日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


5/3/2007(木)

不調だった PowerBook G4(← Mac のラップトップのことね)はみごとに復活。

新しく配信された security update をインストールしたら、問題は完全に消滅した。 アドバイスしてくださっていた K さんのご指摘どおり、前回の security update と OS 10.3 と AirMac の三者の相性が悪かったようだ。

古い OS を使っているユーザーを見放さず、適切な対処をしてくれた Apple のサービスと技術力に感謝。そして、今回、適切なアドバイスをしてくださった K さんにも心からお礼を言いたい。


不調のあいだ、PowerBook はあまり使っていなかったかというと、まったくそういうことはなく、「電源を入れて使い、終わったら切る」を実践しながら、週末にはずっと仕事をしていた。

メールやら細かい仕事や原稿書きだけでなく、ずっと懸案だった確率過程の遷移確率についての論文を真面目に書き始めた。 なんというか、driven lattice gas などを始める前に下準備としてやっておくべきだったような仕事。 離散状態の確率過程として、どういうものが「まともか」を決めるという話だ。 もちろん、こういう基礎を押さえる必要を感じたのは、非平衡の確率過程では、すさまじいルール依存性があることを(自分でも、みつけて)知ったからである。

深いポテンシャルの谷の間を動くような「粒子」と、そのまわりの無数の「分子」からなる古典力学系を考える。粒子が一つの谷間に閉じこめられていてるような準平衡状態から出発し、力学の時間発展に従ったとき、一定時間の後に、粒子が隣の谷に移動する確率(以下、遷移確率と呼ぶ)を議論する。 初期状態について平衡統計力学を使い、あとは力学しか使わないので、ともかく、インチキな仮定の入り込む余地はない。 これは、すさまじい多自由度の運動方程式の解だから、解いたり近似したりということはできそうにないのだが、実は、ちょちょいのちょいと上手に扱ってやると、遷移確率が detailed balance condition を満たすことが証明できる。 さらに、これは外場がかかったような非平衡ダイナミクスにも拡張できて、そこでは local detailed balance が証明できる。 証明ができてから気づいたのだが、これは、本質的には、Jarzynski や Maes-Netocny がやった話のバリエーションなのだ。 ただし、この設定でやったとき、結果の意味はもっとも明確だと思うけど。 さらに、バリアのポテンシャルについて少しだけ仮定を付け加えると、なんと、短時間の極限では、遷移確率の形も完全に決定できてしまう(これが、九州に行く直前にやったこと)。 出てくる形は、いわゆる Krammers 型で、目新しくも何ともないのだけれど、厳密に、しかも、あっさりと証明できてしまうのは驚き。

この知見を踏まえた上で、では、外場に駆動された多体系の非平衡定常状態はどうなるだろうと考え始めなくてはいけないわけだ。 その作業も、じわじわと進めてはいるのだが、どうも、なかなかすっきりとした筋は見えてこない。 いずれにせよ、driven lattics gas の非平衡定常状態についての膨大な数値計算などは、(少なくとも、上の結果を「物理的」と考えれば)すべて物理的でないということになってしまうのだ。


次の月曜にはまた駒場に行くので、前回(4/23/07)の議論で心残りだったところをやっつける。

まず、ぼくが説明した Toninelli-Biroli-Fisher の仕事には、間違っているという指摘がついて、本人たちも間違いを認めたという話。 偉そうに説明しておいて、実は穴があったのに騙されていたというのでは恥ずかしい。 実は、前回は、「directed percolation の臨界密度以上の密度では、jamming が存在する」という部分をきちんと話し、それから「このモデルの臨界密度は、directed percolation の臨界密度と等しい」という主張については(読むのが間に合わなかったし)ずっとデリケートで証明は難しそうだということをコメントし、それを認めた上で、臨界点での jamming のふるまいの話をしていたのだ。 今、訂正を読んでみると、やはり私はプロだった(蛇の道は蛇とも言う)。 間違っていたのは、デリケートと言って話をとばした部分だった。 ぼくが説明したのは、すべて正しい部分だった。 さらに、臨界点での描像も、他のモデルにすれば、そのまま正しいので、前回の説明は全く無駄にならなかったことになる。

