日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


1/1/2004(木)

あけましておめでとうございます。


昨日と今日は筑波の実家にいた(で、ユーターンラッシュの前に帰ってきた)のですが、ぼくは、ひたすら論文の草稿を書いていました。 これまで何年か見てきたこと・考えてきたことを整理してより大きな視点からまとめなおす作業。 時々(考えに穴があるような気がして)ひやっとしたりして、愉しいです。
とはいえ、大晦日は(論文草稿をひろげつつも)紅白で倉木麻衣が歌うのを見たあと、話題の「曙 vs. ボブ・サップ」戦もみましたよ。

ぼくは、別に相撲とかあんまり見ない(最近は、まったく見ない)のですが、曙が現役だった頃は、あの、心の底をうかがい知ることのできないような暗い目つきが妙に気になっていました。 だいたい、ぼくには、外国から来て一人で黙々と闘っている奴とかを応援したくなるところが、昔からあるみたい(ボクシングのタイトルマッチとかでも、日本人のチャンピオンに小さな国の名もない奴が挑んでいたりすると、必ず挑戦者の方を応援していたなあ。 たいていは、(日本でやっているし)日本人が勝ってみんな喜ぶんだけどさ)。 まして、横綱になる時にも保守的な評議員(っていうんだっけ?)から「(横綱にするのは)イヤだが、強いから仕方がない」などと言われていたりすると(朧気な記憶だから違うかも知れないけど)、必要以上に、思い入れをもってしまう。 (だいたい、自分の本業で精一杯がんばってトップに登り詰めて、イヤだとか言われたらたまったもんじゃないだろうな。)

ま、そんな気持ちもあったんで、

たとえトップに昇ったとはいえ、すでにピークをはるかに過ぎ、かつ、相手にダメージを与えることを主眼にしているわけではない格闘技である相撲をやっていた奴が、そう簡単に K1 で勝てるわけないだろ
という常識的な見方が、なんか、こう
故郷を捨てて相撲界のトップに立った男が、再び、相撲界も捨てた。全てを捨てた男の精神が肉体を越える
みたいな「少年ジャンプ的奇跡」でくつがえされ、そして・・・みたいなシナリオを漠然と期待していたのであった。

でも、ま、結果はボブが真面目に闘って、けっきょくあっさり KO だった。 いかにも順当なんだけど、なんか、自分でもびっくりするくらい、重苦しい、いやな気分になってしまった。 だいたい、曙の奥さんと子供とかを引っ張り出すのは、商売としてひどいよな。


紅白は、もちろん、ほとんど見ませんでしたが、それにしても、SMAP がトリ(だったんでしょ?)って、ありなんですか?  みんなが親しんでカラオケで歌える曲を出したといっても、歌手並に歌える人が一人いて、あとはいろいろな種類のヘタな人が集まっているグループに歌わせるっていうのは、やっぱり、一種のギャグとみなすべきだと思うんだがなあ。

いくらなんでも、トリは、真面目に歌をやっている実力のある人じゃないと・・・ って、月並みな感想過ぎですか?

ま、紅白なんてどうでもいいとして、ふりかえって、物理の世界をみると、いくらなんでも・・・

って、今はやめとこう。


あと、岡村が巨大な丸太を受け止める、とかいう番組も見た。 一年前も岡村の脱出番組を見て、つまらかなったから今回はやめようと言っていたのに、なんだかんだで見てしまった。

しかし、去年より、ずっと面白いかも。

基本的には、やたらお金をかけて、ひたすら大がかりに、ただただアホなことをやっているだけ。 でも、誰がどうみてもアホな展開のなかで、儀式に参加する男衆とか女子アナとか牧瀬里穂はひたすら真面目にリアクションし続けるというのは、なかなかアホらしさ倍増でよいぞ。 (途中で、爆発にびっくりした牧瀬里穂が、つい役柄を逸脱して、笑い出して止まらなくなったのがおもろかった。) 今年は、唯一の売りであるアホらしさを強く押しだし、かつ、退屈させないアホなしかけをいっぱい用意していたように思う。

「曙 vs サップ」や紅白などにない「ゆるみ」を感じた大晦日の番組であった。

(ま、まったく大したことじゃないけど。)


1/2/2004(金)

もう二日か。

大学の雑用が無視できるという意味では特別だが、もうスーパーもやっているし、普通に仕事している(よく考えると、元旦も普通に仕事してたけど)。

論文草稿を少しいじって、流体中の電気伝導系では、表と裏のふたつの SST がどちらも自然であることを明示してみることにする。 いちおう driven lattice gas だって両方に相当するバージョンが作れるわけだし。


いま、風呂上がりです。

最近、風呂から出て、体をふいて、パンツをはくたびに、

ああ、この動作をロボットにやらせるのは大変だろうなあ
と思ってしまう。 片足でバランスし、両手でもったパンツをめいっぱい低い位置で固定。そこにすばやく足を通して、今度は逆の足で立ち・・ これは、むずかしそう。

きっとロボット工学の人たちも、風呂からあがってパンツをはくたびに「ああ、これを、俺の作っているあいつにやらせるのは難しいよな」と思っているにちがいない。 で、「まあ、ロボットだからパンツはく必要がないんたよな。よかった」と思って安堵するのであろう。

人間型ロボットと称するからには品位をもつべく自分でパンツをはけなくてはならない! あ、あと靴下も。
などと主張したら嫌われるのだろうな。
1/3/2004(土)

散歩をかねて、息子と妻と三人で池袋へ。

息子がさくら屋で買い物するのにつき合い、ついでに DVD 売り場をながめていたら、Dr. Strangelove の DVD を発見。 この映画だけは店でみつけたら衝動買いしようと、ずっと前から決めていたのです。 というわけで、まず妻の許可を得て、それから、うわあ三千円かとかしばし迷ったりしてから、計画通り衝動買いしてきました。

うれしいな。 台詞なんかを何回も聞き直したくなる映画だから、DVD でもっている価値も高いと思う。

ただし、見始めると時間がかかるので、まだおあずけで、仕事をしつづけています。


1/4/2004(日)

「おれおれ詐欺」のパロディを考えるのが流行っている(今も、息子と電車の中で、彼の友達のレオ(←日本人で、ちゃんと漢字がある)の場合、「あ、おれ、おれ、レオ」という「おれレオ詐欺」がありうると話していた)けど、ぼくがこの前考えたのは、

おれおれジャギ
長年会ってない一つ上の兄さんが急に電話してきて、送金してもらわないと怖いぞとか言って、で、すごく強いのかと思うと実は弱っちいという・・・、その、「北斗の拳」を知らない人には意味不明なので、ごめんなさい。 (正月から書くネタじゃないとは思ったけど、じゃ、いつなら書くべきということもないので、気にせず書いた。)
1/5/2004(月)

やれ驚いた、もう五日だ。

もう少ししたら、来年度の時間割をさくっと、すぱっと、すりっと全部 おみとおしだ 作ってしまわねばならない。 が、今は、まだ、忘れて過ごすのだ。


[manusucript of  a paper] 論文(あくまで私の第一バージョン)の草稿もだいぶ増えてきた。 作業風景の記念写真を載せておこう。 ちょっとわざとらしい(きれいすぎ)だが、基本的には、こうやって(コーヒーを飲みつつ)プラスチックのシャーペン一本とレポート用紙だけで作業を進めている。 (草稿はセクションごとにまとめてホッチキスでとじてある。 今は、section 7 を書いている。)

