「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?

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左の美しい雪の結晶の写真は、「水からの伝言」とは関係ありません。 空から降ってきた本当の雪の結晶の顕微鏡写真です。 雪の結晶を研究している物理学者 リブレクト教授のホームページから許可を得てお借りしました。 クリックすれば、拡大します。 リブレクト教授の、雪の結晶のフォトギャラリーはすばらしいですから、ぜひ、ご覧ください。 また、美しい写真をたくさんのせた彼の本「スノーフレーク」も出版されています(雪の結晶の研究については、「科学者は、水のつくる結晶を見て美しいと思わないのですか?」についての詳しい説明のページをご覧ください)。

このページの目次

[button] 実験しないでも、ほぼ確実に、わかること

[button] 「水からの伝言」にかかわる実験

[button] 科学の世界のルール

「水からの伝言」が事実ではあり得ないと結論するのに、わざわざ実験をくり返す必要はありません。

科学で実験はとても重要です。 でも、「すべてを実験で確かめなくてはいけない」というわけではないのです。 このことを、説明しましょう。

実験しないでも、ほぼ確実に、わかること

もちろん、科学の基本は、実験や観察です。 この世界で実際におきることを、実験や観察をとおして、じっくりと気長に調べ、それらの中から、いつでも・どこでも(ほぼ正確に)成り立つ法則をみつけ、それらを互いに結び合わせて作られているのが、私たちの科学です。

科学というのは、それまでに行なわれた、たくさんの実験の結果を、ずらりと並べて束にした、大きな大きな一覧表みたいなものだと思われている方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、それは、科学の本当の姿とは、まったく違います。

科学の目標は、実験事実をどんどんと増やして、それらを次々と並べていくことでは、ありません。 それとは、むしろ反対に、さまざまな状況での、数多くの実験事実を、ごくわずかな原理や法則をもとに理解することを目指すのです。 とくに重要なのは、実験をする際の細かい状況によらないような普遍的(ふへんてき)な原理や法則をさがすことです。 つまり、いつ、どこで、誰が実験したとしても、その結果がきちんと理解できるような、原理や法則をさがすわけです。

もちろん、そんなうまい原理や法則がいつでもみつかるわけではありません。 いくら実験や観察をつづけても、普遍的な法則がみつからない、ということは、しょっちゅうあります(というより、私たちのような現役の科学者にとっては、そっちの方が、普通です)。 しかし、人類の長い歴史の中で、私たちの世界の一部については、とてもしっかりとした、普遍的な原理や法則がわかるようになってきました。 「科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?」についての詳しい説明の中でも触れたように、「物の世界」についての、さまざまな法則が、その最良の例です。

このように、普遍的な法則についてのしっかりとした理解ができると、私たちは、いろいろなことを確信をもって予言できるようになります。 特にだいじなのは、ある範囲のことがらについては、まだ実際にやってみたことのない実験の結果まで予言できてしまうということです。

これは、とても大切だし、かなりびっくりする話です。 私たち人間は、実験からいろいろなことを学んで知識をたくわえていきました。 その知識が十分に増えて、普遍的な法則を理解すると、今度は、実際に実験をしないでもいろいろなことがわかるようになるわけです。 (少し、ややこしい話:なぜ、こんな風に、普遍的な法則が予言能力をもつのかというのは、哲学的に真剣に考えると、かなり難しい問題です。 「普遍的な法則なら絶対に予言ができるんだ」と言いきれる、哲学的根拠などは、ないようです。 それでも、人類が長い歴史の中で積んで来た経験によれば、普遍的な法則のレベルまで理解が高まっていれば、新しい実験についても予言ができるというのは、例外なく成り立っているのです。)


もとのページに書いた太陽の例は、わかりやすいと思います。

ある人がやってきて、

「私が、今から、人類が今まで一度も唱えたことのない特別の魔法の言葉を唱えるから、明日の朝が来ても、もはや太陽は昇らないでしょう」
と宣言したとします。 彼の主張が本当かどうかを知るためには、明日の朝を待つ必要があるでしょうか? 

これまで、地球の歴史の中で「彼の唱えたのと同じ呪文を唱えてから、日の出を待つ」という実験が行なわれたことは、一度もありません。 新しい主張が正しいかどうかは実験してみるまでわからないなら、この場合にも、明日の朝まで待たなくては何も言えないということになってしまいます(明日だからまだいいですが、百年後とか言われたら、ずっと待っていなくてはいけない)。

しかし、常識的に考えてみれば、明日の朝まで待つ必要もなく、誰かが妙な文句を唱えたところで、やはり太陽は昇るはずです。 科学の立場というのも、この「常識的な考え」を少し補強したようなものです。 つまり、今の場合なら、

