日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


2014/1/1(水)

あけましておめでとうございます。

[MSP 2013 poster]

昨年はイベントの多い年でした。特に 7 月から 8 月にかけて、京都の基礎物理学研究所で『数理的統計物理学』という国際会議を主催しました(右は会議のポスター)。数理物理学の一流の国際会議を開くことは長年の夢だったので、この会議が成功に終わったのはうれしいことです。

研究では、ボース多体系の量子磁性、情報熱力学、孤立量子系における平衡化や熱力学第二法則、非平衡熱力学など、様々なテーマを手がけました。大きな仕事はできていませんが、去年までの停滞からは脱して研究を楽しめたと実感しています。初期の共同研究者でもあった親友の原隆氏とも二十数年ぶりに共同研究を再開しました。

[Poster session]

今年も調子を落とさず(楽しく)仕事を続けたいと思っています。どうかよろしくお願いいたします。

左は夏の会議のポスターセッションの様子

2014 年 1 月 1 日  田崎晴明

↑ これが今年の年賀状。といっても、昨日の大晦日の日記(2013/12/31)の要約版みたいなもんだね。 ちなみに写真の左上にいるのは、年賀状にも出てくる親友の原隆さんですよ。

ともかく、今年もこの日記には不定期に適当なことを書いていく所存です。よろしくお願いします。


で、さっそく、元旦らしい(かつ、適当な)ことを書くぞ!
ぼくも元旦には初詣に行く。

もちろんこういう宗教行事を文字通りに信じるようなタイプの信仰心はないし、お参りの作法とかもろくにわかっていなくて、ひどいものなのだ。 それでも、お祭り的な空気は好きなので、まあ、みんなといっしょに行って、見よう見まねで適当に引き締まった気分になったりして時を過ごすのである。


で、今年も弟の一家といっしょに、けっこう大きなお寺に初詣に行った。 荒々しい山と重みのある寺が互いに不思議に入り組んだ場所で、信仰心のないぼくも、それなりに初詣っぽい気分を味わうことができた。

一通りお参りをすませ、おいしい鯛焼きも食べて、さあ帰るのかなあと思っていたら、最後にみんなでおみくじを売っているところに入っていった。 ぼくは、お祭り的な空気は好きだけれど、自分の人生やら計画やら運勢やらについてあれやこれやと言われるのはアホらしいので、おみじくは引かないのだ。 今日も「ぼくは、仏や神とはダイレクトに通じているから、こいうのはやらないのさ」とか言ってたのだが、弟がさっさと全員分のお金を払ってしまったというので、まあ、それなら付き合おうということにして(←われながら適当である)、福引きみたいな感じでおみくじがいっぱい入っている箱に手を突っ込んで一枚を抜き取った。

当然、大吉だろうと思っていたら、

末 吉
なんか、微妙である。

が、それだけなら、まだよい。 読んでみると、いちいち頭に来るようなことが書いてある。


そもそも冒頭から、
勢いに乗って押しまくり後でしまったと後悔するような運気です。こういう時は全てにバランスを崩さないように注意することが必要です。
せっかくのあなたの実力を活かす工夫がほしいもの。 タイミングのとり方に注意しましょう。
という超上から目線(←あ、まあ、おみくじなんだから「上から」なのは、仕方ないのか)。 いい歳なんだから自分のバランスの取り方くらいはかなりわかっている。 というより、いつでもバランスを取るばかりじゃなくて、ときには勢い余って前のめりに大々的に転ぶくらいのことがなければ、研究者としてはダメなんですよ(バランス重視の研究者も多いけどね)

それ以上に「せっかくのあなたの実力」みたいな中途半端におだてるような言い方が気に入らんぞ。 もう 30 年近くプロの研究者をやっているのだから、如何にして自分の能力を最大限に発揮するか、というより、自分の能力を超える仕事を如何に達成するかということに関しては、つねに必死で工夫しているのでございますよ。