レターならいざ知らず、しっかりとした構成をもち、異なった部分が深く関連し合う、長い論文を書くときは、ぜったいにまず紙の上に書く必要がある --- というのがぼくの長年の試行錯誤の末の結論なのだ。 (紙の草稿だが、LaTeX のラベルはすべて書き込んであって、相互参照はちゃんとラベルでやっている。 図ももちろん手描きのいい加減なスケッチだが、ファイル名は決めてある。 これらを後でやろうとすると能率が極端に悪くなる。) 直接コンピューター上で作業するのがかっこいいと思うかも知れないが、どうがんばっても、コンピューター上で物を書くと近視眼的になってしまう。 前の部分に書いたことをじっくり見直したり、整合性を保つため、後から元に戻って書き直したり、という作業をきちんとやるためには、紙に書いた物が物理的に目の前にあるべきなのだ。

「いくつかの部分を独立に書いて、コンピューターにためておいて、後からくっつけて長い論文にすれば?」という作戦もダメ。 それをやると、記号法や、モデルの設定、そして何よりも、「ノリ」がちぐはぐな、統一性の低い書き物ができあがってしまう。 実例はいっぱい見てきた。 もしあなたが読まれている論文や本に統一感がないなあと感じるなら、それは、コンピューターで分断されて書かれたことの弊害かも知れない。

ぼくは、長い書き物を頭のなかで構成する力はけっこう優れていると(勝手に)自負していて、この論文についても、書き始める前は「内容をすべて見切っている」つもりだった。 しかし、実際に、手を動かし、書いた物を読み返し、読者を想定して議論を進めていくと、完全に思っていたようには進まない。 ところどころで、大幅な考えの修正を、半ば必然的に、要求される。 そういう意味では、「うまっている仁王を掘り出す」という感覚に近い物を感じる。 大ざっぱなノミのふるい方は自分で決めているわけだが、いざ実際に細かいところを掘りはじめ細工を施しはじめると、こちらの意志とは無関係に、書かれるべき作品の「主張」が優先されるような感覚。 さて、平成の木に仁王はうまっているか?


忙しいはずなのに、考え始めると、とまらなくなりますね。

道を歩いて考えたのの一部

もっとあった気がするけど忘れた(忘れても惜しい気はしない)。

だいたい、こんなのみんな誰かが考えて web に書いているだろうなあ。 検索してないけど。 (付記:ビールを飲みながら、「O0O0詐欺」だけは検索してしまった。 けど、これを書いた人はいないみたいだよ!  これって、今読み直すとけっこう面白いからうれしい(と思うのは、酔っているからか?)


ああ、もうこんな時間(深夜の1時20分)なのに section 7 が終わらない。 ほぼ一日中書いてることになるか。

木から仁王を掘り出すってのは、やっぱ、訂正。 なんか地面の中から掘り出している感じね。 この程度の大きさだろうと思って、ごそごそ掘っていると、思ってたよりずっと大きくて、掘れば掘るほどに大きさがわかってくる、みたいな奴。 とか言ってないで書かなきゃ。


1/6/2004(火)
私は、長いコンピュータ人生のなかで、Windows ユーザーには同情を感じこそすれ、羨望を感じたことは一度としてありません。 ただ トム中野さんの 2004 年 1 月 5 日の日記を見たときだけは、自分も Windows / IE の環境を使っていれば、ここで自虐的な喜びを味わえただろうと少しだけくやしく思ったことは認めましょう。 (Mac ユーザー H. T. 氏(匿名希望)談)
というわけで、Windows / IE の環境を使われているラッキーなみなさんは、この機会に、仮想現実世界の脆弱さをご堪能下さい(リンク先は、危険なものではないので、ご安心を)

あなたが閲覧している入試情報を載せた大学の公式ページも、大手の新聞のニュースページも、すべて、URL まで偽造し巧妙に作られたニセモノかも知れない。 市の公式ページで知ってでかけていったイベントも、実は、あなたを陥れるために作られた大がかりなインチキなのでは?  実はあなたが毎日かよっている学校も・・ いや、あなたの隣の・・(お約束ですみません)


オランダでポスドクをしている S さんと会うため大学へ。 いちおう、初出勤か。

数理物理の展望を語るうちに、

(統計力学、物性の周辺では)理論物理というものが急速に消滅しつつあるからね
などという発言をしてしまう私。

言ってから考えてみると、きわめて真理であるように思われて、ちょっとだけおそろしくなる。

ま、おれが、がんばっているうちは死なないわけだが。


1/7/2004(水)

ふう、ともかく第 2 節から 8 節まで、手書きの草稿を脱稿。 レポート用紙三冊くらいかな。 字の密度は低いけど。 あと、第 1 節が introduction, 第 9 節が discussions だが、それが書かれるのはずっと先だろう。

長い長い第 7 節だったものは、けっきょく構成をかえて、長い長い第 8 節となった。 他にも構成をかえるため、文字通り cut and paste をしたところもあるし、語法を一貫してかえるため、線をひいてぐちゃぐちゃやったり、いろいろ。 つづりの省略などもたくさんあって、まだ、基本的にはぼくにしか読めない草稿である。

さて、これから図をばああっと描いて、草稿の内容を猛烈な勢いで入力し、それをきれいに出力した物を、他人の目で読み直し、大量の赤をいれ、大幅な構成の変更をし、それをすべて入力し、それをきれいに出力した物を、他人の目で読み直し、大量の赤をいれ、大幅な構成の変更をし、それをすべて入力し、・・・、そして共著者の佐々さんに送る。 ここまで冬休み中にやりたかったけれど、ちょっと無理かもしれないなあ。 って、無理だよ、明日は明後日の講義の準備とか時間割の作成とかいろいろしなきゃ。


1/8/2004(木)

晴れていて、風がつよく、寒い。

これぞ冬。

つい大学に行くのが億劫になって家で仕事をしてしまう。 しかし、こういうときこそ外に出るのが健康のためにもよいはず。 がんばって出勤だ!

