日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

一覧へ
最新の雑感へ
タイトル付きのリスト
リンクのはり方

前の月へ  / 次の月へ

茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


7/1/2003(火)

子供が食べていたハーゲンダッツのメープルなんとかアイスクリームというのを少しもらって食べるにつけ、「ボブサップアイスもなか」はやっぱりおいしくなかったなあと今さら痛感する。 見た目(パッケージではない)がちょっと似ているだけに、よけい。

って、月初めなんだから、もう少し気の利いたことを書かないと、文化人の発信する logW としては、いくらなんでもまずいのではないか。

ええと、

7月になったわけで、英語でいえば June になった。 英語には堪能と言われるおいらですが、実をいうと、June と July って、未だにしょちゅう混同してしまう。 だいたい、月の名前なんて年に一回ずつしか使わないから、ほとんど覚えている暇がないのである。 そういう人って多くないですか?  Raphael が July に日本に少し来ると言っていたので、6月に来るのだと思っていたら、7月だったので、もうすぐだ。

・・・・

ちっとも気が利いてないので、寝ます。


7/2/2003(水)

午後おそくなって時間があいたので、佐々さんにもらったノートや、他のものを読んだり、考えたり。

日も長くていつまでも明るいし、涼しい風が吹いて、気持ちのいい夕方。 居室のドアと窓を大きくあけて、気持ちよく、考えたり、計算したりする。 ささやかなことを理解しながら、ちょっとずつ何かを積み上げていく、という、理論物理学者にとってはつつましやかな、しかし、この上なく幸せな日常の時間といってよい。

と、窓の下の道を

「がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。」
と大声でがなりながら走っていく三人の若人あり。 言わずと知れた応援団である。

でえええ、うるせええ、と思って下を見るが、こちらがどなったとしても、青春をかけて大声でどなっている彼らの耳に届くはずもなし。 どうしたものかと思っている内に、彼らは

「がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。
とフェードアウトしつつ、何処かへと消えていった。

安心して、再び、つつましやかな日常を愉しんでいると、しばらくして、またしても

「がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。」
だっ!

学内を回って戻ってきたなあ。

けっきょく、三度目の

「がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。」
が巡ってきた時点で、必殺技「経験に基づく一般化」を発動!

彼らは、四度目もやってくるに違いない。 普通なら、大学を三周もすればばてるかもしれないが、なにしろ、彼らは、常人に計り知れない根性と気力をもっている若人たちだ。

なんとか理論物理学者の平和を維持するため、第二の必殺技「周期性を見抜いて予想をたてる」を繰り出す!!  すなわち、頃合いを見計らって、居室のある四階から一階まで降りていく。

ちょうど、目の前を、体をしっかりと鍛えた若者たちが、特大の

「がっくしゅううううういんっ。がっくしゅううううういんっ。」
を発しながら走りすぎて行くところではないか。 ここで逃してもう一周期のあいだ待つのは馬鹿らしいので、後ろから追いかけて、呼び止めた。

さあ、文弱の極みの理論物理学者と、屈強な応援団員たちは、いかなるやりとりをするのか??!!

と、盛り上がったあなたは応援団員という人たちを知らない。 彼らは、目上の人への礼儀を重んじることにかけては、誰にもひけをとらない若者たちなのである。 私が、きちんと名乗った上で、理学部の研究棟の近辺では、声を出しての運動部の練習は遠慮してもらっている旨を述べると、即座に沈黙し、頭を下げてきわめて丁寧に詫びの言葉を述べ、ごく静かに走り去っていったのである。 それ以降、

「がっくしゅううういん」
程度の声さえもいっさい聞こえてこなかったことを、彼らの名誉のためにここに明記しておこう。
というわけで、田崎は、弱そうに見えてるくせに(←そして、当然ながら、本当に弱いのだが)、応援団員にもきちんと物を言って静かにさせる行動の人である --- という話だったわけだが、これがびびらずにできるのは、やっぱり、元応援団長・現物理学科教員の H さんと学生時代からつきあっているおかげかも知れないなあ。
静寂が戻ったこともあって、佐々さんのノートに書いてあること(コードネーム Hayashi-Sasa II)については、ちょっとだけ基本的なことを理解。
7/3/2003(木)

