知の階段への誘い
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皆さんご存じでしょうか。英語では学部生をundergraduate student、大学院生をgraduate studentと呼ぶことを。
graduateの語源はラテン語のgradus(階段)から来ています。つまり、学部生は下の方の階段を意味します。
だから学部での勉強は知の階段を上っていくための足慣らしをしているようなものです。
本当の意味の知の階段は、大学院から始まります。
海外では、企業、行政、NGOの人たちが修士号を持っているのは普通で、博士号を持っている人も多くいます。
組織や社会をよい方向に導こうとするときに、知の階段をしっかりと上った人が必要とされるからでしょう。
しかしながら、日本の大学院進学率はOECD加盟国のなかで最下位です。
研究者や専門職以外の方が博士号や修士号を持っていることは少ないです。
では、なぜ日本の企業や行政等では高い知の階段を上ることを求められないのでしょうか。それは、日本組織のモデルに起因するようです。すなわち、日本は明治維新後に海外の法制度を模倣することで近代国家の仲間入りをし、第二次世界大戦後はGHQ統治下で欧米に倣う形で民主的な政治制度や民法、刑法が導入されました。
その後は極度の先例拘束主義により行政は運営されてきました。
経済は、海外の製品を模倣して品質を高めることで先進国の仲間入りをした国です。
模倣や先例に倣うことを前提とした場合は、常に独創性や独自性が問われる大学院で鍛錬された人を採用するよりも、学部卒の協調性の高い人を採用して組織の色に染めて働かせた方がよいとの判断になりがちです。
企業や行政が大学院卒業者を特に求めない理由がこのあたりにあると見られます。しかしながら、1980年代に入り日本が経済的にアメリカに追いつくかのような段階に達した後、言い換えれば模倣するものがなくなった後、日本は羅針盤の針を失い、ながい停滞の時代を迎えます。
日本の1人あたりのGDPはアメリカの半分に遠く及ばず、韓国に抜かれています。
日本の停滞は経済だけでなく、政策や制度についても言えます。
ジェンダーギャップ指数、報道の自由、高等教育への公財政支出など,多くの側面で日本は先進国の下位グループに位置しています。
そのような衰退と停滞の危機にあるなか、経済におけるイノベーションを、社会における変革・発展を生み出し、日本を、また世界をよりよい方向に導いていけるのは、模倣し、先例に倣う人材ではなく、独創性と独自性に長けた意欲的な人たちです。
大学院での知への階段は平坦でも緩やかでもありませんが、階段を上っていくにつれて、見えないものが見えてくる喜びを感じることができます。
知の階段への扉は皆さんに開かれています。