日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


11/1/2005(火)

東京事変「修羅場」(11月2日発売)購入。

「落日」 林檎さまのファンでいてよかった。 伊澤さん、腱鞘炎に負けずがんばってください。


11/2/2005(水)

夏休みの前後くらい、三つの出版社から、同じような問い合わせの手紙が来た。 むかし、ぼくたちが翻訳した

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 「知」の欺瞞(岩波書店)
の一部が今年の阪大法学部の小論文の試験問題に使われたので、それを問題集に掲載するにあたって、翻訳者の許可がほしいとのことだった。 かの有名な「赤本」の出版社も三つの内のひとつだ。

そんなことをわざわざ言ってくるとはご丁寧な商売だと思うだろうが、実はそうではないのだ。 ずっと長いあいだ、「赤本」は自由に入試問題を転載していたらしいのだが、ごく最近になって、一部の作家や作家の遺族が「赤本」に自分の書いたものを載せるときは金を払えと訴訟をおこしたりして騒いでいるらしいのだ(朝日の記事のグーグルキャッシュ)。 それで、出版社としては、仕方なく、掲載する入試問題に含まれている文書の著作権をもっている人を調べ、全員に使用のお願いの手紙を出しているということなのだ(ちなみに入試に使う際には、特例があって許可はいらないらしい。事前に許可がいるんだったら、ばれちゃうしね)。


しっかし、まあ、なんという話だろう。

別に「赤本」の会社は、小説選集をつくって売っているわけじゃないのだ。 「赤本」を買うのはその大学を受けたい受験生なのだから、その大学の入試問題がそのままの形で載っていることだけが大事なわけである。 誰のどの作品が収録されていようと、とくに売れ行きは変わらないはずだ。 そういうところから金を取り立てたり、掲載を拒否したりすることに、どういうメリットがあるんだ?  許可がとれず入試問題が収録されなかったとき、もっともかわいそうなのは受験生ではないか。

それに、たとえ「赤本」であろうと、部分的な引用であろうと、それが、ある若者がある書物に出会うきっかけになるかもしれない(出典はかならず明記するルールになっているのだ)。 これは大事なことだと思うなあ。 ぼくらの場合なら、阪大の小論文問題集を解いた受験生の内の一人でも二人でもが、『「知」の欺瞞』ってのはどんな本なんだろと、ちょびっとでも関心をもってくれて web で検索したり、場合によっては図書館で借りて読んでくれたりすれば、訳者としてこれほどうれしい話はない。

わざわざ著作権をうるさく主張して話をややこしくする必要がどこにあるのだろう?

「赤本」(などの問題集)についてまで、利用料を取り立てたり、意地を張って掲載を許可しなかったりといったことを続けていると、けっきょくは若い人たちが様々な文章に接する機会を奪うことになる。 それは、文化的な自殺行為でしかないと思うのだが。


というわけで、われわれの翻訳については、出典さえ明記していただければ掲載は大歓迎、もちろん使用料など不要、というのが訳者の一致した意見だった。 というか、それが普通の人の意見に決まっていると思った。

そういう回答を、それぞれの出版社に伝えたわけだが、とくにメールでやりとりした一つの出版社の編集者からは、すぐに感謝のメールが返ってきた。 著作権をもっている人を調べあげて手紙を出すだけでも大変な作業であり、さらに、どうしても連絡がつかない人、あるいは、連絡がついても許可してくれない人もいる。 われわれの返事には感激したとのことであった。

やれやれ。 けっきょく「文化的自殺」の進行はもう止められないのか。 一部の有名作家が許可を取れと騒ぐことによって、すべての著作物について許可が必要ということになってしまった(ようだ)。 有名作家は連絡先もはっきりしているから、許可をもらって掲載し、お金を払えば、それでいい。 本当に困るのは、もはや連絡先もわからない、数多くの有名でない著作家や翻訳家の作品なのかもしれない。 連絡がつかなければ掲載できないというのなら、「赤本」の中身はきわめて不完全になってしまうではないか。 受験参考書なんて、出版文化のうちのごくささやかな部分でしかないわけだが(そして、もっとひどいと思う話として、図書館から金を取ろうという動きとかもあるみたいだけど、その話までし始めるときりがないのでやめとく)、それでも明らかに悪い方向に向かっているぞ。 なんとか、やりようはないのか?