昨日は朝からずっと働いた割には元気だったのだが、そのつけがまわって、今日はなんとなく不調になってしまう。

家で昨日から考えていた Hayashi-Sasa の関係式の理解を試みる。 しょせんは二次形式に過ぎないのだから、こんなの簡単に出るはずだ、

「よし、理解できるまで出勤しないぞ」
などと思って計算する。 が、どうして、なかなか思うようには行かない。

で、けっきょく大学へは行きませんでした --- とオチをつけたいところだけど、明日の講義のノートも整えておかねばならず、宿題が解けないまま大学にいるのでした。 ノートを整えたら、また続きを考えるか。

「よし、ちゃんと解決するまでは家に帰らないぞ」
などとは決して思いませんが。
ちゃんと帰宅しております。

Hayashi-Sasa II (非平衡系のゆらぎが「エントロピー」と結びつくという結果)について、(断続的に)丸一日以上悩んでいることになる。

昨日は、ろくにモデルも見ずに思い切り抽象路線でせめて敗北した。今日は、午前中に家出反省し、午後から大学では、具体的に関数を展開していじくってみたが、やはり、どうにも見通しがたたなかった。 あきらめて雨の中を帰宅しつつ、もう一度、抽象路線に戻る。 食器を片づけたり、お風呂に入ったりしながら、昨日考えていたようなことを正確に考え直し、何が言えるのかを整理する。 ちょっとだけ利口になった。 ただし、当社比。 けっきょく、これらはきわめて当たり前の周知の事実です。

しかし、少しだけ場馴れしてくると、林さんと佐々さんの数値計算の結果は、ますます信じられなくなってくるので、困る。


7/6/2003(日)

明日の月曜日は、講義のあとで、大あわてで昼を食べ(ボブサップもなかを食べる間もなく(←子供たちに、もう食べない方がいいよと、なぜか、説得されてしまった・・))川崎さんの話を聞いたり、学生さんの発表を勝手に聞いたり、佐々さんと議論したりと、実に予定が盛りだくさん。 きちんと計画を頭に入れて、学習院の事務には月曜は出勤できない旨を事前に告げ、佐々さんと話せるように、エントロピーとゆらぎの関係を整理する。

私にしては大いに計画的に物事を運んでいて立派じゃわい --- と思っていたら、やっぱりなあ。 肝心の講義ノートを大学に置いたままで土曜日に家に帰ってしまった。 というわけで、日曜なのに大学に来てしまいました。

なんか大学が老若男女であふれかえっているなあと思っていたら、なんと、卒業した K 君とも会ってしまった。 彼は、まだまだ「若」ですが。

ついでで何ですが、解析力学と統計力学のレポートに目を通しておきました。 部屋の前にあるから持っていってください。


Hayashi-Sasa II で数値的に予想された関係式を手で示すのはほぼ絶望とあきらめたのだけれど、なにせ、具体的な表式があったりすると、あきらめても、あきらめても、ついつい新しいアイディアが出て手を動かしてしまう。 夜寝てからも新しい方針を思いついて寝床で(中途半端に)計算してしまう。 朝も目覚めると寝床のなかで続きをやる。 ここのところ、こういう「職人仕事」から遠ざかっていたからなあ・・

演算子の逆を無理矢理(形式的な)級数展開に表してごりごりと評価するのだけはやりたくない --- と昨日の佐々さんへのメールに書いたのに、今日は、けっきょくごりごりと級数を足してしまう。 やれやれ。

混迷しきったところで、ノートを取りに大学にやってきたわけだが、途中で目白通りの裏の道を歩きながら、実は逆演算子を計算する必要がなかったことを認識。 部屋につくまでのあいだに、一応、それらしい形の関係が(アホみたいに楽に)出ることを確認。 しかし、Hayashi-Sasa II の形とは微妙に違う。(というより、ぼくの書いた関係は、物理的に有用でない。微妙に違うだけの Hayashi-Sasa II は、物理的に意味のある形をしている。) ううむ。これをどう考えていいのやら。

そもそも、ぼくがエントロピーの定義を誤解している可能性もあるし、明日(の第四部に)佐々さんと林さんに話してはっきりさせよう。 逆演算子の級数を延々と説明する必要はなくなって、よかった。


