日々の雑感的なもの ― 田崎晴明

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茶色の文字で書いてある部分は、相当に細かい仕事の話なので、ふつうの読者の方は読み飛ばしてください。


3/1/2004(月)

ほとんど一年前(3/2/2003、ちょうど 365 日前なのだが、閏年なので、まだ一年前じゃない)の雑感で、ぼくが、岩波が出している講座「物理の世界」をまっこうから批判し、さらに、その中の統計力学関連の三冊を物理学会誌で書評することになったと書いたことを覚えてくださっている方がいらっしゃるだろうか? (もし万が一、覚えて下さっていた方は、本当にありがとうございます。)

その日の日記は

すべてが白日のもとに明らかになる次号(←いつっ??)を刮目して待て!!
と終わっているのだが、未だに「次号」は出ていない。 一年間も刮目していたんじゃ、目のこすりすぎて充血して眼病になってしまいますわな。

限りなくほとんど全ての読者が、例によって思わせぶりのネタだけで終わったのかなあ、などと思いもせずに、こんな話は忘れ去ってしまったことと思います。 (いや、それで本当にいいのです。「雑感」はその程度に読んでいただくのがベストだと思っています。) ぼくの方も、たまには気になったものの、まあ、真面目なことで忙しかったり、アホらしいことを書いていたりで、この話題をとくに取り上げないまま月日がたってしまいました。 (ちなみに、ぼくが岩波講座を最初にとりあげて、批判するぞと宣言しているのは 11/23/2000 だった。 その一ヶ月少しあと、1/9/2001 でも簡単に触れていました。 けっきょく、上の記事まで、ほとんど二年間そのままになっていたみたいです。)

ところが、つい先日、とある雑感読者の方から「あそこで予告した書評はどうなったのか?」とのお問い合わせをいただきました。 あの三冊のうちの一冊について、ぼくの評価を知りたいと思うとおっしゃってくださったのです。

そうか。

そうやって、ぼくの書評を少しでも気にして下さる方が少なくとも一人はいらっしゃるのだ。 としたら、ああやって予告しっぱなしにしたのは、なんと申し訳ないことだったろう。 やはり、ぼくがどういう読後感をもったか、学会誌の書評は今どういう状況にあるのか、ここに、きちんと書いておいた方がいいはずだぞ。

こうして、読者からのお便りに励まされ、一年前(3/2/2003)の雑感の続きを書くことにします。


さて、一年前に書きましたが、物理学会誌がぼくに書評せよと言ってきたのは、以下の三冊です。
  1. ミクロとマクロをつなぐ (蔵本 由紀)
  2. マクロな体系の論理 (吉岡 大二郎)
  3. 相転移・臨界現象 (宮下 精二)
本の話をする前に、著者の顔ぶれを見てぼくが感じた先入観を正直に書きましょう。

この三人についての、ぼくの見方、および読む前の本についての予想は以下のとおりでした。

というわけで、統計力学の小冊子をこの三人が書かれるという境界条件を与えられた上で、ぼくの期待感の順番は、必然的に、
蔵本 > 宮下 > 吉岡
という具合になったわけです。
そういう先入観をもって、三冊の本を開いたわけですが、本の実際は、以下のようでした。
ミクロとマクロをつなぐ (蔵本 由紀)

前書きには、「単なる知識ではなく、基本的な考え方」を伝えるという目標が掲げられている。 「考え方」を伝えるというのは至難の業だが、蔵本さんならなんとかしてくださるかもと思って読み進める。

が、完全に期待はずれ。

熱力学も詳しく書いてあり相平衡とかも論じてあり、統計力学になると、なんと、Bose-Einstein 凝縮まで書いてある。 要するに、通年でやる熱・統計力学の講義(しかも、かなり密度の高い講義)の内容がそのまま書いてある --- 百ページ程度の小冊子に。

これだけの内容を凝縮して書いてしまうというのは、これまた至難の業で、よくぞ詰め込んだと感心しないわけではない。 しかし、こうなると「考え方」を伝えるといった話ではない。 口の悪い言い方をすれば(←って、ずっと口は悪いですけど)、熱・統計力学のスタンダードな講義の皮相的なレジュメっていう感じの本である。

そんな本の中に、いわゆるエルゴード性に関連する議論だけが、多少詳しく論じられている。

しかし、それが(まちがっているのでなければ)極めて混乱した書き方になっている。 ハミルトン系ならば低自由度であろうと必然的に成立する(やさしい)話と、大自由度の系のみで期待される(むずかしくて、わかっていない)話が完全にごちゃまぜになって議論されている。

混乱している人が多く、多くの本でも間違いや混乱が散見するトピックではあるが、小冊子で舌足らずで混乱したことを書いてしまっては、困ります。

というわけで、これは、小冊子に無理な企画を詰め込もうとして、うまくいかなかった本だと思う。

せっかく一流の研究者が筆をとったのに、この結果は、とても残念。 (当たり前のことですが、それによって、研究者としての蔵本氏についての、ぼくの考えや尊敬が影響されるってことは、ありません。 そっちは、もっとずっと、しっかりしたものです。)


相転移・臨界現象 (宮下 精二)

だいたい予想していたとおりの、相転移・臨界現象への気楽な入門書だと思う。 値段が高い(1300円)ということを忘れれば、気軽に読める本だろう。 構成や表現がどこまで練られているかというと、ちょっと疑問。 とくに伊庭さんの本(2/24)を読んだ今だと、なおさら比較してしまう。

「単純なモデルでも普遍的な記述ができるぞ」というのが、こういうアプローチの背後にある重要な哲学である。 実際、宮下氏もこのスローガンを唱えているのだが、どうも、口で言っているだけで、読者への説得力があるのかなあというのが気になる。 実験の数値を持ち出して、びっしと納得させる、とか、そういう工夫はほしいなあ。 ま、これは難しいところだけど。

題材がやはりスピン系に偏っているのだけれど、その割には、お話口調で、しっかりした知識が得られない、というのもちょっと残念。 ま、これは趣味の問題でもあるが。

スピン系に偏っているなあと思ったけど、さらに偏ってるのは、二次元のスピン系の話がやたら詳しいこと。 これは、バランス感覚として、まずいんじゃないか?

