数学者として順風満帆のキャリアを歩んできたと思っていた石井志保子さんは、意外にも定職を得るまでにかなり苦労されていた。そして、「女性が男性の先生と共著論文を出したら、『あれは先生が書いた』というような話が、たとえ事実でなくても出てくる」ことをご存知で、若い頃は決して共著論文を書かなかったという。
物理化学者の西川惠子さんは学習院大学で元気に研究されている様子を拝見しており転出後も受賞報道などでご活躍を知っていた。しかし、彼女のキャリアもスムーズではなかった。オファーを受けて国立大大学院の教授に着任するも最初は小さな実験室を一つ与えられるだけで教授室もなく学部教育もさせてもらえない。当時、女性が大学に職を得る場合は新規のポジションを使うしかなかったという。
女性研究者が困難なキャリアを強いられてきたことは知っているつもりだったが、お二人を始めそれぞれの分野で活躍している研究者のいくつかのエピソードにはショックを受け、自分の不明を恥じた。ぼくのような人には読んでほしい。
ぼくは小説好きと言いつつ読書傾向は偏っており谷崎は一冊も読んだことがなかった。欧州から戻ったところで不眠気味になり、何か軽いものを読もうということで、就寝前には蒔岡家の美しい四姉妹の大阪弁に浸りながら一ヶ月を過ごした。初めは電子版を読んでいたのだが、実家に寄った際に母が買い揃えた選集をみつけ途中からそちらに切り替えた。やはりこういうものは紙の本がよいです。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
復元された手塚治虫ら漫画家の部屋、アトムの初代アニメなど、どの展示も楽しかったが、ガラスケースに並んだカッパコミックス版の『鉄腕アトム』全34巻が目に入ったとき時間が止まった。幼稚園から小学校にかけて定期購読し、それ以来くり返しボロボロになっても読んだシリーズだ。迷わず電子書籍で[1]を購入し、一日一巻ずつを読みながら(仕事以外には)アトムのことしか考えない日々を過ごした。
幼少のぼくがアトムから学んだのは、十分に進んだ知性は(様々な苦難を経たとしても)最終的には互いを尊重し合う道を選ぶという、理性への力強い信頼だった。アトムはその信念を誰よりも強く持つ故に時には孤独だった。誰も来ない高いビルの屋上の端にちょこんと座って車が行き交う夜の街を見下ろしながらひとり悩むようなアトムが好きだった。夢の中でぼくがアトムだったこともあった。空を飛ぶでも悪人をなぎ倒すでもなく、「ぼくはどうして人間ではなくロボットに生まれたんだろう?」と一生懸命に考えていた。
雑誌『みすず』が 2023 年中に休刊すると聞き、慌てて「文学好きの数理物理学者として、いつかは」と編集者のIさんと話していた[2]をとり上げることを画策したのだが、ぼくには未だ無謀と判断し断念。『読書アンケート』自体は末長く続くことを祈るばかり。
今年はアンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『火星の人』も愉しく読んだが、文学は形而上学に踏み込み得るからこそ愉しいという(おそらくは[2]から明示的に学んだ)嗜好からむしろ[3]所収の短編『ルナティック・オン・ザ・ヒル』をあげたい。設定も構成も巧みで、何より風景が美しい。世界観を心地よく揺さぶる仕掛けは2021年の『読書アンケート』で取り上げたアーロンソンの著作のとある論考とも共鳴する。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
広義の同業者による一般向けの書籍を四冊。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
(1) 著者は量子計算の理論研究を牽引する若手研究者。不勉強のまま量子計算機は実現できないと思っていた私を折伏してくれた友人でもある。今の私は量子計算機が人類に新たな風景を見せてくれる日を心待ちにしている。
過剰宣伝の多い分野だが本書の解説は堅実だ。重ね合わせやエンタングルメントなどの概念を噛み砕いて説明する著者の努力も身にしみる。これでわかるとは言いきれないがバランスの取れた展望を得るための好適の書である。
(2) 量子計算や計算複雑性の分野で有名な著者による深い示唆に富む異色の書。
『計算機科学』はむしろ『定量的認識論』と呼ばれるべきだろう。それは我々のような有限の存在が数学的真実を学びうる能力を研究する分野だ。(p.200)という思想のもと、計算理論、量子論、宇宙論から自由意志の問題までを縦横無尽に語る。一般書を謳っているが内容は高度で容赦なく数式を使い証明にまで踏み込んでいく。読み込むには広い分野の専門知識が必須だ(私にも歯が立たない)。
一方で、マニアックなネタや冗談に溢れた本でもあり、くだらないネタは真にくだらない!