といいつつ、二時になっても家にいる。


そういえば、朝日新聞の一面にのっていた、本田さんたちの「フラクタルの立体に電波をとじこめる話」はたいへん面白そう。 とはいえ(月並みだけど)記事だけじゃ、わからないことが多いなあ。 特定の波長だけが閉じこめられるというから、スケール不変な現象というわけじゃなさそうだし、フラクタル性がきいているのか、穴だらけの特異な幾何学的構造がだいじなのか。 はたまた素材の妙か。 ま、当面は、数値計算の人たちがどっと計算をしそうだ。
風のなか、大学に来たぞ。

雑用事始めはさっさと終わらせ(←いいのか?)、論文の図を描く。 昔の図に手を入れて再利用したものを含めて 18 枚(←ファイルになっているんだから「枚」で数えるのも変なのだが)すべて描いてしまった。 偉いぞ、おれ。

このように、コンピューターを使って作業するときも、論文の入力と図を描く作業を、あえて切り離している。 精神的には、論文を最初から順にコンピューターに入力していくのが自然なのだが、実際問題として、TeX 用のエディターとお絵描きソフトとをいったりきたりしての作業は(最終的な修正の段階に入っていればいざしらず)能率が悪い。 おもしろみはないが、図を用意するときは、ひたすら「お絵描きモード」に入って、図だけを描くのがよいのである。

能率ばかり追い求める夢のない大人になってしまったのだな --- とか言われそうだが、本当の夢を追う時間を少しでも多くするためにも、機械的な作業は最大限に能率的にするべきだと思っているのだ。 こういうのは、長年やっているうちに身に付いてきた知恵なのである --- って、ことは、やっぱり大人になってしまったのか。


1/9/2004(金)

1時限目は講義、午後からは来年の卒業研究のための研究室紹介、来年から物理学科の新メンバーとなる I さん(←決まっているから実名でもいいのだが、ま、4月まではこうしておこう)と教務の打ち合わせというか雑談、四年生のゼミ、(今年の)卒業研究の打ち合わせ --- というわけで、怒濤のように仕事がはじまったのである。

それでも、合間を縫って、手書きの草稿を次々と TeX 化していく作業。 すでに、section 名およびラベル、figure 環境と図のファイル名とラベルは入力済み。 ここに、ひたすらテキストを(その場で文章を手直ししながら)入力していくのだ。 単純労働ではないが、創造的でもない、根性のいる仕事である。 家に帰って食事の後ももちろんやっている。

最初は、俺の英作文やタイプのスピードってこんなもんだったかね、と思いながらやっているのだが、しばらく続けていると、どんどん速く能率的になっていく。 自分自身が最適化されていくのだな。

「慣れていくのね、自分でもわかる」
と思わずセイラさんの台詞が。

言うまでもないでしょうが(←?)ぼくはセイラさんが好きですね。 もちろんララアも。 (あ、ガンダムの話題ね、念のため。) シャアはダメです。悪者です。 別に主人公(←誰だっけえ(わざと))と戦うからじゃないぞ。 ララアを利用したからだ。 許せないな。 妻は好きらしいが。

すみません。はい。こんなこと書いてないで仕事のつづきやります。


佐々さんの日々の研究(1 月 9 日)と並行に読んでいらっしゃる方へ。

ぼくは、今は、とにかく能率的に草稿を仕上げようとしていますが、いったんできあがって印刷すれば、けっきょく、自分でも真っ赤にして直しまくるだろうし、気が変わればいくら書いても没にするし、さらに(ここから先が本番で)共著者の佐々さんと検討しまくって、大幅に書き足し(てもらっ)たり、大幅に直したり、大幅に没にしたりするに決まっているのだった。 今までも、そうやって、大量の没と埋もれた原稿を生み出しながら、論文や本を書いてきた。 それを効率が悪いというべきかどうか。 そうやって試行錯誤する以外に、少しでもましな論文を書く方法をぼくは知らない。


1/10/2004(土)

午後、家にこもって仕事ばかりじゃ体にわるいので、散歩がてら高田馬場の本屋に行った。

行きは、だいたい20分、帰りは、一時間弱かかった。 なんと世界は非対称なことか。

ちょっと遠回りして行きと違う道から帰るつもりが、完膚無きまでに方向を見失い、さまよった結果です。 早稲田通りを離れ、西武線を越え、新目白通りをめざして歩いていたつもりだったのに、完璧に迷って見知らぬ町並みをさまよったあげく、ようやく太い道にでたと思ったら早稲田通りだった(トポロジー的にあり得ない)ときの衝撃などを事細かに「雑感」に書こうと思ったけど、それって、迷って歩き回る以上に時間の無駄な気がしてきたので、やめます。


妻が(なんと言われてもシャアが好きだそうですが)、いったい都立大の騒動はどうして世間でもっと話題にならないのだろう、と言う。

まったく。 都知事の意向だかなんだか知らないけど、大学や学問の場を平然とぶちこわそうとしているらしいのだが、新聞も大して取り上げないし、なんか妙だ。

話が大きすぎるせいもあって、ぼくもこんなところで間抜けなことを書けないなと思っていたのだが、ともかく、アンテナから「都立の大学を考える都民の会ホームページ」にリンクをはった。


8日に触れた「フラクタルの立体に電波をとじこめる話」は、阪大の宮本研のページに新聞よりは詳しい解説があることを板倉さんの日記で知った。

最初にも書いたけど、フラクタル性との関連は微妙かもなという気がしてきた。

そもそも、この場合、フラクタル図形なのはエポキシ樹脂とかでできている立体の方であって、そこにあいている空洞はちゃんとした三次元の空間。 だから、フラクタル媒質中の波動の伝播の問題と直結はしないのだ。

また現象としても、特定の波長だけを「ためる」のだから、いかにもフラクタルっぽくはない。 真ん中に適切なサイズの空洞があり、そこに至る入り組んだ大小の道があるという構造が大切なんじゃないかな?

ま、現象として面白げだという感想は変わりませんが。


1/11/2004(日)

[tubureta kan] 画像をご覧になれる環境の方は、右の写真をご覧いただきたい。 そうでない方は、200 cc くらいのスープの入ったスチール缶が、かなりはげしく、ベコッとへこんでいる様子を思い浮かべていただきたい。

これは、妻がとあるパン屋さんでサンドイッチを買ったところ、おまけでつけてくれたスープなのである。 こういうものはあまり飲まないので、食堂のテーブルの上に放置してあったのだが、朝になって見てみると、なんと、このように無惨にベコッとへこんでいたというわけだ。

おおかた、家族の誰かが、何を思ったのか、力任せにえいやっとつぶしてしまったに違いない。

「怒らないから、つぶした人は申告せよ」
そう言っても、家族はみな、「自分は、そんなことはしていない」と否定する。
こうなっては、しかたがない。 自然にこうなるはずもないから、誰かがやったはず。 この中の一人が自分のしたことを隠しているのだ。

しかし、へこんでいる部分の形と、一人一人の手の形を合わせてみれば、誰がやったかわかるはずだ。 かなり力のいる仕事だから、手とへこみがぴったり一致する者が「犯人」であろう。 家族に向かってこんな言葉は使いたくないが・・

というわけで、一人ずつ順に、缶のへこみに利き手を合わせてみる。

パパの手だけが、ぴったりだ・・・
ええと、

あれだ。

仕事のことを考えながら風呂に入っていて、ふと、われにかえって、自分は果たして体を洗ったのか洗っていないか迷いに迷ってどうしても結論がでない、ということは、ある。 しょっちゅう、ある。 思い出すと、中学か高校の頃からそうだった。

しかし、知らないあいだにスープの缶を握りつぶすようなことは、ないはず。ハルクじゃあるまいし(「常人ハルくん」なんちって)

ええと、

誰もやっていないとなると、これは自然におきたことにちがい。 人を疑う前に、その可能性を吟味しようではないか。 それが科学的な態度のはずだ!!