相転移現象の(手に負える)典型例としてスピン系を(人類が)学ぶことを考えると、なんといっても、普遍性が高く、広く他の系とも関わるのは、三次元スピン系などでの強磁性の相転移だ。 この本質を理解することが、全ての出発点になる。 ある時期以降のスピン系の研究で、二次元のスピン系の種々の「exotic な」相転移が大きな比重を占めたのは事実。 でも、これは、「通常の、普遍的な」強磁性相転移を極めた上で、二次元では全然ちがうこともあるぞ、と言って調べる、という、どちらかというとオタク的な興味の研究である。 で、そこには、オーダーパラメターの空間のトポロジーの概念まで登場して、なかなか、話がかっこよくなる。 オタク的でも、じっさい、おもしろい。でも、おもしろくても、オタク的。

そういう理由で、二次元にばっかり深入りするのはオタク本への道だ。 二次元が好きなのは、宮下氏の世代としては、しかたのないことなのかもしれないが、ちょっと、まずい気がする。

そう思って読んでみると、案の定、オーダーパラメター空間のトポロジーについての議論が、けっこう長々と紹介されている。 ううむ、こんなので、わかるのかいな。

と、なんと、驚いたことに、

三次元のスピン系の相転移にもオーダーパラメター空間のトポロジーの議論が使える
という趣旨のことが書いてある!  具体的には、「三次元三成分の(古典)Heisenberg model にはトポロジカルな欠陥が存在するから相転移がある」と主張している。 でも、そんな馬鹿な話はない。 三次元の強磁性の相転移はスピン波の凝縮という、非常に強く普遍的なメカニズムから生じると考えるのが自然で、トポロジカルな要因だとすると、実際よりもはるかに低い転移点しかでてこないことは専門家なら周知の事実。 もっと困ったことに、宮下氏の議論を進めると、「三次元四成分のスピン系は(トポロジカルな欠陥がないので)相転移がない」ということになってしまう。 この結論はまったく嘘なので、三次元のスピン系に二次元と同じ議論が使えないことは事実なのである。

大変申し訳ないが、はっきり言わせてもらえば、こんな間違いをおかすスピン系の専門家がいたというのはショックだ。 別に細かいことを知らないのがいかん、と言っているんじゃない。 細かいこと(二次元の exotic な話)を知っていて、もっと根本の大事なところ(三次元の普遍性の高い強磁性相転移)がわかっていないんだから、非常に困る。 だいたい、三次元の相転移を真面目にトポロジーで議論した本や論文など、ぼくは見たことがないし(宮下さんに聞いても、文献は Mermin のレビューしかあがらなかった。あそこには、そんな変なことは書いてない)、宮下さんは岩波講座を書くときに、ろくに調べもせず、自分の思いこみをそのまま書いてしまったのかもしれない。 いずれにせよ、日本の統計力学を代表すると目されている人が、自分のもっとも得意とするはずの分野で(堂々と公開で)こんなミスをするのは、あまりに、痛い。

ぼくは、かねてから、

数値計算だけをやっていて、自分で(試行錯誤し絶望し悶絶しながら)理論を作ったことのない人には、理論は本当の意味ではわからない
と思っていて、時々は公然とそう言ったりしているわけだけれど、これほど典型的な例に出会うと、ちょっと複雑な気持ちになってしまう。 (前に書いたように、ぼくは宮下さん個人はすばらしい人格者だと思い敬愛していますし、彼の数値計算のお仕事は物理とのバランスが取れた健全なものだと思っています。 それでも、というか、それだからこそ、科学についてはなれ合いをせず、こういう表に出てしまったミスについては、あえて厳しく批判したいと思う。)

(付記:この記事を公開した時点で、宮下さんは東大理学部物理学科の教授になっていた。)


マクロな体系の論理 (吉岡 大二郎)

前書きを読んでいくと、なんと、

エントロピーの定義について、「なぜ」と問うのは適切ではない
という宣言に行き当たる。

なんじゃ、これは??

指導要領に縛られた高校の物理じゃあるまいし、このレベルの物理を紹介するにあたって、なにかに疑問をもち探求することが「適切でない」などということがあっていいのだろうか?  あまりに基礎的な問題について考えるのは危険であり、それよりは、なぜ「ゴムは弾性をもつのか」といった具体的で(しかし、本質的な)問題に疑問を抱くのが正しい、と言いたいのだろう。 たしかに、エントロピーについての疑問と、ゴムについての疑問のあいだに、本質的な差があるという認識は正しい。 後者に向き合うのと同じ気持ちで前者に立ち向かってはならない、というのも事実だろう。 しっかあし、だからといって「適切でない」と切り捨ててどうしよう?  たとえ、ごくごく一部の若者であろうと、こういった真に本質的でかつ圧倒的に未解決の問題へと夢を馳せる人がでてくることを期待し応援するのが、科学者というものではないのか?  ぼくの偏見のなせることかもしれないけれど、ここには、あえて本質的・根本的な問題への挑戦を避け、手持ちの道具でなんとか議論できる各論のみを扱うことをよしとする職人主義的な物性物理の処世術の香りが感じられてしまうのだ。

というわけで、これが普通であれば、立ち読みして、この、前書きの一行を見ただけで、即刻、この本は書棚に戻されることになっただろう。 (実際、そうしたという人を知っている。)

しかし、ぼくは、物理学会誌のために書評をする立場にあるのだ。 前書きが趣味にあわないからといって、それで書評を放棄するわけにはいかない。

ともかくも --- きわめて suspicious な顔をしながら --- 読み進める私の姿があった。

で、読み進めていくと、やっぱり予想通り・・、ということには、ならず

これは、いい本だ
ということが、わかったのだ。

著者は、小冊子という制約を熟考して、盛り込むべき内容とその構成を、ていねいに吟味したにちがいない。 題材の選択と配置はとてもうまい。 また、そもそもマクロな系の本質は何か、という(残念ながら蔵本さんの本には欠落していた)もっとも重要な点について、明快な説明がある。