PP (Probabilistic Polynomial-Time):うん。命名者のギルさえこれが酷い名前だと認めていたみたいだ。だが、これは真面目な本なので男子中学生的ネタは一切許されないのである。(p.78)といった具合である(PP はペニスの隠語)。
(3) 5 月に出版された拙著。校正のため(ダレルを除けば)最も時間を使って読んだ本だ。逃げも隠れもしない専門書だが漫画家おかざき真里による表紙画を含めた四点の素晴らしいイラストを(検索して)是非ご覧いただきたい(web 版付記:本のサポートページをどうぞ)。私が彼女のために書いた「自発的対称性の破れを伴わない長距離秩序を示す量子多体系は必然的にシュレディンガーの猫となる」といった解説を「経典を読むように百回くらい読んで」独自のイメージで描き出された世界は私にも新鮮で刺激的だ。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
話題の (1a) を半ばまで読んだところで二年以上前の台湾での会話を思い出した。なるほど、これだったか。「文学的に完成度の高い現代の SF」などではない。人間描写も筋書きも豪胆で不満点も多い。物理についていえば、表題の三体問題の扱いは恣意的、(三部作を通じて重要な役割を果たす)量子エンタングルメントに至ってはデタラメだ。それでも、読み始めるとつい引き込まれてしまう。現実の枠に縛られず読者を驚かし楽しませるという娯楽小説の原点を感じる。『三体』は長大な三部作の一作目に過ぎないと知り、そのまま一気に英訳で (1b), (1c) を通読した。(1c) はこれまでに読んだ中でも最も痛快な娯楽長編 SF だったかもしれない。
弾みがついたのか若い友人に勧められて日本の若い SF 作家の (2) を読む。小説の巧みさに舌を巻く一方、共通のテンプレを前提にした最小限の情景描写、アニメ化された映像が脳内に即座に浮かぶ筆致、そして、プロットについて誤解の余地を与えない親切さなど、慣れ親しんだ小説とは少し違うスタイル(←ラノベ的というのか?)にも心地よい戸惑いを感じた。古い小説の読者には先ず『ゼロ年代の臨界点』を勧めたい。
期せずして SF の年になったが、真打ちは寡作で知られるチャンの十数年ぶりの短編集 (3) だろう。大部分の作品は既読だったが、それでも日本語版の出版を待てず英語版も購入し英日両方で読んだ。『商人と錬金術師の門』はチャンの小説技巧が光る古典的な佳作。表題作の『息吹』は SF ならではの冷徹な表現法で描かれた生命・知性への賛歌だ。チャンにしか書けない物語であり、21 世紀初頭を代表する SF 短編となるだろう。これら二作品を読むためだけにでも手に取る価値のある一冊だ。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
現代の科学者には(再現性や統計の基本は重要だが)本格的な科学哲学は必要ないだろう。ただ、あまりにその方面に不案内だと、実在論への類型的な反論、決定不全性、観察の理論負荷性など定番の論点(の初歩的なバージョン)に接しただけで一気に「科学の基盤が揺らいだ!」と思い込んでしまうことがある。優れた業績をあげた科学者が凡庸な議論に感服して(落とさなくてもいい)鱗を目から落としている様子は見ていて残念だ。本書に目を通せば、それらは「科学者が見逃してきた重大な盲点」などではなく、十九世紀以来くり返されてきた論点であり、長い歴史の中で(解決したとは言わないが)徹底的に議論された上で科学研究が進んできたということが納得できるはずだ。
ただし、科学哲学の一定の知識は仮定されており、クーンはもちろんポパーも本格的には登場しないので、科学哲学への入門書と思うべきではないだろう。
