日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


1/1/2006(日)

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。


お正月三が日だけ結城さんの Tropy11/4/2005 を参照)が復活中。

ほんの少し前に出会っただけなのに、すでに、なつかしい場所に戻ってきたような気持ちになるから、不思議。


蔵本由紀(くらもとよしき)さんが朝日賞を受賞された。

「賞というのは、単にある人を推す集団の社会的な勢力を反映するだけのもので、学問への本質的貢献を忠実に反映するものではないのだ」というのは自明だが、それを認めた上でも、今回の受賞は、学問的な意味で、本当にすばらしいものだと思う。

近い分野の若輩として、心からお祝いを申し上げます。

実は、わりと最近、蔵本さんがどういう意味でご立派なのかということを、何人かの方とまじめに話して確認するチャンスがあった。 以下、そのときになっとくしたことを簡単に書いておきたい。


言うまでもないだろうけれど、蔵本さんは日本を代表する統計物理の研究者の一人だ。 ぼくなどが書く必要はないだろうが、蔵本さんの主要な業績は、 などであり、どれをとっても、少しレベルの高い教科書レベルで取り上げるべき、不朽の知見であると言っていいと思う。

ぼくは、近い分野の研究者であるにもかかわらず、蔵本さんとの接点はほとんどなかった(そもそも会話を交わした記憶も、一、二回しかない)。 それでも、彼に学生のころから尊敬と憧れをいだいてきた。 なんといっても、ぼくにとっての蔵本さんは、ぼくが漠然と「京都的な物理」というような言葉でとらえていた一つの文化を体現するシンボル的な存在でもあった。 ただし、ぼくの「京都的な物理」というのは、世間知らずの学生が思い描く好き勝手な理想像だったかもしれない --- 東山を臨む京大のキャンパス、哲学の道、基礎物理学研究所の(旧)湯川ホールの一階の黒板で素粒子理論家と統計物理学者と数学者がコーヒーを囲んで議論する情景(半ばは想像で、半ばは実体験)などなどをまぜこぜにして、自分が好きなタイプの物理や数学の風味を加えて作った(多分に誤解を含む)イメージだった。

それでも、今、ちょっと大人になって、いろいろな人の話を聞き、また、近年の物理の研究の流れを自分なりに考えてみると、このような蔵本さんへの憧れは、それなりに的を射たものだったと思えてくる。 蔵本さんは、実際、統計物理学のなかの一つの重要な「文化」を体現する人物だと思う。 それは、一言でいえば、「もの」にこだわらずに普遍性を探っていくという文化だ。 化学反応系・生体系など伝統的な固体物理の土壌から離れた様々な局面から、重要な普遍的な現象や構造をみいだしていく文化である。 重要なのは、これが、単に「反流行」をねらった旗印だけの研究の流れではなく、幅広い具体的な題材を、非凡な理論的な手法であつかうという、堅実な業績に裏打ちされたものだったということだ。 今回の朝日賞は、蔵本さんがこのような「文化」を育て上げたことをこそ評価するものだととらえたい。


1/3/2006(火)

冬休みの宿題の一つ(読書感想文)をまだ仕上げてない。 今、やっています。


簡単な計算をして、予想通り、流れのある非平衡定常状態について「時空間の歴史についての等重率の原理」は不適切だという結論をだす。 (時空間ではなく、単にある瞬間の測度について、等重率の原理がうまくいかないことは、金・早川の希薄気体の精密な計算でズバリと示されている。 ぼくがやってみたのは、広告の裏でできる簡単な計算。 結果は、定性的に当たり前だなあ。等重率を指示している人たちがこういう例に思いいたらなかったとは考えにくい。 いったい、どうとらえているのだろう?) なんらかの等重率の原理が成り立たないかぎり統計力学は存在しないのではないかという「悲観論」に傾いているだけに、この結論はうれしくない。

とはいえ、もともとは、このアプローチにはまったく期待していなかったので、ろくに考えてもいなかったのだ。 最近、いろいろな思考の筋をたどった結果、藁にもすがる思いで少しまじめに取り上げたのだが、けっきょくは、振り出しに戻ったということか。


結城さんの Tropy は、予告通り三が日だけで終了。 それまでページが次々と軽やかに表示されていたのに、日付がかわったところで、音もなく(←当たり前か)停止して「お休みです」というページが表示されるようになった。

今回は、前回さわりそこなった妻も遊ぶことができたし(隣の iMac で、なにやらカタカタと打ち込んでいた)、ぼくも以前につくったページに再会できたし、(名残惜しいけど、いちおう)満足です。 とちゅう、古いページに「なつかしいね」というコメントを書き足したら、即座に「田崎も日記に同じようなことを書いていた」とコメントされてしまったのは面白かった。するどいですね。