構成は、基本的にはスタンダードなものかも知れないが、以下のようになっている。 まずマクロ系の本質である大数の法則を具体的にわかりやすく説明。 その考えを理想気体に応用したあと、今度は、一気にゴム弾性をあつかう。 これは、短いなかでも、統計力学の適用範囲の広さと、方法の統一性を理解させるためには、実によい進み方だ。 統計力学を概観したあとで、熱力学にふれる、という行き方も、多くの読者にありがたいにちがいない。

細かくみると気になるところもあるのだが、ともかく、きちんとした良書であることに間違いはない。 また、吉岡氏の文章は、こなれていて、とても読みやすい。

今回、眺めた三冊のなかで、唯一、初心者に勧められるのがこの本だった(前書きの宣言が気に入らない、という意見は変わらないけどね)。 また、統計力学の導入的な講義をする人たちにも、この本は有益なヒントを与えるだろうな、と思った。


というわけですから、三冊とも読み終わってみると、ぼくの本に対する評価は、
蔵本 ≒ 宮下 << 吉岡
という具合になってしまったのです。 (記号 ≒ は、「ほぼ等しい」という奴です。文字化けするかもしれないし。) つまり、当初の予想とは、まったくもって正反対になりました。

これが、一年前(3/2/2003)の雑感で

だが、実際に本を開いてみると、そこには私の予想を大きく裏切る意外な真実が!!
と、でかい文字で大騒ぎした中身であります。 「なんだ、そんなことか」と思われるでしょうが、当時のぼくにとっては、本当に驚きで、心から太字・大文字で書きたくなったのでした。
いつまでも驚いているわけにもいかないので、しばらくして、ぼくは書評をまとめ始めました。

まずは、以上のような三冊の特徴付けを、できるだけコンパクトに、まとめる。 なにせ、三冊まとめてだから、大変です。 さらに、蔵本氏と宮下氏の本については、内容への批判がありますから、その詳しい内容がわかるように書評からぼくの web page へとリンクする、ということも考えました。 そのために作ったページが、これです。

さらに、三冊を概観したあとで、本命のターゲットである講座「物理の世界」の企画への批判を書きした。 前から言っているような、時代に浅薄に迎合した「切り売り」思想を批判し、さらに、統計力学については三人の著者への分割には何の意味もなかったことを強く指摘しました。 実際、三人が互いに内容を調整しあった形跡はないし、三冊に分けたことで重複や能率の悪いところがたくさんでてきていると思います。 小冊子などと言わず、長い分量をじっくり書く方が、はるかによかったと主張しました。

これらの内容を、字数制限に収め、かつ読みやすくするため、何度も何度も書き直し、さらに、何人かの知り合いに原稿を見てもらいました。 様々なコメントをもらい、「てにをは」についてまで議論を重ねて、推敲しました。 もちろん、著書を厳しく批判せざるを得なかった蔵本氏と宮下氏には書評原稿を送り、ご意見を聞き、ぼくの独りよがりかも知れなかった表現を改めたりもしました。 こうして、例によって短い原稿にやたらと時間をかけ、ついに最終稿を仕上げて物理学界に送ったのが、2003 年の 9 月でした。

ここで、学会誌に送った原稿を採録したいところですが、これは、もし掲載されれば著作権が物理学会のものになる(←ちょっと、ひどいよなあ・・)という代物なので、たとえ原稿といえども、今の段階で公開してしまうのは道義的に許されないことでしょう。 ご容赦下さい。 (じゃ、上のように、本の評を公開するのは許されるかというと、こっちは、書評用の原稿とは質的に違う感想文だから、問題はないと考えています。)


しかし、物理学会誌・新著紹介小委員会からは、ぼくの書評は不適切であるとの回答が届きました。

基本的な理由は、

  1. 新著紹介欄では、批判のみに終始する書評は、掲載しない。 (紹介する意義がないから)
  2. 技術的な詳細を web に載せるというのは面白い試みだが、今回、それが成功したとは思われない。
ということでした。

そして、

という提案も受けました。

しっかしねえ・・

1 の原則は、たしかに心にひっかかっては、いたのです。 しかし、昔も言ったと思うけど、内輪の雑誌である日本物理学会誌に、お互いにヘラヘラとほめあうだけの書評を掲載しても何の意味もないと思います。 それよりは、(今回の岩波のシリーズみたいに)一定の権威と宣伝力を背景に好ましくないと思われる企画が進行しているとき、それを具体的に批判して物理教育のあり方について問題提起する方が、はるかに重要ではないでしょうか?  それは、単に批判的・破壊的な活動じゃなく、建設的な意義をもちうると信じています。

しかしながら、そういう堅苦しい話の前に、そもそも、

けなす書評がイヤなんだったら、なんで俺に頼むんだ??
という気がしないでもありません。 ぼくが、ことに権威とか流行とかに立ち向かうときは「波風を立てる」キャラクターであることは、別に「日々の雑感的なもの」を読んでなくても、それこそ当の学会誌の座談会(座談会の全文)だの巻頭言だのを見ていれば( 3/9/2003 の雑感をお読みになると、リンクもあります)、わかっているのではないでしょうか?  ま、それは大人の言うことじゃないので、ここで太い大文字で言うだけに留めておきましょう。

いずれにせよ、吉岡さんの本一冊だけを書評するということになると、話はぜんぜん違います。 書評のポイントは、おそらく、統計力学の入門書とは如何にあるべきか、ということになり、内外の類書との比較などをおこなうことになるのでしょう。 また、本を読み直し、ゼロから考え直す必要があります。 今回の書評用に書いた物を水増しして使えばいいなどという人がいれば、それは、物を誠実に書くということを知らない人です。

しかし、大事なことは、ぼくはそんな書評がやりたいわけではない、ということです。 今回の書評の最大のターゲットは、岩波講座「物理の世界」という企画そのもの、あるいは、その背後にある悪しき「切り売り」思想です。 小冊子への分割という企画が本質的に誤っていることを、説得力をもって、例証するためには、この統計力学の三冊をきちんと紹介する必要が絶対にあるのです。 比較的成功した一冊を取り上げ、それから、シリーズを批判するのでは、まったくもって、説得力が低くなってしまう。


