日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

一覧へ
最新の雑感へ
タイトル付きのリスト
リンクのはり方

前の月へ  / 次の月へ

茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


10/1/2003(水)

夕暮れの涼しい風に秋のにおいを色濃く感じるとはいえ、椎名林檎の武道館公演の興奮さめやらぬ今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

随分と logW からもごぶさたしておりましたが、今日は、ちょっと、物理とは関係のない話。 ま、いかにも凡庸な話題ですが。


ぼくらの暮らしている社会には、
初期に手抜きないしは考え不足で完璧にまちがった馬鹿なシステムが作られたのに、それが歴史の中でなし崩し的に定着してしまって正当とみなされ、まちがっていると認識されなくなってしまっているもの
が、かなりの比率であると思います。

英語でいうところの、DQN(Dumbly Qualified Negligence =「愚かにも(正しいものと)認定されてしまった怠慢、あるいは失敗」といった意味でしょうか?)というのが、かなり近い概念かも知れない。


ぼくが、そういった「お馬鹿なシステム」の例として、いつも真っ先にあげるのは、
電車のプラットホーム
です。

考えてみてほしいけれど、現代の人間の都市で、完璧に平らなコンクリートの床が突然にとぎれて1メートル以上の段差になっているなんていう危険きわまりな状況が、プラットホーム以外にあるだろうか?  これは、ただ、それだけでも十分に怖い。 普通に元気な人でも、ちょっと気を抜けば落っこちてケガをしかねない。 まして、お年寄りや、病人や、そして何よりも、目の不自由な方たちにとっては、いつ転落するかわからない恐怖の場所だと思う。

その、ただでさえ怖い場所の横を、巨大な鉄の塊であるところの電車が(猛烈な運動量をもって)ごおおおっと通っていくわけだ。 止まる電車だって十分に怖いし、通過列車なんて、すごい。 ホームから落ちてはねられれば確実に死ぬし、ホームの上にいたって、よろめいて接触したら大けがするし死ぬかも知れない。

しかも、ラッシュ時にもなれば、そんな恐怖の場所に人がぎゅうぎゅうと集まって押し合いへし合いをする。 下手して転べば、いっぱい死ぬ。 無差別殺人がしたい奴にとっても格好の状況。 実際にどの程度の人が亡くなっているかということではなく、空間の設計そのものとして、きわめて恐ろしいと言わざるを得ない。

こういわれると、

そんなことはわかってるけど、でも、ホームとか電車っていうのは、もともとそういうものなんだから、それを知ってて利用するんだから
と、ついつい思ってしまう。 でも、それは、ぼくらが「お馬鹿な標準化(DQ = Dumb Qualification)」に馴らされてしまった結果ではないのかな?
ちょっと落ち着いて考えれば誰にでもわかることだけれど、プラットホームを安全にするのに、ハイテクはいらない。 単に、ホームの端に柵をつければよいのだ。 普段は柵があってホームの端には行くことができず、電車が入線して止まったときだけ、柵の一部の扉があいて人々が出入りできるようにする。

実際、最近では、新幹線や一部の地下鉄のホームには既に柵がある。 それが正解でしょう。

あれが、新幹線とか、特に差別化をねらう路線とかだけで見られる特別なものであるというのが、まったく、おかしい。 普通であるべきです。

要するに、 すべての電車のホームには、柵を作っておくべきだったのですよ。最初の最初から。 それを、最初に電車をつくった人たちが、ついつい金をけちって、安上がりでいい加減で危険きわまりないホームを作ってしまった。 歴史を調べた訳じゃないですが、最初は電車なんて特殊なものなので、(ケチをつけた人もいたのかもしれないけど)あまり文句もでなかったのでしょう。 そして、なし崩し的にそれが標準になってしまった、というのが、いかにもありそうなことです。

そう考えてみると、恥ずかしい。 人類の恥だと思いませんか?

とか、偉そうに書いていると、電車に詳しい方は、

そうは言うけれど、電車のドアの間隔というのは一定ではなく、そうなると柵につける扉の位置が難しくなって・・・
とかおっしゃるかもしれない。(あるいは、さらに他の問題点を挙げられるかもしれな。) けれど、それは、要するに、いい加減なシステムで出発してそれが定着しまったから、そういう困難が生じたという話にすぎません。 最初からホームに柵と扉があるという規格で進んでいれば、それにあわせて電車の設計もするわけでしょう?  だいたい、電車のドアに柔軟に対応する扉くらいなら、ハイテクと言わずとも、職人芸的な工夫をすれば、いろいろと作ることができますよ。

ちょっと落ち着いて、現代の駅の規模、改札や駅の建物の立派さを考えてみると、プラットホームだけが吹きさらしの半屋外だというのも、妙にバランスの悪い話です。 プラットホームというものは、屋根も壁もある「屋内」として設計するのが正解だったのではないでしょうか?  駅の建物の一部の特別な「部屋」がプラットホームで、その両側(ないしは片側)の「壁」に特別の扉がついている。 電車が入線すると、ちょっとした仕掛けがあって、電車のドアと「壁」の扉が連動して開く。 このとき、うまく細工して、電車と壁の隙間を覆うようにしてやれば、この継ぎ目から雨が吹き込むこともない。 そうすると、電車の中というのも、自然に「屋内」という感覚になって、心地よいではないですか。


などと、偉そうに書くと、またまた、
いやあ、それがいいことくらい百も承知ですが、日本中の駅のホームを改造することを考えると、必要な出費は・・
とか言われそうですが、(さしあたっては)そういう話をしているのではありません。

巨大システムを今から改良するのは大変な手間で猛烈な予算を必要とするでしょう。 一方、少なくとも電車の駅については、初期のうちから正しいデザインで進んでいれば、それほどの余分の出費もなく、よりまともなシステムができあがったのではないか --- と言いたいわけです。 だって、屋根や壁や扉を作るわけだから。普通に、大工さんにやってもらえばよかったわけですよ。 お金のない駅は、とりあえず、柵と屋根だけ(あるいは、柵だけ(でも、柵なしのホームだけは、絶対に作らせない!))かもしれないけれど、そのうち、お金ができたら大工さんを呼んできて壁をつくってもらえばいいのです。

国中に長い鉄道網を敷くという莫大なお金のかかる事業の中で、ちょっと余分な柵やら壁やらを作る費用というのは、決して大きなものではないと思うのですが、いかが?  (たとえば、「自動車の排気ガスと騒音対策のため、大きな道路はすべて天井と壁で覆い、空気は強制換気してフィルターで濾過してから外に出すべきだ」みたいな、きわめて実現困難なプランを提案しているわけではないのです。)


と、そのように、現在の電車の駅の設計が「初期の失敗が定着したもの」であると、はっきりと宣言したいわけです。 常識や先入観を取っ払って考えれば、これは、明らかに間違いだった、典型的な DQN だった、と。 もっと賢いやり方があり得たと。

で、そのような認識を共有した上で --- すぐに理想の形にもっていくにはお金と時間がかかるにせよ --- 少しずつでもいいから、現状を理想に近づける努力をすべきだと言いたいわけです。

ま、簡単にいえば、要するに、

柵つくれ!
ということです。
ぼくは、こういう感じのことを昔から言っていて、もちろん、当然のことだから、他にもみんなそう考えているに違いないと思っていました。 (実際、そうなのだと信じていますが。)

なので、これも随分前のことだけど、初めて柵のついた新幹線のホームを見たとき、「あ、ようやく、これでちゃんとしたホームになるんだ」と思ったし、それから何年もして、ようやく地下鉄で柵のついたホームを発見したときには、「前は甘かったけれど、ようやく、これでまともなホームが作られるようになるんだ」と安心したものです。

でも、それから、何年もたつのだけど、柵付きのホームはちっとも普通の存在にならない。

何をもたもたやってるんだ。

さっさと、柵つくれ!

