日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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10/1/2001(月)

昨日の運動会が無事おわったあたりから、冷たい秋雨が降り始め、秋から晩秋へ。

上の子と合わせて、九回観戦した小学校の運動会も、ついに最後。 ふう。(←様々な思いがこもっています。)


新学期、研究会から運動会まで、あわただしく忙しい九月であった。 (ここに書いていない、個人的に忙しいこともあった。) なんとか乗り切ることができて喜ばしい。

おかげで髪を切りにいく暇もなかった。 別に主張があってのばしているわけじゃないので、誤解なきよう。 これからの教務委員会も、髪ぼさぼさ、ジーパンにトレーナーで行ってしまえ。


今、昨月の日記をみると、9/1 に電荷をもった driven lattice gas をやろう、と宣言していて、9/5 にはまだ間違えまくっている。 なんとか結果が出始めたのは 9/7 くらいなのだが、その頃には、これをまとめて数理物理 2001 で話そうと決めていたのだから、われながら無茶な話であった。 (守りに入るのはいやなので、あえて、そういう無茶に出ているともいえる。)

わき目もふらずに導いた結果を、少し、離れて落ち着いて眺めて、(疲れたので面倒な計算はせずに)より一般論の立場から何が理解できるか、とくに、SST Kelvin's principle との関係を問う。 (再び、佐々さんとシンクロ。) 過剰な一般論がうまくいきそうに見えたあと、いつものパターンで、大きな揺り戻し。 圧力の定義可能性そのものから問い直すべし、と反省。 と、すると、境界と非一様なポテンシャルの効果を取り入れた摂動計算をしなくてはならないことになるので、体力がいるぞお。


10/2/2001(火)

さあて、体力が戻らないので、思いっきり一般論。

グランドカノニカル形式の一般的な非平衡確率過程モデルにおいて、圧力の定義可能性と、SST Kelvin を吟味。 クラスター展開の重みを評価して、と・・ (ポテンシャルを目一杯大きくすることを思うと、やっぱり連続時間の形式でやるべきだ。メトロポリスはやりたくないから。運動会の日に競技の合間にこっそり Feller の本を読んでいてよかった。) 濃度についての低次の項は処理できそうだけれど、またしても規格化がむずかしい。 おっと超個人的メモになってしまった。


いかん。

夏休み前からさぼっているレフェリーをやらねば。 そろそろ(ていうか、とうの昔に)限界をこしている。

自分の論文へのレフェリーレポートへの対応も放ってあるからおあいこだ、とかいう話にはならないし。


昨晩テレビを横目に見ていて(また、誰でも思うことを)思った;昨今の物真似番組は極端に古い歌の真似ばっかしではないか。 岩崎宏美とか桑名将大とか、子供らは存在を知らないし、ぼくらだって、物真似が大昔に聞いたのと似てるかなんてわからないぞ。 ぼくらでも知らないようなのも多いし。

たしかに、ライブでやる歌番組がほとんどなくなり、新しいものはみんなビデオクリップで紹介される時代になると、物真似がやりにくいというのは事実だろう。でも、やっぱり、やるからには、工夫しないと。 (お風呂場にある小道具だけで、何億円かかけたビデオの雰囲気をばっちり再現するとかさ。(どうやるのか知らないけど。))

芸人と制作者の怠慢を正当化すべく、無理矢理、「物真似番組とはこういうものだ、しかも、これは面白いのだ」という空気を作ることでしのごうとしていると思うなあ。

そんななかで、ちょっとびっくりしたのが、トミーズ雅のやった三木道三の「真似」。 本物にない「関西弁の絶妙な臭さ」が出ていて、しぶい。 (本物(なんか)よりずっとよかった。)

で、この話を物理の話とどうつなげるんだろう、とお思いかもしれませんが、いかようにもつながりそうであり、しかしながら、どうもピタリとはつながりそうにない、という雰囲気だけ漂わせて終わりにしてしまうのであった。


10/3/2001(水)

二つのレフェリーレポートのうち、一つは、昨日のうちに終了。

もう一つは、終わったのよりも前からやっているのだけど、たいへん。 まだまだです。


さて、かなり以前のことになりますが、高校のときの先輩の S さんからメールが来た。 ぼくが高校一年で生徒会執行部の書記をやっていたとき(←なんか、つい出来心でそういうのをやっていたのです)一年上の S さんが生徒会長だったのだ。

とかいう書き出しをすると、体育祭の準備で炎天下で作業をしていたとき、みんなでやけくそでスプライトとかの 500 mL ボトルを一気飲みしていて、同学年の T (←そうだ、こいつがぼくを生徒会に誘ったんだ)が勢い余ってスプライトを吹き出したものだが、その T も今では・・・ みたいな高校の思い出話になると思うだろうけれど、ちがうのだ。

S さんのメールの内容は、SST (今さら書かなくていいとは思うけど、steady state thermodynamics=定常状態熱力学です。(って、わからない人には、言葉を言われてもわからないよね))についての的を射た鋭い質問であった。

さすがは、元・生徒会長
などと感心して話を終わらせては、全国の元生徒会長のみなさんに迷惑がかかるというもの。 もちろん S さんは、その道の専門家なのである。 ていうか、別に名前を伏せる必要はないのであって、阪大の化学で物理化学の研究をされている斎藤一弥さんが、メールをくださった先輩なのだった。

ぼくの熱力学の本の謝辞にも、斎藤さんの名前がでてきます。 斎藤さんは、化学反応や第三法則や準安定状態などなどについて、無知蒙昧だった私に、いろいろな事を教えてくれたのであった。 (←高校の頃に、じゃないよ。いくらなんでも。)