もう一つの宿題は、jamming に関連して話にのぼった bootstrap percolation というモデルの話。 Aizenman-Lebowitz という論文が参照されていて、これは知らない名前ではない。 あと、Aernout van Enter も、ごく短いが決定的な論文を書いている。 数値計算で相転移が見えたように思われたのだが、それは有限サイズ効果でしかなく、体積を大きくすれば「相転移」が消えることを示したのは Aernout なのだ(内容は知らないが、耳学問で知っている)。

で、昨日、ネット上に論文がないか少し探したのだけれど、80 年代後半の仕事だから、さすがに、全然ない。 困ったなあと思って、ふと、ファイル(←書類などを束ねたものをいいます。物理的存在です)のフォルダー(←ファイルをまとめて格納するための物理的な存在です)がしまってあるキャビネットを開いて、Aizenman のフォルダーを検索してみた(←はさまっている論文を次々と物理的に見ていく行為を言います)。 ぼくは、一時期からは、論文をまったく整理しなくなってしまったのだが、学生の頃は著者別にフォルダーに分類して整理していた。 おそらく学習院に来た初期も、気紛れに整理していたのだろう。 なんと、お目当ての Aizenman-Lebowitz が出てきたではないか!  しかも、プレプリント。

preprint archive からファイルをダウンロードして印刷した、そんじょそこらのプレプリじゃあ、ありませんぜ、そこのお若いの。 Michael が Mac の WYSWYG 環境(←死語だね)でパコパコとタイプしたものを両面コピーした正真正銘のプレプリントなのだ。 記憶にないけれど、直接もらったのか、あるいは送ってくれたんだろう。 そう。ほんの一昔前には、プレプリを知り合いに郵送するという風習があったのだ。

と、まあ、感慨にふけるのもいいが、せっかく出てきたので読んでみる。 いつもの事ながら、Aizenman の論文はストーリーが明快で、読んでいて快感。 実際に証明が始まると、直観的な説明の部分とのギャップがあって、少しとまどうが(あと、プレプリだから、式のミスがあって、めんどう)、基本的な筋書きは分かった。 彼らは、相当に強い評価を与えているが、話の筋を知るだけなら、もっと気楽な評価でよいので、そういう簡易バージョンの証明を作っておく。

bootstrap percolation は、割と趣味的なおもちゃモデルだと思っていた(よって、論文などを真面目に見たことがなかった)のだが、ともかく、佐々さんとの議論に出てきたくらいで jamming transition (の非存在)と関わっているわけだし、さらに、準安定状態について真面目に考えるための重要なヒントになることも理解した。 これは大きな収穫。 その後の、低温の Ising moderl の Glauber dynamics での厳密な結果の動機付けも理解できた。

準安定状態をめぐる厳密な結果のレビューをするというのがずっと懸案になっているのだが、これで、 missing piece がはまった感じ。 少なくとも、精神的には、やる準備が整った気がする(物理的に準備する時間が・・・)。


5/4/2007(金)

日本では、年末に大掃除をするのが慣例のようだ。

しかし、寒く乾燥している真冬のまっただ中に、窓を開け放って窓ふきをしたり、汗をかきながら冷たい水で雑巾をしぼったりするのは、いかがなものだろう?  ただでもみんな忙しくて疲れ気味で、風邪が流行る季節なのに、自ら病に倒れようとしているかのようではないか。 ひょっとすると「年末に大掃除」という風習は、日本人の生産性を落とすために悪意ある何者かが植え付けた罠なのではないかという推測さえ飛び交ってしまう。  落ち着いて考えれば、掃除をするなら、クソ寒い年末などではなく、気候もよいゴールデンウィークあたりが最適ではなかろうか? ---  毎年、そういう理屈をつけて、年末にはろくに掃除をしないのだが、ゴールデンウィークになればなったで、それなりにやるべき事が山積みでけっきょく大掃除している暇などありまへんなあ、というのが自然なオチの付け方であろう。 しかし、オチをつけるばかりが人生ではない。 昨日、今日は、天気もよかったので居間の窓をせっせと吹き、風呂場の天井の汚れを落とし、洗面所の収納の掃除をし、さらに妻がカーテンを次々と洗濯するのを手伝った。 それなりに(←あくまで、「それなりに」である)きれいになって、うれしい。 って、当たり前過ぎだが、オチをつけるばかりが人生でないということは既に断ってある。