実際、妻からは、
  1. もらってきたとき、缶スープは暖めてあった。
  2. その時点で、すでに、缶に小さなへこみがあったような気がする。
という証言が得られた。

とすると、スープが冷えて内部の気体が縮む際に、小さなへこみが自然に成長して、こんな姿になってしまったということが考えられる。 実際、円筒状の容器の場合、表面積や曲率をほとんど変えずに側面だけを変形して、内部の体積を減らすことができる。 (これは、円筒状にまるめた紙のまんなかあたりをつぶしてみれば、わかる。)

しかし、一方で缶の内部の気体の量が、こんな変形を引き起こすほどに多いのかというのは気になるところだ。

果たして

缶スープの自発的変形
の現象は、普遍的にみられるものなのだろうか? 結論もオチもなく、科学的な問いかけで結んでみたいと思います。

ちなみに、缶スープ(特にコーン粒入り)に関して、別の角度からの科学的考察をこちらで読むことができます(←オチを他人に頼るのはやめよう)


1/12/2004(月)

とある編集者から、早川さんがちかごろ考え出したデータ処理の方法というのを聞く。 不正確な情報なのだが、こちらはプロだから、たちまちのうちに本質と詳細を理解した。

なるほど、あれをこう数値化するのは当然として、いっけん別の範疇に属するこれをこうやって数値化して同じ二次元面内であつかうわけか。 そして、みっつめの要素は・・ ううむ、これは、笑っちゃうほどに、かしこいぞ。

数学的な構造、その科学としての実際の意味、そして、自分の頭の中にしかない抽象的ではあるが妙に具体的で直感的なイメージ、その三つが三位一体となって頭の中をまわりはじめる。 数理的な科学をやっていて、本当にものごとがきちんとわかったときには、こういう三位一体の境地が訪れるのだ。 逆に、そうなっっていない間は、本当に「腑に落ちた」とは言わない。

理解するほどに、このアイディアの卓抜さと強力さが身にしみて理解できる。 初期の意図を越えてこの方法が拡張できることに気づくと、さらに、興奮してくる。


当然ながら、そこで目が覚める。

なんだ、いつものベッドの中だ。

しかし、今まで考えていた話はそっくり頭に残っている。 目が覚めたところで、再び、全体を検討する。 お、これはいけるぞ!  夢の中で考えたこととしては、実に例外的に、本当に具体的なところまで意味があるじゃないか!!


当然ながら、そのあと再び眠ったらしい。

完全に目覚めていると思われる今、早川さんの新しいアイディアで思い出せるのは、妙に具体的で奇怪で不思議な頭の中のイメージだけ。


1/13/2004(火)

午前中にすべての手書き草稿の入力を完了。 今の段階では、single space, A4 で 51 ページ。 自分でもけっこう速かったと思う。

まだまだ、これからですが。


午後は会議や、真面目な雑談、そしてちょっと物理の議論。

自分でも予想以上に疲れてしまったので、明日の講義の準備は家に持ち帰ろう。


夜です。家にいますが、まだ疲れたまま。

なんか余裕も「ゆるみ」もない日記ですが、ま、こんな日もあろう。


1/14/2004(水)

力太郎(ちからたろう)という昔話がある。

主人公の力太郎の他に、石こ太郎や、御堂っこ太郎(←力自慢なので、いつも「御堂を背負っている」のだったと思うが、なかなかイメージしづらいよね)などの力持ちの仲間が登場し、いっしょに巨悪と戦うというような物語だったと思う。

彼らの仲間として、「ふらく太郎」というのはどうかなと、さっき思いついた(本当にさっきです、決して何日も暖めたネタではありませぬ)

おいらは、ふらく太郎! 髪の毛は 1.3 次元、体表面は 2.2 次元、さあ、かかってきやがれ!!
とか言うわけだ。

そして、敵と戦うのだが、どう強いか考えるに、

などである。

今ひとつ決め手に欠くか・・(日記のネタとしても)


出力した論文草稿に赤入れをする作業に邁進したいところだが、そこは強い意志でがまんして、たまっていた諸雑用を少しずつこなす。 細かいメールをいっぱい書き、レフェリーレポートをひとつやって、電話をかけまくって時間割を作り、伝票を整理し、ええと、なんだっけ。

ま、いいや。今は夜で、また赤入れに復帰。


1/15/2004(木)

昨日、思いついてとっさに書いて、書いてから後悔したものの、自分自身の趣味としては気に入っているから誰にもうけなくてもいいんだと開き直って受け入れていた「ふらく太郎」に、なんと、さっそく「すばらしい」という反響のメールが!

しかも、わたしのいい加減な発想を、さらにいい加減に 展開し膨らませてくれているので、ご本人には無断で、ここに掲載してしまおう!

ふらく太郎は、すごい能力を持っているわけですが、 ふだんは、ふつうの人である、じょう二郎が お酒を飲みすぎて きょうじ三郎に変化する直前の、その一瞬だけに限って 現われるので、最後の敵とか、主人公が本当に困ったときにしか 出てこないのですね。やはり。

一方、巨悪シンジケートでは、ふらく太郎を、 システマティックに作り出す方法を作って世界を征服しようと、 地下研究所で秘密の実験をしているのだった。(つづく)。

自作自演じゃないからな! (ただし、日記を自分で考えるのをさぼったことは認めます。)
赤入れはひととおり修了。 夜に修正作業をしたかったが、子供に勉強を教えるという神聖な義務が発生したので、思い通りにならず。
1/16/2004(金)

講義や四年生ゼミや食事の時間以外は、ひたすら Sasa-Tasaki の SST 論文への修正と加筆を入力していく作業。

がんばったかいがあって、夕食のため帰宅する前に、いちおうの草稿が完成。 もちろん、まだまだだけれど、ここらで一休みすることにして、佐々さんにファイルを送る。

今のところ A4 single space で 55 ページだが、両面で印刷すると、意外と薄い。 ごりごりの数理物理的な証明のない論文は、長いように感じても、やっぱりまだまだ短いのだなあ、というのが感想。

長い短いはどうでもいいけれど、ともかく明確に新しいストーリーを打ち出し、それを生き生きと語り人々に伝えることを目指した論文だ。 書いていて素直に楽しかったし、今でも、ずらっと並んだ目次を見ると、すなおにわくわくする。 ああ、そう。 こうやって新しい物を何か作ろうと思ったときの「わくわく感」こそが、子供の頃に半田付けをしてピイピイ音のなる回路を作ったりしてきた頃以来、ずっと、ぼくを突き動かしてきた原動力なんだなあって思う。 ぼくを数理物理の世界にむかわせることになった Aizenman の偉大な論文にも、同じ「わくわく感」を感じたからこそ、あそこまでのめり込んだのだなあと。


で、今の論文。

現象論を逐次構築していきながら、いくつかの理論的な考察の「山」がある。

気に入っているのは、Maxwell relation の導出のところ。圧力と化学ポテンシャルを、それぞれ、自然に定義しておいて、実はそれらが必然的に Maxwell relation を満たすことを、力学の力のつり合いだけから言ってしまうのだ。 初等的で、かつ、強力、そして、スマート。 言うことはない。 ただし、これは完全に佐々さんの功績なんだよなあ。 ぼくのオフィスではじめてこのアイディアを聞いたとき、駒場のホワイトボードを前に「Maxwell は、ほぼ自明」と佐々さんが言ってその意味を瞬時に理解したとき、どちらも、これはやられた、と思ったのをよく覚えている。 (こんなこと、書かなければ当事者しかわからないんだけどさ。)