今回は、前に比べると軽い感じがしたけれど、結城さんが何か工夫をされたのかな?(random でとんでいて、似たページがくり返しでてくることがずいぶん多かった気がする。)

結城さん、(Tropy のページでもお礼を言ったけど、もう一度、こちらでも)どうもありがとうございました。 (これも、あっちにも書いたけど)元祖 Tropy は、こうやって時々開くというのも愉しいかもしれないですね。


1/5/2006(木)

本日の朝日新聞夕刊(東京本社版)の 10 ページに、「ニセ科学」シンポジウムについての記事が載っている(大阪本社版にも本日、西部本社版には昨日載ったらしい)。 (付記:記事はネットでもみることができるようになった。)

記事を書いて下さったのは大阪本社の方で、ぼくはメールと電話で、菊地さんはじかに取材を受けた。 こちらはとくに働きかけたわけではなく、あちらが関心をもってコンタクトしてきてくれたのだ。 さらに、この朝日の方からの最初のメールが入ったとき、実は、ぼくの部屋には別の新聞社の方がいらっしゃって、やはりシンポジウムのことを取材されていたのであった。 非平衡のシンポジウムとは大きなちがい! じゃなくて、「ニセ科学」問題への真面目なマスコミの方の関心の高さがよくわかる。

朝日の記事は、

ニセ科学に科学のメス
物理学会 無視から対応へ転換
という見出し(見出しは地方によって違うようだ)の、全部で五十行くらいの記事。
日本物理学会(約1万8千人)が3月に松山市の愛媛大で開く学会で、「ニセ科学」について議論する。
という書き出しで、見出しともども、学会が主体的に「ニセ科学」批判に動くという印象を与えているのは、ちょっと行き過ぎかな。 でも、その先は正確に書いてあると思う。

で、ぼくと菊地さんのコメントが続くわけだけれど、これは、シンポジウムの趣旨などに書いてあることの抜粋と思ってよい。 意外な喜びは、物理学会会長の佐藤勝彦さんの

「ニセ科学を批判し、社会に科学的な考え方を広めるのは学会の重要な任務の一つだ」
というコメントも掲載されていること。 こんなのは決まり文句だろうと思うかも知れないけれど、そうでもないぞ。

シンポジウムが承認されたといっても、それはあくまで、われわれが提案し、その提案を領域委員会なるところで(企画のよしあしやプログラムの事情などなどを考慮した上で)審議し、「シンポジウムを開くのはいいでしょう」という結論が出ただけのこと(実は、ぼくは領域委員会に二回出席したことがある(一回目は 11/25/2004、二回目は5/25/2005)でも、今回のシンポジウムが審議されたやつには出てない)。 別に、「ニセ科学」を批判しようという方針が学会で議決されたわけでもなんでもないのだ。

だから、会長としてのコメントは、とことん官僚的にクールにやろうと思えば、

「そのシンポジウムの内容には個人的には大いに興味を感じる。しかし、物理学会としては、単にシンポジウムの開催を承認しただけであって、『ニセ科学』と呼ばれているものを批判しようという積極的な方針を打ち出したわけではない。」
というのでもよかったわけだ。 そこを敢えて「学会の重要な任務の一つ」とコメントされたことには、なかなか大きな意味があるということだ。 佐藤さんはえらいと思う(もちろん、記事の中のわれわれのセリフは記者が書かれたものだけど、まったく言わなかったことは書かないし、最終確認もしているはず)。

ともかく、今回の記事は、ぼくらのシンポジウムにとって、なかなかナイスな応援である。 取り上げて下さった朝日新聞の方々には深く感謝している。 シンポジウムを意義のあるものにするよう、(教育と研究の次くらいに)最善を尽くそうと思っている。

もちろん、シンポジウムはちょっとした「きっかけ」に過ぎないわけだし、「ニセ科学」とどう向き合っていくか、というのは本当にデリケートな難問なのだ。 そういったことも、これから先の「雑感」でぼちぼち書いていこうかなと思っています。


「非平衡定常系の等重率の原理がまずいことを示す例」は初歩的な計算だし、非建設的でおもしろくないのだが、説得力をちゃんとつけるために、ついつい整備して、ますます小綺麗(こぎれい)な結果になりつつある。 小綺麗になっても非建設的であることに変わりはなく、魅力は増さないのだけど。 そんなんだったらやめとけよと言われそうだけど、やっぱり、具体的な例を自分の手でいじるということはなかなかやめられないのだ。
1/6/2006(金)