さらに言えば、斎藤さんは、

阿竹 徹・加藤 直・川路 均・斎藤一弥・横川晴美著「熱力学」丸善
という熱力学の教科書の著者でもある。 いかに世の中に高校が多いといっても、出身者のうち二人が熱力学の教科書を書いた、などという生徒会執行部は、ぼくらのところしかないでしょう。 日本中でも、というより、きっと世界中でも。 (世界(=地球表面という意味で使ってます)まで広げれば、太陽系に広がることはほぼ確実。一気に銀河系まで広げていいかどうかは、ちと迷う。 熱力学は普遍的だから、科学をやっていて、かつ知識を伝達する媒体というものが必要なら、熱力学の教科書に相当するものは必ずあるよね。 他方、生徒会の執行部に相当するものがどこまで普遍的かは知らない。)

話のついでだけれど、この生徒会の執行部のメンバーというのは、今からして思うと、猛烈に偏っていて、十一人の中で、大人になって大学の教員をやっているのがなんと五人(化学 1、数学 2、歴史 1、物理 1)もいるのだ。 (もちろん、もっとまともなお役所の人とか、警察の人とかもいるよ。)

こう書くと、みんなが当たり前のように東大とか京大に入りまくる、いわゆる「エリート校」を思い浮かべるかもしれないけど、ぼくらがいた O 府立(←アルファベットにしてもばればれか) I 高校っていうのは、まあ、そこそこの進学校というやつだったので、この偏りは異常としかいいようがないのだ。

などと書いていると、体育祭の綱引きで使う太い綱を、執行部のメンバーで近所の小学校に借りに行ったときのこととかを思い出す。 高校生だから車で運んでくるわけにもいかず、太い竹に綱をまきつけたものを、みんなで担いで、小学校の横のあぜ道をえっちらおっちら歩いて運んでいた。 と、お約束のようにバランスが崩れ、重い綱をまきつけた竹はぼくらの肩からすべりおちてしまう。 たんぼの中にどんと落下する竹と綱。 さらに、そこには、一人だけ、運が悪かったのか、あるいは、責任感が強く最後まで竹を離さなかったのか、たんぼに仰向けにおっこちて、胸の上に竹をのっけて苦しそうに(でも笑いながら)手足をじたばたさせる T (←さっき出てきた同級生)の姿があった。 そんな T も今では K 都大学(←ばればれだって)の研究所で日本史をやっているわけで、まさに人に歴史あり、というお粗末でございました。


10/4/2001(木)

残っているレフェリーすべき論文は、ばりばりの数理物理の論文なので、こっちとしては証明を逐一追いかける必要がある。 一般に、数理物理のをやるときは、普通の物理の論文に比べて一桁多く時間がかかるのだ。 くわえて、今度のは、かなり技巧に走った絶妙の評価を使いまくった難しい論文であり、さらに悪いことには、書き方が今ひとつ練れていないので、読みにくいこと甚だしい。 昨日も不等式が一つ、どうしてもわからず、ついに「わからん」とレフェリーレポートに書こうかと思ったけど、悔しくて意地でねばって、一時間くらい費やしてようやくできた。 書いてない評価をいろいろ使うんだから、こりゃ困る。 この調子でやっているから、いったい、いつになったら終わることやら。


あ、そうそう。

きのうは、つい T がたんぼに落ちた話にそれてしまって(そういえば、落ちた後に T がどうなったか、とか、そういう記憶がまったく残っていない。映画とかでも、どぼんと落っこちた、みたいなシーンで終わって、次は、すぐに別の日の場面、とかいうお気楽なのがよくあって、「あの後どうやって帰ったんだよ?」とか突っ込みたくなるけれど、ぼくの記憶もそんなものであるなあ)、斎藤さん関連で大事なことを書くのを忘れてしまった。

ええとですね、斎藤さんのご紹介で、

The Second International Symposium on the New Frontiers of Thermal Studies of Materials
という国際シンポジウムで短い話をすることにしました。

読んで字の如く、熱測定を中心にした実験のシンポジウムです。 せっかく、SST をやって新しい実験を提唱しているのですから、もちろん、実験人たち前でお話しするのはまたとない機会です。

とはいえ、図々しさの権化といわれるぼくでも、

という会議にでるのは、ちょっと緊張します。

さらに、

という会議だと聞くと、けっこう緊張しますね。(関係ないけど、そう言えば、今日、髪を切ってきました。パーマ屋さんを出るとき、お店中の人が、「次は、もう少しお早めにお願いします」と声をそろえておっしゃっていました。)
10/5/2001(金)

ううむ。

やりたいな、と思うことが分裂してきたぞ。 (注:引き受けた本の原稿書きとかレフェリーとか、やらねばならないこととは別に、という意味です。)

大ざっぱにいうと、

  1. 電荷をもった driven lattice gas: 九月にやった結果を色々な意味で整備する必要がある。 とくに、圧力の定義可能性を正確に調べる。 非平衡測度をあからさまに書いて解析する。 (でも、特に前者に関連して、いろいろと技術的に面倒が派生してくるのだなあ。クラスター展開の方法もなんか不器用でよくない。もっと確率過程にとって自然な展開法があるはずだぞ。なんかすごく良いアイディアがでると楽になるんだが。(あたりまえか)) これは、急務と言ってもいいはずなのだが・・・
  2. 解ける確率過程モデル: matrix ansatz で解ける確率過程モデルについてのこれまでの結果の本質を理解し、高次元(など)への拡張を目指す。 大昔にやった量子スピン系の解けるモデルと精神が似ているのだ。 この間、数理物理 2001 で笹本さんのお話を聞いて、なつかしかった。
  3. Derrida-Lebowitz-Speer の結果の消化: 上と関連するが、解けるモデルでの「非平衡自由エネルギー」の例。 すでに佐々さんがいろいろと考えているから、いいかな? 操作的な熱力学が作れない限りは、先へ進まないと思う、というのが、SST を推進する立場からの公式発言。
  4. 異常プリオンの増殖過程の理解: って、ミーハー過ぎか。 (実際、何も知らずにただ言ってみただけです。) でも、おもしろそうじゃないですか。 単なる結晶成長みたいな話とは、ぜんぜん違うに決まっているし。
と、こういう風に関心が千千(ちぢ)に乱れてしまうと、何をしていいかわからなくなってしまうのが、個人営業の自由業のいいところでもあり悪いところでもあります。 頭は一つだからね。