大学に来てノートを取ってくればそれでいいというものではないことに気づいた。

当然、明日の準備をしなくてはね。 しかも、あと二回なので、かなり慎重に素材を選ばないと。


夜、アメリカの祖父から電話。

平均場近似の元祖であるワイス論文を読みたがっていたのでコピーを送ってあげたのが、届いたそうだ。 神経膜の相転移では、電流が(実在する)平均場の役割を果たし、相転移をよりシャープにするという祖父のアイディアを聞く。 これは、ぼくにとっても、面白い。

さらに、ポリマー粒子の体積変化の動的なふるまいについての祖父の新しい実験の結果を聞く。 よくわからないが、面白いかも知れない。

たとえば、「彼」なら面白がってその先をやったかもしれないなあ --- などという考えが珍しく浮かぶ。 ぼくらの前から彼が去っていて、もうすぐ、一年。 一年弱とは決して信じられないほどに長かった。


7/7/2003(月)

予定どおり、というか、予定以上によく働いた一日であった。


第一部:講義

いよいよ残り少ないが、なんとかなっているつもり。

自分で言うのもなんだが、相転移の数理の入門としては、きわめて適切な内容の配分だったように思う。 ただ、イントロに時間を使いすぎたかも知れない。

Y 君からレポートが提出された。こ、これは、ぼくの今までの講義ノート全部の倍くらいの厚さがあるぞ・・・


素早くお昼ご飯を食べ、午後ティーだけをゲットして、

第二部:川崎さんのお話をきく。

Ising model の平衡状態をシミュレートする力学系の話。 とにかく、聞いて理解するのが快感な話題だった。 それが何より。

時空間での任意のスピン配意を発生させるような軌道を求める、という目標を聞き、これほどに大自由度がカップルした系でそれをやるのは無茶だろうと直観的に思って懐疑的に見ていたら、あれよあれよとできてしまう。 確かに、できてるよ。 「これ、うまい!」と思わず叫ぶ。


すぐに

第三部:O さんらの修士論文の中間発表。

おもしろい実験結果。 過去の理論の丁寧な説明を聞いたあたりから、川崎さんのお話をぼくなりに理解し直す作業が頭の中ではじまり、O さんのモデルはあまり理解できなかった。ごめんちゃい。そのうち教わろう。


コーヒー豆をひきつつ

第四部:川崎さんのお話についてのぼくの理解を説明する。


コーヒーをのみつつ

第五部(予定では第四部だった):エントロピー生成とゆらぎの関係について、佐々さん、林さんと議論。

昨日までにぼくが理解したことを説明。

さらに、rho_{opt} なる新顔について、佐々さんに教わる。 ううむ。 平衡では同じ一つのものが、非平衡では色々に顔を変える。

ある程度の理解と、ある程度の混乱を、新たに得た。


きょうは、とてもいろいろなことをきいたり、かんがえたり、はなしたりして、とてもつかれたけど、でも、ぼくは、とてもたのしくておもしろかったとおもいました。 あとは、おふろにはいって、びいるをのもうとおもいます。
7/8/2003(火)

教授会とか。

明日は、英語で Feynman を輪講する大学院の授業の最終回。

視覚のところを完全に読み終えて、今は相対論を読んでいる。 さすがに

Today, I am going to demonstrate the relation E = m c^2, by using this SATO type-VII
などという話にはならない。 ちなみに、ぼくとしては、視覚のところと比べて予習が猛烈に楽になってしまった。

夕方になって、明日の授業で時間が余ったら「双子のパラドックス」の解説をすると約束したのを思い出した。 けっきょく、夜はこの解説をどう作るかを考える。

Feynman には「パラドックスはない」と書いてあるだけで、どうやればいいかちゃんと書いていないので不満が残ってしまう。 しかも、時折、「双子のパラドックスは一般相対論を使わないと解決しない」と主張している解説がある。 (Feynman にも「旅行している方は加速度を感じる」とだけ書いてあるので、一般相対論が必要なことを臭わせているとも読めてしまう。) しかし、もちろん、三つの慣性系を用意して、旅行する方の双子の片割れは途中で慣性系を乗り換えることにすれば、すべて特殊相対性生理論の範囲できちんと理解できる。 (乗り換えが危険であることを除けば)何の問題もないのである。

明日は、時間があまったら、そのあたりの事情をきちんと説明する予定。(英語で。)

一通り説明を作ったあとで、自分で議論を補強するために、いくつか想定問答を考える。

だんだんと問答が高級になっていき、

Q:  なるほど。一方方向に運動を続ける限り、ひとたび出発してしまったあとは、双子 A, B の時計を直接比べることができない、というのが一つのポイントなのですね。 では、宇宙が閉じていて、双子 B が宇宙の果てまで行ってぐるっとまわって地球に戻ることを考えたらどうなりますか?  この場合には、どちらも加速を経験しませんから、A が静止していて B が運動していると考えても、B が静止していて A が運動していると考えても、かまわないはず。 つまり、どちらが歳をとるか、というパラドックスが復活してしませんか?