しばらく前に、小学生の女の子がプラットホームから落ちて電車にひかれて亡くなってしまう、という悲しい事件がありました。

それで、ホームから落ちる危険性が話題になっているのだけど、そこで対策として

ホーム下にミリ波を使ったセンサーを設置して、人が落ちたことをいち早く検知する!!
ことが検討されているそうですね。

 ほお。


  落ちたら、



   ミリ波で、




       検知。






まず柵つくれ、あほが!

と、まあ、けっこうありがちな愚痴を書き連ねてきましたが、こういうことは、色々なところで色々な人が声に出して言った方がいいかも知れないなあと、めずらしく、素直に思ったからです。

(私の側の)アホな考え違いや、考えの浅さなど、ご指摘いただければ、幸いです。

また、ぼくらの社会をちょっとずつでも良くしていくためにも、ぼくらの回りの様々なところに潜んでいる「初期の怠慢が正当化されてしまっているもの = DQN」の存在を明らかにしていくのも大切なことだと思います。

そこで、この logW では、しばらくの間、新企画

おまえら、身の回りの DQN を探してみませんか?
を続けていくことにしようと思います。
10/5/2003(日)

ぼくは、「好きな映画は何か?」と聞かれれば(←普通、聞かれないけど)

「あんまり見ないんですが、ぼくはミーハーなんで、『博士の異常な愛情』(←ここで『時計仕掛けのオレンジ』でないところが肝要)とか『去年マリエンバートで』とか好きかも。ええと、『時をかける少女』は数回見たかなあ・・」
と答えるような人なので、だいぶ前に「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」を家族といっしょに見に行ったというのは、ここだけの秘密です。 あれだけ、お金がかかっていて、テンポも割とよくて、かっこよくて、面白くて、それでいて、ストーリーには突っ込みどころが満載というのも、一つのスタイルなのでしょうねえ --- などという話をしたいのではありません。

これを見に行く前に「同 THE MOVIE 1」を予習とし称して貸しビデオ屋で借りてきてみんなで見たことも、やっぱりないしょです。 こっちの出来についてはコメントしたくないですが、一つ言わせてもらえば、小泉今日子をあんな不気味な(かつ、ストーリー(if any)的にも無意味な)役で出すというのは、ぼくらの世代への挑戦でしょうかね。 ぼくは、小泉今日子がはじめて「夜のヒットスタジオ」に出演した時にばっちりと見ていたという人で ---- などという話がしたいわけでもありません。

何年かの時を経てつくられたこれら二つの映画をみて、一つ気がつく相違がありました。 それは、交通課のかわいい婦警さんがけっこう大人っぽくなったこと 電話の逆探知が圧倒的に速く正確になっている、ということです。

実際、「踊る」なんかよりもっと昔の刑事物のドラマには、犯人からかかってきた電話を家族が一生懸命引き延ばしている横で、刑事さんが二、三人がかりで耳にヘッドホーンか何かをあてながら変な機械をいじくって必死で逆探知しているシーンがでてきたものです。 で、電話が切れたあと「どうだ?」とか年配の刑事さんが渋く聞くと、「ダメです、横浜近辺からかけていることしかわかりません」とか答えるみたいなやつ。

これは、別にドラマの世界だけの話ではなくて、現実に、誘拐犯からの電話を引き延ばしながら、非常に面倒なプロセスで逆探知をするということが行われていたのだと思います。 そして、逆探知の効率はかなり悪く、そのために犯人の割り出しが滞ることも多かったはずです。

もちろん、死にものぐるいで逆探知をした刑事さんたちは立派だと思います。

しかし、彼らが死にものぐるいで闘っていた相手は、悪人でもなければ、大自然の力でもありません。 それは、電話網という、人間がつくって維持していた人工のシステムでした。 安上がりに作ろうとしたために、電話がどこからかかって来たかを特定できないような、欠陥のある設計のまま、巨大に発展してしまった「初期のまちがったデザインが正当化されてしまったシステム = DQN」だったのです。


というわけで、長い前置きでしたが、この前の「身の回りの DQN」シリーズの続きをやっているのでした、わたしは。
余談:ああいう風に、「新企画をつづけていきたい」とかいう結びを書いた場合は、次の回からは何事もなかったかのように無関係の話をつづけて読者の予想を裏切るというのが、ま、ありがちな展開でしょう。 というわけで、そのような「裏切るだろう」という予想を裏切って、あえて予告通りの話をするという趣向にでたわけです。どうよ。 (しかし、「「裏切るだろう」という予想を裏切る」事くらいは、ぼくを知っている人なら十分に予想していたことで、ここは、やはり「「「裏切るだろう」という予想を裏切るだろう」という予想を裏切る」くらいのことをすべきだったのかも、とかどうでもいいことを書いていると、ナカムラさん前野さんのニヤニヤする顔が目に浮かんで来そうですが、よく考えると、お二人ともお会いしたことがないので顔は浮かばず、ニヤニヤする空気だけが浮かぶことであるなあ。)
実際、「発信元を特定するために、特殊な機材を使って長時間にわたって必死で奮闘しなくてはならない電話網」こそは、電車のホームと並んで、典型的な DQN だと、ぼくはずっと思っていました。

なるべく安価に設計し、かつ、次々とシステムを増殖させていった結果、発信者がわからないアホな電話システムが生まれてしまった。 そして、そのために、多くの犯罪の解決が遅れ、人の命が失われた。

ここで、もっとも気に入らないのは、刑事物ドラマの扱いなどからもわかるように、

電話の逆探知が大変なのは、(人の力では)どうしようもないことだ
みたいな雰囲気がはっきりとあって、皆がそう思わされていたような気がすることです。 でも、そうじゃないでしょう。 これは、あくまで人が作ったもの。 大変なのは、(単純に言えば)作った人たちが悪いからです。 本当はもっとうまく作るべきだった。

たしかに、電話の初期に、誘拐犯からの身代金要求電話の発信元を知りたいという状況を想定するのは困難だったでしょう。 しかし、ある程度、問題が顕在化した時点で、本気で解決すべきだったと、ぼくは強く思っていました。 確実な逆探知を行うためにはハイテク技術が必要だったのではという意見があるかもしれませんが、多分そうではないでしょう。 ぼくは、古い電話網のままでも、必要に応じて発信元が特定できるシステムを作ることはできたと信じています。