もちろん、最高の「山」は、SST が種々の制限から解き放たれ、その真の姿をかいま見せつつ(おそらくは、SST にとっては腕試し程度に)暴れまっわってみせてくれる最後の部分。 μ-wall が登場し、FIO (flux induced osmosis) や共存温度のシフト、熱流誘起凝固など、新奇な現象の予言がつづく。 もはや、佐々さんとぼくのどっちが出したアイディアとかいうレベルではない。 この何年間か、二人で、死にものぐるいで追求し、悩み、鍛え直してきたアイディアたちなのだ。


SST 論文を切り上げたところで、清水さんの量子力学の教科書の改訂版(このたび、全面的に記述を見直し、さらに2割ぐらい内容を加筆して、単行本化するそうです、うれしいなあ(って、書いてよかったのかな?))へのコメント、N 君の博士論文を精読する作業、など、次の仕事に移っていく私の姿があった。 あー眠い。
ううむ。 今日は、軽いネタをひとつも思いつかないぞ。

困った。

いや、別に困る義理はないか。


1/17/2004(土)

午前中、大学でちょっと人に会った後、午後は予定通り清水さんの量子力学の本(きのう「ハードカバーで出る」と書いたのは嘘で「単行本化される」と書くべきでした。時をさかのぼって修正しておきました)へのコメントと N 君の博士論文の精読。

いったん SST からは離れるつもりだったが、道を歩きながら、すなおで堅実な実験的検証について、少し考えてしまう。


清水さんと、本についてのメールをやりとりしながら、彼の本の意義について意見を述べる。

もちろん、このようなスタイルの本がでるのは重要。(ぼくの趣味にも大いにあっている。) しかし、それ以上に意義深いのは、量子論のような基礎的なテーマについて、基本から構想しなおした新しい本がありうるということを体をもって示したという点だ(佐々さんやぼくの熱力学についても同じようなことが言えると思っているのだ、ひそかに)。 基礎的な分野の教科書の著者の非常に多くが、偉大なものは既にすべて書かれていて、現代の著者は過去の遺産を再利用・再生産すればよいと信じているようにしか見えない。 それが、科学の矮小化にしかつながらないことがわかっていない。 そう言う人たちが清水さんのような試みをみて恥を知るということはあり得ないだろう(それだけの自覚があれば、そもそもくだらないものなど書かない)。 彼らには期待しない。 しかし、科学に真摯に取り組もうとしてる人たち、とくに若者たちは、同時代に(そして同じ国で)こういう試みが進んでいることを、心からうれしく思うにちがいない。

ぼくも、理想の量子力学の教科書を書くことを秘かに夢見て構想を練り続けていることは言うまでもないであろう。


1/18/2004(日)

佐々さんの日記(日々の研究 1/6/2004)に出てきたフレーズ

ちなみに、他人の計算やら理論を読むときは、結果と条件だけみて、大事だと思えば、自分で好きなように導出する。
について。

もちろん、そうなので、ぼくらはそうやって人の論文を読むことが多いし、プロを目指す人にも(ある程度、実力と常識がついてきたら)そいう態度をもってほしいと思う。

ただし、世の中、そうやって読まれるべき論文ばかりじゃないぞ、ということも言っておきたいのだ。


問題設定さえ決まれば誰でも計算できるようなことをやっている論文のことは忘れよう(ほとんどの論文が、そうなのだけど)。 (「問題設定こそが猛烈に非凡で素晴らしく、あとの計算は誰にでもできる」という偉大な論文もありうるだろうけど、あんまり例を思いつかないなあ。) 前人未踏の領域に一流の発想で踏み込んでいったような論文からは、いっしょうけんめい論理と計算を追いながらいっしょに同じ道を歩いてみることで、世界の新しい見方を学ぶことができるものなのだ。 そういうものに接して感動しながら研究者は成長していくのだと信じる。

ぼくは、マスターの最初あたりに、数理物理の論文を死にものぐるいで大量に読んだのだけれど、本当に一流の、個性豊かな人たちの書いた論文世界を歩き回るのは、信じがたいほとに楽しく実り多い経験だった。 とくに数理物理の世界では、物理的なアイディアをとことん煮詰めて、それを数学のレベルまでもっていき、とどめを刺すわけだけれど、そのあたりの攻め方が人によってまったく違うので、そういうところも面白かった。

毎回、どう逆立ちしてもぼくには思いつけないようなエレガントで新しいアイディアをもってきて、奇跡のようにすぱっと問題を切ってしまう人; 一種尋常でない関数解析的な直感をもっているらしく、不思議なノルムを定義し、変な不等式をいじっているうちに、猛烈に物理的に強力な結果を出してしまう人; 物理の本質をにらみ、楽しい絵を描いて確率の評価をしてみせて、最後は猛烈に美しい定理を証明する人 --- そういう強烈でスマートな個性たちに触れるわけだから、結果をしること、証明の手法を知ること、だけではなく、そういう数理的知性の使い方そのものみたいなものに深く接するだけでも、大いに愉しく意義深い物があったと思うのだ。

もちろん、世の中、ほとんどの論文はクズだし、じっくりと新しい世界に案内してくれるような深い論文は年を追うごとに少なくなっていくのだろう。 そもそも、まともな論文に深く接した体験がないとしか思えないような研究者も実はいっぱいいるし(スピン系とかに多くみられるある種の数値計算の人たちは、どんな理論の論文も、数値計算で検証するためのネタとしか見ないので、数理的世界の見方などすっとばして「身も蓋もなく」表層だけを読んでいるみたいに感じる)、悲しいけれど、そういう人たちの中にも一流とみなされている人も少なくない。

なんか、がっかりする状況だけど、でも、そういう「境界条件」を理由にあきらめるのは馬鹿らしいことだ。 科学というのはそんな安っぽく、もろい物ではないはず。 これから科学を志す人には、若いうちに、是非とも素晴らしいと思える論文、自分自身の世界をひろげるのに役立つような論文を読んでほしい、と素直に願い続けることにします。

無論、ぼくだって、これからも他人の優れた論文を読んで自分を広げていきたい。

そして、できれば、深く読んでくれた読者に新しい世界の知的風景を見せることのできるような論文を自分の手で書きたいと思う。 (それに近いと思えるものは、ほんのいくつかだけど、書けたかなとも思うんではあるけど、でも、まだまだです。もっとがんばろう。)


ひとこと書くつもりが、自分の予想をこえて、短時間にわっと書いてしまった。 やっぱり、こういう話題については、いつでも潜在的に書きたいという意志があるんだろうなあ。 また書くでしょう。 今日はビール飲んで寝ます。
1/19/2004(月)