A: いいところに気がつきましたね。しかし、それは、まさに一般相対論を使わないとわからない領域なのです。宇宙を閉じさせるためには時空の曲率が必要で、結局、飛行士 B は曲率すなわち重力を感じて運動することになります。よって両者の対称性は復活しないのです。

Q: なるほど。でも、待って下さい。完全に平坦な時空間というのは、もちろん一般相対性理論の Einstein 方程式の解ですよね。 ここで、この時空間の空間的に有限な部分を切り出し、境界と境界をうまく同一視して、空間的には閉じた時空を作ることができるでしょう?  いわゆる周期的境界条件です。 この場合、局所的には、平坦な時空と何一つ変わらないので、重力も何もありません。 また、Einstein 方程式は局所的だから、これでも、もちろん解ですよね。 この時空で、「双子のパラドックス」をやれば、飛行士 B はいっさい曲率や重力を感じないまま宇宙をまわって地球に戻ってきてしまいます。やっぱりパラドックスが生じてしまいませんか??

A: えええと。明日は一時限目も講義なので、もう遅いから寝ましょう。


7/11/2003(金)

日常生活のちょっとした、ひとこま。妻が、「ほとびらかす」という言葉を使った。

そう。

われえ、どこ見さらしとるんじゃえ。ほとびらかしたろかえっ? 阪神ファンなめとったら承知せえへんどお。
などというときの「ほとびらかす」である。

というのは、嘘である。そんな用例は、ない。 ていうか、そんな言葉知らない。

妻に聞くと、「ほとびらかす」は、確かに、自分流の言葉だけれど、「ほとびる」という言葉はちゃんと存在しているはずだと主張する。

そう。

あふれる知性、ほとびる若さ!
などというときの「ほとびる」である。

というのも、もちろん、嘘である。 こっちの言葉もおいらは知らなかった。 (でも、ちゃんと辞書にはのっている。)


というわけで、この年齢になって、日本語の標準的な動詞で今まで知らなかったものを新しく知るというのは、なかなか得難い楽しい体験である。 ぼくも、すっかり「ほとびる」を修得し、
諸君が他人にほとびるような大人にだけはならないことを強く望む。
などと日々活用しているのである。 もちろん、嘘だし、用例ちがうし、キャラもぜんぜんちがうけど。
さてさて、「ほとびる」など日常的に使っていた読者も、そうでない読者も、聞いとくれ。

みなさんは、

べろそきた
という文の意味がおわかりだろうか?

そう。

こうもべろそきた日にゃあ、商売(しょうべえ)もあがったりでえ。
というときの「べろそきた」というのは、もちろん、嘘です。

もう少しヒントを出すと、これは、

べろ そきた
のようにきれて、「べろ」は主語、「が」が省略されており、「そきた」は動詞。 ええと、何活用っていうのか忘れたけど、「そきる、そきるとき、そきれば・・」という感じで「着る」という動詞と同じ活用だな。

なるほど、それならわかる。俺だってしょちゅうべろそきってるぜ --- という方が果たしていらっしゃるであろうか?  実は、この表現は、大学時代に友人の T に教わったものなのである。 I 県 K 村の出身で、その地方独自のアクセント(というか、アクセントの欠如)や語彙をいろいろとぼくらに教えてくれた T だったが、実は、よく聞いてみると、「べろそきた」は K 村の方言でさえないというのだ。 これは、T 家の一族の間だけで通用する言葉で、彼は幼い頃から家の外で使ってみて誰にも通じないことを確認し続けたのだという。 で、大学時代のある日、ぼくらに突然

「べろそきた?」
と聞いて、ぼくらが理解できないでいると、「やっぱり通じないか」と一人で納得していた。 そりゃ、そうだろ。

T に最後に会ったのは、彼の結婚式の時だったかな?  やはり物理の世界で活躍していることは耳に入っているが、ふと懐かしく思い出してしまう。


と、ここで終わっては「べろそきた」の謎とフラストレーションで読者のみなさんの心をほとびらかしてしまうことになる(←この用例がまちがっていることは言うまでもない、しつこくて、ごめんなさい)