ぼくのところには、本や(公開している)講義ノートについての質問のメールが時たま来るのだけれど、それらには、できるだけ早く、かつきちんと答えるようにしている。 真面目に読んだ人がどういう点に疑問をもつかというのは、本を書く者にとっては、きわめて有益な情報でもある。

しかし、今日、届いたメールは、さすがに、ちょっとなあという感じ。 愚痴は書かないはずだったが、めずらしく、書いてしまえ。

「熱力学:現代的な視点から」の最初のあたりを読まれたらしいが、「F[T;X] を導出したという論理が破綻している」とおっしゃるのだ。 その理由は、「T を一定にして最大仕事を議論するだけでは、F[T;X] の T 依存性が決まらないから」という事のように読める。 もちろんその通りで、最初の段階では F[T;X] の T 依存性は不定にしておくというのが、ぼくの本の売りの一つ。 T 依存性は仕事では決められないから、そこをどう決めるかが腕の見せ所でもあるし、それを上手に決めた瞬間に、カチリと軽やかな音がして、熱力学の体系がきれいに完成するという、お洒落な趣向なのである。 そういうことは、しつこいくらい丁寧にくり返し本に書いたつもりだったのだが・・・ まあ、メールを下さった方は素速く読まれて、色々と見落とされたのかも知れないとは思う。

で、メールのその先は、なぜぼくの本の論理がおかしいかの(←いや、おかしくないけど)、わかりやすい説明が続く。 二次元での力学のポテンシャルを求めたいと思ったとき、x 方向の力だけしか知らなければ、V(x,y) は求まらないでしょう、y 方向の力も知らないと情報が足りませんよ、と。 それは、全くその通り。これがわかっていなければ、大学一年の力学も危うい。 さらに、熱力学第二法則の本質は、望む性質をもつ F や S の存在を示すことなのであって、最初から好ましい F の存在を仮定してしまったのでは何の意味もない、と。 Callen とか清水さんの本みたいに、S の存在を仮定する流儀もあるから、そうとも言いきれない。でも、ぼくの本の場合「『経験事実』をもとに、F や S を導く」と宣言しているのだから、(この方が誤解されているように)最初から望ましい F の存在を(こっそり)仮定しているとしたら、全くのナンセンスということになる。 初歩のロジック。

要するに、このメールをくださった方(存じ上げないけれど、調べたら、プロの物理学者だった)は、

田崎は学部レベルの論理も解さないインチキで、冒頭から完璧に論理の破綻したアホな本を書いている
とお考えになって、間違いを説明して下さっているのであった。

ううむ。 もし本当にそんな馬鹿な奴が「数理物理の専門家」と自称して証明がどうのこうのと言っているのなら、詐欺もいいところだなあ。 いや、確かに、世の中には、ほとんど知識も能力もないくせに専門家を自称している困った人というのは存在する(らしい)から、まあ、そういうのの一人と思われたのであろう・・・

しかし、ぼくのことはいいとしても(いや、ほんとは、よくないんだけど)、この本が出版されて既に数年のあいだ、少なからぬ人が一生懸命に読んでくださって、中には「本当にスキのない教科書」とほめて下さる人もいらっしゃるのである。 メールを下さった方のおっしゃるとおりなら、それら読者全員がおそろしく初歩的な論理のミスに気づかないほど馬鹿だったということになってしまう。 ぼくはいいとして(よくないけど)、それでは、数多くの読者の皆さん(中には、熱力学の本を書いている人もいらっしゃるわけだ)に失礼すぎるでしょう。