午後から会議なので、午前中に「冬休みの宿題」の感想文をおわらせる。

もう少し正確にいうと、みすずが出している「みすず」という雑誌の1,2月号の「読書アンケート特集」というのに書けというありがたいお話をいただいたのだ。 2005 年に読んだ本から五冊以内について八百字程度で感想を書けという、まさに「読書感想文」の宿題。

どうせだったら、いろいろ書こうとはりきって、最初に考えたのは、

  1. Abraham Pais, 'Subtle is the Lord...' The Science and the Life of Albert Einstsein (Oxford Univ. Press)
  2. J. D. Salinger, 'Hapworth 16, 1924' (The New Yorker, June 19, 1965, pages 32-113)
  3. 江本勝「水は答えを知っている」(サンマーク出版)
の三冊。 1 はアインシュタインの伝記。本当に面白く読んだ本。 2 はぼくの愛するサリンジャーの幻の中編小説。雑誌に載っただけで単行本には収められていない(それでも、ぼくはフルテキストをもっている。ネットの威力である。ああ、サリンジャー先生、ごめんなさい)。何年か前についに単行書として出版されるという話になって Amazon での予約まで始まったらしいが、けっきょく中止されてしまったのだ。でも、なぜか日本では単行本になっている(しかも、冒頭から大ボケの誤訳つき!)という不思議。 3 は、まあ、あれです。 なかなか多彩でしょう。

が、まじめに八百字という分量を考えて書いてみると、三冊というのは無謀だということがわかってきた。本当に最低限の紹介をするだけだったら何とかなるかもしれないけど、どれをとってもぼくがわざわざ紹介して世に知らしめるというような本ではない。

で、けっきょくは、かっこをつけず物理バカに徹するのが正解だろうと考えて、1 のアインシュタインの伝記についてだけ書いた。 「読書アンケート」の回答者は圧倒的に人文系の人が多いらしいので、ま、こうなったら理系臭をプンプンと発散してやろうと(←なんか、表現がめっちゃ不適切だな)。 それでも、頭にあった構成をもとに書いてみると、たちまち倍くらいの分量になってしまう。 「理論物理屋の私がこの本を、しかも 2005 年に読んだ本として、紹介するのも芸がないのだが、しかし、あーだらこーだら」とか「こうやって物理の専門家だけにわかる楽しさについて書くのは申し訳ないとも思うのだが」みたいなグダグダした前置き的フレーズはすべてカットし、漢字の分量もふだんよりは少しだけ多めにし、さらに、書きたかったことをいくつか削って、なんとか、まともな長さに収め、編集者にメールして、ようやく冬休みの宿題終了。

ちなみに、この「読書アンケート」には、ぼくが知るかぎりでも、田口さんと早川さんが書かれるようなので、けっこう身内が多いかも。 本屋さんで見かけたら覗いてみて下さい。

遠くないうちに、みすずに送った感想文を膨らませて書き足りなかったことを書き足して、書評のページで公開しようかなあとか思っています。


あ、そうそう。

「水からの伝言」に関連して、けっこう重要な実験の記録が web 上にあることを最近になって知ってしまった(「水からの伝言」を知らない人は、ぼくの書評の最初のあたりだけでも読もう)。

実験されている方は、前から web ページを定期的に読んで尊敬している人なのだ。 こちらをご覧ください


1/12/2006(木)

第二種永久機関の開発は、熱力学や統計力学にかかわる物理学者の重要な使命である。 もし現実的な第二種永久機関が構築されれば、環境の熱を利用可能なエネルギーにいくらでも変換できるので、いわゆるエネルギー問題はすべて解決する。 そればかりか、世界中の図書館の熱力学関連の書物が無意味になるので、大々的な本の書きかえも発生するので、図書館の人もぼくらもいっぱい仕事ができる。 ただし、エネルギー問題は解決しても資源問題は解決しないので、ちょっと困るかも。

という背景もあり、私もささやかながら第二種永久機関の提案に取り組んできた。

「熱力学:現代的な視点から」の演習問題 3.2 では、重力を利用した第二種永久機関を提唱している。さらに、2000 年の雑感(12/15/2000)では、ポテンシャルの段差を通過する N 粒子系を利用した第二種永久機関について述べた。

今回は、さらに進めて、最先端のナノテクノロジーを利用する第二種永久機関について書いてみたい。 その名も、「ハヤカワ機関」とアナクロ SF 的でナイスなネーミング。 早川さんと跳ね返りについてメールで議論していて、彼が書いたものから借用した。 つまり、盗作である。 早川さんがこの特許で巨万の富を得るときには最初に紹介した者として少しおすそ分けしてもらおう。