と、本論はこの程度なのだが、ところで、文学作品の場合は、少し話がちがうのでは、という異論ががあるかもしれない。 芸術と呼ぶべきものの場合、自分の作品が、切り刻まれ分断され下品な入試問題集ごときに載せられるのは耐え難いというお考えもあるだろう、ということだ。

そういうことは確かにあるだろうが、しかし、それは有名なテクストの宿命とでもいうべきものだと思う。 そもそも、問題集で抵抗したって、すでに入試問題の段階で十二分に蹂躙(じゅうりん)されているわけだ。 また、入試とは関係なく、部分的な引用はつねに認められているのだから、テクストを部分的に取り上げられる危険はつねにある。 「私の本は決して引用してはならない」と明記しておいても、けっきょくは、誰かが引用するだろう(サリンジャーは、自分の本の中で、自分の経歴などについて決して触れてはならないと要求しているそうだが、日本の翻訳本の解説では、そのことも含めて彼の経歴などなどの紹介がある)。 本当に脆(もろ)く傷つきやすい至高のテクストを分断の脅威にさらしたくなければ、決して公表も出版もせず、自分一人でこっそり読み返しているしかないんじゃないかな?

と書いてみると、案外、この世界にはそのようにして決して誰にも知られていない至高の文学作品がいくつか眠っているのかも知れないとか思えてくるなあ。 実は、サン=テグジュペリは「星の王子様」も「夜間飛行」も及びもつかない究極の美しい短編を書き上げており、それを他人には見せず自分だけで読んで至高の喜びを感じていた。 そして、彼が飛行機と共に姿を消したときもその胸のポケットにはこの究極の小説の原稿が・・・、とか、本論とまったく無関係なところで話を膨らませたくなってきたけど、ま、このあたりにしておこう。


11/3/2005(木)

少し前の「プール日記(10/5)」のなかで「量子系の跳ね返り」について簡単に触れたところ、早川さんに興味を持ってもらえて、少しメールで議論した。 で、ぼくらが当面やろうとしているのは、マクロな系を量子論であつかって第二法則を示すことなので、量子系ならではの現象に切り込むのは未だむずかしいだろうということを説明した(また、量子効果が効いてくる衝突の問題というのは、かなり個別性のつよい現象になるだろうから、切り口がむずかしい)。

というわけで、「量子系ならではの面白さ」に出会うのはなかなか大変なのだが、「量子系ならではのむずかしさ」になら気楽に出会えるよん、ということを今日も痛感しているのだ。 古典系では Liouville 定理+エネルギー保存で楽勝に出てきた評価を、量子系に拡張しようとしているので、ユニタリー性+エネルギー保存で、楽勝とまではいかなくても、ごりごりと評価すればいけると読んでいたのだが・・ 量子系の非可換性がマクロに近い系でもいろいろと悪さをすることは、誰よりもよく知っていたはずではないか。

もちろん、あきらめてはいない。今この瞬間も、複数の方向を検討中(ほんとの今の瞬間は日記を書いてるけどさ)。


11/4/2005(金)

かの有名な結城浩さんが、おそるべきものを発明された。 思わず「悪魔の発明」という凡庸な表現を使いたくなってしまうのだが、他ならぬ結城さんなので、このような表現は慎むべきだろう(ごめんなさい)。 いずれにせよ、最小限のテクノロジーで最大限の多様さを育みうる土壌を生んだという意味で、きわめて非凡な創造である。 ぼくらは、新たな文化の誕生に立ち会っているのかもしれない(けっこう、まじで)。

それは、Tropy と名付けられた。 名前からしても、logW とは縁戚関係と言えよう。

Tropy についてのもっとも初期のご本人の説明は以下のとおり(結城さんの 11/5 の日記により詳しい解説が)。

実験的なCGI。 Wikiのように自由に書けるのだが、 1ページのサイズや行数に制限がある。ページ間のリンクがない。ページを渡り歩くのはランダムジャンプしかない。トップページ自体がランダムページである。検索がない。ページの一覧もできない。誰が書いたかも、いつ書いたかもわからない。最近更新されたページもわからない。
ほぼ、この説明で尽きている。

