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共同研究プロジェクト

諏訪 春雄 教授プロジェクト

『東アジア地域の演劇形成過程の比較研究』
Study of a formative period of the East Asian's drama
[Prof. Haruo Suwa]

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1. 目的・内容・期待される効果など

 本研究の目的・内容: 中国の長江中流域で一万年以前にはじまった稲作は長年月をかけて、朝鮮や日本などの東アジア社会に伝来した。稲作は、農耕の技術だけが単独にひろまったのではなく、稲作にかかわる祭祀もあわせて伝来させた。そうした祭祀のなかで、演劇の発生・展開とふかくかかわったのが来訪神の祭りである。複数の先祖の神々が、仮面をつけたり、蓑笠を着たりする異装の姿で、子孫の許へおとずれ、文化をさずけた始原の時間を再現する祭りは、稲作の誕生地にはじまり、アジア各地につたわった。来訪神の祭りは二つの経路に大きくわかれて日本にまで到達した。第一次経路は東方のルートで、中国では、悪鬼払いの儺の行事と結合して、古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇へと展開した。おなじ来訪神・儺の複合体は、朝鮮半島で処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、能、狂言、歌舞伎などを生みだした。第二次経路は西方ルートで、湖南、貴州、雲南、広西チワン族自治区、ベトナムなどの少数民族世界につたわり、比較的純粋な形態をたもったままで、沖縄に伝来した。沖縄、トカラ、九州、石川、新潟、東北各県などの周辺地帯につたわるアカマタクロマタ、アンガマ、トシドン、アマハゲ、ナマハゲ、ナゴメハギなどの民俗行事は、第二次経路の伝播の結果である。以上の全体テーマのうち、第一次伝播経路の日本での展開と、第二次伝播経路は、諏訪がこれまでにほぼ調査・研究をおわっている。諏訪のこれまでの調査の遺漏をおぎない、第一次の中国、朝鮮での伝播経路と演劇の形成過程を調査・研究することが本研究の中心の目的になる。初年度と2年度は、研究会と現地調査を並行しておこない、全容の確認と長江中流域の少数民族社会と日本のトカラ列島をはじめとする各地の民俗調査を実施した。その結果、長江中流域が東アジア社会、ことに日本の社会と文化にふかい関連をもつことが、いっそうあきらかになった。本研究は、中韓日の文化と演劇に関する壮大な構想であり、完成の暁には、東アジア演劇史にまったくあたらしい視点をあたえることになる。

2. 研究スタッフ

【プロジェクト代表】
・諏訪春雄:学習院大学文学部教授(日本語日本文学科)

・吉田敦彦:学習院大学文学部教授(日本語日本文学科)
・田口章子:京都造形芸術大学助教授
・藤澤茜:学習院大学文学部助手(日本語日本文学科)
・凌 雲鳳:学習院大学非常勤講師
・有澤晶子:東洋大学助教授
・石井優子:学習院大学非常勤講師

活動年度:2001年度~2003年度

13年度:3週間にわたる中国調査と3回の研究会を開催した。
(中国調査の詳細については以下に掲載してあります)

14年度:諏訪春雄教授の国内研修期間にあたるので本研究費にもとづく海外調査はおこなわず、関連講演会・研究会を行った。また、国内のトカラ列島その他各地民俗調査を行い、その成果にもとづいて公開の研究会を実施した。その成果の一部は、
諏訪春雄・有澤晶子他『中国秘境 青海 崑崙 伝説と祭を訪ねて』(勉誠出版)、
諏訪春雄「2001年夏期中国調査報告」(アジア文化研究プロジェクト会報12号)、
諏訪春雄・有澤晶子・田口章子『特集東アジア演劇』(アジア文化研究プロジェクト会報13号)
などとして公刊した。
(詳細は『人文科学研究所報』2002年度版に掲載されています。)

15年度: 7月13日「東アジア演劇の形成と展開」於学習院百周年記念会館
公開講演会講師
学習院大学教授 諏訪春雄「芸能と演劇―シャーマニズムからの誕生」
元東京国立文化財研究所芸能部長 星野紘「中国少数民族の歌と舞」
東洋大学助教授 有澤晶子「中国演劇の形成」
民俗芸能学会代表理事 山路興造「能・狂言の誕生」
慶応大学教授 野村伸一「朝鮮の祭祀と芸能」

9月21日 於学習院大学西5号館
公開研究会講師
学習院大学教授 諏訪春雄「中国長江流域の太陽信仰と日本の王権」
日本の天皇制をささえる基本の原理と精神が中国の長江流域の少数民族の稲作文化に由来することを具体例とともに説明し、芸能や演劇の交流の基盤をあきらかにした。①②のテーマに即した研究会であった。