今回の永久機関は、この前のみたいに数式がいっぱいでてきたりしないので、よりお買い得である。

基本的には、やることは、

というだけの操作。 粒子のあいだには剛体的相互作用が働くとすれば、二つを移動させてすぐそばに置くために(原理的には)仕事は必要ない。

この状況で二つの粒子を放置すると、 [two nano particles]


ということがおきるはずだ(図を参照)。 もし、いつまで待ってもこうならないなら、二つの粒子をもう少しだけ近づけて、もう少し待ってやればよい。 必ず反発する。

あとは、これと同じナノ粒子のペアーをたくさん用意して、すべてを同じ向きに配置してやるだけだ。 もう少し正確に言えば、真ん中に面をとり、ナノ粒子のペアは必ずこの面の右側と左側になるような感じに置けばいい。 しばらく待っていれば、上のような自発的な反発が次々と生じてくる。

結果として、面の右側では右向きの、左側では左向きの、ナノ粒子たちの流れが生じる。 もちろん、粒子の速度はきわめて小さいが、それでも、方向がきちんとそろっているという点で、熱的なランダム運動とは本質的に違う。 粒子ペアーの個数を十分に増やしてやりさえすれば、マクロな流れが生じるから、そこから仕事を取り出すことができる。

この話では、粒子がナノスケールだというのが本質的に重要なことに注意。 マクロスケールの粒子だと、熱振動による変形があまりにも小さくて、この機構を実現するのは本当に苦しい。 さらに、分子スケールだと振動がほとんど単振動になってしまうけれど、ナノスケール粒子だと、二つの粒子がそれなりに多数の分子を含むため、振動がカオス的になりうるというところもミソ。 カオス的振動なので、ごく低い確率で例外的に大きく変形するということが可能になるのだ。

こうして、先端のナノテクノロジーを使えば、単一の温度の熱源から運動エネルギーを取り出す第二種永久機関が、原理的には、実現可能なことがわかった。 実用への道は遠いが、着実に基礎技術を積み重ねていけば、人類の未来を変えることでしょう。 野心と技術のあるハイテクベンチャー企業からの連絡をお待ちしていま せん


1/13/2006(金)

随分前の「雑感」(6/14/2002)で、田崎ゼミで発表していた学生さんの足やら指やらが次々とつったという恐ろしい話を書いたが、その後、筋肉に無理な負担をかける理論物理研卒研生養成ギブスなどを廃止したためか、ゼミで筋肉がつるという事故のことはすっかり耳にしなくなり、それなりに平和な月日が続いていた(一部、調子にのって書いているところがあります)

ところが、今日、有限温度の希薄電子気体に平均場的相互作用を入れた系での強磁性転移を調べるというなかなか骨のある計算(←私は、電子系での強磁性の発現についてそれなりの貢献をした人なのだが、実は、この計算をちゃんと見るのは初めてだった)を、いつも通りのすさまじい勢いで黒板に書き続けていた T 君が、式変形の途中で、とつじょ、その手をとめ、チョークを置いた。 そして、

「すみません、ちょっと指から血が出て・・(←T 君をご存知の方は彼の渋い声で読もう! 実は、ぼくは彼の声真似が結構うまいのだ)
と言うではないか。

さらには、あくまでいつもの客観的で淡々とした低音で、

「すみません、チョークに血がついてしまった・・」
がーん。 ほ、星よ、T 君よ、おまえって奴は、ケガを隠して血染めのチョークでその複雑な計算をしまくっていたのか・・ そういえば、いつもは完璧過ぎるほどに計算をこなして整然と板書していく T 君が今日だけは微妙な書き間違いや式のわずかな乱れを見せていた。 それは痛みを顔にださず計算を続けたためだったのか!! 水から上は優雅に見える白鳥も水面下では死にものぐるいに足を動かしているように(←これってほんとか?)、君も淡々とした外見を保ちつつ内面では激痛と闘い続けていたのかっ!!!

T 君が手を洗いに行っているあいだ、O 君が、「俺だったら、ちょっと痛かったら、もう『あ、いてっ、いてっ、だめだ』とか痛がっちゃう」と言ってたのに妙になっとく。 いや、O 君も計算力とセンスでは決して T 君に負けないのだが、たしかにタイプは対極的なんだよなあ。 来週は O 君の発表だから、無事を祈ろう。


卒業研究の所属研究室を検討中の物理学科三年生のみなさんへの事務連絡:田崎ゼミでは、決して、筋肉に負担をかけたり、指からの出血を促したりするような指導はおこなっておりませんのでご安心ください。
1/14/2006(土)