記事は無署名だし、既存のページは誰でも書き直すことができるので、署名をしても無意味。 複製や改変も無制限。 究極の匿名性。 (今のところ、各々のページには不変の URL がついている。よって、ブックマークなどに記録しておけば、自分がつくったページや注目しているページの行く末を見守ることができる。 さらに一歩進めて、URL をランダムに付け替えるということをおこなうと、いよいよ恐ろしい世界になって、自分がつくったページにもすさまじい偶然がなければたどりつけないということになる。 これは、一つの徹底した姿だが、そこまで徹底すると、逆に面白みが薄れると思える。 単に徹底する一歩手前で止めているところにも、結城さんのデザイン感覚の非凡さがうかがえる。)

単なる無作為情報のるつぼ・掃きだめになるかもしれないが、それだけではない、独自の文化がすでに生まれつつある。 しりとりや連作小説などのリレーの試みも多くある。 次に進むべきページの番号を示すことで連鎖をつくろうとしている人もいる。 また、名作ページがクローンされ、改変され、多くの豊かな子孫を生む可能性もある(もう一つだけボタンを足すとしたら、Clone かな? 新しいページの編集画面に、今みているページのソースがそのまま表示される(でも、ボタン三つはエレガント))。 あるいは、すぐには思いつかない、何かがでてくるだろう。 ボルヘスの読者は、「バベルの図書館」や「砂の本」を思い出しているはず。

すでに、多くの人が半ば中毒的に Tropy をいじっているようで、私も、今日は少なからぬ時間を費やしてしまった。 最初の頃は、何も理解せず、新しいページを作っても URL を記録しなかったので、それらのページにはその後二度と会えないでいるのだ。 どなたか、ぼくの作ったページをご覧になったら、教えてください。


時々覗いてみるたびに仕様が微妙にかわっており、結城さんが黙々と、この「新しい文化」の場を維持されている様子がわかる。

どうか、ご無理をなさらないように、結城さん。


11/6/2005(日)

3 日以来の課題は、思ったよりもずっと難航。 古典系がいかに簡単だったかを痛感。 ようやく相互作用に条件を課すことでクリアーできそうになってきたのではあるが、まだ落とし穴があるかも知れない。 全系の体積が大きいことを利用したエレガントな解決があるはずだと思うのだが。


結城さんの「元祖 Tropy」(11/4)は昨日の夜に閉じてしまったようですね。 文字通り爆発的なアクセスがあったのでしょう(←この文章、妙に凡庸)。

すでに多くのクローンが動いているみたいですが、やっぱり結城さんのオリジナルはページデザインからして秀逸だと思う。 ソースも公開されたから、あちらこちらで立ち上がるでしょうが、やっぱりオリジナルに復活してほしいなと秘かに思います。


Tropy の変種として、何か面白いものはないかと考えているのですが、なかなかオリジナルの単純さ(+深さ)をしのぐものは思いつかない。

ひとつ考えたのは、ボタンが Browse と Clone の二つしかない、というバージョン(Browse は今の Random そのままだけど、なんとなく両方とも動詞で統一)。

Clone は、今ひらいているページの内容をそのまま編集画面にうつす。 無変更で保存してもよいし(その場合、文字通りクローンページができる)、すべてを変更してまったく新しいことを書いてもよいが、多くの場合、微修正や追加をおこなうだろう。 そして、各ページには秘かに単一の「親ページ」と、いくつかの「子ページ」の ID が記録される。

この「親子関係」の記録は、系統樹とか分岐とか進化とかの解析に使えることになり、いろいろと使える。

しかし、こうなると、単なるランダムブラウジング以外に、系統樹をさかのぼるとか降りていくとか、そういうシステマティックなブラウジングをしたくなるわけで、そういう機能を付けると、またややこしくなってしまう --- というようなことは結城さんはすべて考え尽くしていらっしゃったのであろう。


11/17/2005(木)

ちょっとマヌケなくらい忙しい。

どれくらい忙しいかというと、

でも、Monty Python の DVD を買ったよ!
まだまだだけど、研究会のトークの筋書き(と次の論文の構成案)がすっと見えて(風呂前に久々に筋トレしていたら見えた)うれしくなったので、ちょっと日記を書こう。 軽い物理ネタね(物理の学部二年以上向き)。

