学習院大学 東洋文化研究所The Research Institute for Oriental Cultures

研究プロジェクト

一般研究プロジェクト

A17-4 木村武山と中国美術コレクション(2017-2018年度)

 

構成員
代表研究員 鶴間和幸
研究員 邉見統
客員研究員 村松弘一 于保田 北村皆雄 三浦庸子
(1)研究の目的・意義

木村武山は明治・大正・昭和期に活躍した日本画家として知られる。日本美術学校を卒業後に岡倉天心の弟子として北茨城の五浦を拠点に活動した。1907年に出展した阿房劫火は項羽に焼かれた秦都咸陽の光景を描き、高い評価を得た。その武山が膨大な中国美術のコレクションを収集し、その子孫が現在に至るまで民間で保存していることが最近わかった。その存在は世に紹介されることなく、 このまま放置しておけば中国ばかりか世界の文化遺産の大きな損失となることは間違いない。
本研究は子孫の協力で美術コレクションの入手経路、美術的価値を探るものである。美術コレクションの内容は、青銅器・玉器・石器・陶器を中心とする中国古代の精華といえるものであり、日本にある一級の中国美術館の所蔵品にも相当する。木村武山は1942年に逝去しているので、コレクションは戦前の中国から流出したものであることは間違いない。中国考古学、歴史学の専門家が予備調査を開始したが、その内容に誰しもが従来の常識を超える驚きを禁じ得なかった。なかでも人民中国建国の1949年以降の考古学の発掘によってはじめて認識されたものが、すでに本コレクションに見られることは重要である。1965年湖北省の戦国時代の楚墓から出土した越王句践の青銅剣、1986年に四川省広漢県で出土した三星堆遺跡の青銅人頭像、そして1974年陝西省臨潼県で発見された秦兵馬俑に酷似するものが含まれている。現在青銅器の科学調査を学内外の機関に依頼しているが、本プロジェクトでは木村武山の生涯をたどりながら、コレクションの入手経路を明らかにしていきたい。それは木村武山をめぐる東洋美術界の人脈の探索でもあり、中国考古美術学史の再考をめざすものとなる。

(2)研究内容・方法

木村武山の美術コレクションの価値を判断するには、まず木村武山の生涯をたどる必要がある。東京美術学校を卒業後、岡倉天心とともに北茨城で活動した時期に、中国とどのように関わっていたのか。武山は1904年に近衛歩兵連隊に応召され、日露戦争を迎える。ただ朝鮮や中国に渡航して従軍した形跡はない。1907年の阿房劫火の作品を制作するにあたって中国西安の史跡を事前調査したことは考えにくい。
岡倉天心の弟子である早崎稉吉が中国で撮影した古写真が茨城県天心美術館に所蔵されており、そのなかに西安城や阿房宮遺址の写真がある。武山は現存する明代西安城を阿房官として描いたと推測される。阿房劫火には下絵があったと伝えられる。また青銅兵馬俑を収めた木箱には100部近い日露戦争時の東京日日新聞が詰められていた。天心美術館、茨城大学美術研究所や阿房劫火を所蔵する茨城県立近代美術館において武山の関係資料を調査する。また武山の故郷である茨城県笠間市の邸宅には1935年に大日堂を建立し、天井絵を制作した。1930年代の動向をみると、大山巌の子の大山柏(考古学者)や寺内正毅、寿一父子(ともに陸軍大臣)との交流が見られる。当時は中国において殷墟の発掘(1928~37)が行われ、中国考古学発掘の草創期であった。日本人の実業家によっても青銅器を中心に購入され、現在まで中国の美術品を収蔵する美術館、博物館がいくつかある。根津美術館、書道博物館、藤井有隣館、寧楽美術館、出光美術館、永青文庫、白鶴美術館、泉屋博古館などの青銅器、玉器などと比較調査したい。さらに青銅器のなかでは、越王句践剣、三星堆青銅人頭像、青銅兵士俑については、中国で出土した青銅器を実見して比較する必要がある。湖北省博物館、中国国家博物館、上海博物館、秦始皇兵馬俑博物館、陝西省考古研究院などを訪問することを予定している。青銅器の時代判定は難しく、蛍光X線によって細かな成分分析が可能である。すでに秦の時代の青銅器と確定できるものとの比較は可能である。さらに東京文化財研究所と学習院大学理学部の分析化学の研究室の協力は得ている。化学分析の結果によって時代判定を行っていきたい。

(3)成果報告の計画

第1章 総論 鶴間和幸「木村武山とコレクションの由来」
第2章 各論 江村治樹「玉器」、小林公明「石器」、「銅鏡」、于保田「陶俑」、鈴木舞「青銅器」、松本圭太「青銅刀子」
第3章 化学分析 飯塚義之「青銅器の化学分析」