戦略的に考えれば、1 を押し進めるべきなんだろう。 ぼくだけがやっている仕事だから。 ただ、長年の経験で、こういうときは、少しいろいろちょっかいを出しながら、もっとも楽しい方向を探る、という「快感原理」で進むのが、ベストみたいなんだよね。

ま、やってみます。


10/6/2001(土)

けっきょく、昨日の夜は、講義+ゼミでばてながらも、笹本さんに教わった文献などを読み、解ける確率過程モデルについての感覚を身につける努力。 (つまり、昨日のリストの 2 ですな。)

ふむふむ。 かつて量子スピン系で遊びまくった者にとっては、ほとんど地続きの世界ではないか。 (Domb & Lebowitz vol. 19 の中の Schutz の(ばか長い)レビューでも、Derrida-Evans-Hakim-Pasquier の matrix ansatz による一次元 simple exclusion process の解法のヒントになったのは、量子スピン系のモデルだと書いてあって、ちゃんと Affleck-Kennedy-Lieb-Tasaki が引いてあった。よしよし。)

とくに、みんなが一次元で遊んでいる隙に、高次元のモデルを作って、普通では解けないようなモデルをうまく手なずけて物理を白状させるのは、ぼくの得意とするところではないか。 (二次元の VBS model での相関関数の exponential decay を証明して見せたのが、ぼくの Princeton での共同研究の最初の本質的な貢献だったのだ。 あれで、ボスの Lieb にもまともな奴を雇ったと思ってもらえたのだろう、と勝手に思っている。 博士をとったばかりで、中学三年の娘が妻のお腹にいた頃の話。 なつかしいのお。)

金曜日は重労働でばてばてなのだけれど、夜中にビールを飲むあたりから、いよいよ活性化してしまって、ばしばし新しいモデルが作れるような気になってくる。 (←それは、もちろん嘘なんだけど、そういう高揚感はとても大事なのですよ。) けっきょく、寝床に入ってからも、何度も目覚めては、問題点に気付いて修復したり、モデルを変更したり、と試行錯誤が延々と続く。 (上で書いた二次元 VBS の仕事も、寝る寸前までやっていてどうしても最後がうまくいかず、深夜に目覚めたとき、うまくいくことが見えたんだよなあ。)

けっきょく、今日もこの問題を考えながら楽しく過ごしている。

当然ながら、そう簡単な話じゃないし、量子スピン系と本質的に違うとこもはたくさんあることが徐々に見えてくる。 そうなると、よけい面白くなってくるというもの。 今、できそうでできなさそうで迷っているところから、進めるかどうかはわからないけれど、ともかく楽しい間は、いろいろと考え続けてみるのじゃ。


そういえば、Internet watch というところで、「暗黒の火曜日:イスラマバードから」が紹介されているのを発見。 「ウォッチャーが選ぶ今日のサイト」というコーナーらしく、ここに紹介ページあり。 これで、より多くの人に読んでいただけるとうれしいですね。

ご覧になってはいらっしゃらないでしょうが、取りあげて下さったことを、感謝します。 また、もしご紹介いただいた方がいらっしゃるなら、心よりお礼を申し上げます。

Alan Sokal が送ってくれた(そうそう。送ってくれたのは彼だったのだ)論説をすぐに紹介し、素早く動いた廣田さんにリードされて(実は、もうお一人、少しだけ遅れて全訳をおくって下さった不幸な星の下に生まれた方がいらっしゃったのです)翻訳したり新聞に載せるための努力をしていた頃は、(数理物理 2001 の準備や本番ともぶつかって)きわめて慌ただしくて何か流されているみたいだったけれど、今になって少し落ち着いて読み返してみても、これは本当に力強い文章だと感じます。 テロ事件から時間が経って、時事性を失っても、しっかりとした意味のある論説だと思う。

共感して下さるみなさんは、これからでも、URL の紹介などをしていただけると幸いです。 (すでにして下さってるみなさんにも、お礼を申し上げます。)


10/7/2001(日)

昨日の夜中に Derrida-Lebowitz-Speer の Section 9 を読んでいて、ぶっとんでしまった。 これは、もう SST 寸前かもしれない。 佐々さんが興奮した理由がわかった。 (しかし、外界からの操作がない系なので、最後の最後でつながらないかもしれない。)

というわけで、いろいろと関連することを考えるうちに、いろいろ誤解していたこともわかってきて、悩んで、不眠。

今日はいろいろやってみたいことがでてきたが、残念ながら、やたら眠い。


10/9/2001(火)

あーあ。アフガニスタンへの空爆がはじまってしまった。

聞くところでは、いくつかの国の人が Hoodbhoy 氏の論説を新聞に載せようとしたのだけれど、けっきょく日本の朝日とフランスの新聞だけが載せてくれたらしい。 もちろん、アメリカは駄目。 国民の大多数が報復を支持しているという国なのだから、当然といえば当然か。

主要新聞の対応はかくも異なれど、日本政府はアメリカを無条件に支持するらしい。

単一の明快な正解などみつかりっこない暗澹たる状況なのだから、様々な意見を出し合って、なるべくましな未来を模索すべきだ、というのは当然の正論じゃないのか? 国際社会で孤立したくないなどという理由を掲げて、アメリカの意見に無反省に従っていくというのは恥ずべきことだ。


それでも小泉内閣の支持率は下がらないのだろうか?