午後から、なんとオペラを聴きに・見に行く。 澁谷のオーチャードホール。 ぼくが駒場から渋谷まで歩いて帰るときにいつも横を通っているお馴染みの場所だ。 妻に言われてみれば、以前に一度来たことがあるような気もするが、普段はここにホールがあるなんて思いもしないで歩いていた。

ぼくは、音楽はかなり全般的に好きなのだが、オペラはそれほど得意じゃなく、おそらく、まともに生のオペラをとおして聴いた・見たのは、ニューヨークでの一回かぎりだったと思う。 その時も、やたら安い席だったせいもあって、いまいち楽しめなかった漠たる記憶がある。

で、今回、成り行き上オペラに行くことになってちょっととまどっていたのだが、結果的には、まったく予想以上に楽しめて満足している。

演目は、おなじみの La Traviata(椿姫)。 話もわかりやすいし、音楽も派手だし、なかなかとっつきやすいオペラ。 ぼくの母が La Traviata が大好きで、子供の頃なんかも、このオペラをテレビでやっていると母が喜んで見ていたものだ。

加えて、今回は、事前に La Traviata の DVD が買ってあり、それなりに聴いて・見ていたのが、よかった。 オペラには「ネタバレ」の概念はないはずで、中身を知っていても楽しめる、というより、ストーリーやアリアを知っている方がずっと楽しめるものだと思う。 オペラの座席に払う値段(今回は事情により割引だったんだけど、でも、安くはない)を思えば、DVDはちっとも高くない。 たった三千円で、本番の楽しみが倍増するんだから、お安いものである。

ちなみに、この DVD は、なかなかのおすすめである。 ショルティの指揮は派手でねちっこく聴き応えあるし、セットも映画並みに凝っているし、なんといっても、 Violetta 役の Angela Gheorghiu たん が素晴らしい。 歌も演技力も見事だし、ちょっとびっくりするくらいの美人。 とくに、第二幕・第二場の内心に恋の苦悩を秘めた Violetta の姿とかは実に美しい(DVD のカバー写真はいまいち;もっときれい)。

しかし、La Traviata の物語って、オペラを見ただけでは、単に、Alfredo がひたすらバカで、Alfredo の親父がひたすらバカで悪い、というだけの話にみえる(今回の講演で親父さんを演じた日本人はすごくうまかったが、それでも、バカで悪いことにかわりはない)。 原作を読めば、そうならざるを得ない社会的背景なんかが見えてくるのかも知れないけど。


1/16/2006(月)

なんと夕方過ぎに会議が二つもあった。

のだが、一つ目のことを失念していたので時間が重なっておった。弱ダブルブッキングである。

で、そのまま忘れていたので、一つ目が始まってから電話で呼び出され、遅刻して顔を出し、途中で抜けて二つ目へ。 形式的な会議というわけではなく、みなさん真面目にがんばっているので、ちょっと恥ずかしい。


1/19/2006(木)

何か、悲観的な気分になって、一種異様なまでに仕事の能率が悪いような気がする。 気がするだけかも知れないのだけど、やるべきことが片づかず、やりたいこともできず、プールにも行けないよお。

などとごちゃごちゃ言っている暇があったら端から仕事を片づけるしかないのであって、今日は、家にこもって淡々と働き、物理学会の予稿を書く。 シンポジウムの方は10分の基調講演なのに、主要講演者並に2枚の予稿を書くという謎。 基本的に「ニセ科学」については素人なので、抑えめに背景を説明し、かつ、シンポジウム開催を発表した後の反響の一端に触れる。 一般講演の方は、ま、気楽に書いた。

明日は身動きとれないので、二つとも締め切りの前日の今日のうちに学会に提出。


と、一仕事片づくと、やっぱりほっとして、急に楽観的な気持ちになるから、われながら単純。 次に考えたいことについて少し考える。
1/20/2006(金)

本年度の四年生のゼミが今日で無事に終了。みなさん、お疲れ様でした。

うちの理論グループの四年生のゼミの適正人数はだいたい三、四人だろうと思っている。 一回の発表の準備には一週間近くかかるから、三、四人で毎週一人ずつ発表すれば、だいたい、休む暇があるかないかぎりぎりくらいになって、ちょうどよい(学生さんは、ゼミをもう一つと、それ以外に、卒業研究をやる)。 参加者が二人なんていう年もあり、そういうときは、さすがに、一回で進む量がやや少なくても容認してしまった。