昨日は運動不足だったという自覚のもと、散歩がてら、池袋をまわってちょっと買い物をしてから大学へ行くことに。

いつもとは少しちがう、立教大学の前をとおるコースで池袋へ。 むかし、服部さんが立教の数学科にいらっしゃったころ、学習院から自転車で遊びに行ったことがある。なつかしい。 学習院から立教は、びっくりするほど近く、自転車であっという間についた。 いろいろと話をして夕方になって、学習院に(当時は大学のアパートに住んでいた)戻ろうとしたら、びっくりするほどなかなかつかず、変なところを巡りに巡って、すごく時間がかかった。 この世界のなんと非対称なことか、って、もういいですが、はい、すみません。

池袋駅につき、ついでに大きな書店である芳林堂に立ち寄ろうとしたら、シャッターがおりていて、貼り紙がしてある。 そして、その貼り紙をじっとみつめたまま立ち止まっている若者が一人。

貼り紙によれば、なんと去年の暮れに閉店してしまったらしい。

ここの理工書売り場には、数理科学のバックナンバーまで置いてあり、普通の本屋としては、かなり充実していたのだ。 たしかに、最近はあまり利用しなくなっていたが、長年お世話になった本屋さんが消えていくのは寂しいことだ。


大学へ。会議や雑用。着々とこなしているが、なんとなく仕事した気がしない。

ぼくにしては珍しく焦燥感もなければ、充実感もあまり高くない一日。 それを反映して、雑感の文章も冴えない(当社比)。


1/20/2004(火)

今し方、人に送ったメールの結びの言葉を、ちょっと脚色して、ここにのせておこう。

統計力学っていうのは、○○みたいに地味くさくなく、かといって○○みたいな一点競争型でもなく、ポップで、軽やかで、しなやかで、それでいて、きわめて高い知的レベルとすぐれた物理的センスが光るような分野であってほしいのである。
ただし、伏せ字の部分で、○の数と文字数を一致させておりませぬ。
Apple からのメールのリンクをたどって、つい、Steve Jobs のキーノートスピーチを見てしまう。

やっぱり話うまいよな。 プレゼンテーションについて学ぶところは多い。 とかいう理屈以前に、ああ、やっぱりおれ Mac 好きだなあと思わせてくれる --- ってところが、やっぱ話うまいんだ。


1/21/2004(水)

風邪気味だった息子が、ついに発熱して学校を休んでいる。

同じ家に暮らしている以上、すでに、ぼくの体内にもたっぷりとウィルスが進入しているにちがいない。 だが、これから定期試験、Raphael が来て driven lattice gas をがんがんとやろう、入試業務もうすぐ --- というこの時期に、風邪で倒れるのはつらい(いつなら倒れてもつらくないかと聞かれると、困るが)。

ともかく無理をせず、体を休め、あとはひたすら神やら仏やらに祈るしかありません --- などと、科学者である私が言うわけはない。 暖かいものをのんで体内のマクロファージを活性化させ、水分とビタミン C を大量に摂取し、あとはひたすらライナス・ポーリング先生の御霊(みたま)に祈るのである。

ポーリングと言えば、ぼくは彼の直筆のサイン入りのリプリントをもらったことがあり・・

と書きかけてから、ふと検索してみると、すでに 2001 年 5 月の雑感(5/4/2001)にそのことを書いていた。 ちっ。 しかし、あれですね、2001 年なんていうとどう考えても「未来」という響きなんだけど、ばっちり過去なんだよな(ちょうど FIO を見いだしたころに風邪をひいてたようだ)。 頭ではわかっても、 どうも納得がいかない。


レフェリーをひとつ片づける。 英語もうまいし(母語だから当然か)、真面目に読んだのだが、最初は普通のことが丁寧に書いてあり、肝心の売りのところはあまりにせこくて、なんじゃこりゃ状態であった。
今のところ風邪を発症する気配はなし。

がんばれマクロファージ!


三月のアメリカ行きのことを真面目に検討し始める。

あと、夏休みには久々に物性夏の学校の講義を引き受けることに決めた。

昨年末の宣言どおり、今年はちょっと積極的なおいらである。


1/22/2004(木)

買い物と散歩(=瞑想)をかねて遠回りして、池袋へ。

外場をくわえた量子系における線形応答の表式の「正しい」導出を、なんらかのモデルで、ごまかしなく実演できないだろうか?  もちろん、エネルギーの散逸をきちんと取り入れなくてはならないから、それには「熱浴」を正直につくる必要がある。 純粋に量子力学だけを利用した熱浴というのは(自然界のは、そうなっていると思うが)理論的には難しいのだが、たとえば、昔なんとぼくが作ったのがある。 こいつとずっと接触させると難しいから、短時間接触させて、熱浴を外し、それから短時間だけ外場をかけて、また新しいフレッシュな熱浴をくっつけ・・・、ということをくり返す。 これで系の密度行列が定常になる条件を導き、そこから輸送係数の表式がでないか、相反定理が証明できないか、などなど。 いま、確率過程でやっていることの平行移動なのだが、もちろん、気が狂うほど難しい。 しかし、雰囲気は似ている気がしないでもなく・・・

最近は、池袋駅西口にもよく出没するので、次第に土地勘もついてきた。 同じような道を通るかぎりは、絶望的に迷うこともほとんどなくなった。

広場の向こうに芸術劇場がみえる。

そして、メトロポリタンプラザは、あっち。

ちゃんと、わかっているのだ。

ふふふ、どうだ。 ほんの二ヶ月たらず前(11/27/2003)まで、おまえたち二つのビルは、(ぼくの世界の中では)ただひとつの建物だったのだぞ --- と心のなかでつぶやく。 そして、ふたつのビルのあいだの建物や道は、たった二ヶ月前にこの世に出現した、新たなる土地なのだ(ぼくにとって、のみですけど)

こういう風に、「風景が変わっていく」感覚は無性に好きだ。 多孔質壁をつかってはじめて SST 化学ポテンシャルを導入したとき、その後、ポテンシャル変化法で化学ポテンシャルを特徴づけることを知ったとき、まだ、あたりの風景は混沌としていて、ふたつの特徴付けの関係もまったく不明確だった。 しかし、それから mu-wall というものを明確に意識し、確率過程の弱接触を定式化するうちに、しだいに、風景が変わって来た。 今は、ふたつの特徴付けの相違と関連もかなりよく分かってきたし、両者のあいだに横たわるべきものも見えつつあるような気がするのだ。

もちろん、また、全くわけのわからない方角を目指して歩き出し、とことん道に迷いながら、見たこともない風景に接してみるのも愉しいし貴重なことではあるのだが。


息子は一日くらい寝ていたら相当に回復してやたら元気そうにしている。

お医者さんの投薬が適切だったのか、この風邪はたちがいいのか。

しかし、考えてみれば、男子中学生といえば、体力・生命力・抵抗力いずれも人間としてほぼピークにあるといっていいだろう。 そいう段階の人類がかかって軽くすんだからといって、まったく安心はできないのだ。 一世代ちがうわれわれが同じ風邪をひいたら、同じ結果にはならないのだろうと思う。 というわけで、今日もビタミン C をたっぷり摂取。


1/23/2004(金)