解説しよう。

「べろ そきた」の「べろ」はもちろん「舌ベロ」の「べろ」である。

そして、 T 家独自の動詞である「そきる」の方は、

甘すぎる飴をずっとなめていたときに舌の皮膚が少しよわってきて独特のひりひりするような感触を覚えること
を指す言葉なのである。 言われてみれば、誰でも、飴やキャンディーのなめすぎて、舌がそういう感触になったことはあるはずだ。 しかし、それをピタリと一言で表す動詞がなくて、困っていたのに違いない。 でも今日からは大丈夫。 あれは、舌ベロが「そきて」いたのだ。 その状況を人に伝えたいときも、もう「舌の皮膚が少しよわってきて独特のひりひりするような感触を覚えるよお」という必要はない! ただ「べろそきた」でオッケー。 飴をなめている人に「舌の皮膚が少しよわってきて独特のひりひりするような感触を覚えないか?」と聞くときも「べろそきた?」で十分。 子供に「そろそろ飴をなめるのをやめないと舌の皮膚が少しよわってきて独特のひりひりするような感触を覚えることになるぞ」と注意するときも「やめねえとべろそきるぞ」だ!
しかし、こういう「そきる」みたいに、誰でも言われてみると理解可能な親しみのある状況や概念なのに、それを一言で表す言葉が(通常の語彙には)存在しない --- というのは、他にもありそうだね。

そして、ひょっとすると、そういった概念のぞれぞれについて、それを一言で表す言葉をひそかに守り続けている選ばれし一族がいるのかもしれない。 T 一族が「そきる」を守り伝えてきたように。

そう。 あなたの隣にも・・ (ううむ、ぜんぜん違う結びを考えていたのだけど、とっさに書いたこの結びが面白いので、こっちにしてしまええ。)


7/14/2003(月)

今日も長い一日。

何から書こうか・・


夜、帰宅したあとで近所のスーパーに卵を買いに行ったら、「ハイサイおじさん」がかかっていた。

何年ぶりに聞いたことやら。 別に好きだったわけでもないのに、イントロがかかった瞬間に「ハイサイおじさん」だとわかってしまった自分がちょっと悲しい。


と、もっともどうでもいいことから書いてしまった。

より重要なことを書こう。

駒場の生協でお昼を食べたあと、またアイスクリームが食べたくなって、生協の売店に行った。 また、ボブサップアイスもなか(初出は 6/30)を食べることになるのかと思ってアイスクリーム売り場を見ると、

ボブサップアイスもなかは、かげも形もなく、ハーゲンダッツの(おいしい)キャラメルなんとかがあった!
このハーゲンダッツのなんとかは、実は 7/1 の雑感でぼくがボブサップアイスもなかと比較対照したものに他ならないのである。

駒場生協にも雑感の読者がいらっしゃるとしか考えられないではないか!

ちなみに、ハーゲンダッツのアイスクリームを自分で買うのは何となく勇気がでなくて、もっと安そうなチョコもなかを購入。 食事をしながらやっていた計算の続きをしつつ、歩きながら食べた。


これも、かなりどうでもよかった。

ここからは真面目に書きたいところだが、次第にビールの酔いもまわってきたので、簡略に。

駒場での「現代物理学」無事に終了。

最後は駆け足に純粋状態への分解の理論の概要を話した。 不満や反省点は多々あるが、それでも、振り返ってみると、きわめて具体的かつ堅固で深い結果を述べつつ、普遍的なストーリーとメッセージを伝えようという当初の目標はある程度達成されたと思う。 講義の後にだべっていた一部の学生さん や、もぐりの方 にはそれなりに好評で、ぼくとしても、うれしかった。

佐々さんのところでは、主に、佐々さん、林さんと議論。 明らかに疲れが出ていて、ホワイトボードで計算するのも手が重い。 おまけに、Hayashi-Sasa の数値計算に基づく予想が崩れてしまったので、気も重い。