今回は、なんと田崎ゼミへの参加者が八名という異常事態。 毎週一人ずつ発表していたのでは、二ヶ月に一度発表という軟弱きわまりない状況になってしまう。

というわけで、今年は変則で、毎週、二人ずつが担当になり、それぞれが一つのセクションを発表するという方式にした。 もちろん式変形はすべて導出し、本のロジックが間違っていれば(しょっちゅう、まちがっている)できる限り修正し、導出に不備があればその場でぼくが誘導してすべて導けるまで計算する。 それを、毎回、二人分やるので、けっこうハードである。 二時頃にはじめて、終わるのは(季節にもよるが)いつも暗くなってから。 それぞれ個性のあるメンバーがそろい、とくに何人か強く引っ張ってくれる人がいて、Huang の Statistical Mechanics の運動論のあとの統計力学の基礎からはじめて、量子統計の最初の方まで、百数十ページも進んだ。 本をめくってみても、みんなでここまで読み進んだか、と実感する。 毎年のことだが、みんなで高い山に登り(オイラは、気ままな現地のガイド(とはいえ、初めて通る道も多い))、ああ、こんなに登ったんだと下界を見下ろす気分。

最終回は O 君の発表。 例によって、photon の化学ポテンシャルについての Huang の議論、Landau の議論をびしびしと批判的に検討。 ぼくの本ではもっと上手に書くぞ。

自称「痛がり屋」の O 君の手がつることも、指から血がでることもなく、トラブルなしに無事に終了。 強いて挙げれば、ぼくが朝、出勤前に鼻血を出したくらいかな。


1/21/2006(土)

大学に行って、やり残しの仕事を片づける計画だったのだが、雪なので、家にこもって仕事をする。

しかし、よく降ること。共通一次、じゃねえ、センター試験の人たちはかわいそう。受験生も試験をする人たちも。


かなりの積雪で、これを放置すると明日が大変になる。 日中、二回ほど雪かきをしたのだが、すぐに雪が降ってまた埋まってしまう。 幸い、夜の九時過ぎには雪は完全にやんだので、妻といっしょに丁寧に仕上げの雪かきをする。

雪をかきながら、ずっと前(調べたら五年前の 1/27/2001 だった)の「雑感」に、やはり雪かきの話を書いたことを思い出した。 雪かきをしながら考えた仮想的な会話のことを書いたのだ。 めずらしく、そのまま引用しよう。

夕方から、妻といっしょに少し雪かき。 アパートの前の道路に、細い道をつけながら進む。 ときどき振り返ると、自分が進んできたところだけ細くまっすぐにアスファルトが露出していて、気持ちがよい。 いい運動である。

単調作業をしつつ考えた会話;

誰か:あ、どうも。田崎さんが雪かきするなんて。
田崎:こういう労働は得意じゃないです。 でも、新しい道をつけるのは好きなんです。
おお。かっちょいい!
もちろん、こんな会話を実際に交わしたわけではない。でも、まさに非平衡の研究の本腰を入れはじめ、何一つわからないまま気合いを入れていた頃に書いたものなので、妙になつかしいのだ。

さらに雪をかきながら、ふと、このときの仮想の会話の相手がまた戻ってきてぼくと会話をしたら、なんてことも考えてしまう。

誰か:あ、どうも。また雪かきしているところにお会いしましたね。

田崎:あ、なんか、雪かきも趣味みたいになってきちゃって。

誰か:そういえば、あれから五年も経ちますね。どうです? 新しい道はつきましたか?

田崎:ああ。あれから、時には一人で、時には頼もしい仲間といっしょに、必死で四方八方に道をつくりました。五年前と比べると、まわりに見える景色はがらりと変わっています。ほんと、あの頃がものすごく遠い昔みたいに感じます。でも、お恥ずかしながら、未だ人様に通ってもらえるような道はできていません。目の前には何本かの道がありますが、そのほとんどは行き止まりなのかも知れません・・・

誰か:でも、行き止まりかどうかだって、歩いてみないことにはわかりませんからね。がんばってください。

田崎:はい、ありがとうございます(と、言いつつ、もう一度、相手の顔を見て息をのむ)。あっ! 貴方はっ!!

などと、どうでもいいことを書きつつ、五年前と比べると、新たにはじめた筋トレと水泳で腕力とスタミナがつき、雪かき程度ではばてたり腰痛になったりしなくなったことにも気づく。 少なくとも、こっち側の世界でのぼくを見ていれば、これが最大の変化であろう。
1/23/2006(月)

日本のとある雑誌に書いた記事の校正の締め切りが明日だったので、簡単に見る。

この雑誌については、以前から、特集で本当に何がやりたいかが伝わってこない、編集者の「顔が見えない」、記事の質にあまりにばらつきが大きいといったネガティヴな印象があり、「特別な事情」がないかぎりは執筆を断ってきた。 今回は「特別な事情」はなかったのだが、担当編集者から特集の精神を生き生きと伝える勢いのある執筆依頼のメールをもらったので、ちょっと悩んだ末に、引き受けることにしたのだ。