ま、いずれにせよ、この問題については、みなさんご存知のように、正しい方向で大きな改革が行われたようです。

数年前に、番号表示システムなどが導入された時点で、日本の電話網では、必要さえあればリアルタイムで確実に発信元の特定することが可能になったのだと信じています。 これについて、公式の発表とかがあったのかどうかは知りませんが、もし万が一にも、そうなっていないのだったら、システムを設計した人たちはアホを通り越しているとしかいいようがない。 信じてまっせ。

(最初に書いた「踊る2」の映画では、犯人が使った電話機が、ある建物の中の公衆電話だということが瞬時に特定されるけれど、電話機の位置までは特定されていなかったような気がします。 実際には、そんなことはなく、完璧に電話機まで特定できると思うのですが、ひょっとすると、こういう映画やドラマでは犯罪者に過剰な情報を与えないように、警察のもっている発信元の特定能力を、意図的に過小に表現しているのかもしれないなあとか思ってしまった。)


というわけで、今回は、既に解決済みの DQN を取り上げました。

すでに内外の複数の方からメールをいただいていますが --- と言いたいですが、実際には、外外の単数の方からしかいただいていないのですが --- DQN をみつけるのは、そう簡単ではない。 これぞ「定着してしまったアホな設計」だと言い切れるものは、あまり多くないかもしれないですね。

たとえば、自動車だらけで人がどんどん交通事故にあってしまうという現状は、電車の危険なんか比べものにならないほどにクレージーで悲惨だと思います。 けれど、自動車社会の場合、「ホームの柵」みたいに、状況を完璧に改善してくれる簡単な要素というものが、見あたらないようです。 「居住区からは自動車を排除し」とかいう議論はあるけれど、如何にも大都市しか見ない発想。 自動車によって人の暮らしが支えられているというのは(たとえばアメリカとかなら当たり前だし)日本でもかなりの地域で言えること。 「自家用車はそもそも廃止し」とか言うのも極端。 そもそも、交通事故で子供の命を奪う車もあれば、病気の子供を医者に運んで命を救う車もある。

自動車を、低馬力低速の「町中モード」と通常の「専用道路モード」に切り替えて使用するように設計しておき、町中で「道路モード」に切り替えたドライバーには厳罰 --- なんてのは?  今ひとつ自然さを欠くなあ。

なんか、いい考えはないですかね?


10/7/2003(火)

先週の末から週末あたりにかけて、妙に気力が低下していて、なかなか能動的に頭とエネルギーを使う気にならないので、

Elements of Information Theory (Wiley Series in Telecommunication)
Thomas M. Cover, Joy A. Thomas
を読みはじめた。 むかし一度、最初の方だけを読んだのだが、余裕もなくて、けっきょく相対エントロピーについて是非とも知りたいことだけを知って、そのままにしてあったのだ。

少し時間をかけて読んでみると、実によく書けている本だとひたすら感心する。 ぼくの趣味からすると記号法がいささか乱暴なのだけれど、それを除けば、ほとんど文句がない。 直感的な説明と、厳密な定式化のバランスもよくとれている。 何が言いたいかがはっきりしていて、ちゃんと読めばわかる。 見ならいたいものである。


読書ばかりでは何なので、徐々にエネルギーが戻ってきた昨日あたりから、しばらく放置してあった、driven lattice gas の摂動展開の泥臭い計算を再開。

計算したノートが色々でてきたが、どうも読んでも釈然としない。 よく見ると、全部が古くて駄目なバージョンだった。 別のところから最新版を発見し、古いのは未練なく捨てる。 忘れる前に整理しておかないと、あとから大変になる。

ようやく昨日の夜になって、もっとも堅実な計算の方針がわかる。 焦って一般的にやろうとし過ぎだった。

で、今日の午前中に、最低次の補正のつく位置が違うことをようやく認識。 ・・・○○●●○●○○・・・(○は粒子なしのサイト、●は粒子のいるサイト)みたいな配置から補正が始まるのだと思っていたが、実際には・・・○○●●○○●○○・・・みたいなのが、補正の入るもっとも簡単な配置のようだ(付記:間違いでした)。 いましがた、ようやく補正の具体形が出た。

やれやれ。 (これであっているとして(付記:間違いでした))随分といろいろ間違った方向をさまよったものだ(付記:この時も間違ってたって)。 ぼくがアホになったということではなく(付記:アホっていうか、ルーズになってると思うぞ)、いかに平衡と非平衡が違うかということだと解釈しておこう(付記:平衡と非平衡が違うってのは確かだ)


実は、今日から、この logW に、スタイルシートなるものを使っているのだ。 何を今頃と言われそうですが。

ほんと最低限のものだけど、両側にわずかに隙間をあけたり、ページごとにレイアウトを統一したりするには確かに便利そう。 あと、

アホみたいに目立つ文字列!!!
とかも、"medatsu" というクラスを定義したので、一発なのである! (だから?)
ほお、Abrikosov, Ginzburg, Leggett ですか、今年のノーベル賞。

もちろん、お三方とも、とても偉い人なわけですが、いかにも「取り損なっていて政治力もある大物三人に」という感じがあるよな。


10/8/2003(水)

さて、スタイルシートの採用を記念して、この logW に、また一つ、新しい常設コーナーを設けることにしました。 名付けて、

今日の FD
でございます。

説明するまでもないでしょうが、FD は、今や大学関係者の間で話題沸騰の

Faculty Development
の略です。 ここでいう Faculty とは「大学の教員の集合」を指す米語で、それを develop だから、発達させる発育させる、とか、そういう意味です。 要するに、「大学の先生たちが教え方を高める」ことなんだから、「教育向上」とか言えばいいと思います。 (ええと、以上の説明は本当です。DQN のように信じて恥をかく心配はありません。) それを、わざわざ米語の faculty の用法を知らないとわからないような略語を使うんだから、こういうことを提言する方たちの知能のあり方はたいそう素晴らしいと思います。

そして、ですね、今日の大学が、人様や世間から「まともな大学」と言われたければ、なにかしら具体的に FD に取り組んでいないと、駄目駄目らしい。 すごいですね。

いくら全力で最高の講義をしようとか言っていても駄目で、書類にかけるような制度がないと駄目らしい。 まったく、素晴らしいお話です。

そんな形骸的な制度は必要ない、教員一人一人がしっかりと教育に取り組んでいるからいいのだ、とか言って制度をつくらない大学は、外部評価だとか、補助金だとか、なんだかんだで、陰に陽に不利益を被る可能性が増すことになるという噂(噂だけどね)も耳にする。 美しい物語ですね。

というわけで、以上の文章にきわめて明快に表現されているごとく、ぼくも大学教員のはしくれとして、FD には大賛成なわけでございまして、これからは、logW の定番シリーズとして、「今日の FD」をお届けし、自らを教育者として少しでも高めようとする FD 的の活動に捧げる私の日々の営みをば全国全世界の皆さんの前にご披露していこうという所存なのですよ。 (ぼくが教育には全身全霊で取り組んでいるのは事実なので、以上の記述のすべてが冗談とは思わないで下さいな。)