昔のぼくなら、ここで頭に来て「この話はなかったことにしてくれ」と言い出したり、ただただ面倒がってずっと放置したりするところだったのでしょうが、ぼくも少しは成長したようで、ただただ面倒がってしばらく放置したところで、再び気合いをいれて、修正原稿をつくりました。

ただし、あちらの指示には従わず、あくまで三冊をまとめて書評してから、シリーズそのものを批判するという路線を守りました。 そのかわり、あちらの基本方針にも沿う努力もしました。 当然ながら蔵本さんや宮下さんの本にもいいところはあるわけで、そういう利点にも触れた上で、けなすべきはけなす、という方針にしたわけです。

その修正原稿を、学会の事務局に送ったのが二月で、さすがに今のところは、まだあちらからの反応はありません。

というわけで、最後は盛り上がりませんが、雑感読者のみなさん(の中で、この馬鹿長いのを読んで下さったみなさん)には、問題の三冊の本についてのぼくの意見をご理解いただけたのではないかと期待します。

学会誌への掲載について、何か動きがあれば(道義的に問題のない範囲で)こちらでお知らせしようと思います。 別に刮目してお待ちにならなくても構いませんので。


3/2/2004(火)

昨日のつづき、





ではなく、

今週の『少年ジャンプ』 をお送りしましょう。


3/3/2004(水)

いま、これを、 OSX 10.3 Panther が走る MacG4 上で書いております。

春休みは当分のあいだ忙しいので、OS のアップグレードなどせずひたすら働かねばと、頭では思っていました。

ところが、最近、家で家族で使うように(思い切って)新しい iMac を買ったのです。 そうすると、こっちでは最新の 10.3 が走っています。 そして、10.3 には、

Exposé
という機能がある。 前から猛烈に気になっていたのですが、実際に体験してしまうと、もう駄目です。 これは、単に「便利な新機能」なんてものじゃない。 マック的なウィンドウのシステムをずっと使ってきたわれわれにとっては、もう、感覚的にどうしようもないほどに、快感で、癖になる、ああぼくらはずっとこれを求めてきたんだ的な感動を与えてくれる、そしてきわめて便利な、魔法なのだ。 一度、体験してしまうと、もう戻れない。 10.2 が走っている大学の G4 で、むなしく F9 キーを連打して何も起きないじゃないかと誰もいない部屋で悪態をつくおやぢになってしまうのだ!!

というので、そんな苦しみを味わうくらいなら、と昨日、思い立って、大学の G4 にも 10.3 をインストール(←綿谷りさは、「蹴りたい背中」しか読んでませんので、小ネタは、はさみません)したのであった。 おまけに、こいつは最初 OS9 で動いていて、その頃のわけのわからないものなどが残っているので、思い切って、すべて消去して OSX 10.3 を入れるという暴挙に走ったのだ!

おかげさまで、今は、ウィンドウがごちゃごちゃになっても、Exposé で一発ですべてを見渡せるようになったし、言うことなし。 この「雑感」も新たな気持ちで書くことができるのだ。

などの問題もあるが、気にせずがんばっていこうと思います。
さて、話はかわって、昨日のつづき、





ではなく、一昨日の長いやつに少し補足しておこう。

牧野さんが日記でおっしゃっているように、宮下さんの本におけるミスが、

数値計算だけをやっていて、自分で(試行錯誤し絶望し悶絶しながら)理論を作ったことのない人には、理論は本当の意味ではわからない
という事の例として適切か、というのは、たしかにひっかかる人のいるところだと思う。
仮に二次元のスピン系一筋で、本当に深い理論をやってきた人がいたとすると、やはり三次元には不慣れで同じまちがいを犯してしまうのではないか
という危惧があるということだ。 (ちなみに、ここでのエルゴード性に関する指摘は、よく読めば、ここに書いてあることだけで「不正確さ」が論理的にわかるはずなんだが。 これは、かなり多くの人に丁寧にみてもらっているのだ。)
しかし、ことこの問題に関しては、そういう心配はしないでいいと、ぼくは思っている。

まず、一昨日も書いたことだけれど、三次元で強磁性の相転移をおこす物理的メカニズムは、普遍的で、強力なものだ。 三次元にかぎらず、(そんなスピン系は現実にはないにしろ)四次元でも、五次元でも、同じメカニズムで強磁性の相転移がおきる。 これに対して、二次元での「トポロジカルな相転移」というのは、たまたま二次元だけで非常に特殊な理由によって、おきるのだ。 古典 XY model の場合、3 次元までいかなくても、2.01 次元でも(うまく定義してやれば)普通の強磁性の相転移を起こすはずだし、1.99 次元ではもはや相転移はおこさない(これは、前に高麗さんと証明した)。 ちょうど 2 次元だけで、KT 転移という「変な(おもしろい)」転移をおこすのだ。

こういう風に、(連続対称性のある系では)2次元に境目があるっていうのは、スピン系に接する場合は基礎教養として(大学院あたりで)誰でも学ぶことであって、特殊な知識じゃない。 数学としても、つきつめた本質は、波数空間でのある簡単な積分が3次元では有限だが2次元では発散、ということに尽きる。 こういうのは、理論をしなくても皆学ぶことだ。 理論を自分でやったかどうかで生まれる違いは、そういうことがが本当に自分の感覚として「腑に落ちる」かどうかなんだろう。

また別の角度からみよう。 ともかく、二次元のスピン系の相転移というのは、本当に微妙なもので、スピンの構造をちょびっと変えるだけで相転移の様子ががたっと変わったりする。 (ぼく自身は二次元系の仕事はほとんどしていないけれど)デリケートな二次元のスピン系での相転移の理論をつくっていくのは、一種「腫れ物に触る」ようなバランス感覚を要求されることだと思う。 あるデリケートなメカニズムが本当に実現するかどうかを見るには、他の諸々のメカニズムに洗い流されてしまわないかを常に注意しなくてはいけない。 だから、(仮に)二次元スピン系ばっかりを見て研究してきた人がいたとしても、理論と真に向き合っていれば、もろもろの「exotic な」メカニズムで相転移がおきるのは、本当に幸運なことで、ちょっとでも他のもっと強い要因(たとえば、三次元性)が働けばそっちが勝っててしまうということは、肌でわかっているはずだと思うのだ。