そういうことを思い出して、封筒の「○○編集部行」という宛名を「○○編集部御中」と書きなおしたあとに「○○様」と編集者の名前を書き足して、夜の目白通りのポストに投函。


1/24/2006(火)

土曜の雪は、まだあちらこちらに残っている。

裏道は雪が多いので、目白通り沿いに沿って歩いていくのだが、陽当たりのよい北側の歩道にも、何カ所か雪が残っているところがある。 だいたい、オートロックの高級マンションみたいなのの前の歩道にかぎって雪が多い。 住民が雪かきをするとかいう「文化」がないのだね。 降った当日か翌日に除雪してしまえばなんのことはないのだが、このように何日も放置されていると氷のかたまりのようになってしまって、滑りやすく危険この上ない。

おりしも、Physics Today の 2005 年 12 月号 p. 50 に Why is Ice Slippery? という記事が載っている。 せっかくなので読んでみよう。

凡庸な雪についての日記から無理に物理っぽい方向にもっていこうとしたが、うまくまとまらないし、いくつかオチを考えてみたがどうもベタになるので、これで終わり。


上記の Physics Today の記事だけど、
水は(融点で)固体の密度の方が液体の密度よりも高いため、圧力が上がると融点が低下する。 スケートが滑るのは、スケートの圧力によって融点が下がり、氷が融けるためだ
という、よく耳にする「通説」は、やはり、神話に過ぎないということが冒頭に書いてある。

この話をそのまま受け売りで解説している人(や本)も多いようだが、ぼくの熱力学の本には、摩擦など表面でのさまざまな効果が効くんじゃないかと、ちゃんと書いてあるのだった。


1/26/2006(木)

午後から早川さんがいらっしゃって、この前の雑感(12 日)に書いた第二種永久機関について、というか、ナノスケールの粒子の跳ね返りの問題について、数値計算の結果や早川さんの予想などを教えてもらいながら議論。

しかし、この問題は、ちょっと気を許すと(冗談でなく)第二種永久機関ができそうな気になってしまうので注意がいる。 見ようとしている目標は漠然とあるのだが、それが普遍的で美しい切り口を持つかどうかは不明。

いずれにせよ、早川さんと直接に議論して、いろいろな問題意識を明確にもつことができた。


夜は早川さんに家に来てもらって、四方山話。 早川さんについて「何でも知っている人」だと事前に息子に言ってあったのだが、実際、早川さんが息子の通う高校の歴史までも知っていた(ぼくは知らなかった)ので、ぼくの紹介に嘘はなかった。
1/27/2006(金)

やたら長い一日。


早川さんが帰られたあとも妻とビールを飲んだりして夜更かししてしまったので、寝不足気味。

それでも遅刻するわけにはいかないので「物理数学2」のテストへ。

監督をしながら、昨日の早川さんとの議論に関連する宿題をいくつか考える(思い出すと、夢の中でもやっていて、ゆらぎの式が拡張できたことになっていた)。 いろいろと安直にできることを試み、すべて、基本的に同じところで困難に突き当たることを確認。

時間がないのでお弁当(←せっかく作ってもらったのに家に置き忘れ、妻に届けてもらった)を急いで食べる。 食後に小松さんと議論しているところに早川さんがいらっしゃって、小松さんを交えて昨日の議論の続き。 問題点の所在はだんだん見えてきた。 わかりにくく標語的に言えば、「このヤコビアンの中からマックスウェル・デーモンの正体をあぶり出せるか」というところか。

小松さんの実験の装置などを見てから、蔵本さんの朝日賞のイベントに出席するため、三人で出発。


朝日賞・大佛次郎賞・大佛次郎論壇賞贈呈式:

長かった。 朦朧とした。 しかも、そのあいだ中、寝不足のせいもあって「互いに運動する二つの座標系でそれぞれ平衡にあった系が接触する場合の第二法則」に関する不毛なアプローチについてずっと考えていて悪夢のようだった。

とくに、大佛賞とか大佛論壇賞の(受賞者でなく)選考委員の話が長すぎ。 客観的に受賞者の紹介をするのでなく、この機会に自分が気の利いた話をしようという「解説文化」の極み。 その点、朝日賞の選考については朝日新聞の人が話したので簡潔。そういうところは、プロだ。


蔵本さんのスピーチは、小沢昭一氏のプロの芸ともいえるスピーチ(ていうか、プロなんだ)の後でさぞやプレッシャーだったと思うが、「非線形科学」についての思いを明晰に伝える力強く素敵なお話だった。

