する5章を特に興味深く読んだ。

現代の科学者には(再現性や統計の基本は重要だが)本格的な科学哲学は必要ないだろう。ただ、あまりにその方面に不案内だと、実在論への類型的な反論、決定不全性、観察の理論負荷性など定番の論点(の初歩的なバージョン)に接しただけで一気に「科学の基盤が揺らいだ!」と思い込んでしまうことがある。優れた業績をあげた科学者が凡庸な議論に感服して(落とさなくてもいい)鱗を目から落としている様子は見ていて残念だ。本書に目を通せば、それらは「科学者が見逃してきた重大な盲点」などではなく、十九世紀以来くり返されてきた論点であり、長い歴史の中で(解決したとは言わないが)徹底的に議論された上で科学研究が進んできたということが納得できるはずだ。

ただし、科学哲学の一定の知識は仮定されており、クーンはもちろんポパーも本格的には登場しないので、科学哲学への入門書と思うべきではないだろう。

(2) 思い返してみると、字が読めるようになって以来、人生の時間のかなりの部分を小説の世界で過ごしてきた。特に小学生の頃には翻訳物ばかりを読み物語の世界にどっぷりと浸かることを好んだ。数年前にダレルと出会い、作家の創り出した精緻で甘美な世界に浸る喜びを再び味わっている。プルーストを読んだときには翻訳に頼るしかなかったが、今度は気に入った部分は原文でも読めるのも嬉しい。読書に使える時間もどんどん減っており、全五巻の翻訳と大部なペーパーバックの原書を行ったり来たりしながら、もう何年かはダレルの世界を楽しめそうだ。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2017 年 1, 2 月号掲載分

2016 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 柞刈 湯葉『横浜駅 SF』(カドカワ BOOKS
(2) 岸 政彦『ビニール傘』(『新潮』2016 年 9 月号)
横浜駅は「完成しない」のではなく「絶え間ない生成と分解を続ける定常状態こそが横浜駅の完成形であり、つまり横浜駅はひとつの生命体である」と何度言ったら

ツイッターは3億人以上が利用するインターネットのサービスだ。日々数億のツイート(百四十字以内のテクスト)が投稿される文字情報の混沌である。

ツイッターで「イスカリオテの湯葉」と名乗る生物学者と知り合った。軽い会話を交わす仲だが本名は知らない。冒頭は一昨年の正月の午後の彼のツイート。そして、十分後のツイートが続く。

西暦 30XX 年。度重なる工事の末にとうとう自己複製の能力を獲得した横浜駅はやがて本州を覆い尽くしていた。三浦半島でレジスタンス活動を続ける主人公は、謎の老人から託されたディスクを手に西へ向かう。「横浜駅 16777216 番出口(長野〜岐阜県境付近)へ行け、そこに全ての答えがある」

「『横浜駅SF』が始まった。ぜひ最後まで!」という(ぼくを含む)周囲の声援の中、その日のうちに一連のツイートからなるアドリブの作品が完成。ネット上で爆発的な話題を呼んだ。それから二年弱の後、web小説を経て本格的なSF小説が単行本 (1) として刊行された。

大胆なネタを精緻なディテールで補強し商業的にも成功しうる作品を構成した力量は圧巻。凄まじい才能だ。成立経緯を見ていると後になって書かれた部分ほど彼独自のテーマが顔を出すように感じる。この人は三年後くらいまでにものすごい物を書くと予言しておこう。

(2) はやはりツイッター仲間である社会学者の岸政彦による短編小説。昨年のアンケートで彼の『断片的なものの社会学』を取り上げ「小説のなかの本筋とは関係ないが書き込まれていて心に残る挿話だけを読むような快感」と評したが、こんなにも早く彼の小説が読めるとは。大阪の街で暮らす人々の「断片」を絶妙に編み込んだ不思議で寂しい心に残る小説だ。

この岸さんのデビュー作は高く評価され芥川賞候補にもなっている(とツイッターで知った!)が、数多くの物語の断片を蓄えている岸さんの小説世界はこれからもっと広がり深まっていくはずだ。三年後くらいまでには芥川賞受賞作を生み出すと予言しておこう。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2016 年 1, 2 月号掲載分