珍しく、政治の話をしているのかもしれない。 でも、ぼくはこれは教育の問題であるような気もする。

(失礼な言い方かもしれないけれど)いわゆる「善良な一般国民」のレベルの人たちに、

のふたつは両立しない
ということを受け入れてほしい。 (その上で、どっちを取るかの(あるいは、他の)判断をしてほしいのだ。 (Bush じゃあるまいし、二者択一なんて事はない。)) なんで両立しないかって、たしかに、物理法則に反するわけでもないし、あからさまな論理矛盾を生むわけでもない。 でも、こういうのを両立させてだらだらと進んでしまうというのは、頭の使い方として非常にまずいとぼくは思うのだ。 (理由はたくさんある;「もったいないから」、「この国がもっとひどい方向に向かっていこうとするとき、あまりに歯止めが利かないことになるから」、などなど。)

上にもちょっと書いたけれど、

世の中には、どんぴしゃりの正解なんてない事態がたくさんある
っていうことを教育がちゃんと伝えていない、というのも問題の一因のような気がする。

今の歴史や公民の教え方とか、時代劇(江戸末期とかだと必ず時代を見通して「現代的」な考えをもったかっこいい奴が登場して「日本は変わらんといかのじゃ!」とか「正解」を語るんだよね)とか見ていると、いかにもどこかに唯一の「正解」が転がっていて立派な人がそっちに導いてくれるみたいな気にならないかな? ほんとの歴史はそんなものじゃないし、ぼくらがこれから生きていく現実の世界に到ってはそんなものとはほど遠いはずなんだが。


本題の物理に戻る。

ようやく

B. Derrida, M. R. Evans, V. Hakim, V. Pasquier
Exact solution of a 1D asymmetric exclusion model using a matix formulation
J.Phys. A 26 (93) 1493
を読む。

笹本さんの仕事や、話題の Derrida-Lebowitz-Speer で使われている行列による解法の元祖。

6 日に、量子スピン系がヒントになったらしい、と安易に書いたが、読んでみると、こういう表現法は昔からあるらしいし、さらに、より重要なことだが、この行列の使い方は量子スピン系の matrix product よりもかなり高級だと思う。 (ちなみに、Affleck-Kennedy-Lieb-Tasaki には matrix product は登場しない。 ぼくらのモデルの解が matrix product で書けることは、その後、Fannes-Nachtergaele-Wener がみつけた。 (さらに、その後、ドイツグループが再発見。) お詫びしてニュアンスを修正しておこう。

いろいろ考えたいことがあるが、昨日くらいから、ややエネルギー低下気味。

充電して復活したい。


10/10/2001(水)

ものすごい雨。

ほとんど嵐ですね。

今し方、激しい稲光があり、十数秒後に地響きのような雷鳴。 遠い。しかし、大きい。


ええと、少し反応がなかったわけでもないので、昨日の続き(なのかな?)。 基本的に言うまでもないことでしょうが、
1. 戦争反対と主張すること
2. セイラやシャアがかっこいいと思ったり、シューティングゲームに快感を覚たりすること
は大いに両立するとぼくは思っています。 (というか、ぼくは、させているつもり。(ただし;シャアがじじいになる(らしい)後の方の話は見てない。Star Fox 64 は大好きだったが、全ステージでの勲章ゲットはならず。)

2 を通じて、自分(たち)にそういう性向が内在していることを自覚するのは、1 の大切な前提になりうると思う。

難問は、誰でも言うことだけれど、

3. 家族が殺されそうになっていれば、その相手を攻撃できる(あるいは、殺せる)
と 1 が両立しうるのか、もし両立しうるならどこで線引きをするのか、ということですよね。 ぼくは答が出せないままですが、それでも、家族を本能的に愛しているので、3 を認めます。
おっと。

空が明るくなるほどの稲光。

七秒後に轟音。

近づいてる。


10/12/2001(金)

不調だなと思ったら風邪のひきかけだったらしい。 喉が痛い。

しかし、今日の重労働を乗り切ったので、なんとかなると思いたい。

新しいことはしていないが、懸案のレフェリーもすませたし、明日の会議の準備もほどほどにできた。

そろそろ、ぼくがやっているモデルの詳細を詰めるべきだな、と覚悟を決める。


ノーベル賞については、書くタイミングを逃したし、ぼくがとりたてて書くこともないや。 ただ、去年の白川さんが「もらってびっくり」的にわたわたしていたのに対して、今年の野依さんは、いかにも「ノーベル賞慣れ」してるって感じだったのは印象的。
10/13/2001(土)

先月の末(9/29)に触れた秋光さんの言葉

人間、ambitious 過ぎると不幸になるし、志が低すぎると馬鹿になりますからね
に関連して。

幸か不幸か、ぼくは、純粋に学問的な意味で ambitious に過ぎて不幸になってしまいそうな人を知らない。

たしかに、たとえば金子さんや佐々さんは、きわめて ambitious なのだけれど、彼らの場合、

実際に形になり他人と共有できる仕事のなかに、大きな目標を投影する
ということを行ないつつ、確実な成果も蓄積しているので、「過度に ambitious」なわけではない。 (「過度に ambitious」な人は、ほどほどのレベルで実現可能な研究には満足せず、すべてぶち壊すだろう。) 加えて、金子さんや佐々さんは、種々のレベルでの目標を言語化して表明しているので、そうしていない人に比べて野心的に見えるということもあろう。 (言語化できていない大目標も内に抱えているのかも知れない。それはわからない。)