という経験事実があります。 これだけでも、明日また太陽が昇ると思える、強い強い支えになります。

しかし、実は、それだけでなく、

という事情があります。 このような、より深く基本的な理解をもとにして考えれば、地球上で人間がどんな言葉を発しようと、明日もまた太陽が昇ると断言できるのです。

「水からの伝言」にかかわる実験

「水からの伝言」に話を戻しましょう。

上の「呪文を唱えたから太陽が昇らない」という例は、ずいぶんと無茶でわざとらしいと思うかも知れません。 でも、私たち科学者の感覚からすると、「水の結晶の形が言葉の影響を受ける」という「お話」は、これと同じくらい無茶なものなのです。

「科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?」についての詳しい説明に書いたように、「水からの伝言」の主張は、これまでにとてもよく理解されている「物の世界」の普遍的な法則と、まったくかみ合わないのです。 私たちの科学は、「物の世界」にかかわる実験については、相当つよい予言能力をもっていますから、今から、「水からの伝言」と同じセッティングで実験をするまでもないのです。 「水が言葉の影響を受けない」ということは、実験をしなくても、わかることなのです。

しかも、「ちゃんと実験をして結晶の写真をとっているのだから、本当なんじゃないの?」についての詳しい説明のページで、じっくりと解説したように、「水からの伝言」で「実験」と言っているものは、ほとんど信頼できないものです。 いよいよ、他の人があえて実験してみるまでもないと言えます。


それだけでは、ありません。

「水は言葉の影響を受けない」という事実は、すでに多くのとても精密な実験でくり返し、確かめられているのです。 つまり、「水からの伝言」を否定する実験は、すでに、何度も何度も、おこなわれていると言っていいのです。

この点を少し詳しく説明しましょう。

科学の研究にとっても、水は、とても重要な物質です。 化学、生物、物理など、さまざまな分野での実験で、水が、中心的な役割をしたり、実験の舞台になったりしています。 化学反応の実験の大半は、物質を水に溶かした水溶液の状態で行うことは、多くの方がご存知でしょう。 また、下に書きますが、(「水からの伝言」の実験をはるかに精密にしたような)結晶の性質を調べる実験も、たくさん行われています。

さて、科学の実験では、「同じことをしたとき、同じ結果が得られる」という再現性が、とても重要です。 きちんとした再現性をもった実験結果だけが、信頼できるものとして、将来に残されていくのです。 しかし、普通、新しい実験をすると、なかなか再現性が得られないものです。 それは、科学者が「同じことをした」つもりになっていても、実は、完全に同じ条件に保たれていなかった要素があり、それが、実験の結果を左右してしまうからです。 科学者は、きちんとした再現性が得られるように、水をいれる容器の材質を同じものにするとか、湿度を一定に保つとか、水の中の不純物を取り除くとか、さまざまな工夫をします。 どういう要素が実験の結果を左右するかは、場合によるので、きちんと再現性が得られるようにするのは、なかなか大変なことです。 ともかく、一生懸命にいろいろな条件を整えた結果として、「同じことをしたとき、同じ結果が得られる」という再現性が見られるようになって、はじめて、実験は成功したことになるのです。

さて、もし仮に(「仮に」ですよ!)、「文字や音楽から出る波動の影響で水の性質が変わり、水はそれを記憶する」という「水からの伝言」の主張が正しかったとしましょう。 そうすると、水を使ったさまざまな科学の実験で何がおきるでしょうか?  実験に使われる水は、ビンに入れて保存されているでしょうが、そのビンには色々な文字を書いた紙が貼ってあることでしょう。 あるいは、水が置いてある横で、誰かが歌を歌ったかも知れませんし、実験をしながら CD をかけて、音楽を聴いていたかも知れません。 「水からの伝言」が本当なら、水は、これらの「波動」を受け、その内容を記憶し、性質を変えてしまうはずです。 しかも、ビンの文字がいたずら書きだった場合(「蒸留水」と書くべきところを、学生さんがふざけて「上流水」と書いたラベルを貼っている、なんていうことは、よくあります)と真面目な活字だった場合では、波動は大きく違うでしょうし、モーツァルトを聴いていたときとヘビメタを聴いていたときでは、さらに劇的に違うはずです。 その異なった波動が水に記憶されていれば、当然、その記憶は、精密な実験の結果に影響を及ぼすはずです。 つまり、実験の結果は再現性のないものになります

これは、とても大切なところですので、よく考えて下さい。 今の話では、科学者が「水が波動の影響を受ける」ことを知っていようが知っていまいが、そんなことは関係ないのです。 もし「水が波動の影響を記憶する」のであれば、(水が受ける波動を制御しなかった実験では)かならず再現性が失われるのです。 これは、科学者が何を信じているかとは、まったく無関係の話です。

しかし、現実の世界では、水を使った多くの精密な実験は、素晴らしい再現性を見せています。 きれいな雪の結晶を作る実験だってされていて、驚くべきことですが、みごとな再現性が得られています。 もちろん、再現性のある実験をするためには、さまざまな条件を注意深く一定に保つ必要があります。 しかし、水に見せる言葉や水に聞かせる音楽をきちんと管理しなくても、再現性は得られたのです。 これは、水が言葉や音楽の影響を記憶しないということを示す、非常につよい実験的な証拠だと言えます。