もちろん、一例をみただけで一般的な結論をだしてはならない、という(一般的な)議論はつねに正しい。 ぼくが、この本におけるミスを、数値実験しかしたことのない研究者の一般論に結びつけたのは、ぼくがそういう「思想背景」をもっているからに他ならない。

いうまでもなく、

数値計算だけをやっていて、自分で(試行錯誤し絶望し悶絶しながら)理論を作ったことのない人には、理論は本当の意味ではわからない
というのは、ぼくが味わっている(と考えている)経験事実なのだ。

ただし、当たり前とはいえ、断っておくと

  1. 数値計算をやっていても、理論も深くやっていて、本質的に理解している人は、もちろん、いる。
  2. 数値計算をやらず、紙と鉛筆の「理論」をやっているというだけでは、理論が本当にわかっている保証はない。
1 の例としては、たとえば、Ken Wilson など、どうです?  臨界現象におけるくりこみ群を理論として鍛え上げたり、格子ゲージ理論を提唱したり、といった偉大な業績のある理論家です。 彼が自分で数値計算をするのかどうかは知りませんが、物理における数値計算を重視しているのは確実。

2 の例は、いっぱいあるでしょう。 中身を考えず、既存の方法を使って「理論」をやっている人のなかには、一定の確率で、そういう人がいるはず。 (と、まあ、基本的には牧野さんが言われているようなことに落ち着くと言えば、そうなんですけど。)

なんか尻切れとんぼだし、あと、教科書の書き方についてもこの機会に言いたいこともあるのだけれど、日記を書いてばかりでも困るので、またにしておきますね。 刮目して のんびり待ってやってください。


3/4/2004(木)

ふう。

OSX v10.3 (愛称 Panther)上で、TeX もちゃんと動いています。フォントを入れてなかっただけだった。 どうも pdf を作るところにまだ難があるけど、あとは大丈夫。

ATOK には徹底的に苦労した。 このため、けっきょく、10.3 のインストールを三回もやってしまったではないか。

種をあかせば、なんのことはない、ぼくがうれしがって、英語を最優先にしてすべての作業をやっていたのが悪かった。 ATOK は、日本語が最優先の環境じゃないとうまくインストールされないらしいのだ。 「そんな大事なこと、マニュアルに書いておけよ!」と、いっしょに怒ってくださったみなさま、ごめんなさい。 ちゃんとマニュアルに書いてあることを、三度目の正直なインストール作業中に発見しました。 しかし、「その程度のことはインストーラーに認識させろよ!」という怒りは残るよなあ。

怒りをおさえるためにも、F9 や F10 や F11 をおしまくって、Exposé の喜びを味わうぼくなのでした。 あー、ほんと、これってほとんど生理的な快感だよねえ。 キーをおしてウィンドウたちがひゅっと縮むときに、なんか、背骨と背中の皮膚のあいだあたりが、ぞくぞくっとする気がしない? そんなことない?  えっ? きみ、まだ Panther にしてないの? ちょっと遅れてない??


ところで、
数値計算だけをやっていて、自分で(試行錯誤し絶望し悶絶しながら)理論を作ったことのない人には、理論は本当の意味ではわからない
という(おそらく)正しい暴言に対しては、まきのさん(3/3/2004)から
試行錯誤はともかく絶望したり悶絶したりしないといけないということもないような気も。
とのコメントが帰ってきているわけですが、
な、な、なんと軟弱な! 神を呪うほどに絶望し,頭皮が破れるほどに髪をかきむしり、血のにじむ努力をし、悶え苦しみ、息も絶え絶え視界もくらむほどでなくては、理論は決してわかりませんぞ!!
というものでもなく、絶望・悶絶するかどうかは、人しだい、要は本当に自分の頭をつかって科学の世界を本当に切りひらき歩き回ったかどうか、ということだと思います。 すんまへん。

今になってみてみると「悶絶して」ってあたりは、ちょっと佐々さんの影響を感じますねえ。 ここで、「のたうって」としていたら、完全に佐々節になるところだったわい【すぐに染まるはおれハルゴン】。


ええとですね(←これは、{{前野さんの日記}に反応したナカムラさんの日記}への反応です。 老後に読むために書いているので、リンクに依存した記事はなるべく避けているはずだったのだが・・)、学生時代に、
むかし、(大数学者の)リーマンが来日し囲碁を覚えた。 日本の数学者達と対戦したのだが、やはり定石を知らないリーマンは勝てない。 ある日、くやしがったリーマンは境界条件を周期的にして囲碁をやろうと提案した。 そして、新ルールになってからは、(知識のハンディがなくなり、純粋に頭のよさの勝負になり)リーマンが勝ちまくったという。 今も周期境界の囲碁を「リーマン碁」と呼ぶ。
という話を友人に聞いたのだが、今、検索してみても、なにもひっかからなかった。

消え去った単なる伝説なのだろうか? 彼の創作?? それとも、ぼくが見た夢???  (付記:すみません、これ、嘘っぱちでした。 翌々日の雑感をばご覧ください。)


3/6/2004(土)

さて、一昨日、つい書いてしまった「リーマン碁」のエピソードだが、まったくの嘘だったので、訂正せねばならない。 しかし、自分で管理している html file なんだから、何喰わぬ顔をしてばっさりと消してしまい、人に聞かれたら「え、なんのこと? サラリーマンで碁を打つ人って多いらしいねえ」とかごまかす、というのは、・・・だめか。

ええと、そもそも、一般常識の問題として、

江戸時代末期に亡くなっているリーマンが、なんで来日するんじゃい??
というつっこみがありますな。

そこはそれ、ヒュースケンさんとかと一緒に、その、黒船とか、出島とかで・・





ま、実際のところ、Georg Friedrich Bernhard Riemann (1826.9.17 - 1866.7.20) が、肺を患って 1862 年から療養生活に入り、四十歳にも達しないまま亡くなったことくらい、数学に興味のある人なら誰でも知っている常識でしょう。 短くも実り多い生涯をほとんどドイツで過ごした彼が日本の地を踏むなど笑止千万な話です。わっはっはっはっはっ。


では、周期的境界条件で碁をうつことを提唱したのは誰か?