残念ながら(?)、「過度に ambitious」なために自滅していく人たちのことを心配する必要は、あまりないように思える。

逆に、学問的な意味で「志が低すぎる人」は掃いて捨てるほどいる。 そこにも、あそこにも。

そういう意味では、上の言葉は二つの対になっているものがアンバランスだ。 警句として機能するのは後半部分だけかもしれない。


10/15/2001(月)

風邪は治ったつもりなのに、体温調整が悪く、集中力が低く、疲れやすい。

単に治っていないということか。


きのう、妻がスーパーで生ラーメンを買ってきた。

外袋をみると、スープの原材料のところに

豚肉エキス
とある。 (一応、安心して) 作りながら、中からでてきたスープの袋をみると、原材料のところに
鶏肉エキス
とある。

こういった情報の交錯のなか、どのように判断して対処するのが理性的なのでしょう?

ちなみに、×××ラーメンでは、全店で牛だしの使用をやめ、当分の間は豚と鶏のだしを用いることにしたそうだ。 「がんこ」といわれるのは(←伏せ字にした意味ないじゃん)、頭がかたいからではなく、客にうまいラーメンを食べてほしいという徹底的なこだわりがあるからなのだ。 すばやく対応する姿勢は立派。 (元来、味と製法についての持ちネタが非常に多いからこそ対応できるのだろうが。) ラーメンの方は、後味のちがいが新鮮でもあった。


さっき知った。
けんきうする日記書きさんに100の質問♪
光栄にも、「川と焚き火の法則」を取りあげてくださっている(57, 58)。 われわれの予想がどこまで正しいか、また、どこまで他の分野に拡張できるかは、興味のつきないところであります。 どこかに、解答の一覧リンクとかはないんですか?

ぼくも回答を作りかけましたが、百問答える暇も体力もないので、できたところまでで失礼。 (また書きます(と思う)。)


10/17/2001(水)

昨日は、風邪薬をのんで、午後から駒場へ。

駒場:相変わらずの部分は、相変わらず。
(ぼくも、相変わらずの部分は相変わらずなので、お互い様か。)
佐々さん、笹本さん、W 君と、四人で SST などを巡る議論。

有益ではあるが、難しい。

大盛況だった佐々さんの談話会を拝聴。

談話会のあとのインフォーマルな議論の輪(要するに部屋を追われたあとの、廊下での立ち話)で佐野さんと話す。 ひょっとすると、彼と話すのは、ぼくが M1 の時以来では? とすると、十年近く前ということになるか。光陰矢の如し。 (若干、さばを読んでいることをお許し下さい。)


ううむ。 早川さんの反論(早川日記 10/13)を読むと、たしかに、13 日に書いたことは軽はずみだったかな、という気が(珍しく(←もないか))してくる。

適正がないのに研究者への道に固執したり、単に崇高なお題目だけを掲げて何もしない人を除外すべく

純粋に学問的な意味で ambitious に過ぎて不幸になってしまいそうな人
と限定をつけたつもりだったのだ。

とはいえ、早川さんの書かれているものを読むと、その程度の小手先の処置をしただけじゃ駄目で、もっと話を絞り込んできちんと議論しないと駄目だな、と痛感。


おっと。「日々の雑感」は、ぼくが老後にオフラインで読む予定のものなのだから、リンクが切れて意味不明になっていまうものは極力避けなくては。

早川さんの日記から有断引用;

勿論、過適応は馬鹿になるという秋光さんと田崎さんの意見は当然である。従って秋光さんの意見はまさにその通りである。しかし田崎さんの本日の意見には 全く同意できない。あてはまるのは日本のリーダーとして本来一流の仕事をし なければならない少数の人だけだろう。田崎さんの念頭にあり批判の対象となっているのはそうした人たちだと思えばいいのだが読者は多いのであるから誤解を招くと思う。
という結びの文脈は、たしかに正しいのであろう。 ぼくは、別にここで振りかぶって「一流であるべき人たち」批判をするつもりではなかったけれど、それはいつも底流としてあるわけだし、それが変なバイアスとなって出てきたという指摘はもっともだ。

実は、以前(9/15)に学会誌の座談会にからめて「夢のない職人」について書いたことは、まさに「『一流であるべき人たち』への批判」に直結しているわけで、それについては、いずれ落ち着いたときにちゃんと書くのが宿題として残っています。 (ていうか、この「雑感」では宿題をためまくっている。 でも、書くべき論文とか本とかもためまくっているので、それが最近の田崎の傾向なのかもしれない。良くも悪くも。)

最後に、引用ついでに、早川日記から、もう一つのパラグラフをコピーしておこう。

学術月報, 1985年38巻2号の冒頭に「性にあった流儀を選べ」という小文がある。そこでは、 当然のことだが一流の研究を成功させるためには、それに至る積み上げや 一流の仕事を大きく発展させることが必要である。こうした研究は2流である。 2流の研究を支えるのはそれを支援する地味な3流の活動が必要であるとして いる。また研究者には一流より二流、二流より三流が多く、そうでなければ研 究の健全な発展はないとしている。従って各研究者が適性にあうところを占め、 そこで能力を発揮して初めて研究成果があげれ、各人も満足を得られるとし ている。従ってこの小文では適性を的確に見出すことを勧めている。但し適性 は時と共に変わり得ることも指摘している。 (強調は田崎による。)
こういうことは、自信と人望がなければ書けない。 素直に感服します。

この文章の主張が、凡庸な職人に陥ることの言い訳として使われず、そして、最後に強調した部分を決して忘れない、という留保をつけた上で、心から賛成します。 ぼくが「ラーメン屋さんについて書いていること(8/27/2000))」とか「物性若手夏の学校からのアンケートに答えて書いたもの(2/10/2001)」も、(格調は低いけど)ある意味で、これに似ています。 よかったら、見て下さい。