というわけで、返信メールでは「F[T;X] の T 依存性は後から決めます。そこが本書のユニークな点です」ということを丁寧に説明したのだが、やっぱり、それだけでは落ち着かず、つい

そんなくだらない落とし穴がある本を書くほど馬鹿だと思われたなら(そして、これまで実に多くの人が、そんな初歩的なミスを看過したとお考えになっているとしたら)、ちょっと悲しいです。
と結んでしまった。

オイラも、まだ青いねえ。


5/6/2007(日)

うぴゃー。 久々に、講義前日の準備でおたおたしてしまった。

「重力下での気体の平衡分布を(理想気体モデルで)再現しようとすれば、自然に Maxwell-Boltzmann 分布が出てくる」ことを示そうと思って、ちょちょいのちょいと、一年生にも分かりやすいエレガントな導出をしたつもりだったのだが、真面目に計算してみると、微妙なところがボロボロと合わないではないか。 結果は絶対に正しいのだが、なんか導出の方針が大きく間違っている。

夕方になってミスに気づき、ようやく夕食前には修復したけれど、思っていたよりも面倒な計算になってしまった。エレガントな導出を募集中。

そういえば、(これを最初にやった)ボルツマン先生の模範解答というのを未だに見ていないではないか。彼の論文はちっとも英訳されていないし、敷居が高いんだよなあ。


ヴォネガット追悼というわけで、ぼちぼち彼の本を読む。

最初は、本棚にあった「猫のゆりかご」を手にとって、ほとんど一日で読んでしまった。 次は、やはり本棚にあった Galapagos のペーパーバック。 Princeton にポスドクで行ったとき、彼の本が読みたくて買った記憶がある。 日本語の本に比べれば時間はかかるが、買った頃に比べると、はるかに英語が読めるようになっているのは、ちょっとうれしい。 それにしても、英語でも日本語でも、彼の本を読んでいると、同じような「ヴォネガットを読んでいる心地よさ」を感じるからおもしろい。


5/12/2007(土)

ええと、読んでも面白くない日記です。

昨日の数学の講義のとき、どの問題をレポートに出題したか忘れてしまった。 問題番号を書いていたメモもどっかへ行ってしまった。 (特別履修者用に)掲示しないといけないので、困った。

というわけで、講義に出ていた方でこれをご覧になっている方、メールで教えていただけますか? 先着一名様に「ぼくのところに来てコーヒーを飲む権」を進呈しましょう(←すみません、回答いただきましたので、締め切ります)。

ほら、面白くなかったでしょ。


5/19/2007(土)

やはり主任をやっていると時間がちょぼちょぼと取られてしまうので、今週は、何人かの人に、つい「処理能力をこえてるときがある」などと柄にもない弱気発言をしてしまった。

いや、もちろん、大きな問題や大きな意志決定があるわけじゃなく、主任の仕事だけでキャパを越えたりはしない。 ついつい引き受けていた理学部広報関連の仕事から足を洗い損なってそれが続いていたり、近く立ち上がる生命科学専攻のちょっとしたお手伝いをしていたりと、主任業務以外にも、なんとなく本業以外の業務が重なってしまっているだの。 でも、いつも通り、週に三つの講義(しかも月曜は新ネタ)を全力でして、書きかけの論文も少しずつ改訂し人に送って意見を聞き、火曜に小松さんに教わった小松・中川の新しい結果を自分なりに消化する(楽しい)努力をして二つほどノートを書き、つい引き受けてしまった解説の翻訳をし、さらに、統計力学の本のさらなる改訂の構想を練り、数学の講義ノートの後半の手直しを考え、加えて、読みたい本を読み(Galapagos ようやく読了)、書きたいと思っている一般向けの原稿を構想し、ずっと前から引き受けている講演の準備をし、Avril の曲のラップ部分をカラオケで歌える(しゃべれる)よう練習し、と全てをこなそうとすると、キャパを越える --- と、言いたいのである(真面目な話、緊急性のないメールへの返答がおそろしく滞っていて、それは申し訳なく思っている)。

このあいだも、学生さんが質問に来ていたのだが、途中でぼくが会議に行く時間になってしまった。

ぼく「行かなきゃ。あー、こんな風に忙しそうな人っぽいのってイヤだ。暇そうでぼけーっとしているおっさんと思われるような方がいい。」

N 君「あ、でもみんな忙しそうな田崎さんがかっこいいって言ってましたよ。」

ぼく「え・・・・? 女の子?