今日の FD:

一年生の「力学基礎2」の講義。 このクラスは、今学期になって教え始めたばかり。 反応もよいし、真剣に聴いてくれているのだけれど、一つ悲しいのは、いつも前の方に空席が多いこと。

今日も、教室に入っていくと、ぼくから見て右側の前の方の座席は完全に空席ばかり。

さすがに、これではイヤだなと思い、意を決して「おおい、前の方が空きすぎだよ。そのへん、もっと前に移って来いよ。」と叫んでみる。

で、ちょっとドキドキしながら、先週の続きの板書をばばばばばっと始める。 なにせ、もう授業もはじまってるし、移れと言われてすぐに席を移ってくれるということもないかなあ、とか思っていたのだが、背後でわいわいがさがさと人々が移動する音がしていて、振り返ると、大勢が前の方に移動してくれている。一番前とかにも。

ちょっと、というか、実はけっこう、うれしかった。

それで、いいんだよ。 そういう風に素直に大学教育に向かってきてくれる学生さんたちがいらっしゃることを、ぼくは愛する。 だいたい、こうやって、近距離で顔を見て、ノートを覗きながらやってこそ、大学の講義ではないか。 こっちだって、俄然とやる気が出て、圧倒的に develop してしまう。


教務関連の書類に印鑑をもらいに来た I 君と、DQN(正当とされてしまったため、それと認識されないお馬鹿なシステム)の例に何があるだろうという雑談。

(今もぼくが使っている)キーボードのアルファベットの配列は、(英語を打つことだけを考えても)最適のものではないけれど、タイプライター以来の伝統の配列に固定してしまっている --- というのは、有名な話。 しかしながら、これは、最適の解と、今の解のあいだに、本質的な差があるわけではないから、真の DQN とはいえないだろう、と。

ついでに、携帯メールの親指のパコパコやる入力って、なんとかならないのかねえ、と(携帯メールを使わない二人で)話す。 ぼくの妻などは、携帯電話を新しくしたので、若者ばりに携帯メールを使い始めたみたいだけれど、「これから○○駅を出るところです。」とか家にいる子供にメールしようとして、うっている間に電車が出発して、駅についてしまいそうなくらいだった。 (一応、(ぼくの邪魔と茶々にも負けず)つく前に送信してたけど。) しかし、若者は確かに素早く打っているし、この方が圧倒的にいいと思えるような代替システムは思いつかないし、これは DQN じゃないよ。

なんだかんだいって、

(I 君のように)必修の科目を書き損なうと登録されず、後から書類を書いて、教務委員の印鑑をもらいにいかなくてはならないような履修届のシステム
こそが DQN なのかも、とか適当にオチをつけてみる。 (でも、書き損なうなよ。)
ぬ゛

この摂動論ちょっと変だぞ。対称性がおかしい。


10/12/2003(日)

どこかでお会いした人から「『雑感』を読んでいます」と言っていただくことにもだいぶ慣れてきたのですが、娘のバイオリンの発表会で「雑感」読者にお会いするとは。

おお、そこまで広く一般に読者が! ということでは、実は、なく、ずっと娘と同じ K 先生についている S さん(←とてもお上手)のお兄さんが某大学の物理学科の三年生だったということです。 物理人口けっこう多いじゃん!

しかし、娘の発表会などというと、こちらとしては、ばりばりで私人というか、「一介のお父さん」モード全開なので、普段のネット上での私の発言をご存知の方にお会いすると、けっこう気恥ずかしかったりするものです。


発表会の方は、まさに「発表会」というべき初心者から、十分に楽しんで聞けるレベルの人まで、盛りだくさんで、楽しい時間を過ごしました。

ベートーベンのピアノソナタは普通ないほどに猛烈にパワフルでしたが、ぼくは、好きです。 この人はすでに社会人なのですが、毎回、大きいものに挑戦して、独自の力強い演奏を聴かせてくれます。 ぼくは、秘かにいつも楽しみにしているのです。 最後に登場した、K 先生のお弟子さんの H 兄弟を中心にした弦楽四重奏はさすが。 きわめて異なったタイプの曲を四曲、演奏している人たちも生き生きとしていて、趣味もここまでいけば本当に楽しいだろうな、と思わせてくれます。 二曲目は、ショスタコービッチの四重奏。 ぼくは、実は、この手の曲が大好きなので、うれしかったのですが、この四重奏曲はちょっと長すぎる気がした。(ちゃんと聞けていないからかもしれないけど。)


というわけで、S さん、田崎父の「日々の雑感的なもの」は、物理学の話題を中心に、クラシック音楽や美術についての随想を織り交ぜた、知性と教養にあふれる読み物である --- と、お母様、お父様にお伝えくださいね。
10/13/2003(月)

ええと、ナカムラさん(こちらの 10 月 9 日の記事)、

夏の日本でスーツ+ネクタイを正装とする習慣
は、微妙に DQN(初期のお馬鹿なデザインが正当とみなされ、そのまま残ってしまったもの)とはちがうかも。

これは、「正装をこういう風にしよう」と誰かが決めたシステムが踏襲されたというものではないような気がします。 最初はみなが軽装だったとしても、どこかの個人や、どこかの企業が、スーツ+ネクタイ姿でやってくると、やはりそっちの方が真面目そうな感じだぞということで営業の競争等々で有利になり、けっきょく、皆がそっちに向かってしまったということでしょう。 (違うかな?? 誰かがそう決めたのかな??)

全員がいっせいにやめればいいはずなんだけど、(少なくとも、日本の社会風土では)全員が軽装というのは、おそらく不安定平衡点なのでしょうね。 けっきょくは、誰かが「正装」にしてくると、いずれは皆がそうなってしまうのだろう。 この推測が正しければ、これは DQN というよりは、むしろ、

AFO = Aggregated Feedback of Oddity(奇妙な行ないを増幅するフィードバックが集合的に生じること(って、もう信じている人いないよね)
の例だと思います。 日本には、 AFO の例は多いですよね。 受験戦争の加熱とかは好例。
次は、電子メールとか web のシステムに DQN がみつかるか、という話をしようと思って書きかけていたのですが、さっき、ちょっと水道局に用事ができたときに思い出したのがあるので、今日はそっちだけ書いておこう。
日曜と祝日にお役所が休みなのは、ぜったい DQN だ!
これって説明不要でしょ? (大学教員とか)特殊な職業の人を除けば、ほとんどの職種の人たちは、日曜と祝日以外は仕事に出ているわけで、お役所に書類を取りに行ったりするのはきわめて困難。 無理せずに休みのとれる日曜・祝日こそが、お役所にとっては「かき入れ時」であるべきなんです。

もちろん、お役所の人が日曜・祝日に出勤しなくてはならないのは大変だなと思いますよ。 でも、そういう職業ってありますよね、床屋さんとか、お風呂屋さんとか。 (ちなみに、お役所は基本は休みなしにすべきだと思います。 日曜・祝日以外は、交代でお休みをとればいいと思う。)