物理的に実に意味ありげな式が、数値計算で4桁の精度で確認されたら、それは正しいと信じて背後にあるメカニズムを探索するのが物理屋としては、もう、腹減ったら飯食うのと同じくらい自然な成り行きだと思う。 ところが、厳密に成立する関係はニアミス的にちょっとだけずれていて、かつ、物理的には意味が薄くて、意味ありげだった予想式は近似的にしか正しくない --- なんて、嘘みたいなことが本当にあるのだよねえ。 たとえていえば、腹が減ったんで飯を食おうと思って、おいしそうなラーメン屋に入ったら・・・・ええと、なんか、適切なたとえ募集中。

N 君の修論の中間発表も拝聴し、そのあと、ちょと佐々研で議論。

紙をはさみで切ったあと、つなげようとしても、つながらない --- というような、話。 アシモフのファウンデーションに(←やれやれ、やっぱり物理学者はアシモフか、とため息をつかないでください)、金属を切断したあと、切断面をくっつけると再び完全にくっついてしまうという恐怖のハイテクのエピソードが出てくる。 しばらく前に、学習院を出て、某大手メーカーの研究所に勤めている人と話をしたときに、実際に、金属を切断して再びくっつけることを調べていると聞き、ひゃあ、本物の技術もかつての空想科学小説のようになったのだと感心したのを思い出す。


7/19/2003(土)

暦の上では(?)もう 20 日の日曜日だけど。 まだ起きているから。

いやあ、ここのところ、よく働いている。 しかも、やりたくない仕事を猛然と超人的なスピードで片づけている。自分をほめてあげたい。

もちろん、本当にやりたい仕事を心おきなくやるために、嫌な仕事をまず片づけているのである。 そういう、先見の明のある時間配分ができるようになったというのは、ぼくが歳をとってしまった証拠だと思う。

でも、まあ、嫌な仕事を片づけたあとに、本当にやりたい愉しい仕事ができるんだから、幸せな境遇だと思います。 感謝しております。 ありがとうございます。 (←「賣笑エクスタシー」における林檎様風に読んでくださいね。)


と、私を、陽に陰に、直接に間接に、支えて下さっているすべてのものに感謝の言葉を述べてから気づいたけど、実は、まだまだ乗り越えるべき大変な仕事があるのだった。 うううむ。 がんばれ、自分。

ま、今日はビール飲んで寝ますけど。


7/20/2003(日)

ばてばての日。 きっと文章もばてていると思う。

さて、朝日新聞を(本意不本意にかかわらず)購読されているみなさん。 今日の朝刊(あ、夕刊はないな)は、1面の土井党首の困った顔の写真をみて、あとテレビ欄をみて捨ててしまっては、だめですよ。

ぼくの大好きな天声人語が本日は出色のでき、浴衣をテーマにして、茶髪に浴衣の最近の若い女の子たちの魅力的な姿を生き生きと描き出しています --- ってのは、うそです。 浴衣という文字列は含まれているようですが、ろくに読んでません。

そうではなく、「ののちゃん」がすごい、かつての「バイト君」なんかを思わせる久々のインパクトとアクの強いギャグに抱腹絶倒 --- だったらうれしいけど、やっぱり、いつもどおり、ちょっと、あれですなあ。

そうではなく、いよいよ本当ですが(←ばてているので、ネタの引っ張りの腰も弱いのですよ、お許し下さい)、11ページの書評欄にある、山形浩生さんによる

「磁力と重力の発見」山本義隆(みすず書房)
の書評は必見。

我が家では、まず妻が読んで「うるうるしてしまった」と言ってぼくに読ませ、ぼくも一読し感動したという、まれに見るすばらしい書評です。 真の書評というのは、単に本を紹介するものではなく(実は、それすらできていない「書評」が世の中にあふれているから悲しいですが、それは別の(もっとくだらない)話題)、その本を足がかりにして世界の一つの見方・あり方を見せてくれる・作ってくれるものだということを久々に思い出させてくれます。

もっと感想は書きたいですが、朝日新聞がお手元にない読者も多いでしょうから、また web 上にのったときにでも、リンクしつつ感想を書きましょう。


7/23/2003(水)

大学院入試の面接とか。

ほんと、疲れた。 ただ疲れるという以上に、気疲れするのである。


さて、朝日新聞をとっていらっしゃらないみなさん、山形浩生さんによる山本義隆著「磁力と重力の発見」の書評です。
ぼくが大学に入った直後から、物理を中心にさまざまなことを語り合って互いに影響を与えあった M は、駿台で過ごした時期に山本さんから物理を学んでいた。 単に教え子だったというだけでなく、M は(予備校生でありながら)山本さんといっしょにお酒を飲みに行ったりするくらい親しくなっていたのだ。