10/20/2001(土)

さて、17 日に早川さんの日記から引用した学術月報の文章の要約に関して、牧野さん(2001/10/16)が、もとの文章を読むと、そこでは「通常の了解では 1 流の上のほうということになるものが2流になっている」と指摘していたので、ぼくも気になって原文をあたってみた。

学術月報 1985 年 38 巻 p. 115、「若手研究者への手紙」というコーナーの『性に合った流儀を選べ』早川幸男である。 (ぼくは、ポスドクとして渡米する寸前の D3 の夏に早川先生に会った。 (しまった。M1 のときを「十年近く前」とさばを読んでしまった(10/17)が、それを信じると、こっちは「数年前」になってしまって、計算が大いに狂うなあ。) お互い、好印象をもったと記憶している(←ハイパー不遜)。 ぼくがアメリカから戻って、さらに図々しくなった後は、残念ながら、先生とお会いする機会はなかった。)

ここでの、n 流の使い方のひとつの基準になるのは、早川先生がご自分の位置づけを語っている結びの文章であろう。

さて私自身について言えば、研究者を志したときから二流を指向し、時には三流の仕事や一流のまねごとをさせられたが、今も初志を貫こうとしている。
早川先生のように「一流」と目される人が、「自分は二流」と書かれているので、やや定義がずれておるぞ、というのが牧野さんのご意見かな、と勝手に推測。

しかし、考えてみれば、一流の仕事というのは、ごくまれにしかできないからこそ一流の仕事なのだ。 どんなすごい人でも、年がら年中、一流の仕事ばかりしているわけではあるまい。 多くの時期は、そのための下地となる仕事を積み重ね、積み重ね、さらには、積み重ね、そして、ついに機が熟し、運が見方し、女神が微笑んだときに、真の一流の仕事を成し遂げるのであろうと想像する。 そういう意味で、早川先生が、ほとんどの時期を二流の仕事に費やした、というのは、大いにうなずけることである。 (「一流のまねごと」というのは、ふつうは謙遜ととるだろうな。 でも、早川先生の基準ではそうなるのかもしれない。 (ぼくは無知なので判断できない。) あるいは、同時代に一流とされることと、歴史のなかで真に一流とみなされることを区別し、後者の評価が下るには時期尚早と判断されたのかもしれない。 (おお。そして、そのメッセージを後世に伝えるべく、ご子息の名前を・・))

微妙にオチがついてしまったが、無視して話を進めよう。

早川先生の文章の冒頭には、第 n 流(n=1,2,3)の「定義」が書いてある。

研究には歴史的な流れがある。 流れの方向を変えたり、新しい流れを起こしたりすると、偉大な業績として評価される。 このような第一流の研究を成功させるためには、それに至る段階を踏み上る積み上げや、新しい流れを大きくするための発展が伴わなければならない。 このような研究は第二流と呼んでよかろう。 第二流の業績を高らしめるのは、それを支援する地味な活動が大切である。 これは第三流に属すると考えられる。
「第一流」の定義が「研究の歴史的な流れ」という側面に限定されているのは、ぼくとしては、ちと気になるところだが、上で述べたことと、この定義は consistent だと思う。

たしかに、この定義の「第二流」の仕事は、「歴史的な流れを変えるような仕事」の直接の下地になるものだから、それだってそう簡単にできるものではない。 牧野さんの言われるように、これは、一般の基準よりは厳しい見方かも。 (でも、厳しい方がいいよ。)


と、引用ばかりになってしまったので、ぼくの思うことを書こう。

ぼくは、それほど何が二流で何が五流とか、詳しく考えることはないのだ。

と書きかけたものの、十分に長くなったし、こんなの書いてばかりじゃ今やりかけの三流半の仕事も収束しないし、今日はこのあたりで唐突に終わ


10/21/2001(日)

charged driven lattice gas の計算。

どうも体力がでなくて、集中して計算する気がおきず、何とか楽なキャンセルがないか、ずっと探していた。 これで何も賢い方法がないと虚しく時間を費やしたことになるのだが、ようやく、正しい能率的な計算法を発見。 闇雲にやらずによかった。

あとは、気力と時間のあるときに、だあっっと計算すればよい。 今週は、毎日予定があるな・・

密度変化は、前にしゃべったのより少し大きくなりますが、諸傾向は同じはず。

熱力学的(SST)エントロピーと Shannon entropy は一致しない。 これは、考えてみると当たり前であった。 (←と書いたのは、やや早計だったか。 よく考えると、まだ確信はない。 でも、一致したら、かなりびっくり。) 圧力をみているだけでは、中でおきている細かいことすべてを捕まえる事はできない。 SST から対応する統計力学への接続は、平衡の場合よりも、難しい可能性が高い。 (そもそも異方性があるわけだし。)

これから、高田馬場の本屋まで散歩がてら出かけるので、歩きながら、さらに、方針の整理をするのだ。 (みんながほめるので、「暗号解読」を購入。 たしかに面白いぞ。)


10/23/2001(火)

おお。明日から大輪講ではないか、というわけで、一部で有名な「大輪講での発表について」に若干の手直し。 (明日発表の人には間に合わないって。) この機会に、いずれは OHP 学としてまとめられるであろう OHP についての諸々を別ページに移した。 今回、「思想編」として、