大変なのはわかっていますが、本当に「公僕」だっていうなら、日曜・祝日にこそフルに働くのが当然の「常識」だと思います。 それなのに現実ではお役所が平然と休んでいるのが「常識」になっているところが、真性 DQN の DQN たる所以(ゆえん)でありましょう。 まさに、まったく間違っているにもかかわらず、それが正しいと認定されて長い年月が経ってしまったために、そう簡単には間違っていると気づかなくなっているのだと思います。 是非とも「常識」を覆し、お役所が日曜・祝日にこそ大繁盛する社会を作りたいものです。


同じように考えていくと、本当は日曜・祝日に営業した方が利用者のためになるはずなのに、堂々と休んでいる業種というのがいっぱい出てきますね。

もっとも深刻なのは、お医者さんや病院。 あと、銀行。 (やっぱり、最初の頃に「偉い」とされた業種だね。)

こういう業種で日曜・祝日のお休みは当たり前という「偉そうな体制」が続いている背景には、同業者組織による統制もあるのでしょう。 そういう複雑なことを考えると、一口に DQN とは言い難いのかもしれない。 ま、そんな命名はともかく、やっぱり日曜や祝日も営業している病院やお医者さんがいっぱいある方がみんなにとっていいに決まっている。 最近のお医者さんがオーバーワークなのは知っていますが、でも理想はそうだと思います。 銀行の方は・・・・、なんか、文句が多すぎてわけわからん。


10/15/2003(水)

体調不良と若干の面倒が重なったため、なんか圧倒的に駄目になっていて、ほとんど研究ができない日がつづいていたのだけれど、今日は、久々に復帰。

一時限目に講義をし、少し雑用をしてからお昼を食べに家に戻り、あとは家にこもって(学科の雑用もしたが)ほぼずっと、懸案だった driven lattice gas の摂動論をやっていた。 愛用のシャープペンをもって、宙をにらんだり、絵を描いたり、ごそごそと紙に計算したり、机に突っ伏してうなったり --- これぞ、幸せな理論物理学者の暮らしです。

やろうとしているのは、driven lattice gas の定常分布について、(数学的に厳密でなくてよいから)ごまかしや無謀な仮定の入らない systematic な摂動計算を開発し、実際に具体的に計算すること。 そう簡単にはいかないことは Raphael とやっていたときにイヤというほど味わっているので、ここは謙虚に、もっとも簡単な一次元のモデルに限って、きわめて具体的にやる。 さらに、低密度展開で最初に非平衡効果が現れる三体の効果に限定。 そして、さらに簡単な練習問題として、外力 f についての一次の補正をみることにする。

ま、でかい問題の前の、小手調べという感じの計算のつもり。

が、これが難しい。 というか、ここまでたちの悪い摂動論も、なかなか、見たことがない。 測度の補正を現す係数が満たす連立方程式は出てくるのだが、短距離の寄与だけでは、とじてくれない。 次々と遠い部分の寄与が生まれてくる。 もろに連立になっているわけで、まずは小さい系で解を求めて勘をみがきながら、いろいろと工夫して一般解を模索するのだけど、なかなかどうして、解けそうにない。 どうも、解は非局所的で、遠方できわめてたちの悪いふるまいをするようだな、こりゃ。 無限体積極限なんて、もう、全然ダメっぽい。 ああ、これが長距離相関の現れなのか?  (無限系の)非平衡定常測度が Gibbs 測度では書けないことの兆候か?!  この程度の摂動計算で、ここまでタフ(で、おそらくは本質的)なものにぶつかるとは。

あえて万人にわかりやすいたとえで言えば

最初の村から出たところで腕試しにスライムと戦ってみたら、こいつがめちゃめちゃ強くて攻略不能
って、ところか。(こんなドラクエはいやだ。)

だいたい、ぼくが目標にしている SST 自由エネルギーへの非平衡補正の計算のためには、二次元以上の系で、しかも、f の二次まで寄与を計算しないといけないのだ。 次元を上げるのは、根性でなんとかなるかもしれないが、f の二次の項まで求めるのは、今ぼくが開発した技術では無理だ。 (連立方程式は書けるといえば書けるのだが、手も足もでない。) 最初のやつがスライムなら、前半の中ボスくらいのところを、適切な例題と設定していたことになるなあ。 ううむ。手強し。 とりあえずは、撤退して、体制の立て直しだっ!

こうして、問題の難しさを改めて認識するだけに終わってしまったものの、なぜかしら、満足気で楽しそうにしているハルなのでした(←「今日のわんこ」風に)。


10/17/2003(金)

1時限目の講義に間に合うように早起きし、講義中にエネルギー不足にならないよう朝ご飯を一生懸命にたくさん食べ、大学に来て、講義ノートを用意し、さて、講義の前にトイレに行っておこうと3階に降りると

やけに静かだ・・・(STAR FOX 64 のペッピーの声で)
あーあ。 またですよ。 創立記念日だかなんだか知らないけど、やるなら、ぼくの講義のない日にしておくれ。 そういうローカルルールは頭に入らないよ、何年つとめても。 ぜったい、最後まで、覚えられないって。

なんだよ、また「財布を忘れて愉快なサザエさん」的ネタかよ --- とおっしゃるでない、そこの読者。 別にネタじゃなくて、今、まさにおきている事実。 5分前までは疑ってもみなかった厳然たる事実について述べているのです。 事実だけがもつ重み。 「財布を忘れる」のは決して「愉快」でもなんでもない、ということです。


10/19/2003(日)

さて、この前(10/5

逆探知が猛烈に困難な電話システムは典型的な DQN(Dumbly Qualified Negligence = 初期の手抜きないしは設計ミスが、長い歴史の中で、なし崩し的に正当とみなされるようになってしまったもの)だった
と書いたわけですが、そうすると当然考えるのは、今日のインターネットメールのシステムのこと。

メールには、

といった問題があることは、ぼくらが毎日、イヤというほど味わっていることです。

ただ、それでは、「メールのシステムも DQN だ」と言い切れるかというと、なかなか難しい。

発信者の偽装が素人にも簡単にできてしまうシステムは、欠陥のような気もするけれど、きわめて便利であることも確か。 これのお陰で、ぼくらは自分の好きな smtp server を経由して同じアドレスからのメールを出すことができる。 (たとえば、ぼくは家からメールするときは、東京電話の smtp サーバーを経由するけれど、それでも、学習院のいつものアドレスを使っている。これは、便利。複数のアドレスの使い分けは面倒だし、相手をも混乱させる。) spam は、システムの問題なのか、社会の問題なのか。

だいたい、考えてみると、これらの点は通常の郵便と全く同じことなのですね。 たとえば旅行先から手紙を出すときでも、差出人の住所氏名はいつもの自宅の住所を書くわけで、そうすることで、受け取った人は迷わず自宅の方に返信することができる。 その裏返しで、誰でも、誰かの住所と氏名を差出人欄に記入した郵便を出すことはできる。 また、郵便受けにダイレクトメールがたっぷりと入っているのも、spam と同じ。 ただ、電子メールの spam は一般郵便とは規模が違うから、より激しいわけだけれど。