さらに頭に来るのは「学業・技芸・試験」のコーナー(ていうのか?)に書いてあることだよな。
満点か零点というような極端な成績を取る暗示がある。 かけた山が外れた時は無残。 地道に努力を積み重ねよ。
だから、研究者たるもの、たとえ零点で無残に終わる可能性が高いと思っても、自分の持てる能力以上のものをつぎ込んで大きな困難な目標に向かわなければいけないんだって。 年俸制の大学教員とか騒いでるけど、研究っていうのは一年間とか短期間やってもらって成果(論文数? 補助金の金額??)が測れるようなものじゃないんだ。 本気で研究を進めたいなら、何年間も外から見える成果がでない沈黙の時期だって必要になるかもしれないのですよ(もちろん、そういう言い訳を盾に何もしないで自堕落に過ごす大学教員を量産してはいけないわけですが。これが深刻な難問だということはわかっています)。 だいたい、一つの分野にあるレベルで習熟すれば、60 点、70 点の成績をコンスタントに取り続けるのはむしろたやすく安直なやり方なのだといつも言っているとおりなのであるのである。 それに加えて、去年のぼくは、(まあ、311 以降の色々があったりして)研究が停滞してしまったところから脱し、かつ、自分を励ますために、かなり意図的に、60 点、70 点の仕事をしたと自覚しているのです(得点は当社比。自分自身の場合、三つか四つの最高の仕事を 90 点くらいに想定してる)。 そして、ちょっとずつ「満点か零点というような極端な」路線の研究も進めようと思っているんですよ。そういう矢先にそういうアホみたいなことを言わないでいただきたい。

さらに、頭に来る理由を思い返してみると、ああ、なるほどと思い当たる。 昔々、あるところで、ぼくに向かって

先生(←俺のこと)のように、ホームランだけをねらって、じっくりといいボールを選ぶようなタイプの研究者は、今の○○のようなところには不向きなのです
と明示的に言った人がいたのでござる。 それに対しては、本来なら「なぜ、おまえたちがそんなことを言う! ○○でこそ、ホームランをねらうべきだろう!」と怒って反論すべきだったのだが、その場の性格上、それは絶対に言えなかったのだなあ。 そのときの気持が、また、このおみくじを読んでよみがえってきたというわけであろう。うん。うん。
ふう。

というわけで、末吉のおみくじに向かって文句をつけているうちに、この(停滞期から脱し、やけくそで、これまでの宿題を片付け、なんとか次の段階に進もうとしている)時期に、自分自身のスタンスを改めて明示的に意識することができたような気がする。

ああ、そうであったか。

このおみくじは、ぼくにこうやって自分自身というものを自覚させるために巧みに作られたものだったのだ! なんという深い導きであろう。なんという人知の及ばぬ精妙な計らいであろう。ありがたいことじゃ。ありがたいことじゃ。

そうとわかれば、何をすればいいかは明確だ。 おみくじの教えに深く感謝しつつ、そこに書いてあることにはいっさい従わず、自分の信じる道を迷わず進んでいく所存でありますので、どうか仏様も神様も人間界のみなさまも、ご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。


2014/1/13(月) さて、例年、年末から年始にかけては、『みすず』の新年号に載せてもらう「読書アンケート」を書くのが恒例になっている。 今年(というか、去年)は落ち着いて本を読む暇もまったくなかったし、冬休みも仕事をし続けていたので、アンケートはお休みにしようかなと、かなり本気で考えていた。

が、けっきょく、土壇場になって書くことに決めて、以下のように(仲良しの)内村直之さんの新刊の短評を書いた。 本当は雑誌が書店に並んだ後で公開すべきところだけれど、お読みいただければわかるように、いま多くの人に読んでもらう意味があると考えたので、フライングで公開していまいます(『みすず』の新年号にはもっともっとたくさんの「文化人」が寄稿しているので、是非ご覧ください)

「みすず」読書アンケート
2013 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。

内村直之『古都がはぐくむ現代数学:京大数理解析研につどう人びと』(日本評論社)

数理解析研究所は京大キャンパス東端近くにある数学を中心にした研究所である。創設から50年間、国内の数学研究の拠点として、国際的な研究交流の場として重要な役割を担ってきた。

科学ジャーナリストの内村が数理研の過去と今を巧みな筆致で綴った本書を年末に読んだ。研究所創設の背景と経緯を第0章にまとめ、主要な六つの章で、具体的なテーマについて研究の大きな流れとそれに関わった研究者の姿を生き生きと描きだしている。私はそれぞれ代数幾何と整数論を扱った2章と3章を特に興味深く読んだ。本書のテーマは多彩なので、読者の背景に応じて多様な楽しみ方ができると思う。

だが、理想的な環境で一流の研究を達成した数学者の姿に憧れてばかりもいられない。折しも、京都大学では総長選での教職員による意向投票の廃止を検討していると報じられている。私が勤務する学習院大学では、(教授会メンバーである)教員の投票だけで学長を選ぶという伝統的なやり方がずっと続いている。国立大学の状況がここまで変わっていることに今さらながら強い衝撃を受けた。