寝ていて急に目が覚めた人に優しい OHP
についての一節を書き下ろしたのである。

しかし、思わずオチをつけようとしている自分を見出して微妙な気分。


連続時間の極限を取るべくクラスター展開の収束証明の検討。 (安易に証明しようとすると連続極限が取れないのだ。) 参考のため、昔クラスター展開のプロの Tom Kennedy らといっしょに書いた量子スピン系の論文を引っぱり出す。 ぼくはクラスター展開が苦手だから、けっこう説明がちゃんと書いてあるんだよね。 ふうむ、新しい方が 92 年で、古い方は 88 年か・・・ (←最近、こういう回想モードが多いのはじじいっぽくていかんねえ。)
10/24/2001(水)

大輪講は「ダイリンコー」と読むのか。馴染みのない言葉なので、つい、×輪×(←ちょっと不穏当だったので伏せ字にしたが、かえってあやしい)を連想してしまう
とのメールを学外の方からいただく。

そおです。 「だいりんこう」です。通称なんですが。

去年(10/25/2000)大輪講について唐突に語ったときは、

卒業研究の中間発表。一人20分(+質疑応答5分)の講演を他の4年生と教員が聴いてびしびし質問するという厳しくも楽しい4年生の必修科目
という補足説明をしていたのだった。 一年たって、不親切になっていた私であった。
今日の大輪講第一回目は、なかなか気合いが入っていたではないですか。

話の方は、仕上がりに多少の差があるものの(←おお。婉曲表現。)総じてよいできであった。 学生諸君の質問が大いに盛り上がったのはナイス。

その調子でがんばってください。


ぐへ。 空き時間はずっと収束証明をやっているのだが、連続時間の極限は思っていたより厄介で、気を抜いた評価を作ると(上限が)すぐに発散する。 はっきり言って物理的には面白くないので、早く先に行きたい。
10/25/2001(木)

ぼくは、よく

研究は RPG(ロールプレイングゲーム)に似てる
というようなことを書いています。(タイトル付きリストで 2000 年 6 月とか 8 月をみてください)

しかし、

科学者育成シミュレーションゲーム『プリンキピア 』
のようなもののことを言っているのではないので、くれぐれも誤解しないでくださいね。以上。

(老後のために、ゲームの要旨のみ補足: 十七世紀が舞台。プレーヤーはニュートンなど実在したの科学者になり、研究を行なう。ゲームの最終目的は、「功績が認められ、科学アカデミーの会長になること」なんだって〜。あんまりなので、突っ込む気力もでないぞ。(もちろん、やっていない。Windows 用みたいだし。))


夕方から時間をとって収束証明。 ふう。 帰納法が閉じた。 昨日の晩は、一瞬、だめかと焦ったのだ。
百の質問の回答」を少し更新。

しかし、あまり面白くならないぞ。 アンケート回答だから正直に書けばいいのかな? 面白くなくてもいいのかな? でも、面白くないなら、わざわざ公開する意味ないよね。


10/26/2001(金)

流体力学や気体の運動学のように、物質のバルクな流れを考える問題では、Lagrange 的なものの見方と、Euler 的なものの見方の二つが視点がある。 Lagrange 的というのは、バルクな流れに身を任せ、流れとともに動きながら諸量の変化をみる立場である。 Euler 的というのは、流れの外に立ち、空間の各点での諸量の変化をみる立場、つまり、場の理論の立場である。

ぼくらが学生時代に読んだ(つもりだった)

高橋康「古典場から量子場への道」(講談社)
には、この二つの立場のどちらが Lagrange でどちらが Euler かを覚える「こつ」が書いてあった。

今、調べてみると、本はほとんど読んだ形跡がないくらいきれいで、この「こつ」が書いてあるのは、冒頭も冒頭、第0章の1ページ目の脚注であった。

高橋先生ご推奨の覚え方とは;

オイラは場の理論の立場
・・・
オイラは場の理論の立場
・・・
オイラは場の理論の立場
・・・

長年アルバータ大学で研究活動を行なってきたアメリカ風のかっこいい物理学者というイメージのある高橋先生が、「オイラ」はないのでは、という論点はひとまず置こう。

それを置いてもですね、高橋先生、これって、別にしゃれになっているわけでもないし、「オイラ」と「場の理論」の語呂があっているわけでも何でもない。 覚えたつもりでいても、頭のなかで、たとえば、

オイラは物質の立場
とか
オイラは力線の立場
とかになってしまったら、何の効果もないではないか。

いくら高橋先生のおすすめとは言え、こんな覚え方で覚えられるわけがない。

学生時代のぼくたちは、(本はろくに読まずに)この記憶法につっこみを入れまくっていたのであった。 (今この本を見ると、ほんの少し先に「弾性体」と「男性体」をひっかけたなかなかつっこみ甲斐のある脚注を発見。(←これだけ見るとやばいネタみたいだけど、一応、大丈夫です。)これって記憶にないから、ほんと買っただけで読まなかったんだなあ。)

あれから幾星霜。

ぼくも、物理の教員の端くれ(←白々しいぞお)となった。 今日の4年のゼミでも、学生さんに Lagrange の立場と Euler の立場を説明してあげるぼくの姿があった。

そして、説明のために、一瞬、頭のなかで考えと用語を整理しようとするとき、ぼくの頭にまず浮かぶのは、

オイラは場の理論の立場
というフレーズであった。

「覚えられねえ」とつっこみを入れているうちに、完璧に覚えてしまっていた

高橋先生、完敗です。


charged driven lattice gas; ρの二乗までのオーダーの Shannon entropy なら、転送行列っぽく計算するのが楽だと気付いた。 考えてみてよかった。 これで、ほとんど手駒は出そろった感じ。 大きな見落としがないといいな。
10/29/2001(月)

高橋康「古典場から量子場への道」(講談社)には、

光子はコーシと読む。ミツコではない。
というネタもある、と M さんからメールで教えていただいたので、探そうと思ったついでに、この本を最初からパラパラと読んでみる。