M から山本さんに紹介してもらおう(というより、みんなで飲みに行こう)という話もでていたけれど、けっきょく、なんだかんだで実現しないままになってしまった。 それでも、山本さんの影響をつよく受けていた M と物理について延々と議論しているあいだに、ぼくも、間接的にながら、山本さんの伝えたかった物の見方の一部を受け取ることができたと思っている。 ぼくは高校時代までは高校の物理や数学しか知らず、大学に入ってから猛烈な勢いで本格的な物理や数学を学んだ。 あの時期に考えたり語ったりしたことはすべて決定的に重要だったと思うので、M の存在、そして、M を介した山本さんの存在は大きい。 ぼくらが、一年生の最初からランダウの力学にかぶれていたのも、M への山本さんの影響の現れだっただろう。


で、山形書評。

ニュートンの時代を語り本の概要を伝えようとする前半から、後半では一気に、山本さんが駿台で物理を教え書評委員たちが彼の名前につよい反応を示す現代へ。 この場面転換は猛烈にうまいけれど、それ以上に、この二つの時代の間に何があったかを真面目に考えると、そのものすごさに目眩さえ覚える。 そこにある、大きな、大きな、そして、偉大なギャップの存在を、この書評を読んだ人がみな強く感じてくれるといいなあ(逆にいえば、それに気づかずに読まないといいなあ)と思う。

今や、現代科学は今や人類の文明を根本から支え、日常の中にまさに魔術のごとく浸透している。 でも、現代人なら誰もが知っている「魔法みたいな科学」と、ニュートンが万有引力を確立する際に受け入れたとされる「魔法」とは、根本的に異なったものだということはよおくかみしめるべきだと思う。 というより、この二つの「魔法」がどう関連するのか、とういう意味で連続しているかを理解することが科学について真に理解することかもしれない。

そんなことなどを考えさせるという意味でも、よい書評だと思うのであった。


物理学者になった後、江沢先生や中村孔一さんなど、山本さんと共著のある人たちともよく知り合うようになったのかだけれど、けっきょく、山本さんご本人とは直接お会いする機会は(今までのところ)なかった。

熱力学の教科書を書くとき、山本さんの「熱学思想の史的展開」に強い感銘を受け読みふけった。 教科書の草稿ができあがったとき、ちょっとどきどきしながら感謝の手紙と共に草稿を送った。 山本さんから直筆のお返事をいただいたときはすなおにうれしかった。


7/30/2003(水)

あれま、前に書いてからちょうど一週間。

「週々の雑感的なもの」になってしまう。


というわけで、夏休み。

熱帯のような日射しが肌をやき、水中を泳ぐような湿気の中を三歩あるけばもう汗びっしょり、そして、耳をつんざかんばかりの蝉の大合唱 --- というような事はいっさいない寒さの夏だけれど、それでも、夏休み。

根性を入れて雑用を終え、会議も終了し、またしても工事中の大学を避けて主として家にこもって懸案の課題たちに集中する。 否定はしません --- 大学教員はいい商売です。


途中までうまくいって先が面倒で放置していた計算を、半日机にむかって真面目にやる。 でも、やっぱり、最後でややこしくなって行き詰まる。

佐々さんに聞いた問題を川崎さんに聞いた方法で解いてみる、というある意味で趣味的な計算だし、できたからすごいというわけじゃないんだけど、やっぱりできないとちょっと悔しいなあ。

ささやかな具体的な問題を計算することをどう位置づけるかは難しい。 すぐに大きな結果にはつながらないし、時には技術やモデルの特殊性にとらわれて本質を失うこともある。 でも、やっぱり、現場感覚を養うには具体的な問題を扱うしかないわけだよね、事件は会議室じゃなくて現場でおきているわけだし・・