1時限目はぼくの統計力学のテスト、2時限目は福祉なんとかの試験監督。

学期がおわってから、あからさまに夜更かしになっていたので、早起きして眠い、眠い。

その割には、その後も、胸痛科目運営委員(←ナイス、誤変換!)の雑用、来週の力学のテストの問題作成、などなど、てきぱきとよく働いたわい。

しかし、あれだな、Steve Jobs のキーノートスピーチを見ていると、OS を Panther (10.3) に切り替えないのはまずいことなんじゃないかって気がしてしまいますなあ。 そろそろ、暇をみつけてやるか。


夜です。

採点という、なかなかにつらい作業が、試験のあとに、ぼくら教員を待っています。この
点は、試験のあとは完璧に解放される学生さんたちとの大きなちがいでしょうね。試験が
終わったあとが、始まりだ。研究もしたいし、いつまでかかるのかはわかりませんが、ご
了承くだされ。


1/24/2004(土)

こういうことを書くといかにも凡庸になるので、なるべく書かないのだが、ま、それほどあることじゃないから、書こう。


1984 年の 1 月 24 日に初代 Mac が発売されてから、今日で、二十年なのである。

おめでとうございます。

今まで、ぼくの誕生日に Mac から「おめでとう」を言ってもらったことが何度もあるので、たまには、こちらから祝おうではないか。

Mac が出てきた大学院生の頃から(友人 T が宣伝していたこともあり)気にはなっていたが、本当に Mac に触り始めたのはポスドクで Princeton にいた時だから、1986 年あたりか。 図書館の地下にずらりと並んだ MacPlus は、(貧困な形容だが)超かっこよかった。

別に Apple が真に偉大な会社だとか、Mac が理想のパソコンだとか、そんなことは思っていないが、それ以来、できうる限り、Mac だけを使っているのだった。


あ、やっぱり、凡庸になった。

ま、めでたい二十周年にちなんで許してもらおう。


ところで、二十年前の Mac 発売の寸前に一回だけテレビで流された有名なコマーシャルのことは多くの人がご存知であろう。 その中で、"We shall prevail" と叫んだところでやられてしまう大画面の中の悪者(Big brother)は誰かと聞くと、今の若い人は Microsoft じゃないのと思ってしまうかもなあ。

あ、これも、めっちゃありがちか・・


けっきょく(これも、ありがちだけど)風邪ひいた。

熱もおそらくないし、咳もでないけれど、「喉は赤い」そうだ。 早めに医者にかかって薬をもらう。


豊島区管弦楽団の定期演奏会でシベリウスの交響曲第二番。

オーケストラの人たちの気迫と緊張感が伝わってくる、すごい演奏であった。 こちらは、とちゅう、第二楽章、第三楽章あたりで、風邪薬で頭がもうろうとしてきたようで --- 眠ってしまうというのではないけど --- いろいろのフレーズを軸に頭の中に変な妄想が渦巻き、ちょっと不可思議な音楽鑑賞になっていた。

少し遅れて行ったので、席があまりなく、休憩のあいだに前から二列目にすわった。 音響はあまりよくないし、管楽器の人たちはまったく見えないのだけれど、弦の人たちの様子はつぶさに見える。 終楽章のクライマックスで、チェロの女性が、感きわまったのか、目に涙を浮かべんばかりだったのが素敵だった。


1/25/2004(日)

けっきょく昨日の夜は少し熱が出た。 風邪の症状は大したことないが、自分でも驚くほど、よく寝ている。

それでも、マルコフ過程での線形応答についてのまとめをタイプしている。


今日は子供たちが二人ともでかけてしまい、昼食をどうしようという話になったとき、ぼくがとつじょとして、
近所のおそば屋さんでおいしくて暖かいおそばを食べる
というビジョンを抱き、そう主張した。

しかし、ここに引っ越してきて一年半になるが、近所に気に入ったおそば屋さんはないのだ。 単なる気まぐれの、わかままである。

それでも、妻が web で調べてみると、驚くほどすぐ近所においしいとされるおそば屋さんがあることを発見。 ただし、休みがちだと。

半信半疑ででかけてみると、確かに、目立たないがおそば屋さんがある。 妻によると、前を何度も通っているが、いつも休んでいるらしい。

が、今日は、あいている。

しかも、食べてみると、本当においしいではないか。 (はじめてのおそば屋さんで暖かいそばを食べるのは邪道だろうが、ビジョンに従い、鴨南そばを食す。)

というわけで、閃きのように抱いた無謀なビジョンが具現化した昼下がりであった。 風邪と投薬のせいで新たな能力がうまれつつあるのかもしれない。

お、今度は、夕食後においしい和菓子を食べるというビジョンが・・


1/26/2004(月)

熱はほとんど出ないが、喉が痛い。 もろに風邪の人だ。 講義のない時期で本当によかった。 喉が痛いのに無理に講義をするのはつらいから。 神だか仏だかポーリング先生の御霊だか、何かに感謝。

朝、寝床のなかで、昨日まとめたノートの路線で非線形非平衡領域の相反関係を導くという明確なビジョンを得た。

ただ、昔やってダメだった記憶があるから、どうかなと半信半疑でやったら、やっぱりダメだった。 ビジョン能力、ダメじゃん。


大学には行かず、家で仕事をしています。

集中力が低いのが悲しい。


1/27/2004(火)

Raphael が再び来た。 今回は、driven lattice gas の摂動展開に関連した知見をがっちりとまとめてしまおうと思う。

せっかく気合いが入っているところに、絶望的に長い教授会。

とちゅう、委員の任期のことで議論がはじまったので、トイレにいくために退室し、わざとのろのろと時間をつぶしてから、会議室に戻った。 戻って話を聞いてみると、あいかわらず、同じ任期の議論がつづいていて、議事は先に進んでいなかった。 なんか、損した気分だった。

長い会議を利用して、前回 Raphael と得た結果を頭にロードする。 基本的な Laplace-Poisson 型の方程式の導出は、一昨日のノートにまとめたごとく、今や、自明になったのだが、自明でないのはラプラシアンと「電荷」を三体の寄与に分解する分解定理なのだ。 (ラプラシアンの分解はぼくが証明し、「電荷」の分解は Raphael が証明した。 別に分業してるわけじゃなく、早い者勝ちなんだけど、結果としては、うまく分業される。 うまくいっている共同研究というのは、そういうもの。) どれくらい自明でないかというと、昨夜やっていてわからなくなり、今日の教授会のあいだに時間をかけてようやく理解したくらい。 そもそもラプラシアンの分解定理の証明は、ぼくが黒板でやったきりどこにも書いていなかったようだ。 そういう風だと後で苦労するので、今度はきちんと書き下しておくこと。


1/28/2004(水)

1時限目は力学のテスト。

こちらは監督をしながらラプラシアンの分解定理の証明を仕上げる。 完全にできたと思って他のことをしたあと、もう一度みなおすと、証明にいっかしょ見落としがあった。 げっ。 時計をみると試験時間はあと十五分間。 よし、これだけあれば考え直して穴は埋められるはず。 ええと、こんなのは空でわかるはずで・・・ あれ? あれ? いかんな、あわてるな。 落ち着いて紙に書いて場合分けしてと。 よし、いける。

というわけで、久々に試験終了時刻を気にして答案をしあげる緊張感を味わっていたのでした。

みなさんの緊張感の成果の方も、ぼちぼち拝見させていただく所存です。


1/29/2004(木)