落ち着いて考えると、そういうことを思いついた人は多いだろうという気がします。 (スピン系の同業者に言われる前に、言ってしまおう! どうせだったら、内部自由度とカップルした「ひねった」境界条件を使い、境界をまたぐと黒と白が逆転するというのは、どうじゃろか? 敵も味方もねえって感じで、ルールを決めるのがむずかしいが。) ただ、ぼくがリーマンと勘違いしたエピソードのもとになっているのは、誰あろう、ぼくが学生時代に勝手に崇敬していた Paul Adrien Maurice Dirac その人だったのでした。 (一宮さんの日記で教えていただきました。ありがとうございました。)

ただ、この話は、それほど華々しいものではなく、

地球物理学者(だっけ?)の竹内均氏が Oxford に滞在したとき Dirac に碁を教えろと言われて教えた。 何度対戦しても竹内氏が勝つのだが、ある日、Dirac は周期境界の碁盤でやろうと提案し、それ以降は、ずっと Dirac が勝った。
ということだそうです。

これだと、竹内氏の碁の腕がどれほどのものか、わからないので、どの程度 Dirac がすごいのかはわからない。(いや、Dirac はすごいんですけどね。)

実際、囲碁に詳しい K さんからは、

初手を黒がど真ん中に打ち、それに白が絡んでいく、天元碁というのがある。 この場合、しばらくは境界の影響はないので、周期境界碁と実質的には同じ。 これは例外的な打ち方ではあるが、とうぜん、ある程度の定石などはある。 すぐ攻め合いになってしまい、「生き死に」ついての経験と知識がものを言うはずだ。 いくら頭のよい人でも、周期境界にしただけで、経験者を負かすというのはきわめて考えにくい。
という、ジャンプを毎週買いつづけ「ヒカルの碁」を読むことでのみ仕入れた知識にもとづく、ご意見をいただきました。

もし、それが正しいとすると、竹内氏の碁の腕前はそれほどではなかった、ということなのでしょうか? それとも、Dirac がゲームの天才でもあったのか?


Dirac といえば、変わり者の天才で、人間的にはあまり面白くはなかったというエピソードがいろいろと知られています。

彼がどう見られていたかをもっとも簡潔に表しているのは、E. Wigner による(Dirac ではなく)、Feynman 評だと思います。 Wigner は、Feynman の才能を絶賛して、

He is a second Dirac, only this time human.

あいつはディラックの再来だ。今回は人間だけどな。

と語ったそうです。(Dirac が死ぬ前だから、「再来」はまずいけど。(ちなみに、今度は、ちゃんと調べて書いてますぞ。出典 James Gleick "GENIUS" (Vintage, 1993) p. 184))

これって、なかなか面白いし、応用もききますよね。 初歩的なところでは、

He is a third Dirac, this time a pig.
と言いつつ物理学者が悲しげに豚小屋の(物言わぬ)豚を見ている、とかいうアメリカ風ひとこまマンガとありがちではないですか?(と、話題を巧みにシフトして、自分のまちがいを人々の記憶から消す作戦です。)
3/9/2004(火)

SST セミナーの準備、SST 論文への加筆、そして、自分自身知りたいから、という三つの要請により、希薄気体での FIO(熱流誘起浸透圧)がどの程度の大きさになるかの評価をしてみる。

すでに佐々さんをはじめ、何人かが一通りやっている計算なのだけど、いちおう、自分でやっておこうと思い、Kim-Hayakawa などを眺めて式を書き取り、理科年表を開いて具体的な数値をあてはめていく。 ほんと、これだけは内緒にしておいてほしいんだけど、こういう作業は極端に苦手なんだなあ。 具体的な単位付きの数値の感覚というのが、やたらと貧弱なんだ。 物理学者にあるまじきことだとわかってはいて、矯正しようとしてるんだけど、やっぱ、弱いなあ。

かの Feynman は、どんな物理現象におけるどんな物理量だろうと、何にも文献を参照しないで、大まかな数値が概算できると威張っていたらしいし、かの川畑さんは、物理学会の特別講演で大ホールで話していたとき、「プランク定数」という言葉が思い出せなくて弱ったそうだが、名前は忘れても数値は決して忘れないと言っていた。 何を書きたいんだか、わからなくなったけど、ま、いいや。 実は夜中の2時前でビールを飲んでいるので、適当です。

苦手とは言いつつ、いちおう圧力差の見積もりなどをやって、今日の夕方は、会議三つをこなしたばかりの荒川さんのところに行って、実際の測定が可能か相談してみたのだった。 いやあ、やっぱりちゃんとわかっている人と話すとためになる。 こちらの話のポイントはすぐにわかってくれたし、具体的に、何気圧くらいなら平均自由行程がこの程度だからこのくらいの装置なら熱力学は見えるはずで、何気圧程度の差ならばこの仕掛けで見ることができるよ、といった話がリアルタイムでぽんぽんと出てくる。 ふうむ。 対流さえ押さえられれば実験の射程距離に入ってるかもな・・

最近は、荒川さんと顔をあわせても、学科の将来像とか、諸問題とか、面倒な話ばっかりしていた気がするけど、やっぱり、物理の話をするのがいちばん楽しいなあ。


明日は、金さんらのセミナーに出るため、駒場に行きます。
3/10/2004(水)

連続セミナーに出席すべく午後から駒場へ。

時間にやや余裕をもって到着するも、ここだと思ったセミナー室に鍵がかかっていて、 建物を上へ下へとさまよう。 お弁当を食べていた金子さんを急襲し、場所を聞く。 財布を忘れて愉快なサザエさんは決して愉快じゃないことはつとに強調しているわけですが、そういう話が多いな。