(2) 思い返してみると、字が読めるようになって以来、人生の時間のかなりの部分を小説の世界で過ごしてきた。特に小学生の頃には翻訳物ばかりを読み物語の世界にどっぷりと浸かることを好んだ。数年前にダレルと出会い、作家の創り出した精緻で甘美な世界に浸る喜びを再び味わっている。プルーストを読んだときには翻訳に頼るしかなかったが、今度は気に入った部分は原文でも読めるのも嬉しい。読書に使える時間もどんどん減っており、全五巻の翻訳と大部なペーパーバックの原書を行ったり来たりしながら、もう何年かはダレルの世界を楽しめそうだ。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
横浜駅は「完成しない」のではなく「絶え間ない生成と分解を続ける定常状態こそが横浜駅の完成形であり、つまり横浜駅はひとつの生命体である」と何度言ったら
ツイッターは3億人以上が利用するインターネットのサービスだ。日々数億のツイート(百四十字以内のテクスト)が投稿される文字情報の混沌である。
ツイッターで「イスカリオテの湯葉」と名乗る生物学者と知り合った。軽い会話を交わす仲だが本名は知らない。冒頭は一昨年の正月の午後の彼のツイート。そして、十分後のツイートが続く。
西暦 30XX 年。度重なる工事の末にとうとう自己複製の能力を獲得した横浜駅はやがて本州を覆い尽くしていた。三浦半島でレジスタンス活動を続ける主人公は、謎の老人から託されたディスクを手に西へ向かう。「横浜駅 16777216 番出口(長野〜岐阜県境付近)へ行け、そこに全ての答えがある」
「『横浜駅SF』が始まった。ぜひ最後まで!」という(ぼくを含む)周囲の声援の中、その日のうちに一連のツイートからなるアドリブの作品が完成。ネット上で爆発的な話題を呼んだ。それから二年弱の後、web小説を経て本格的なSF小説が単行本 (1) として刊行された。
大胆なネタを精緻なディテールで補強し商業的にも成功しうる作品を構成した力量は圧巻。凄まじい才能だ。成立経緯を見ていると後になって書かれた部分ほど彼独自のテーマが顔を出すように感じる。この人は三年後くらいまでにものすごい物を書くと予言しておこう。
(2) はやはりツイッター仲間である社会学者の岸政彦による短編小説。昨年のアンケートで彼の『断片的なものの社会学』を取り上げ「小説のなかの本筋とは関係ないが書き込まれていて心に残る挿話だけを読むような快感」と評したが、こんなにも早く彼の小説が読めるとは。大阪の街で暮らす人々の「断片」を絶妙に編み込んだ不思議で寂しい心に残る小説だ。
この岸さんのデビュー作は高く評価され芥川賞候補にもなっている(とツイッターで知った!)が、数多くの物語の断片を蓄えている岸さんの小説世界はこれからもっと広がり深まっていくはずだ。三年後くらいまでには芥川賞受賞作を生み出すと予言しておこう。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
その頃よく見ていた掲示板の一つに面白い奴がいた。社会学の大学院生。短い(多くの場合くだらない)投稿が強い印象を与える。興味をもって彼の個人ページの文章を読んだ。内容はほとんど覚えていないが圧倒的な筆力から受けた驚きは忘れない。こんなすごい文章を書く奴がいるんだ。でも、これを読むのは一部の掲示板の常連だけだろう。天才的な文才の無駄使い・・
(1) は社会学者の岸政彦が聞き取りの現場で出会った断片的な物語を綴った書、「面白い奴」の近著だ。空き時間を紡ぐようにして一気に読んだ。「すぐ目の前に来たときに気付いたのだが、その老人は全裸だった。手に小さな風呂桶を持っていた。」うん。確かに彼の文章だ。小説のなかの本筋とは関係ないが書き込まれていて心に残る挿話だけを読むような快感。「解釈はしない」と宣言しながらも時には普遍化に流れる岸さんを見るのも一興だ。そしてなにより本書が話題の書となり彼の文章が広く読まれていることが素直にうれしい。