2015 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)
(2) おかざき真里『阿・吽 1〜3巻』(小学館)
ぼくにとって90年代初頭のインターネットは「掲示板の時代」だった。個性の強い主催者がそれぞれのスタイルの掲示板を運営し常連の論客が適度に開いた環境で多彩な議論を交わした。ぼく自身も東北大数学科の黒木玄さんの掲示板に出入りし多くを学び多くを語った。今も親交のある評論家・翻訳家(が副業)の山形浩生さんや文筆家・翻訳家のニキリンコさんと出会ったのもこの掲示板だ。

その頃よく見ていた掲示板の一つに面白い奴がいた。社会学の大学院生。短い(多くの場合くだらない)投稿が強い印象を与える。興味をもって彼の個人ページの文章を読んだ。内容はほとんど覚えていないが圧倒的な筆力から受けた驚きは忘れない。こんなすごい文章を書く奴がいるんだ。でも、これを読むのは一部の掲示板の常連だけだろう。天才的な文才の無駄使い・・

(1) は社会学者の岸政彦が聞き取りの現場で出会った断片的な物語を綴った書、「面白い奴」の近著だ。空き時間を紡ぐようにして一気に読んだ。「すぐ目の前に来たときに気付いたのだが、その老人は全裸だった。手に小さな風呂桶を持っていた。」うん。確かに彼の文章だ。小説のなかの本筋とは関係ないが書き込まれていて心に残る挿話だけを読むような快感。「解釈はしない」と宣言しながらも時には普遍化に流れる岸さんを見るのも一興だ。そしてなにより本書が話題の書となり彼の文章が広く読まれていることが素直にうれしい。

(2) は人気漫画家おかざき真里の連載中の作品。最澄と空海の物語である。未完の作品について語るのはフライングだろうが、漫画でこそ可能な表現で重厚な物語が綴られていく様は圧巻。絵も漫画というレベルを超えて美しく力強い。漫画から離れた大人にも自信を持って薦められる作品だ。

2016 年の今、ぼくにとって多くの人とネットで交流する場はツイッターに移っている。ツイッターでのぼくのアイコンは、なんと縁あって真里さんが描いてくれたぼくの似顔絵だ。巨大で流動的な人々の結びつきの中に 140 字以内の短い投稿が次々と放流されていく環境には未だ馴染みきれないが、この混沌からどんな文化や出会いが生まれるか楽しみでもある。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2015 年 1, 2 月号掲載分

2014 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 福島 正実、伊藤 典夫・編『世界 SF 全集 32 世界のSF(短篇集)現代篇』(早川書房)
(2) 山岸 真・編『SF マガジン創刊 700 号記念アンソロジー・海外篇』(早川書房
(3) 大森 望・編『SF マガジン創刊 700 号記念アンソロジー・国内篇』(早川書房)
ぼくの両親は古くから SFの読者だった。学生時代のかれらの周囲には「食事をする金がなくても SF マガジンだけは買う」という(今で言う)「ガチの SFオタク」がいて、両親は当時の SF マガジンには必ず目を通していたと聞く。ぼくが幼い頃、母は SF マガジンでの初出を読んで大好きだったダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』の話をよく聴かせてくれた。「さいごに『アルジャーノンのおハカに花束をあげてください』って書いてあるところが素敵だったのよ」と。

ぼく自身も成長して「ぬるい SF ファン」になり後に書かれた長編版の『アルジャーノンに花束を』を読んだが、これには失望した。幼い頃に聴いた物語を無理に脚色して引き延ばした本のように感じたのだ。「ちがう話だわ。」母も同じ感想だった。

昨年6月にキイスの訃報に接し「ほんとうのアルジャーノン」をまた読みたいと母と意見が一致して、四十五年前に発行された短篇集 (1) を購入した。やはり短篇版は裏切らない。余分な叙述は一切なくむしろ必要最小限未満の要素で物語が十二分につくられる。知り尽くした話なのだが、様々な考えを巡らせ、不覚にも目に涙を浮かべながら読んだ。