金さんのセミナー。

堅実にして明快。

動機付けが何であったかとは無関係に、気体系の熱伝導についての、貴重な結果を得たのは素晴らしいことだ。

林さんのセミナー。

そんなに急いでどこへ行く? いや、行きたいところがあるのは、わかってます。

かなり堅実になりつつある部分、白黒のつかない部分、勢いだけの部分、それらが混在している。 いや、それはそれで正しいことなのだ、それを自分で認識してさえいれば。


セミナー三つの予定が、延びすぎて、二つに。金かえせ。

ぼくは、もっとやっても平気だったのに。


セミナー後は下北沢へ。

学生時代、どれほど下北で時間を過ごしたことか。 S がここに下宿していたから、とくに、この街は彼の想い出と重なっている。 駅を降りると懐かしさで涙がでてしまうんじゃないか、「あれ、田崎さん、泣いてるぞ」とかいうことになってしまうんじゃないか、と秘かに不安だったのだけど、あまりに地理感覚が鈍く記憶力が悪いのが幸いして、昔の下北沢のイメージを想起できなかったので、泣かずにすんだみたいだ。

ビールを飲みながら、だべるのも久しぶりだ。 佐々さんと SST の見通しについて議論しアメリカでのセミナーに備えるのが主目的だったが、ビールをのみつつも、それなりにその目的も果たしていたような。 さらに、池袋のホテルに泊まる佐々さんといっしょに電車に乗って話すことができたので、真面目な意味で、目的は達した。


ビールを飲んで11時半に家に帰っても、筋トレ(腕立て、腹筋、背筋、各45回)をして、web 日記を書く。 ふむ、こういうのをストイックというのであろうよ、N くん。
3/14/2004(日)

さっきから妻が、確定申告の書類を web でつくることを試みているのですが、

など、とてもユーザーフレンドリーな機能満載で、ありがたくて仕方がないのですが、さらに、 という仕様に至ってはありがたくて涙がでます。

少子化対策なのかもしれませんが、子供二人の Mac ユーザには、web で書類をつくる権利は保障されていないのでしょうか。


と、余裕のない、皮肉っぽい、いじけた書き方になりましたが、せっかく妻が時間をかけて苦労して入力した成果がすべてパアになろうという状況なので、しかたないのである。 (と、書いていたら、妻は、心労のためか、腹痛になってしまったぞ。おろおろ。)

しかし、まあ、複雑なプログラムでもあるまいし、ちゃんと時間と金をかけて、テストしてほしいものだ。税金、ちゃんと払うから。


と書いたあとで、
Mac の場合は、Explorer はダメだよ
と小さく書いてあるのを発見。 (妻は、なんとなく昔から Explorer を使っているのだ。)

ちゃんと税金払うから、もっと大きく書け! (妻の腹痛は一過性のもので、ちゃんと出力できたら、なおったとのことです。 「電卓を叩かなくていいし、うれしい」と、今はご機嫌です。)


3/18/2004(木)

だいたい毎日、アメリカでのセミナーの準備と、毎日なにかしら持ち上がるちょっとした雑用と、Hoodbhoy 氏の論説のお世話をして過ごしています。


ワシントンポストの記事「パキスタンの首にかかる核の縄」は、首藤さんが訳されたものに、ぼくが色々と手を入れて暫定訳として公開ずみ。 わからなかったところや間違っていたところなどを教えていただき、日々、少しずつ改良されています。

ワシントンポストに掲載後、ムシャラフ大統領が国営テレビでフッドボーイ氏を名指しにして、この記事は反国家的だと強く非難したという代物です。 なんか、紹介しようという気力がわいてくる。

こちらで翻訳を公開する許可をもらろうとワシントンポストにメールを書いたのですが、この部署では許可は出せないので、これこれの番号に電話しろという、ありがたいお返事。 そのために国際電話もなあ・・ アメリカに行って交渉してくると冗談で言っていたのが本当になるのか?


「パキスタンの首にたかる核の蝿」の件で Hoodbhoy さんにメールしたところ、あれはちょっと古いし、新しい PAKISTAN: INSIDE THE NUCLEAR CLOSET の方なら自分で著作権を持っているから問題なしだよ、とのお返事。

幸い、セミナーの準備も一つ終わったので、昨夜はこれの翻訳。

まだ未完成で、これから首藤さんに政治用語を教えてもらったりするので、公開はちょっと先です。 (ただし、ぼくの Hoodbhoy さん関連のファイルの命名法がわかっていれば、未完成の訳も簡単にみることができます。 と、書いたけど、それもアホらしいので、上から一応さりげなくリンクしておきました。)


ええと、今さらぼくが言うことじゃないという気もするけど、ナカムラさん、「はてなダイアリー」のキーワードっていうのは、別に意味をそれで知るためのものじゃなくて、同じキーワードを含む日記を書いた人たちどうしを引き合わせて、新しい人と人との交流をどんどんと作っていくためのものなんじゃないのかと思いますので、そういうのが大きなお世話じゃいと思う人、自分の書いた文章から勝手に変なリンクが出てしまうのが嫌な人は「はてな」を利用しないということになるのだと思う(設定すれば、キーワードの自動リンクは外せるの?)。
3/19/2004(金)

昨日は「夜なべ翻訳家」も完全休業して、ひたすらアメリカでの発表の準備。

さすがにあせってきたので、日記ほとんど書きません。 書くとしても、簡潔に!

非平衡準備終了。

強磁性準備開始。

補遺的未発表計算(直交局所基底的多体問題摂動計算)発掘整理。予想外時間超過。眠。


ワシントンポストの担当部署に(電話じゃなく)メールしたところ、
こちらでは最初に印刷公表する権利をもっているだけで、著作権そのものは著者のものです。 転載したければ、著者の了解をとってください。 フッドボーイさんのメールのアドレスは、これこれです。グッドラック!
という、さわやかにして親切なお返事がさっそく返ってきた。 こういう著作権のあつかいは正しいと思う。 もちろん著者は了解済みなので、晴れて、英語版も日本語版もインデックスに追加。 私がセミナーの準備におわれているのだから、インデックスの体裁が改良されているかのように見えるのは集団的錯覚であろうよ。
3/20/2004(土)