光子はみつからなかったが、

ろうばしん 【老場心】
場の理論を長く研究している者が、初心者に対し親切すぎて、不必要なまでに世話をやくこと。必要以上の親切心。「―ながら申し添えますがその場の理論は cutoff 無限大の極限では対称性の破れは示さないはずなので、形式的に Lagranigin を書いても意味はないでしょう」(解説と例文は田崎による。岩波国語辞典を参照しました。)
をみつけて喜ぶ。

しかし、この本には、普通の本には書いていない鋭い事がいろいろ書いてあって、愉しい。 たとえば、10ページから引用。

前にあまり先を急いではいけないと言ったが、なぜそうしてはいけないか? それは、むずかしい考えを理解する以前に、あまり早く技術に慣れてしまっては、単なる技術屋さんになってしまって、物理学の本質をゆっくり味わいながら楽しむことができなからである。 むずかしい考え方が脳の中に落ち着くのには時間がかかるものである。 一方、人間は、技術的なことにはすぐに慣れてしまうものである。 計算などが早くできるようになっても、その課目を理解できたと早合点しては困る。 いったん研究をやらねばならない段階に達すると、人生そんなに楽しくはない。 1年のうち360日くらいは暗中模索まったくのくらがりを手さぐりで歩いているようなものである。いったい自分が正しい方向に進んでいるかなどわかるはずがない。 そう信じて手さぐりを続けるほかはない。 残りの5日くらい(閏年なら6日)、ぱっと光が見えたり、うまくいった・・・・と喜んでみたりすることがあっても、たいがいは幻想である。 それでも一生のうちに、何かちょっとした自然のからくりが理解できればまだ幸運である。 そんなことがあるかどうかもわからない。
文体こそ違うけれど、いかにもぼくが書きそうなことではないか。 実は、学生時代に読んで強い影響を受けたけれど、読んだ事実は忘れていたとか?

もっと書きたいのだが、時間切れ。


10/30/2001(火)

化学の方にパーコレーションについて質問されました。 質問を整理すれば、

立方格子上のサイトパーコレーションのパーコレーション確率(原点が無限遠と連結している確率)を占有確率 p の関数として表した信頼できるデータはないか?
ということになります。

そんなもの、本を見ればグラフが載ってるじゃろうと思って手元にある本を二、三眺めたのですが、どうも載っていない。 けっきょく、数学の人も物理の人も、転移点の存在とか臨界指数とかにばっかり頭がいっている(←これは、正当なのだけれど)ので、もっとも素朴なパーコレーション確率のデータがないのだよね。

というわけで、役に立ちそうなデータの載っている本や論文をご存じの方がいらっしゃったら、是非とも教えて下さい。 お願いします。 (老後に読むための日記の活用法としては、いまいちだな。)


ラーメン屋さんで順番を待ちながら、妻に告白。

「ここ二週間くらい妙に集中力が落ちているんだ。どうしたのかな。」

「先週も同じこと言ってたわよ。ここ二週間くらいって。」

「そっか、じゃ、ここ三週間くらい。」

いろいろなことを考えたり、計画したりして、具体的な計算や評価なんかもしているのだけれど、どうも一歩踏み込んできちんとまとめたり、論文を書いたりしないままになってしまっている。 単にそういう時期なのか、それとも、ぼくの中のどこかに「まだ本物ではない、もっといい考えがあるはずだ」と囁くものがいて、それが、まとまらないうちに別のものに向かわせるのか。

などと言っている場合ではなく、この会議のアブストラクトの締切が今月中(しかも、先方に必着)なのに書いていないではないか。 物理の会議と違って、どの程度遅れても許されるかという感触がないので、怖い。 (いや、一概に物理だから遅れていいというものじゃないだろうが。) せっかくのチャンスなのだから、手抜きと思われるようなアブストラクトは書きたくない。 幸い今日は何も予定がないから、がんばろうではないか。


四時間後

がんばったぞ。(他のこともしたけど。)

イントロは書き下ろし(←佐々さんが使っていた「流れる水は凍りにくいか?」を脚色)、本文は論文の超短縮版で、上限の2ページぎりぎりいっぱいの予稿を仕上げた。 今まで、LaTeX で紙の上の方の余白を消すことができなかったのだが、LaTeX book をみて、

\headsep 0pt
\headheight 0pt
とやればよいと知った。 これで、上下左右のマージンをほぼ1インチにできた。

別に大したものではないですが、一応 pdf を公開しておきましょう。 明日になってぎりぎりで変更する可能性もあり。

というわけで、「集中力がない」とはいえ、こういうことをやるのはけっこう速いのであった。


10/31/2001(水)

時間がないのですが、急いで事後報告。

きのう書いたパーコレーションの件については、何人かの方とやりとりした結果、たしかに臨界指数などのデータは多いけれど、パーコレーション確率の生データはころがっていない、という結論に。

それでメールをやりとりしていた原研の(←「げんけん」です。咄嗟に「はらけん」と読んでしまう人はいるだろうな。原とか。)板倉充洋さんに、何気なく「数値計算のプロにとっては簡単過ぎてやる気もおきないような問題なのだと思います。」と書いたところ、なんと、二時間たらずで、代表的なパラメターについての計算結果と C のプログラムをおくって下さったのでした。 (←なお、板倉さんは勤務時間外だったそうです。念のため。) プロの心をくすぐってしまったいけない私であった。

でも、これで化学の方の解析は進みそう。 ともかく科学が進むためのささやかなお手伝いができた(ぼくは何もしていないが)わけだし、化学と物理のちょっとした交流になったのもうれしい。 なによりも

物理屋つかえねええ
という風評も生まずにすんだのはよかった。

板倉さん、本当にありがとうございました。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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