いずれにせよ、こういう電子メールの問題点は、なかなかどうして簡単に解決するものではなさそうだ。 重要なメールについては、別個の認証システムとかを使うことになるのだろう。 見知らぬ人からのメールを受け付けない、なんて過激なことをやってしまうと、面識のない人にはメールを出せないことになってしまってきわめて面白くないし。


ぼくが DQN ではないかといぶかっているのは、むしろ web における「害のあるページ」の問題なのですよ。

聞くところによると、数ある世界の web pages の中には、猥褻な内容を含むものが存在するらしい --- ぼくは知らないのですが(←嘘ですけど)。 あと、本当に残酷な映像とかも。

で、そういうのを子供に見せるとまずいだろう、ということで、ブラウザには、いろいろとフィルターの機能がついています。 ページの内容を判断し、両親や先生が定めた設定に応じて、不適切なページを表示しない機能だと理解しています。 が、人ならぬプログラムに、あるページが猥褻かとか残酷かとかを判断させるのは至難の業。 猥褻な言葉と似た綴りの言葉が入っているだけで表示拒否されたり、肝心のひどいページはフリーパスだったりと、問題が多いらしい。 けっきょくのところ、フィルター機能も信頼できないということを聞いたことがあります。


ぼくは、この話が、最初の最初から不思議でならないのです。 フィルターの改善といった苦労をしないでも、
ページの制作者に、そのページがどの程度「いけない」内容かを申告させる
ことにすれば、こういう問題は大幅に軽減するのではないかと思うからです。

具体的には、ページの冒頭に(普通にブラウズしているときには見えないように)タグとして、このページは「やや猥褻」とか「かなり暴力的」とかいうことを、(アメリカでの映画の指定みたいに)統一した記号(PG13 とか XXX とか、ね)で書いておく。 (あと、やっぱり「無害安全」を表す記号もあった方がいいでしょうね。) ブラウザの側では、ページを読み込む前にその宣言を見に行って、やばいぞと思う場合は(設定に応じて)表示しなければよい。 (この方式が普及した段階では、「無害安全」の宣言がないページはいっさい表示しない、という「お堅い」設定も可能でしょう。) どのあたりまでを表示させるのかといった設定は、そのコンピューターを管理している人が考えればいいわけだし、その設定を(子供とか、図書館に利用に来た人が)そう簡単にはいじれないようにする工夫は、ま、パスワードとか色々でがんばってやってもらうと。

要は、「ページの『いけなさ』」について、世界標準の規格をつくって、すべてのページにそれをつけるように推進していけばいいのではないか、ということです。

明らかに問題があるのに、そういう宣言をつけていないページは、皆でやり玉にあげて(いろいろな方法で)攻撃すればよい。 場合によっては、スキルある人たちにとっては格好の「正義のクラッキング」の対象になるかもしれません。

「猥褻なページをつくるな」という主張は表現の自由に抵触するわけですが、「猥褻だから、それと表示せよ」という主張は(もちろん、問題を生む事例は多々あるだろうにせよ)別に表現を侵害するわけではないので、はるかに穏健だと思います。 だいたい、大人しか使わないブラウザは、「無制限」に設定しているだろうから、そういう人には、すべてのページが何の問題もなく同じように見えるわけです。 だから、そういう大多数のユーザーにとっては、このシステムはないも同然になります。


この手の自己申告のシステムの話をすると、
そもそも問題のあるページを作るような奴らが、自己申告のマナーを守ると思うのか? そんなプランは実現不可能だ
という反論がでると思います。

しかし、今の場合に限っては、それはあたらないと思いませんか?  商売で猥褻な内容のページを作っている人たちにしてみれば、自分のページが教育機関や公共図書館の端末に表示されなくても、別に、痛くも痒くもないでしょう。 (というか、そういう人たちだって、(よっぽど特殊な趣味の奴じゃないかぎり)図書館でガキが自分のアダルトページ見てるのを発見したら、イヤな気分になると思うよ。) 個人ユーザーの大人に見てもらえればそれでいいわけです。 さらに、ここがもっとも重要なのですが、そういう人たちとしては自分のページが猥褻な内容を含んでいることを積極的に宣伝したいわけです。 そのために、いろいろとそれらしいキーワードで検索にひっかかるように努力するわけでしょう --- ぼくは知らないのですが(←嘘ですけど)。 そこに、苦労しないでも、「冒頭に XXX であると宣言しておけば誰もが無条件で猥褻だと判断する」という新ルールができれば、大喜びでとびついてくると思うのですが、どうでしょう?  (もちろん、芸術的な写真が「猥褻」か否かといったことで問題は生じるでしょうが、ともかく商売めあてのスケベページの数に比べれば、そんなのは数の内ではないでしょう。)

ユーザーの側にしたって、特にスケベなページをみたいと思っている奴は、検索の詳細指定で「XX 以上のみを表示」とかやれば、無駄に平和なページを閲覧することなく、お望みのやばいページに能率的に到達できるわけです。 そういうユーザーにとっても、願ったりのシステムじゃないですか。

というわけで、「ページ冒頭で『いけなさ』を自ら宣言するタグ」は、

の三者すべてにとって、うれしいものだということになります。 すばらしい。

ブラウザを作る側としても、自分たちのブラウザが「安全」であるというのは大いに売りになりますよね。 このシステムがひとたび軌道に乗れば、上記三者の後押しを得て、たちまちの内に web の標準になるはずです。

と、このように、この自己申告システムには、ほとんど欠点がないように思えます。 このシステムを採用していない現在の web は DQN だ、さっさとこれを採用しろ、と叫びたい気にもなります。


しかし、落ち着いて考えると、ぼくは何かを見落としているのだろうと思わざるを得ません。

なにしろ、今日、ネットワークの世界については、頭のいい人たちが「クリエイティブ・なんちゃらは、なんとか原理からして、どーたら」みたいな難しい議論を日々闘わせているのは周知の事実。 当然、web 上の「有害ページ」の問題も議論し尽くされているに違いないと思います。 (皮肉っぽく読めるかもしれませんが、基本的には、皮肉じゃないです。) このような誰でも思いつく考えは、当然ながら、大昔に検討ずみのはずです。

そうすると、「ページ冒頭で『いけなさ』を自ら宣言するタグ」というアイディアについては、

  1. (上で見落とされている)根本的な欠点があって、採用されない
  2. 提案され、採用されたが、思うようにいかず普及しない
  3. 実は使われている
といったことが考えられます。

さて、実際のところはどうなっているのでしょう?

よくご存知の方に教えていただければ幸運と思い、無知をさらす恥を承知の上で、この一文を公表する次第です --- と(尻切れトンボだが)謙虚に結んでみよう、たまには。


と、謙虚にしておいてよかった、よかった。 たった今(上のを書いてから1時間半くらいで)、掲示板で崎山さんに教えていただいたのですが、まさに、そういうシステムは存在しているそうです。 事前にちゃんと「無知」と宣言しているのは、先見の明があったと言えよう! 