N 君「はい。女の子たちが『忙しそうな田崎さんがすてき』って言ってました。」

あー、忙しい、忙しい。 さっ。がんばって仕事するぞっ!(←これは、本心とは無関係な単なるベタなオチです。よい子のみなさんは本気にしないでください。)


ほほお。
伊勢田哲治氏による「白鳥紀一氏への抗議」
論評抜きでリンクしておこう(まだ、最初と最後しか読んでない)。 どちらも知らないお名前ではないし。

しかし、なんにせよ誰かがわかる形で私信を脚色して公開するのは、いかんですなあ。 おっと、論評してしまったか。

ちなみに(その一部分が)抗議の対象になっている白鳥氏の文章は『科学論者への希望(歴史としての「サイエンス・ウォーズ」の教訓から)』(まだ読んでない)という題なのだが、参考文献に『「知」の欺瞞』が挙がっていない。 重要でないとご判断されたのかもしれないが、ちょっと不思議ではある(ちなみに、『「知」の欺瞞』の帯には「これはサイエンスウォーズではない」と書いてあったので、白鳥氏のタイトルとはそぐわないことになるか)。 あ、これは論評ではなく、ただのつぶやきです。


5/25/2007(金)

今年の四年生のゼミでは、Landau の Statistical Mechanics (もちろん、vol. 1)を読んでいる。

前回と今回は、量子的な自由エネルギーや「確率分布」をプランク定数 h について展開するというところ。 今までろくに見たこともなかったのだが、今回のゼミの強力な二人のメンバーのおかげで、すべての計算を隅々まで完璧にフォローすることができた。 「こんな補正、はかれないだろー」とか言わず、最短距離でびしびしと計算していくところは、さすがランダウ。 そして、例によって、係数一つ符号一つもミスがないところは、すごい(ま、長年のあいだに、みんなで直したのだろうが)。

しかし、こうして得られる自由エネルギーや確率分布の h についての展開というのは、決して美しくないし、物理的にすなおに解釈できそうにも思えない。 本来のフルの量子論的な表式は単純明快なのに、あえて半古典的展開をすると、こんな風に込み入ってしまうのだ。

もし、歴史が別の道をたどり、(そういうことは、ありそうにないけれど)量子統計が発見される前に、古典統計と、それへの半古典的量子補正が研究されていたとしよう。 そして、人々は、半古典的な平衡分布の形を一生懸命に睨んで、その先にある、真の量子統計を模索していたと考えてみよう。 この表式をみるかぎり、そうやって、半古典的確率分布を必死で見て、外挿して、そこから量子統計を推測するのは至難の業に見える。 というよりも、進むべき道として間違っているように見える。

そう思うと、非平衡性が弱いときの非平衡系の確率分布の形を研究し、それを必死で見て、外挿して、そこから真の非平衡の確率分布を推測しようとしている、ぼくたちの目論見って・・・


卒業生の S 君が来訪。

ここや、あるいは、ずっと最近ではここに登場する S 君だ。 きっと他のところにも出てるはず。

かつて同じ世界をいっしょに歩いた仲間と話すのは楽しい。 なによりも、S 君が元気そうで、昔と変わらぬ空気をまとっていたのが、うれしい。

また来なよ。

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言うまでもないことかもしれませんが、私の書いたページの内容に興味を持って下さった方がご自分のページから私のページのいずれかへリンクして下さる際には、特に私にお断りいただく必要はありません。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

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