(2) は人気漫画家おかざき真里の連載中の作品。最澄と空海の物語である。未完の作品について語るのはフライングだろうが、漫画でこそ可能な表現で重厚な物語が綴られていく様は圧巻。絵も漫画というレベルを超えて美しく力強い。漫画から離れた大人にも自信を持って薦められる作品だ。
2016 年の今、ぼくにとって多くの人とネットで交流する場はツイッターに移っている。ツイッターでのぼくのアイコンは、なんと縁あって真里さんが描いてくれたぼくの似顔絵だ。巨大で流動的な人々の結びつきの中に 140 字以内の短い投稿が次々と放流されていく環境には未だ馴染みきれないが、この混沌からどんな文化や出会いが生まれるか楽しみでもある。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
ぼく自身も成長して「ぬるい SF ファン」になり後に書かれた長編版の『アルジャーノンに花束を』を読んだが、これには失望した。幼い頃に聴いた物語を無理に脚色して引き延ばした本のように感じたのだ。「ちがう話だわ。」母も同じ感想だった。
昨年6月にキイスの訃報に接し「ほんとうのアルジャーノン」をまた読みたいと母と意見が一致して、四十五年前に発行された短篇集 (1) を購入した。やはり短篇版は裏切らない。余分な叙述は一切なくむしろ必要最小限未満の要素で物語が十二分につくられる。知り尽くした話なのだが、様々な考えを巡らせ、不覚にも目に涙を浮かべながら読んだ。
昨年は、たまたま (1) に加えて(2), (3) を読み、SF 短編の歴史を手軽にたどることになった。以前に読んだ懐かしい物語との再会もあったし、現代的と思っていたテーマが既に立派な小説に仕上げられていた事を知って驚きもした。少し欲を言えば、(2), (3) については錚々たる作家の顔ぶれと比べて収録作品の輝きがやや劣ると感じた。何人かの作家はもっとすごいものを書いていると思うのだが(あと、短編版の『アルジャーノン』も入れてほしかった)。とはいえ、(2), (3) それぞれの巻末を飾るテッド・チャンと円城塔の短編は強い思考と世界観に貫かれた名作だ。読んで愉しいという以上にこれら非凡な作家と同時代に生きる喜びを感じさせてくれる。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
科学ジャーナリストの内村が数理研の過去と今を巧みな筆致で綴った本書を年末に読んだ。研究所創設の背景と経緯を第0章にまとめ、主要な六つの章で、具体的なテーマについて研究の大きな流れとそれに関わった研究者の姿を生き生きと描きだしている。私はそれぞれ代数幾何と整数論を扱った2章と3章を特に興味深く読んだ。本書のテーマは多彩なので、読者の背景に応じて多様な楽しみ方ができると思う。
だが、理想的な環境で一流の研究を達成した数学者の姿に憧れてばかりもいられない。折しも、京都大学では総長選での教職員による意向投票の廃止を検討していると報じられている。私が勤務する学習院大学では、(教授会メンバーである)教員の投票だけで学長を選ぶという伝統的なやり方がずっと続いている。国立大学の状況がここまで変わっていることに今さらながら強い衝撃を受けた。
トップの人材を構成員の投票で選ぶという方法は非常識に見えるかもしれない。しかし、大学というのは、教育と研究を軸に時間をかけて新しい文化を熟成していく場であり、独裁的なリーダーが一つの方向に引っ張って行くような運営とは相容れない組織だと私は考える。改革することこそが良きことだとでも言うべき近年の風潮は、じっくりと時間をかけて行なう基礎研究にとって致命的なだけでなく、学問が生きて育っていく場で人生の貴重な時期を過ごす学生に対しても失礼きわまりないと信じている。