というのはおいといて、(特に日本で)そういう仕掛けがちっとも流行らないというのは、不思議じゃ。 少し状況を勉強した方がいいようです。


10/22/2003(水)

昨日は、佐々さん+林さんの指定コンビニ寄る、じゃない、師弟コンビによる SST 関連セミナーおよびその後の議論に参加すべく、はるばる(でもないが)本郷へ。


佐々さんの話は、SST 研究の現状と展望みたいなの。

いろいろなことを思い出し考えながら聞く。

ふうむ、あれを読んだ頃、あれを考えた頃は、こんなこと、あんなことに混乱していたんだっけ。 しかし、今は、かなり見通しがよくなったぞ。 ううむ、だが、ここらは相変わらず未知のままだなあ。 ここらへんの風景が本当に見える日は来るのだろうか。

思えば、強引に非平衡系の研究をはじめてから、随分と時が経ったものだ・・・

って、まだ、一つも論文出版してないだろが!
今日の標語:回想にひたっている暇があったら、論文書こう。
林さんの発表。

きわめてよくまとまっている。 うむ、よくぞ成長したものじゃ、と回想にひたりそうになるが、よく考えると、林さんの発表を聞くのははじめてだ。

話が進んで driven lattice gas の非線形非平衡領域での fluctuation-dissipation relation についての数値計算になると、こちらが全く予想だにしなかった意味深そうなグラフがでてくるではないか!  誤解に基づいた質問を二、三すばやくし、それに佐々さんがすばやく答えて話が見えたときに、思わず「じゃ、これホンモノじゃない(←否定文じゃないよ)」と佐々さんにむかってささやいてしまった。

系の特殊性、密度の特殊性、などなど、いろいろな課題はあるが、これが非自明な何かの最初の現れであることは確実だと思う。 うむ。よくぞ・・ (三年近く前の雑感(12/8/2000)に H さんというのがでてくる。)


最近、新聞などで「マニフェスト」という言葉を見て、やれやれと思っている方は多いでしょうが、もちろん、ぼくもその一人です。 で、ぼくがこの語を目にするときには、英語の manifest の発音にひきずられて、第一音節に軽くストレスをおいた「マニフェスト」という感じの音を想定しているような気がする。 (これは、誤りであったが。)

今朝、大学に来る途中に目白駅前を通りかかったとき、民○党の人がマイクをもって演説をしていたのを聞いていると、この言葉を日本語で発音するときは

マニフェスト
のように、前半を不明瞭に発音し、思いっきり後ろにストレスを置くのが正しいらしい。 (いや、少なくとも、○主党では、というべきか。 (いや、イタリア語の manifesto なので、ストレスについては、こっちが正しいのであった。))

でも、これって妙に響きが汚くて、「鰐ペスト」みたいな病名っぽく聞こえた。


10/23/2003(木)

今日は早めに家に帰って仕事のつづきをやろう --- と思って、やりかけの計算などをかばん(っても、スヌーピーのナップザックだけど)に入れる。

そこで、はっと気づくと明日は金曜日。 ということは、明日は一時限目が講義ではないか!  がっびーん。今日は、いろいろやっていて、講義の準備をぜんぜんしていなかった。

最近は、講義準備は大学ですませることにしているので、これから、準備をしなくては・・

と、素直に思った私だったのですが、ふふふ。そこには、予期せぬどんでん返しが待っていた!

実は、準備は、ばっちりなのですよ。

理由は、先週の金曜日の logW を参照のこと。

いやあ、やっぱり、愉快、愉快。


10/24/2003(金)

今朝も、大学に来る途中で目白駅の前をとおると、マイクをもったおっさんがいて

鰐ペストの現物をごらんください!
みたくないなあ。

お、しかし、このおじさんの名前は知ってるぞ。さすが政治通。

家の近所とか駅のそばにべたべたとポスターが貼ってあって、顔の大きな写真とともに

○○○○にしかできないことがある。
というコピーが書いてあるのだ。

ぼくは、道を歩いていて、このポスターを見るたびに、「○○○○にしかできないこと」ってなんだろと思い、

とか とかいうのを考えてしまうのですよ。 別に深い政治的な意図はなく、コピーに体が反応して、半ば条件反射的に。

もちろん、この方の政治方針、政治姿勢等々については何も知らないので、何の意見もないです。 (もちろん、ぼくは政治通じゃないです。(日本史ファンだと思ってた人がいたので、念のため。))


なんて、飛び抜けてくだらない「雑感」を午前中に書いた報いなのか、午後、大学に行ってみると予期せぬ用事がいっぱいあって飛び抜けて忙しい時間を過ごしてしまった。やれやれ。
10/26/2003(日)

どうも、毎日のように忙しくて落ち着いて仕事をする暇がなくなっているのですが、今日は外出のため電車に乗って移動する際に、せっかくなので SST (steady state thermodynamics = 定常状態熱力学(←これは本当だよ))の現状を自分の中で整理してみた。

今、logW を Google で検索してみたら(やはり便利。ロボットさん、ありがとう)、6/1 の雑感で SST の「非敗北宣言」というのをやっている。 読み返してみると、そこに書かれている大きな流れの中に、実は、夏休みにきっかけをつかんで夏休み明けくらいに全体が見えた「弱い接触による熱力学関数の定義」と「弱カノニカル性」の概念が、ちょうど、ぴたりとあてはまることが再認識できる。

現段階の SST の一つの流れは、

  1. 示量性、示強性、変分原理の詳細な検討により、可能な熱力学の形式に制限を与える(Sasa-Tasaki の現象論)。
  2. 熱力学関数のマクロな操作的定義。 壁をおす力としての圧力の定義。 ポテンシャル変化法による化学ポテンシャルの定義(Hayashi-Sasa)。 Maxwell 関係式の成立を議論し、自由エネルギーを構成。
  3. [NEW] 上記現象論の具体的なモデルとしての、粒子系の確率過程(等温での確率的時間発展+非平衡外力の効果)を非平衡な力と垂直な方向に接触させるモデル。 接触の処方箋は、現象論と完全に整合している。 固定温度、固定非平衡が威力において、化学ポテンシャル、圧力が自然に定義され、Maxwell 関係式を満たす。 こうして作られた SST 自由エネルギーは、部分系の粒子ゆらぎを記述する大偏差関数である(よって変分原理も成立)。 また、部分系のポテンシャルの任意の時間変化について熱力学第二法則(最大仕事の原理)が成立し、その際に SST 自由エネルギーが最大仕事を決定する。 要するに、この範囲では、熱力学がすべてうまくいく。 その背後にあるのは「弱カノニカル性」である。
  4. さらに、化学ポテンシャルを一定に保つ平衡系と非平衡系の接触が現実にありうると仮定し、SST 自由エネルギーが望ましい凸性をもつと仮定する。 (前者は、確率モデルでは実現可能である。 これが本当の意味での実現可能性を示唆する可能性もあると夢想中(どういう系を考えるかに依存するが)。 後者は、確率モデルである程度議論できるだろう。) ここから、非平衡に起因する圧力差(FIO = Flux Induced Osmosis (←これも真面目です))や、非平衡性による転移点のシフトなど、実験で検証可能な予言がでる(Sasa-Tasaki)。
という感じで、これまでに増して気持ちがよい。