原との共著の「たかがイジング本。」の本格的な作業を再開。

気になっていた導出を書き換え、タイトルだけで放置してあった章を書き入れていく。


一定の形が見えた(6/1 参照)あと、そこを越えようとする試みがことごとく行き詰まる SST。

貴重な夏休みの時間を有意義に使うつもりなら、さしあたっては SST は横に置いて、本の執筆などに専念しよう --- とは思うのだけど、外を歩き始めると、つい、つい考える。 不思議と歩いている間の方がアイディアがでる。 考える。 勘違いして先走って嘘を結論し、そのまま喜んで歩きながら、その先まで妄想を膨らませる。 まちがいに気がついて落ち込みつつ、今のストーリーに汲むところがないかを再び考える。 こういう散歩を何度か繰り返すうち(暑すぎない夏に感謝だな、こういうときだけは)、一つの筋が見えてきた気がする。

ある仮定のもとに、ポテンシャル変化法で定義した SST 自由エネルギーと、マルコフ過程の相対エントロピーの一般論から得られる自由エネルギーが等価であることがいえそうだ。 後者の自由エネルギーのことはずっと気になっていて、一時期は SST と無関係かとあきらめていただけに、この筋書きが本当ならうれしい。 さらに、後者の自由エネルギーは Hayashi-Sasa II で議論していたようなゆらぎの問題と関連がある。 欲張って、密度ゆらぎとの関連も議論できるような気がしている。 この三題噺(SST 自由エネルギー + マルコフ自由エネルギー + 密度ゆらぎ)がうまくいけば、SST の展開にとって強い理論的サポートになるだろう。 夏休みの自由 エネルギー 研究のテーマとしてはなかなかよいではないか。


7/31/2003(木)

「ポテンシャル変化法をレポートに書いて提出してきた学生がいるが、その扱いをどうしよう」と佐々さんといっしょに悩む --- という意味不明な夢をみて明け方に目覚めて考えていると、夜にも漠然とひっかかっていたところが、やっぱり厳しいと知る。 そのままベッドのなかで試行錯誤をつづけるが、少なくとも今の方針ではうまくいかない。 駄目とも結論されないが、うまくもいかない。

いつまでやっていたのか、いつのまにかまた眠り、朝方はきわめて間抜けな気の抜ける夢をみて、それを妻に伝えようと思って半睡の頭で言葉を選んでいるうちに夢の中身を忘れてしまった。

というわけで寝不足なのだが、ともかく仕切り直し。

やはり、夏休みの自由 エネルギー 研究とは厳しいものじゃ。


と書いたあと、昼前からまたベッドにぶっ倒れて(外から見ると寝たようになりつつ)最初に考えた操作に戻って考えてみると、今度は、すべてうまくいきそうに見えてきた。

と、このように行きつ戻りつをつづけるわけでして、それをいちいち web 日記で中継したのでは読まされる方がたまらない(読ませてるわけじゃないけど)。 というわけで、上向きになったところで、書くのをやめておこう。


明後日から一週間ほど東京を離れます。

この日記は更新しないつもりです。 また、メールもほとんど見ない、あるいは、まったく見ない可能性が高いので、ご了承下さい。


と、早々に脱東京宣言をした割には、大学にやってきております。

駒場の授業のレポートを採点しなくてはならないのです。 しかし、今期はレポートを提出してきた人が非常に多い。 学籍番号とかもばらばらでわけがわからないし、どうしたらいいんでしょう。

って、真面目に見るしかないんですけどね。


ひー。やっと終わった。

終わったのは、採点じゃなくて、同じ人が何回かに分けて提出してくれたレポートをまとめて、全体を名簿順に並べる作業がようやく終わったのです。 あーめんどい。こういう仕事がもっとも嫌です。がまんできません。

来年以降も駒場で教えるとしたら、「レポートはいつ出してもいいですから、気が向いたときに持ってきてよ」とは言いませんぞ、ぜったい。 「レポートは提出期日にのみ受け付けます。問題を番号順にとじ、右上に大きく学年と学籍番号をかくように」と官僚的にやるのです。

今年の教訓を忘れないように、ここに書いておこう。 (2004 年度の「現代物理」をとる予定のそこの君、これ覚えておいて、ぼくが忘れているようだったら指摘してね。)

あ、で、ようやくこれから採点ね。 もう、あきらめて家に持って帰るか・・・

旅先にまで持っていくのだけは避けよう。

前の月へ  / 次の月へ


言うまでもないことかもしれませんが、私の書いたページの内容に興味を持って下さった方がご自分のページから私のページのいずれかへリンクして下さる際には、特に私にお断りいただく必要はありません。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

hal.tasaki@gakushuin.ac.jp