トップの人材を構成員の投票で選ぶという方法は非常識に見えるかもしれない。しかし、大学というのは、教育と研究を軸に時間をかけて新しい文化を熟成していく場であり、独裁的なリーダーが一つの方向に引っ張って行くような運営とは相容れない組織だと私は考える。改革することこそが良きことだとでも言うべき近年の風潮は、じっくりと時間をかけて行なう基礎研究にとって致命的なだけでなく、学問が生きて育っていく場で人生の貴重な時期を過ごす学生に対しても失礼きわまりないと信じている。

一流の研究者たちの交流を生んだ「数理研的な『融通無碍の人事』」(p 211)の伝統を守っていくためにも、基礎研究が、そして、大学が人類の文化にとってどのような意義をもつのかを誠実に根気強く伝えていかなくてはならない。

数理研は、ぼくが若い頃から憧れている研究所で、ぼくは京大の基研や数理研のあたりは「聖地」(←別にアニメ的な文脈で使っているのではないぞ)だと勝手に思っているのだ。 だから、数理研を中心にした内村さんの本は楽しく読んだ。 ただ、物理に近いところになると自分でも色々と知っていたりするので、むしろ純粋数学に関わるところを素直に楽しんだというところかな。
しかし、驚くべきは京大の総長のこと。

一応、状況を簡単に整理しておこう。 国立大が独立行政法人化された後、総長を直接選挙で選ぶ方法は廃止された。 一応、投票が行なわれるが、それは「意向投票」であり、その結果を参照して(少人数からなる)選考会議が総長を選んでいた(そして、大学によっては、意向投票の結果とは関係なく学長が決まったこともあるらしい)

今回、京大の総長は、この意向投票も廃止して、総長は総長選考会議だけで選ぶという方針を打ち出しているという。さらに、総長の任期も延長しようとしており、誤解を恐れずに言えば「独裁への道」を進もうとしているようにみえる。

ぼく自身は、上にも書いたように、教員の直接選挙で学長を選ぶという習慣がずっと続いている学習院大学のことしか知らなかったので、京大がそんな状況になっていると知って、本当にびっくりしたのだった。確かに、国立大の状況については、何人かの友人からときおり聞かされていたのだが、しっかりと認識していなかったのだなあ。お恥ずかしい話である。


それと同時に、この件について真面目に考えてみて気づいたのは、
「大学のトップは構成員の選挙で選ぶのが理想だ」ということを、一般の人に(あるいは、ヘタをすれば一部の大学人にも)説得力をもって伝えるのは大変に難しい
ということだ。 社員の投票で社長や会長を選ぶような企業はあり得ないし、校長先生を教員の投票で決めるような高校や中学は(たぶん)ないだろう。 大学というのは、かなり異なったあり方の場所であるべきだとぼくは確信しているのだが、それはもちろんまったく当たり前のことではない。

というわけで、大学というところは、どういう意味で特殊かというようなことを、誠実に時間をかけてじっくりと伝えていかなくてはならないと痛感しており、上の『みすず』の記事もそういう試みの一つのつもりで書いたのだった(実は、1 日の日記も同様の趣旨のものと言えるんだけど)。

といっても、もちろん、これだけではダメで、もっとじっくりと(現在の大学の欠点も含めて)論じていかなくてはならないと思う。 今は、時間も余裕もないので、ともかくこれくらいで「頭出し」としておこう。


最後に、Follow Hal_Tasaki on TwitterTwitterFollow Hal_Tasaki on Twitter(去年の年末に方針を変えて、けっこう書いてます。よかったら覗いてフォローしてみてください)には書いたけれど、二つほど、大事なリンクを。

京大の教職員組合のページ「 (続)民主的な総長選挙の存続を求める緊急アピール」からは、15 日が締め切りの署名のページに飛べる。 学外者の参加も歓迎とのことで、ぼくも、ともかく署名しました。

また、京大教授である(ぼくの友人であり、共同研究者でもある)佐々さんは、総長選考のあり方に関する意見 を公開している。 佐々さんの意見は明快だし、(半ば自然なことだろうが)ぼく自身の考えともかなり近い。 この件に興味を持った人は是非ともご一読いただきたい。

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言うまでもないことかもしれませんが、私の書いたページの内容に興味を持って下さった方がご自分のページから私のページのいずれかへリンクして下さる際には、特に私にお断りいただく必要はありません。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

hal.tasaki@gakushuin.ac.jp