「これまでの科学者は、言葉が水に影響を及ぼすことを知らなかったから、実験をしても、それに気づかなかったのだ」という言い方をする人がいるようですが、上の説明をよく読めば、これが的はずれだということが分かるでしょう。 科学者が知らなかったとしても、効果が本当にあるなら、それは、(再現性が失われるという形で)ちゃんと実験の結果に顔を出すのです。

以上をまとめれば、これまで、科学・生物・物理など数多くの分野で水を用いておこなわれてきた、ものすごい数の、非常に精密な実験のすべてが、「水からの伝言」は本当ではないということを示す実験になっているということです。

言うまでもないと思いますが、世に「ニセ科学」と呼ばれている物すべてが、「水からの伝言」と同じように、(新たな実験をせずに)事実でないと断定できるというわけではありません。 「水からの伝言」は、ある意味で、「わかりやすい」例だと言っていいでしょう。


さいごに、少しだけ関連する話を。

「水からの伝言」の写真を見て、この人たちが、美しい六角形の水の結晶を実験室でつくることにはじめて成功したのだと思ってしまった人がいるようです。 これには、少し驚きました。

当然ですが、空から降ってくる雪の結晶の美しさに魅せられ、きれいな結晶を実験室でつくる研究をしている科学者はたくさんいます。 とくに、このような「人工雪」の研究を、世界でもはじめて本格的に進めたのは、日本の中谷宇吉郎(1900−1962)という人です。

こういった話については、「科学者は、水のつくる結晶を見て美しいと思わないのですか?」についての詳しい説明のページをご覧ください。

科学の世界のルール

科学者の側で実験をして確かめないでも、「水からの伝言」が事実でないと言いきれるのだという話を聞いて、「実験に対しては、実験をして反論するのが、科学というものではないのか?」と疑問に思われる方もいらっしゃるようです。 それはまったくの勘違いで、科学というのは、そういうものではありません。

この話は蛇足かもしれないと思うのですが、やはり、このような疑問をもつ方がいらっしゃる以上、少し説明しておこうと思います。

科学の世界では、何か新しい考え方が本当かどうかが問題になるときには、新しい説を提出している科学者に、説得力のある証拠を提出する責任があります。 新しい説を信じない科学者が、無理をしてまで、反対の証拠を出す必要はないのです(もちろん、自分の研究の方向とうまく一致するなら、反対の証拠を出す場合もあります)。

こういうルールにしておかないと、科学がちゃんと進まないのは明らかでしょう。 単なる思いつきレベルの新説を発表しておいて、「これが間違っているというのなら、反対の証拠を挙げてみろ」と開き直っていれば、(誰かが、わざわざ、反対の実験をしないかぎり)それだけで新説が認められることになってしまいます。 思いつきの新説なんて、いくらでも出せますから、これでは何一つ本当のことはわかりませんし、役に立つ研究もできません。

ですから、新しい考えを唱える科学者は、いっしょうけんめいに実験をして、できる限り説得力のある結果を示す努力をするわけです。 そして、もっともらしいぞと思わせるだけの実験結果が出てくれば、論文として発表し、他の科学者も本気で議論や実験に参加していくことになります。

もちろん、これは、科学の世界でのルールです。 私が、このページで「なぜ、実験をしないでも『水からの伝言』が事実でないと言えるのか」をていねいに説明したのは、「水からの伝言」の「実験」をしている人たちは科学者でないし、ほとんどの読者も科学者ではないと思ったからです。 科学の世界の外でのできごとを、科学の世界の外の読者に向かって話すから、「科学の世界のルール」は持ち出さなかったのです。

もし、「水からの伝言」に「科学の世界のルール」を使っていいのなら、話はずっとずっと簡単になります。 「気相成長でできる雪の結晶の形態」という長い歴史と多くの知識のある分野での研究なわけですから、これまでの知識をふまえた上で、説得力のある実験をすることが要求されます。 どんなに最低でも、温度と過飽和度を一定に保って実験をする必要があります。 また、当然ですが、五十個のサンプルの中から、一個、二個を取りだして撮影するのではなく、すべてのサンプルについて、決まった方法で形を測定し、それを解析し、ていねいに統計をとらなくてはなりません。 そういう実験データを積み上げて、それで、本当に何らかの傾向が見えてきたら、ようやく科学の研究の出発点ということになります。

つまり、「水からの伝言」の実験を、(私は、そうしようとは思いませんが)もし科学の世界のルールで判断するなら、「ちゃんと実験して下さい」の一言で終わりなのです。


このページの執筆者:田崎晴明

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公開:2006 年 11 月 9 日、最終更新日:2006 年 11 月 18 日、 ページ管理者:田崎晴明
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