一流の研究者たちの交流を生んだ「数理研的な『融通無碍の人事』」(p 211)の伝統を守っていくためにも、基礎研究が、そして、大学が人類の文化にとってどのような意義をもつのかを誠実に根気強く伝えていかなくてはならない。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
原子力と社会の関わりをめぐる朝永のエッセイ、朝永が参加した日本の原子力開発についての座談会の記録を集めた本である。高エネルギー物理学者として人類史に残る業績を挙げる一方で原子爆弾の悲劇を目撃し、また、戦後の日本で原子力の利用が進められていく現場に科学者側の代表的存在として立ち会った朝永が何を考え、悩んでいたかの一端を見ることができる。江沢による巻末の解説は日本の原子力利用の歴史を明解にまとめた力作。本文とあわせて必読である。
一九五〇年代、朝永らの科学者は、日本の原子力技術は基礎研究と連携させながら独自に開発すべきだと主張していた。しかし、事態は政治家の主導で進められ、日本は完成した原子炉を外国から輸入することになる。原子力基本法に謳われる「民主・自主・公開」の三原則は、朝永らが死守しようとした最低限の理念を反映させたものだった。
大先輩である朝永らの強い思いをこめた原子力基本法が改訂されても、私の知る限り、今日の日本物理学会の中枢が意見表明や抗議を行なう様子はない。科学者が柔弱な優等生ばかりになったのか、あるいは、大型競争的資金の獲得に長けた体制順応型の学者ばかりが学界で力を持つことの反映か。朝永を英雄視するつもりはないが、学界のトップの変質ぶりは私の想像を超えていた。
(2) 福島第一原子力発電所由来の放射性物質が「身近な」存在になってしまった今日の日本で必要とされる「新しい常識」をできる限り客観的かつ明快にまとめた本が必要だとずっと感じていた。だが、誰も書かないようなので、自分で書いたのが本書である。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
翻訳に関わった (2) を文庫化にあたって再読。偶然だが (1) ともゆるやかにつながる。ポストモダン哲学の高名な文献における科学・数学に関する言説の一部が馬鹿噺に過ぎないことを具体的に指摘する痛快な批判の書。日本でも話題を呼んだが、私見では賛否とも往々にして深さを欠き文化への真の貢献には至らなかった。むしろ若い世代が「予防接種」的に読む事で文化の背景を整える役に立つことを望む。
(2) を翻訳したのはこれが科学と社会の関わりについての問題だと考えたからだった。原発の安全性や放射線被曝の健康影響が重要な課題となった今の日本では、科学と社会の関わりは圧倒的な切実さを持つようになった。私も放射線についての多くの文献を読みささやかな情報発信(webで「放射線と原子力発電所事故」で検索)を続けている。(3) は放射能に汚染された地域で人々が暮らし続ける状況への対応をまとめたICRP(国際放射線防護委員会)の文書。ICRPには批判もあるが、ここには過去の不幸な事故からの教訓を活かした「人間より」の視点と静かな迫力がある。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
代替医療の推進者の多くが「現代の医学は非人間的だ」と唱える。これほどに浅薄きわまりない言説が堂々とまかり通る現実が悲しい。人間についての膨大な経験の蓄積から普遍性の高い事実を抽出し、それをもとに個々の患者を手厚く治療し、失われていたであろう数多くの命を救っていく --- この壮大な営みほどに「人間的な」ものが他にあるというのだろうか?