昨年は、たまたま (1) に加えて(2), (3) を読み、SF 短編の歴史を手軽にたどることになった。以前に読んだ懐かしい物語との再会もあったし、現代的と思っていたテーマが既に立派な小説に仕上げられていた事を知って驚きもした。少し欲を言えば、(2), (3) については錚々たる作家の顔ぶれと比べて収録作品の輝きがやや劣ると感じた。何人かの作家はもっとすごいものを書いていると思うのだが(あと、短編版の『アルジャーノン』も入れてほしかった)。とはいえ、(2), (3) それぞれの巻末を飾るテッド・チャンと円城塔の短編は強い思考と世界観に貫かれた名作だ。読んで愉しいという以上にこれら非凡な作家と同時代に生きる喜びを感じさせてくれる。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2014 年 1, 2 月号掲載分

2013 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
内村直之『古都がはぐくむ現代数学:京大数理解析研につどう人びと』(日本評論社)
数理解析研究所は京大キャンパス東端近くにある数学を中心にした研究所である。創設から50年間、国内の数学研究の拠点として、国際的な研究交流の場として重要な役割を担ってきた。

科学ジャーナリストの内村が数理研の過去と今を巧みな筆致で綴った本書を年末に読んだ。研究所創設の背景と経緯を第0章にまとめ、主要な六つの章で、具体的なテーマについて研究の大きな流れとそれに関わった研究者の姿を生き生きと描きだしている。私はそれぞれ代数幾何と整数論を扱った2章と3章を特に興味深く読んだ。本書のテーマは多彩なので、読者の背景に応じて多様な楽しみ方ができると思う。

だが、理想的な環境で一流の研究を達成した数学者の姿に憧れてばかりもいられない。折しも、京都大学では総長選での教職員による意向投票の廃止を検討していると報じられている。私が勤務する学習院大学では、(教授会メンバーである)教員の投票だけで学長を選ぶという伝統的なやり方がずっと続いている。国立大学の状況がここまで変わっていることに今さらながら強い衝撃を受けた。

トップの人材を構成員の投票で選ぶという方法は非常識に見えるかもしれない。しかし、大学というのは、教育と研究を軸に時間をかけて新しい文化を熟成していく場であり、独裁的なリーダーが一つの方向に引っ張って行くような運営とは相容れない組織だと私は考える。改革することこそが良きことだとでも言うべき近年の風潮は、じっくりと時間をかけて行なう基礎研究にとって致命的なだけでなく、学問が生きて育っていく場で人生の貴重な時期を過ごす学生に対しても失礼きわまりないと信じている。

一流の研究者たちの交流を生んだ「数理研的な『融通無碍の人事』」(p 211)の伝統を守っていくためにも、基礎研究が、そして、大学が人類の文化にとってどのような意義をもつのかを誠実に根気強く伝えていかなくてはならない。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2013 年 1, 2 月号掲載分

2012 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 朝永振一郎著、江沢洋編「プロメテウスの火」(みすず書房、始まりの本)
(2) 田崎晴明「やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識」(朝日出版社)
(1) 昨年の六月、原子力基本法が改訂され、原子力利用の「安全確保」の目的として「我が国の安全保障に資する」という項目が付け加えられた。これほど非自明な(そして、問題のある)改訂が実質的な議論なしに決定されたことは衝撃的だ。「原子力の憲法」とも言われる原子力基本法をめぐる歴史的背景を知るため、勧められて本書を読んだ。

原子力と社会の関わりをめぐる朝永のエッセイ、朝永が参加した日本の原子力開発についての座談会の記録を集めた本である。高エネルギー物理学者として人類史に残る業績を挙げる一方で原子爆弾の悲劇を目撃し、また、戦後の日本で原子力の利用が進められていく現場に科学者側の代表的存在として立ち会った朝永が何を考え、悩んでいたかの一端を見ることができる。江沢による巻末の解説は日本の原子力利用の歴史を明解にまとめた力作。本文とあわせて必読である。