N 君の博士論文公聴会および審査会。

長かった。 うるさい審査委員(=わし)の責任でもあるのだが。

審査に参加して大変勉強になりました。 N 君の前途が実り豊かなものになることを願います。


来週、小松さん、渡辺さん、Raphael に SST(定常状態熱力学)の動機から出発して、現状や実験の可能性を説明する、ということをします。 ずうううっと前にやることになっていて、いろいろあって延び延びになっていたものです。 延び延びのあいだに、理論の枠組みもかなりしっかりしてきたくらい、延び延びでした。

というわけで、そういうのがあるなら聞いてみたいという方がもしいらっしゃるといけないので、一応、ここに書いておきます。 もちろん、ご来聴は自由です。

2月2日(月)2時より

学習院大学 南3号館 3階 305号室

田崎晴明「SST の現状について」

英語と日本語で適当にやると思います。

さらに、2月9日には、佐々研の林さんによるセミナーも予定しています。 急にセミナー企画モードに入った私である。偉いぞ。 こちらについては、もう少ししたら詳しくアナウンスします。

ついでですが、3月30日には Princeton で、4月1日には Rutgers でセミナーをする予定です。 自分で言う事じゃないが、人が変わったみたいですのお。


風邪からは回復したと判断し、
  1. 夜更かししての仕事
  2. 風呂の前の腕立て (20)・ 腹筋 (25)・背筋 (25)
  3. 寝る前のビール
を再開。 三つ目については、昨夜からフライングで再開していたことを素直に告白しておこう。
1/30/2004(金)

driven lattice gas の摂動論の最低次を決める方程式は完璧に理解し、その解の挙動も物理屋レベルではわかっている。 しかし、厳密な漸近評価は難しい。 物理的に意味のある難しさではなく、単なる技術不足の難しさ。 時間をかけてごりごりと hard analysis をやる価値はない。

特に何が書いてあるわけでもない黒板をにらんで二人でうなっていると、「ラプラシアンの構造が簡単になるようなモデルを見るという手もある」と Raphael。

たしかに。 DLG には歴史的なこだわりがあるのだが、これが特に自然なモデルというわけでないのも事実。

ええと、hard core を外すかわりに on-site のポテンシャルを考えると、なるほど、なるほど。 ほとんど自然な会話のスピードで、新しいモデルと、その摂動論が浮かび上がる。 いや、新しいモデルじゃなくて、これってずっと昔、Raphael が京都にいて学習院に来たときに二人で議論したモデルじゃないか。

家に帰ってベッドに倒れているあいだに、新しい言語での摂動論の定式化は終了。 ある意味で、この方法がもっとも自然に使えるモデルなので、方程式の導出はほぼ自明であった。 相互作用の二次が最低次になる。 さて、こうなったら高次の摂動もやるべきだな。


1/31/2004(土)

物理と化学の修士の一年生による発表会。

大学院で研究をはじめて一年たったところで、皆の前で中間報告をしようという会。 なかなか有意義だし、こちらも見ていて愉しい。

午前中は、一人二分ずつのショートプレゼンテーション。 物理と化学を両方聞いたけれど、微妙な差がおもしろい。 物理は、OHP を使い、地声を張り上げて、それぞれのスタイルで発表する。 前の奴が時間オーバーしてもやめないと、すっと出て行って、そいつの OHP を勝手にどけて自分のに置き換え、淡々と発表を始める強者も。 化学は、書画カメラを使い、かつワイヤレスマイクを使用。 前の人が延びても礼儀正しく待つ。 みな、きちんと自己紹介して話し始め、最後は「詳細はポスターにて発表いたします」と締める。 金髪だろうがピアスだろうが、ちゃんと、このフォーマットを守るのである。 こういうところが、わずかな「文化」の差なのだな、と思う。

午後のポスターセッションも、たいへん盛り上がっており、愉しかった。 特定の研究室を持ち上げるのは避けるべきなんだろうけれど、今年にかぎって、発足して一年に満たない西坂研から修士論文にしてもおかしくないレベルの発表が二つ出ていたことを明記しておきたい。 ゼロから出発した研究室が、こうやって素晴らしい結果を出してくる姿を見るのは感動である。

ポスターセッションの会場には、懐かしい K 君の顔も。 卒業し、企業の一線で働くようになってから、ほとんど一年。 いろいろ大変な時期だろうが、元気そうにしていた。 その調子でがんばってくれ。


Raphael に昨夜ぼくが理解したことを説明し、これが正しい方向だと二人で確認し、部屋に戻ると、なぜかプリンターが動いており次々と印刷した紙をはき出している。

Raphael が自分のオフィスから何かを印刷したのかな、と思ったが、ちがった。 Windows XP のプリンタテストページの他、×××溶液の吸光度の実験データのグラフや、さまざまな書体のサンプルなどが、どんどん印刷されている。

ぼくのプリンターは近辺のネットワークに接続されているので、誰かが自分のグループのプリンターと勘違いしてデータを送り込んできたのだ。 実験データの内容からすぐに「犯人」は特定でき、電話で連絡。

こういうことがおこりうることは前から理解していたので、さほど驚かない。 むしろ、今までほとんどなかったのがラッキーだったと思っている。 プリンターを接続するとき ether net 経由にする限りは、ローカルなネットワークで丸見えになってしまうみたいだ。 これは避けられないのかなと思って調べたり人に聞いたこともあるが、方法はわからなかった。

でも、プリンター丸見えというのは、明らかに、危なっかしい状態だと思う。 気に入らない人のプリンターにむかって、大量に変な画像(←みなさんのお考えになる変な画像を想像して下さい)を送りつけて印刷させることもできる。 もちろんイヤなら電源を切れば変な画像は印刷されないわけだけど、切りっぱなしでは自分が印刷したいものも印刷できないし不便だよね。

さらに、ネットワーク上で見えているプリンターにはポストスクリプトの制御コードを直に送ってやることもできると思う。 そのあたりの安全性がどうなっているのか、最近のプリンターについては知らないけれど、ぼくが昔つかっていたアップルのプリンターの場合は、外から制御コードを送ってハードディスクの中身を消去したりもできた。 これを他人にやられたら、目も当てられないと思うのだが、ま、そういう問題は生じないようなので、気にせずに暮らしているのであった。

みんなお互いに気を付けましょう(←安易な解決の路線)。


いま、筋トレを効率的に行うための、すごいコツを経験的にみいだしてしまった。

この方法を実行したおかげで、ついに(ほんの5分前ですが)はじめて、腕立て20回、腹筋30回、背筋30回というメニューをさほど苦もなくこなすことができた。 今まで、どうしても25回あたりで苦しくなってあきらめていたのですが、今日の方法を使うと、30回やってもまだまだいけそうな気になるから、すごい。

いや、別にずるいことをしたり薬物に頼ったりするわけじゃない。

単に、

iPod で Queen の曲(とくに We are the chamipions とか We will rock you とか)を聴きながら筋トレをする
というのが、そのコツです。

あまりに効果覿面(てきめん)だったので、人間ってそんな単純なものだったんだな、という思いです。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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