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
シリーズ第三作の本書は、論理パズルからはじまり、数の公理、無限集合論、極限概念などに触れつつ、「ある条件を満たす形式的体系は不完全である」というゲーデルの不完全性定理に及ぶ。気まぐれに見える題材が数学基礎論をめぐる「知の風景」を巧みに描き出している。不完全性定理は解説者にとっての鬼門で、根本的な誤りのある解説書が少なくないが、専門家の査読も受けた本書にはそういう誤りはないようだ。さすがに本書で定理の証明を理解するのは無理だろうが、ミルカさんの講義で原論文の証明の流れを味わうことができる。さらに、彼女は定理のもつ建設的側面も強調し、「ゲーデルは理性に限界があることを証明した」といったセンセーショナルで浅薄な(しかし蔓延している)誤解にもしっかりと釘を刺してくれる。
人間を人間たらしめているのは文化である。文化とは、煎じ詰めれば、個人の能力を本質的に超えた経験と思索を可能にしてくれる巨大な記憶・意思疎通システムだろう。不完全性定理は、多くの最高の頭脳たちが論理と数学そのものを数学的対象とみて研究してきた結果として得られた真に驚くべき知見だ。難解ではあるが、きわめて「文化的」かつ「人間的」な知的財産なのである。それをテーマにした青春小説が成功し多くの読者に歓迎されていることはちょっとした「文化的事件」と言ってもよい。
小説としての筋の運びは淡々としているが、構成と筆致は巧みで、人生のこの一時期の微妙に不安定で甘酸っぱい空気をきれいに描いている。個人的には、ミルカさんの見せる(大部分の)「ツン」と(微小だがゼロではない)「デレ」の対比に「萌え」た。
田崎晴明(たざきはるあき)
数理物理学
(1) は最新の長編。二つの物語が並行しながら巧みに交錯していく手法も成功している。一方は、コンピューターのなかの情報として仮想現実を(好きなだけ長く!)生き、光速で銀河の情報ネットワークを旅するわれわれの遠い子孫による銀河の核の探索の物語。もう一方は、科学技術を持たず岩の塊の内部にアリの巣のように張り巡らされた洞窟に暮らす異形の生物たちの物語。異常事態のなか、彼らは、新たな物理法則を発見し、外の宇宙の存在に気付き、彼らの世界に迫る危機を理解しそれに立ち向かっていく。生命と理性への力強い讃歌であり、きわめて良質の科学の(架空)発見物語でもある(ニュートン力学も電磁気学もないところから一般相対性理論に到達してしまう! 物理を知らなくても面白いだろうが、知っていると二倍楽しい)。私見ではイーガン最高の長編だ。
(2) 所収の"Oceanic"は98年発表のイーガンの代表的な中編。仮想現実で不死を手にしたのち、再び肉体に戻り、彼方の惑星に暮らすようになって二万年を経た、われわれの遠い子孫たちの文化、宗教、性、人生を描く。一見すると即物的なようだが、人の生きる意味、人が大いなる存在に抱く憧憬などについて深く考えさせられる。ゼロからつくり出した世界を舞台に先入観や常識を排除して「人間」の本質を描くという意味での真の文学に迫りつつある。山岸真氏による邦訳(「祈りの海」早川文庫)もおすすめできる。
田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学
「バベルの図書館(1 所収)」、「砂の本」は、組み合わせの枚挙、無限性といった数理的概念を軸にした短編。数理科学者の心をくすぐる。実際、ミクロや量子の世界に浸り、その世界のありようについて、数理的概念にもとづいてあらゆる空想・妄想を展開することは、われわれの仕事の重要なステップだ。そこには、形而上学的な着想をもとに世界のあり方そのものを描く(ように、ぼくには見える)ボルヘスらの文学作品と何らかの共通性があるかも知れない。
もちろん、数理的概念や着想そのものに文学的価値はない。半現実、非現実、超現実の舞台にそれらの概念を絶妙に実装し、人間をそれらに対峙させ、「世界像の新たな次元に迫る試み」にまで踏み込むからこそ、これらの作品は文学としての深い意義をもつのだろう。同様に、単なる数理的妄想だけでは科学にはならない。堅固な数理的厳密性と客観的実証性を与えられ、既存の物理学の体系に関連づけられてはじめて、数理物理学の研究は意味をもつのだ。人類の文化の両極端とも言える両者のあいだに相似を見るのは愉快だ。