一九五〇年代、朝永らの科学者は、日本の原子力技術は基礎研究と連携させながら独自に開発すべきだと主張していた。しかし、事態は政治家の主導で進められ、日本は完成した原子炉を外国から輸入することになる。原子力基本法に謳われる「民主・自主・公開」の三原則は、朝永らが死守しようとした最低限の理念を反映させたものだった。

大先輩である朝永らの強い思いをこめた原子力基本法が改訂されても、私の知る限り、今日の日本物理学会の中枢が意見表明や抗議を行なう様子はない。科学者が柔弱な優等生ばかりになったのか、あるいは、大型競争的資金の獲得に長けた体制順応型の学者ばかりが学界で力を持つことの反映か。朝永を英雄視するつもりはないが、学界のトップの変質ぶりは私の想像を超えていた。

(2) 福島第一原子力発電所由来の放射性物質が「身近な」存在になってしまった今日の日本で必要とされる「新しい常識」をできる限り客観的かつ明快にまとめた本が必要だとずっと感じていた。だが、誰も書かないようなので、自分で書いたのが本書である。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2012 年 1, 2 月号掲載分

2011 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 円城塔『これはペンです』(新潮社、2011年)
(2) アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波現代文庫、2012年)
(3) International Commission on Radiological Protection "
Application of the Commission's Recommendations to the Protection of People Living in Long-term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency", ICRP Publ. 111 (2009) (web で「ICRP 111」と検索すれば無償で入手可能)
震災から何ヶ月か経って「あの日」から小説を読んでいないことに気づいた。様々なバランスが狂い時間の流れが変わった影響の一つだった。年末になって(1)を手に取った。表題作を一気に読み、自分が「頭を使いすぎて」素直に愉しみきれていないと感じる。元理論物理学者の円城の作品ということで「裏」を考え過ぎるのか?「風景の匂いをかぎたい」「この人物の空気も描いてほしい」といった凡庸な感想が頭をよぎる。そのまま併録の「良い夜を持っている」を読み進めるうちに思わず頬がゆるんでいく。円城は私の感想を見越しすべてに答えているではないか! 無限記憶というとボルヘスの「フネス」を思うが、円城はこのテーマを中編の素材として十二分なまでに構造化・熟成させた。小説としても読んで愉しく、「街」や「川」には既に懐かしささえ感じる。「特異から普遍に迫る」文学の貴重な成功例だ。

翻訳に関わった (2) を文庫化にあたって再読。偶然だが (1) ともゆるやかにつながる。ポストモダン哲学の高名な文献における科学・数学に関する言説の一部が馬鹿噺に過ぎないことを具体的に指摘する痛快な批判の書。日本でも話題を呼んだが、私見では賛否とも往々にして深さを欠き文化への真の貢献には至らなかった。むしろ若い世代が「予防接種」的に読む事で文化の背景を整える役に立つことを望む。

(2) を翻訳したのはこれが科学と社会の関わりについての問題だと考えたからだった。原発の安全性や放射線被曝の健康影響が重要な課題となった今の日本では、科学と社会の関わりは圧倒的な切実さを持つようになった。私も放射線についての多くの文献を読みささやかな情報発信(webで「放射線と原子力発電所事故」で検索)を続けている。(3) は放射能に汚染された地域で人々が暮らし続ける状況への対応をまとめたICRP(国際放射線防護委員会)の文書。ICRPには批判もあるが、ここには過去の不幸な事故からの教訓を活かした「人間より」の視点と静かな迫力がある。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2011 年 1, 2 月号掲載分