話はそれるようだが、「非線形科学」という「線形にあらず」という否定的な特徴付けの用語が適切でない --- ということは昔から思っていた。 だいたい、今日の多体マクロ系の物理で線形の範囲ですんでしまうものは、実に少ないのだ。

たとえば、ぼく自身の研究をとってみても、量子スピン系の量子スピン液体だって、ハバード模型の強磁性だって、猛烈に強い非線形性から出てくる現象だ。 というより、こういう現象が、線形の物理を出発点にする摂動論(それが、固体物理の標準的な手法および「物の見方」なのだが)ではまったく扱えないからこそ、こういう問題に面白みを感じたという側面もある。 だから、ぼくのこれらの研究はバリバリの非線形なのだが、(ぼくも含めて)誰もそんな風には呼ばない。 「量子多体系」とか「量子ゆらぎの強い系の物理」とか「強相関電子系」とか、ま、いろいろな特徴づけで呼ばれる。

そういう風に、多くの人が実際には非線形の問題をあつかいながらも、それぞれの研究を特徴づける標語を使っているのだが、なぜか、いわゆる「非線形」の人たちだけは漠たる「非線形」を看板にしているというのは、実際、妙な話なのだ。

その点 --- と、ここで、話は蔵本さんのスピーチに戻るわけだが --- さすがに蔵本さんによる「非線形科学」の特徴付けは、明快だった。

死んだ物質ではなく、身の回りにある「生きた」現象を相手にする
という積極的な姿勢、そして、
無数の要素のあいだの関係性こそが本質であると認識し、それを記述する数理的表現を模索する
という方法論。

これは、「線形でないよ」という否定的な特徴付けとは本質的にちがう、積極的で力強い特徴付けであり科学の方向性の表明だと思う。 そして、それを単なる格好のいい標語にしてしまわないだけの実績が、蔵本さんには、あるのだ。 これは、今年の冒頭の雑感(1 日)に書いたとおり。

蔵本さんのスピーチのあいだは、朦朧としたカノニカル分布の妄想から離れて、そんなことを考えていた。


記念パーティー:

ものすごい人数。 さすが帝国ホテルだけあって、ワインがうまい。鮨もうまい。でも、本命かと思ったローストビーフはちょっち期待はずれかも。


蔵本関係の招待者も多数。 基本的には「非線形」の人々なので、ぼくは微妙にずれている。 顔を知っている人が3分の1くらいかな? しかし、考えてみると、量子スピン系とかハバード模型とかのサークルに行っても、顔を知っている(というか、覚えている)人の比率はそんなもんかも。

「非線形科学」の研究者集団というからには、小説家や音楽家の知人やら凡庸な社会的「名士」などとは一味ちがっていて、見るからに奇人変人才人が集まりところかまわずパソコンを開いてネットワークを構築し人工生命やらセルオートマトン宇宙やら人格の「コピー」やら訳の分からないものを見せ合いながらサイバーでバーチャルでパンクな会話を展開しているかと思いきや、案外、普通の背広のおっさんを中心にした集団であり、ぺこぺこお辞儀をしたり、人事の話や予算の話や政治の話をしたりしていた。 なーんだ。 ま、ぼくも、お辞儀する背広のおっさん一人だったわけですが(人事、予算、政治の話はできないけど)

よく会う人、懐かしい人と話し、少し、知らなかった人とも話した。


かなり時間が経ってから、広い会場のなかで、蔵本さんと奥さまを発見。

次々と色々な人が話しかけているので、しばらく待ってから、ようやくお祝いを言うことができた。 今日は、本当に、このために来たのだ。

蔵本さんと直接に会話するのは、記憶にある限りでは、二回目。 記憶にないのを入れても、三回目くらいだと思う。 そんな私でも、心からお祝いが言える。 それほどに意味の深い素晴らしい受賞だと思う。

蔵本さんが、ぼくが元旦の雑感(1 日)に書いた感想をご覧になっていたことを知り、ちょっと驚く。 でも、思っていることは、きちんと正直に書いているのだから、ご本人に読んでいただけたことは素直にうれしい。


パーティーには、各受賞者の関係者や選考委員など、多くの人が出席していた。

別に、大したことじゃなくて、ぜんぜん何とも思っていないので、軽く目立たないように書き流しておくのですが、お祝いの尾張漫才とかいうのを舞台で賑やかにやっているとき、ぼくのすぐ目の前を、疲れた顔をした大江健三郎が通り過ぎ、背広と背広が軽く触れた。 いや、まあ、高校時代から大学時代のある時期まで出版されていたすべての小説をくり返しくり返し読み続けた作家が至近距離を通られたという、ま、それだけのことなんで・・

ドキドキしました。

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田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
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