プリンストン大学でのポスドク時代の同僚だったスペインの数理物理学者・アルテミオも、ボルヘスの愛読者だった。アルテミオによれば、ボルヘスは最高級のスペイン語の書き手だという。彼の作品では全ての単語が絶妙に選ばれ完璧に正しい位置に置かれているのだとアルテミオが熱く語るのを、いささかの嫉妬を感じながら聞いていた事を思い出す。
田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学
ボルツマンは、統計物理学という分野の生みの親の一人。統計物理とは、目に見えないミクロな世界と目に見えるマクロな世界を論理的に結びつけるための理論的手法である。マクロな生命がミクロな構造をもった世界を理解するためには必須の知的営為と言える。
十九世紀後半、ボルツマンは、統計物理の方法を開拓しつつ、原子にもとづく新しい科学を推し進めた。その結果、原子の実在を否定するマッハらとの熾烈な論争に巻き込まれていく。1)は一般向けの伝記であり、天才科学者として華麗なスタートをきったボルツマンが、次第に精神的な不安定の兆候を示し、晩年には哲学的な論争の中で消耗していく様子を描き出す。科学的な内容について掘り下げが甘いのはともかく、論敵マッハが戯画的に描かれているのは不満。
ボルツマンの論文は長大で晦渋であり、統計物理学の本質についての彼の思想は驚くほど誤解されてきた。2)は本格的な数理物理の教科書だが、ボルツマンの論文のいくつかを詳細に分析し、彼が熱平衡状態の記述について大胆な構想を持っていたことを伝える。彼の名を冠して語られる教科書的統計物理は、彼の思想のごく一部を切り出した矮小化だった! 百年以上の後、統計物理学の基礎付けと拡張の問題に挑戦する我々にとっても、彼の忘れられていた洞察は深い示唆を与える。
「私はよく、非常に愉快かと思うと、わけもなくひどい憂鬱に沈んでしまうが、このような気分の移り易さは、私が謝肉祭の大騒ぎの夜に生まれたことに、原因があるのかも知れない」と本人が冗談まじりに語ったように、ボルツマンは躁鬱の傾向を持っていた。ちょうど百年前の1906年の夏、ボルツマンは、精神の不調から回復するため滞在していた避暑地ドゥイノで、自ら命を絶って世を去る。まさに、量子論が開花しミクロな世界の物理学が爆発的に進歩する前夜であった。
田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学
この講義のため、原論文の他に本書を参照した。晩年のアインシュタインと親交があった Pais による大部の伝記である。アインシュタインの人生を歴史的・文化的背景と共に生き生きと描き出すだけでなく、科学者としての彼が何に直面し何を考えたか明解に伝えてくれる。そのため、専門概念や数式を遠慮なく駆使し、物理学史と彼の研究の流れを詳述する。我々物理学者にとっては理想の記述だ。専門知識のない読者は伝記部分だけを拾い読みできるよう配慮されているとはいえ、このような本をペーパーバックで供給できる文化の底力はうらやましい。
1905 年に光の量子論に到達したアインシュタインの論法はまさしく奇跡。読み直し考え直すたびに思わず身震いする。混沌とした実験事実と理論の中から真に重要なものを見抜き、進むべき道を見いだす「目」をもっていたのだ。誰よりも早く量子論の本質に到達した彼は、後年は量子論のもっとも深い批判者としてその成熟に貢献する。彼が量子論については常に孤立の道を歩んだことは興味深い。
タイトルは、彼自身の言葉「Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist er nicht.(神はとらえがたし、されど悪意はもたず)」から。真理は容易には見いだせないが、それらは悪意によって隠蔽されているわけではない、という強い意志に裏打ちされた楽観論だ。日々の研究で「とらえがたさ」ばかりを痛感している物理学徒にとっては、最高の励ましの言葉でもある。
田崎晴明(たざきはるあき)
理論物理学