2010 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
サイモン・シン、エツァート・エルンスト「代替医療のトリック」(新潮社)
私自身「ニセ科学」批判に関わっていることもあり必読と思い手に取った。著者らは、鍼、カイロプラクティック、ホメオパシーなどの代替医療の「治療効果」が本物なのか単なる精神的な効果(プラセボ効果)なのか、客観的なデータを元に冷徹に分析する。「まじめに試して効果があるか否かを調べる」ことに尽きるのだが、本書を繙けば、これが驚くほどデリケートな問題であることがわかるだろう。そして、多くの治療法について肯定的とは言えない結論が導かれていく。日本でも代替医療に過度に依存したため通常医療を受ける機会を逸して命を落とした事例が問題になっている昨今、多くの人に読まれるべき本だ。

代替医療の推進者の多くが「現代の医学は非人間的だ」と唱える。これほどに浅薄きわまりない言説が堂々とまかり通る現実が悲しい。人間についての膨大な経験の蓄積から普遍性の高い事実を抽出し、それをもとに個々の患者を手厚く治療し、失われていたであろう数多くの命を救っていく --- この壮大な営みほどに「人間的な」ものが他にあるというのだろうか?

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2010 年 1, 2 月号掲載分

2009 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
結城浩「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」(ソフトバンククリエイティブ)
高校生の「僕」が、同級生の黒髪の才媛ミルカさん、元気でドジな後輩のテトラちゃん、中学生の従妹のユーリ(「僕」を「お兄ちゃん」と呼び、語尾には「にゃ」をつける・・)らの少女たちと過ごす時間を描いた青春小説。といっても、ストーリーは数学についての会話、議論、モノローグ、講義と絡み合うようにして綴られていくのだ。数学の題材の難易度や取り扱い方は様々だが、内容は正確で、初心者向けの数学読み物としても秀逸である。

シリーズ第三作の本書は、論理パズルからはじまり、数の公理、無限集合論、極限概念などに触れつつ、「ある条件を満たす形式的体系は不完全である」というゲーデルの不完全性定理に及ぶ。気まぐれに見える題材が数学基礎論をめぐる「知の風景」を巧みに描き出している。不完全性定理は解説者にとっての鬼門で、根本的な誤りのある解説書が少なくないが、専門家の査読も受けた本書にはそういう誤りはないようだ。さすがに本書で定理の証明を理解するのは無理だろうが、ミルカさんの講義で原論文の証明の流れを味わうことができる。さらに、彼女は定理のもつ建設的側面も強調し、「ゲーデルは理性に限界があることを証明した」といったセンセーショナルで浅薄な(しかし蔓延している)誤解にもしっかりと釘を刺してくれる。

人間を人間たらしめているのは文化である。文化とは、煎じ詰めれば、個人の能力を本質的に超えた経験と思索を可能にしてくれる巨大な記憶・意思疎通システムだろう。不完全性定理は、多くの最高の頭脳たちが論理と数学そのものを数学的対象とみて研究してきた結果として得られた真に驚くべき知見だ。難解ではあるが、きわめて「文化的」かつ「人間的」な知的財産なのである。それをテーマにした青春小説が成功し多くの読者に歓迎されていることはちょっとした「文化的事件」と言ってもよい。

小説としての筋の運びは淡々としているが、構成と筆致は巧みで、人生のこの一時期の微妙に不安定で甘酸っぱい空気をきれいに描いている。個人的には、ミルカさんの見せる(大部分の)「ツン」と(微小だがゼロではない)「デレ」の対比に「萌え」た。

田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学


『みすず』2009 年 1, 2 月号掲載分

2008 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) Greg Egan, "Incandescence" (Gollancz, 2008)
(2) Greg Egan, "Dark Integers and Other Stories" (Subterranean Press, 2008)
優れたSF小説は最良の現代文学でもあると信じているが、もちろん、肩肘はらずに楽しくSFを読むことも多い。1961年生まれのオーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンは、数学・物理・生命科学・情報工学などの圧倒的な知識を背景に、科学概念を華麗に散りばめた「空想科学小説」の王道を行く作品を次々と発表している。昨年の一時期、個人的なイーガンブームが訪れ、未訳長編三つを含むいくつかの作品を読んだ。