卒業式は雨。


パキスタン:核のクローゼットのなかで」の翻訳の暫定版を公開。コメントを歓迎します。なおすのはアメリカから戻ってからになりそうですが。

読んで訳していて、考えること思うことは多かったですが、やっぱ

カーン博士、悪っ!
というのが、すなおな第一のリアクションかも。 (いや、実は、悪いのはカーンだけじゃなくて、というのがテーマなんですけど。)
3/22/2004(月)

午後から大学ですべきことを挙げていくと

などと、めちゃくちゃアイテムが多く、午後だけでこんなにこなせるのだろうか、と不安になったのだが、なんのことはない、いざやってみると、あっさり終わってしまい、さらに OHP に色をつけたり線をひいたりする余裕もあった。 けっきょく、仕事は、単純であれば予定通りに行く、ということなのだと思う。
夕方から、研究室の歓送迎コンパ。

来年から物理学科のメンバーとなる井田さん(現在のホームページ ← すぐなくなると思うけど)も参加。

加速器(LHC とか)で、できる(かもしれない)ブラックホールの寿命について質問した S 君は、さっそく黒板に出て、井田さんの誘導のもと、寿命のオーダーの評価をすることになった。 とても短いので、さしあたって、地球が吸い込まれる危険はないと、一同安心。

井田さんに、ぼくはアメリカに行くので、彼が着任する4月のはじめには学習院にいない、と伝えようとしたところ「日記でみて知っている」とのこと。 ほおれ、web 日記は、こういうときに便利だろうが。


3/24/2004(水)

外国に行く飛行機のなかでは、原則として、ひたすら眠る(眠ろうとする・眠ったふりをする・眠ったことにする)ことにしているのだ。 それが、時差をなんとかするための、唯一最良の方法だと思うから。

それでも、少しおきている時間などがあるから、何か読む本を持って行こう。 滞在先でも、夜、ホテルなんかで読む物がほしくなるときもあるしね。

アメリカに行くのだから、頭を英語に切り替えて暮らした方が楽しい。 英語の本をもっていこう。

--- となると、ほとんど答えはひとつに決まる。

少し読みかけて,しおりのはさんであったペーパーバックを一冊もっていくことにした。

しかし、いざ手にして、表紙に大きくタイトルが書いてあるのをみると、ちょっと、躊躇してしまった。 誰かに見られたら、恥ずかしいというか、照れくさいというか。

やめようかなとも思ったけれど、やっぱり読みたい。 で、わざわざ別の本についていた書店の茶色いカバーを外して、表紙がみえないように、もっていく本にカバーをしたのだった。


さて、以上のヒントだけで、ぼくが持って行く本がわかった人は結構いらっしゃると思う。

はい、

THE CATCHER IN THE RYE
でした。
というわけで、明日、LIBRO のカバーをしたペーパバックをちょっと照れくさそうにもって、飛行機に乗ります。
26/3/2004 (Fri)

I am in the US now. The trip was nice, safe and peaceful (except for the stupid scheduling, which resulted in my rebooking the second flight (and except for the meals they served)).

Since I have switched to the English mode, the title of this page has been changed to logW(E), which of course means "log on the Web (English)", and not something else. Perhaps you might say that the Japanese version should be called logW(J), which may be interpreted as the nonequilibrium entropy for the steady state with flux J. But I do not agree with the opinion that the nonequilibrium entropy takes such a simple form.


When I was at Narita airport walking to the departure gate, I was spoken to by a young graceful lady holding her baby. She turned out to be Y san, who had been our student some years ago. She said she was going back home after visiting her parents. Since it was the area for international flights, it meant that she lived abroad. And, yes, her adorable baby with big eyes clearly showed that she is married to a western guy.

I knew her well since she entered the university. It was when she was a graduate student (in Prof. O's group) that she told me that she wished to study in the US. I was a bit surprised by this since she was a rather quiet (and graceful, of course) girl. I think I wrote some recommendation letters for her. Anyway she did go to a college in the US, studied there, and met a guy who is now her husband!


Yes, I read Salinger in the plain. Not a lot though. (I am a slow reader, and I tried to sleep as long as possible and all.)

In the book Holden is taking a night train, and a lady gets onto the same train in a station. To my surprise the name of the station was Trenton, a station in New Jersey which is very familiar to me. (It was an awful place back in the late 80's. I have no idea what it is like now.) I read this book several times (in the japanese translation) long time ago, so I never noticed that Holden was travelling on a line which became familiar to me during my two years at Princeton. (The train was probably New Jersey Transit, but I am not sure).

When the captain announced that we are approaching Newark airport, the lady got off the train at Newark leaving Holden alone.


29/3/2004 (Mon)

It happened when I was moving from Maryland to Princeton on a train. (Indeed I was on the line that I talked about last time.)

I got off at a big station to change my train, and took one of these escalators from the platform. The lady standing just in front of me had her luggage put on the step just below the one she was standing. In the beginning it was ok as the luggage was on the same level as she was, but as the escalator went up, the level of the luggage became lower compared with that of her. Consequently, she was pulled by her luggage, lost her balance, and started falling backward. Towards me!

In the next moment, I was doing my best to hold her by my left hand and her luggage by my right hand. Fortunately she was not one of these very fat American ladies (If so, I was definitely killed), and I could stop her from falling down (and hitting the back of her head).

When the lady (she was wearing a nice black long coat, and looked somewhat older than me, and, if you want to know, she was white) realized that she was saved, she first said she thanked god that I was there. So I said I also thanked god that I was tough enough to hold her. (I also thank god (or whatever) that my daily workout really helped me.)

To tell the truth, I cannot help feeling that, in such a situation, she should better thank me first and then to god (she thanked me later, of course), but perhaps this is too delicate a problem in religion and culture to which we should not go in.


30/3/2004 (Tue)

Math Phys seminar at Princeton. "Ferromagnetism in the Hubbard model --- a constructive approach"

A great audience, including Elliott Lieb and Michael Aizenman.

I know I was more nervous than usual. Why not? But I think the seminar was basically ok. In any case I am proud of the results I got, and I am happy that I could come back here with them. Elliot's very positive comments also made me sincerely happy. When he says something is really important, I know he really means it.

I think I should thank god (or whatever) for the luck and everything.

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