とくに、1, 2, 3 の異なったアプローチがごく自然に一つの熱力学を指し示しているように思えることに励まされるのだ。 また、3 の範囲であれば、二相の共存や、半透膜を介したバランスの議論など、通常の熱力学で行われていることを、ほとんどすべてパラレルに論じることができる。 (ただし、測定可能量が限られていて、今のところ、面白みのある応用はみつからないのだが。) しかし、3 まででは、かなり形式論の色彩が色濃いのだが、ここで 4 で大胆な方向に踏み出し、現実との接点を求めている。 そして、個人的には、この流れのなかで、Sasa-Tasaki で最初に提出した大胆な現象論が、1 と 4 に、全体をはさむ形で現れるのはうれしいことだ。

かつて、早川さんが Sasa-Tasaki (つまり、上記の 1 と 4 だけ)を

「現象論ありき」で好きでない
と評したと記憶しているが、少なくとも、「理論武装」は、当時とは見違えるほどに堅固になった。
というわけで、かなりなんとかなってきてはいるのだった。

ここらで「勝利宣言」と言えるといいのだが、未だ 4 の正体が完全には把握できない以上、そこまでは、いかない。

非敗北宣言
は使ってしまったから、

ええと、

数学用語風に

弱勝利宣言
とか
弱い勝利宣言
とかだろうか? しかし、これって響きが軟弱で・・・以下略(9/22 を参照)
しかし、話の展開が、以上のサマリーに尽きないところに、人生のおもしろさがある。

実は、ここ二、三年間、佐々さんとぼくとで、上の「伝統的 SST」を地道にまとめる作業をしながらも、密かに

裏 SST
と呼び(こういう、ちょっとアブナイ命名をするセンスがあるのは佐々さんだな、きっと)、その存在を疑ったり漠然と信じたり否定したりを繰り返してきた幻の理論があったのだ!  一言で言ってしまうと、Sasa-Tasaki の「定常状態熱力学をつくるには、特定の方向だけの体積変化や接触だけを考えるべし」という宣言に(自ら)背いて、それとは直交する方向の熱力学がつくれないかという考え。 もちろん、Sasa-Tasaki の宣言は、それなりに、深い考察に基づいたものなので、それに反する理論には様々な内的な問題がある。 それでも、ぼくらは、この「裏 SST」が存在して、ある日、定式化の進んでいる「表 SST」=「伝統的 SST」と(まさに表裏一体となって)一つのより大きな理論にまとめ上げられるという夢(そもそも、「伝統的 SST」でさえ多分に夢の部分があるのだから、夢のまた夢)を、折に触れて、真摯に検討していたのだ。

そして、先日の佐々さんと林さんセミナーで打ち出されたのは、まさに「裏 SST」の方向への強いアプローチであった。 一般性や熱力学的構造の示唆などは「表 SST」に及ぶべくもないが、非平衡状態での non-linear response についての数値実験は猛烈に非自明で、何か大きいものがこちらの方向にいることを強くにおわせる。 漠然と感じるだけだった「裏 SST」の存在がにわかに大きくなってきたのである。 林さんと佐々さんのきわめて示唆的な数値計算の結果が何を意味するのかはわからないが、(佐々さんもはじめから言っているように)「弱カノニカル性」と上で呼んだものと類似の構造 --- ただし、はるかに非自明である(いや、元の「弱カノニカル性」だって、弱結合モデル以外ではまったく非自明なのだが・・・) --- が背後にあるということは大いにありうる。

さあて、こうなると、SST 研究も、

伝統的 SST、元祖 SST、本家 SST、SST 家元、純正 SST
などの種々の分派に分かれて群雄割拠の時代に突入するかというと、ま、やってるのはぼくらだけだし、そういうことには、ならない。

とはいえ、ついに顔を現した(かに見える)「裏 SST」がどこまで普遍的であり、形式的に整備されてきた「表 SST」=「伝統的 SST」と如何に関わるかは、ぼくらにとっては、実にわくわくする大問題になっている。 関連が一筋縄ではいかないということについて、いくつか考えることがあるが、そこまで書いてしまうと読者のみなさんへの説明不足のままの暴走ということになってしまうのでやめておきます。 あ、すでに最初の方から、説明不足の暴走になってますか? ごめんちゃい。


10/31/2003(金)

今日は大学祭の前日で、また(10/17)、金曜日の講義がつぶれてしまった。 大丈夫なのかな?


さて、今月は、アルファベットを並べたむずかしい略語がいっぱい登場したので、おさらいを兼ねて整理しておこう!
DQN = Dumbly Qualified Negligence

意味:愚かにも(正しいものと)認定されてしまった怠慢、あるいは失敗(10/1

例:プラットホームの作りや、お役所が休日に休むこと、など。

DQN については、こちらの見本なども参照


AFO = Aggregated Feedback of Oddity

意味:奇妙な行ないを増幅するフィードバックが集合的に生じること(10/13

例:真夏スーツ着用(?)、お受験


TAKO = Thoughtless Article Kept Outmoded

意味:昔は一応まともに機能していたのだが、状況が次第に変化して、越えてはならない一線をとうに越えているのに、未だに昔のシステムを踏襲しているもの(「けいじわん」における hsaka 氏の提唱

例:踏切(電車の運行を制御せず、ひたすら受け身で遮断機を降ろすというシステムでは、多くの線路が集まるところでは「開かずの踏切」を生んでしまう)


VACCA = Variably Adjusted Critical Condition Acquisition(←英語むずかしいなあ、長いし・・)

意味:ええと、なんか臨界的状況が自動的に保たれるとか、そういう意味かな? わからんぞ。統計力学で一時期はやった Self Organized Criticality (←冗談ではありません)みたいなものか?? (ナカムラさんの 10/26 の「墜ち天」(←どうよ、若い子風の略し方)(私信:ナカムラさん、このリンク先って変更になるんでしょう? だとすると、不便。))

例:真夏スーツはこっちらしい。ちなみに、現実の砂山は SOC の例ではないそうです。


DAME = Dangerously Amplified Multicultrurral Ethnicity

意味:ええと、(適当に書いた割には)なんか、それらしいですよね。


AHO = Akitanode Hokano hitoni Omakase shiyou
というわけで、これからは、これらの定義を厳密に守りながら、世にはびこる「お馬鹿なシステム」を分類、整理していこうではありませんか!!





などと、私が思っていないことは、お察しのとおりです。

呼び方なんてどうでもいいから、「お馬鹿なもの」は「お馬鹿」だと皆で認識し、少しずつでも減らしていきましょう。 月末らしく、まともに結んでみます。

前の月へ  / 次の月へ


言うまでもないことかもしれませんが、私の書いたページの内容に興味を持って下さった方がご自分のページから私のページのいずれかへリンクして下さる際には、特に私にお断りいただく必要はありません。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

hal.tasaki@gakushuin.ac.jp