(1) は最新の長編。二つの物語が並行しながら巧みに交錯していく手法も成功している。一方は、コンピューターのなかの情報として仮想現実を(好きなだけ長く!)生き、光速で銀河の情報ネットワークを旅するわれわれの遠い子孫による銀河の核の探索の物語。もう一方は、科学技術を持たず岩の塊の内部にアリの巣のように張り巡らされた洞窟に暮らす異形の生物たちの物語。異常事態のなか、彼らは、新たな物理法則を発見し、外の宇宙の存在に気付き、彼らの世界に迫る危機を理解しそれに立ち向かっていく。生命と理性への力強い讃歌であり、きわめて良質の科学の(架空)発見物語でもある(ニュートン力学も電磁気学もないところから一般相対性理論に到達してしまう! 物理を知らなくても面白いだろうが、知っていると二倍楽しい)。私見ではイーガン最高の長編だ。

(2) 所収の"Oceanic"は98年発表のイーガンの代表的な中編。仮想現実で不死を手にしたのち、再び肉体に戻り、彼方の惑星に暮らすようになって二万年を経た、われわれの遠い子孫たちの文化、宗教、性、人生を描く。一見すると即物的なようだが、人の生きる意味、人が大いなる存在に抱く憧憬などについて深く考えさせられる。ゼロからつくり出した世界を舞台に先入観や常識を排除して「人間」の本質を描くという意味での真の文学に迫りつつある。山岸真氏による邦訳(「祈りの海」早川文庫)もおすすめできる。

田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学


『みすず』2008 年 1, 2 月号掲載分

2007 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
J. L. ボルヘス、 (1) 「伝奇集」(岩波文庫)、(2) 「砂の本」(集英社文庫)、(3)「エル・アレフ」(平凡社)
ふと、学生時代に愛読したボルヘスをまた読みたくなった。家や実家の本棚をあちこちさがしたのだが不思議とみつからない。今ぼくが生きている時間の流れにこの希有の作家は存在しないのではないか --- などと考えると無性に愉しいが、もちろん現実はずっと堅固だ。結局、ぼくのボルヘスはみつからなかったが、文庫本で出版されていた三冊を買いそろえて久々に彼の世界に浸った。

「バベルの図書館(1 所収)」、「砂の本」は、組み合わせの枚挙、無限性といった数理的概念を軸にした短編。数理科学者の心をくすぐる。実際、ミクロや量子の世界に浸り、その世界のありようについて、数理的概念にもとづいてあらゆる空想・妄想を展開することは、われわれの仕事の重要なステップだ。そこには、形而上学的な着想をもとに世界のあり方そのものを描く(ように、ぼくには見える)ボルヘスらの文学作品と何らかの共通性があるかも知れない。

もちろん、数理的概念や着想そのものに文学的価値はない。半現実、非現実、超現実の舞台にそれらの概念を絶妙に実装し、人間をそれらに対峙させ、「世界像の新たな次元に迫る試み」にまで踏み込むからこそ、これらの作品は文学としての深い意義をもつのだろう。同様に、単なる数理的妄想だけでは科学にはならない。堅固な数理的厳密性と客観的実証性を与えられ、既存の物理学の体系に関連づけられてはじめて、数理物理学の研究は意味をもつのだ。人類の文化の両極端とも言える両者のあいだに相似を見るのは愉快だ。

プリンストン大学でのポスドク時代の同僚だったスペインの数理物理学者・アルテミオも、ボルヘスの愛読者だった。アルテミオによれば、ボルヘスは最高級のスペイン語の書き手だという。彼の作品では全ての単語が絶妙に選ばれ完璧に正しい位置に置かれているのだとアルテミオが熱く語るのを、いささかの嫉妬を感じながら聞いていた事を思い出す。

田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学


『みすず』2007 年 1, 2 月号掲載分

2006 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
1) D. Lindley, "Boltzmann's Atom" (Free Press)
2) G. Gallavotti, "Statistical Mechanics" (Springer)
一昨年はアインシュタインの「奇跡の年」の百周年が(少なくとも私のまわりでは)話題を呼んだ。実は、昨年はオーストリアの物理学者ルードヴィッヒ・ボルツマンにちなむ百周年だった。