昨日の夜、ちょっと理由があって電磁気の本を読んでいたら(二年生の皆さんには、理由はおわかりですね・・)、次のような話に出会った。

三次元空間(真空)中の有限の大きさの閉じた輪に定常電流 I が流れており、空間に静磁場 H(r) ができている。 この静磁場を H(r) = - grad phi(r) と表すようなポテンシャル phi(r) を求めたい。 もちろん磁場は rotation を持つから、静電場のようにポテンシャルではかけない。 しかし、輪を張るような適当な面をとり、三次元空間からこの面を除いた領域だけを考えることにすれば、線積分が両端だけにしか依存しないことが示せるので、このようなポテンシャルが定義できる(ぼくの数学講義ノート 10.6.3 節に少しだけ書いてある)。 そして、無限遠でゼロという境界条件でこのポテンシャルを求めると、 phi(r) = I Omega(r)/(4 pi) という形をしているというのだ。 ここで、 Omega(r) とは点 r から輪を眺めたとき、輪の張る領域の立体角(ただし電流が右回りに見えるとき正とし、逆回りは負とする)。

これは、あなた、式を見たとたんにうれしくなってしまうような美しい結果ではありませんか!

この本に書いてあった導出は、ビオ・サバールで H(r) を線積分で表し、r を少しずらしたときの phi(r) の変化をなんとか立体角の変化に結びつけようというものだった。 一般に関係式の導出は微分で求めた方が有利とはいえ、この場合は、相手が立体角なので、あまり見通しがよいとは言えないし、立体角が出てくるのもなんかだまされたような気になってしまう。

これほど美しい結果なのだからぜったいに美しい直接の導出があるに決まっている。 そう思ったのが昨夜の深夜だったんだけど、一日の疲れでヘロヘロで本の導出をフォローするのが精一杯だった。 そのまま寝たのでつい夢の中でも考えたりしていたんだけど、(あまり長時間じゃなかったけど)眠って起きてベッドで考えていたら、正しい導出がわかった。 ちゃんと、直接に立体角がでます。

楽しかったので、お茶部屋で黒板に問題を書いて結果だけを説明。 「で、きれいに導けたんだけど、どうやるか言おうか?」とうれしそうに聞く。 井田さんは、きっぱりと「いい。自分で考える」。 もちろん、そう来なくちゃね。

というところで、疲れてきたし(研究会の準備も頭の中だけじゃなくて紙などに書かないといけないし)出題編のみで終了。

お楽しみください。


ちなみに、ちょっとしてお茶部屋に行ってみたら、黒板のぼくの殴り書きの横にアイディアの要(かなめ)になる簡単な図が描いてあった。 井田さんがすぐにぼくと同じ導き方をみつけたようだ。
11/30/2005(水)

あいかわらず忙しい。 事務的な忙しさも少なくないが、多くは教育・研究関連なので、楽しいのではあるが。

で、まだしばらく忙しい。


京都での研究会は有意義だった。 講演は多彩で、いくつか数学者の話を聞いたのも久々の感覚で楽しかった(とは言ってもフォローするだけで必死になるし、些細な定義の書き間違いなども書き間違いかどうかプロの判断ができずいちいち質問してしまう)。 河東さんの vertex operator algebra 関連のお話がとくにすごかった。

何人かの人とゆっくり話せたのもよかった。 旧知の伊東さん、近藤さんと久々に話した他、河東さん、田崎秀一さんらと初めてゆっくり話せて満足している --- とはいうものの、河東さんは駒場の人(実は、同じ教室で講義していたので、一度だけ会って挨拶した)だし、秀一さにいたっては、彼のいる早稲田の理工キャンパスは学習院から自転車ですぐのところだし、苗字も同じという近さである。東京でももっと人と会わねばね。

以前の私はせっかく京都に滞在しても宿と京大を往復するだけだったのだが、今や健康オタクの散歩オヤジと化した私は、一日目は研究会の小一時間の昼休みを利用して一人で哲学の道まで散歩してしまったり、二日目は同宿の清水さんと研究会開始一時間前に宿を出て山の中を通る長い散歩をしてから(とことん迷って微妙に遅刻して)研究会に参加したりと、短時間ながら秋の京都の散策を楽しんでしまったのである。 研究分野も変わったが、そういうところの変化も激しい私であった。


先月の 28 日の雑感で、「明日が締め切りのこと」と書いていたのは、学会のシンポジウムの提案のことでした。 これについては、また書きます。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

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