ボルツマンは、統計物理学という分野の生みの親の一人。統計物理とは、目に見えないミクロな世界と目に見えるマクロな世界を論理的に結びつけるための理論的手法である。マクロな生命がミクロな構造をもった世界を理解するためには必須の知的営為と言える。

十九世紀後半、ボルツマンは、統計物理の方法を開拓しつつ、原子にもとづく新しい科学を推し進めた。その結果、原子の実在を否定するマッハらとの熾烈な論争に巻き込まれていく。1)は一般向けの伝記であり、天才科学者として華麗なスタートをきったボルツマンが、次第に精神的な不安定の兆候を示し、晩年には哲学的な論争の中で消耗していく様子を描き出す。科学的な内容について掘り下げが甘いのはともかく、論敵マッハが戯画的に描かれているのは不満。

ボルツマンの論文は長大で晦渋であり、統計物理学の本質についての彼の思想は驚くほど誤解されてきた。2)は本格的な数理物理の教科書だが、ボルツマンの論文のいくつかを詳細に分析し、彼が熱平衡状態の記述について大胆な構想を持っていたことを伝える。彼の名を冠して語られる教科書的統計物理は、彼の思想のごく一部を切り出した矮小化だった! 百年以上の後、統計物理学の基礎付けと拡張の問題に挑戦する我々にとっても、彼の忘れられていた洞察は深い示唆を与える。

「私はよく、非常に愉快かと思うと、わけもなくひどい憂鬱に沈んでしまうが、このような気分の移り易さは、私が謝肉祭の大騒ぎの夜に生まれたことに、原因があるのかも知れない」と本人が冗談まじりに語ったように、ボルツマンは躁鬱の傾向を持っていた。ちょうど百年前の1906年の夏、ボルツマンは、精神の不調から回復するため滞在していた避暑地ドゥイノで、自ら命を絶って世を去る。まさに、量子論が開花しミクロな世界の物理学が爆発的に進歩する前夜であった。

田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学


『みすず』2006 年 1, 2 月号掲載分

2005 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
Abraham Pais "'Subtle is the Lord...' The Science and the Life of Albert Einstsein" (Oxford Univ. Press)
昨年は、若きアインシュタインが特許局につとめる傍ら科学の流れを変える三つの論文を発表した「奇跡の年」から百年目。私は三つの論文の内容を半年かけて理科系の一、二年生に講義した。それは、量子論・統計物理・相対論という現代物理の三つの柱を原点に戻って見直す作業でもあった。教える側にとっても、物理を学んでよかったと心から感じるほど愉しい講義になった。

この講義のため、原論文の他に本書を参照した。晩年のアインシュタインと親交があった Pais による大部の伝記である。アインシュタインの人生を歴史的・文化的背景と共に生き生きと描き出すだけでなく、科学者としての彼が何に直面し何を考えたか明解に伝えてくれる。そのため、専門概念や数式を遠慮なく駆使し、物理学史と彼の研究の流れを詳述する。我々物理学者にとっては理想の記述だ。専門知識のない読者は伝記部分だけを拾い読みできるよう配慮されているとはいえ、このような本をペーパーバックで供給できる文化の底力はうらやましい。

1905 年に光の量子論に到達したアインシュタインの論法はまさしく奇跡。読み直し考え直すたびに思わず身震いする。混沌とした実験事実と理論の中から真に重要なものを見抜き、進むべき道を見いだす「目」をもっていたのだ。誰よりも早く量子論の本質に到達した彼は、後年は量子論のもっとも深い批判者としてその成熟に貢献する。彼が量子論については常に孤立の道を歩んだことは興味深い。

タイトルは、彼自身の言葉「Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist er nicht.(神はとらえがたし、されど悪意はもたず)」から。真理は容易には見いだせないが、それらは悪意によって隠蔽されているわけではない、という強い意志に裏打ちされた楽観論だ。日々の研究で「とらえがたさ」ばかりを痛感している物理学徒にとっては、最高の励ましの言葉でもある。

田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学


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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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