10月11日 「アジア民族舞踊交流会」 於学習院百周年記念会館 公開公演・研究会 中国雲南省舞踏家協会、韓国金英実舞踊団、黛民族舞踊団の三団体をまねき、民族舞踊の実演と比較検討のシンポジジウムを開催した。①と②に成果をあげることができた。

1月4日~7日 中国調査旅行北京において中国少数民族文学研究所、白雲観、北京湖廣会館、故宮博物院、雍和宮(ラマ教寺院)、首都博物館を見学した。また、広州の旧正月行事と民俗芸能の調査も行った。
(詳細は『人文科学研究所報』2003年度版に掲載されています。)
本プロジェクトとも関わりの深い情報や話題を多く取り上げた諏訪先生のホームページも是非ご覧下さい。

2001年夏期中国少数民族調査日程と考察

7月31日(火曜日)
成田発日航791便で現地時間12時すぎ上海着 同行学習院大学非常勤講師凌雲鳳氏・学習院大学大学院生三島まき氏 上海で学習院大学卒業生森万土香氏合流 17時半ごろ湖南省長沙市着 院生李頴氏、林河夫妻の迎えをうける 23時すぎ夜行寝台車で懐化市にむかう

8月1日(水曜日)
10時20分ごろ湖南省懐化着 ホテルで昼食後マイクロバスに乗り7時間かけて貴州省黎平県着

8月2日(木曜日)
午前中「2001中国族稲作と祭祀国際学術検討会」開会式 白康勝氏(中国社会科学院少数民文学研究所副所長、中国少数民族文学会理事長、ナシ族)講演 雲南省麗江の観光都市都市化成功を中心に 午後明清代のトン族民家見学 そのあと7人の研究発表 諏訪春雄「試論東亜戯劇的形式」の題で30分発表(通訳凌雲鳳氏) 夕食時県による歓迎会 トン族歌舞団の歌舞 森氏と「竹田の子守唄」を歌う

8月3日(金曜日)
トン族最大の村肇興寨におもむく 村の入口で歓迎の儀式、音楽隊(芦笙隊)に先導されて鼓楼へ 歓迎の歌舞 そのあと民宿にわかれて伝統的な昼食 15時から「采歌堂」とよばれる各40人の男女による歌舞、「抬官人」とよばれる変型来訪神儀礼など 元中学校長の民宿主人の案内で聖母壇(母神信仰と歴史上の女性英雄が結合)を見学 夕食後、鼓楼前で歌舞の掛合い、琵琶弾唱、観光行政についての座談会など 徳島県の人形舞台復活を例に意見をのべる 民宿で「行歌坐月」(男女の歌の掛合い)

8月4日(土曜日)
伝統の油茶の朝食 苗族の従江 沙で「赶秋節」見学 ブランコ、相撲など日本と共通の習俗が多い 帰途トン族高一文化村を見学 黎平賓館にもどる

8月5日(日曜日)
朝食後マイクロバスで黎平県のトン族地捫村見学 音楽による歓送 聖(祖)母壇祭祀(祭薩)、塘公祠祭祀、開田(田の魚獲り)など 農家で伝統の昼食 14時から舞台での歌戯 中央テレビ局のインタビュ- 20時ころ賓館で夕食

8月6日(月曜日)
午前中天生橋の奇観、長征橋(共産軍通過の橋)など見学 15時半から座談会 日本側5名意見発表 閉会式

8月7日(火曜日)
8時出発 靖州県の4500年前稲作遺跡出土の土器類調査 黔城県到着昼食 唐代七絶詩人王昌齢流罪故地芙蓉楼散策 市中見学 観光都市実現のための座談会 県招待夕食 湖南省懐化市にもどる

8月8日(水曜日)
朝八時に貸切りのマイクロバスで出発 同行は前記5名に林河氏、劉芝鳳氏他1名、運転手をくわえた総勢9名 江族自治県でトン族儺堂戯を見学 そのあと新晃同族自治県の市中見学ののち泊

8月9日(木曜日)
新晃県貢渓郷天井村で族の儺戯調査 通称「冬冬推(トントンツイ擬音語)」ナンバの所作が多い 帰途河で遊泳・夕食 賓館で飲酒・談笑

8月10日(金曜日)
いったん懐化市にもどり昼食 途中長い花橋、天后宮、舞台を見学 午後麻陽苗族自治県に移動し錦江賓館泊 夜、世襲の女巫調査

8月11日(土曜日)
麻陽県の錦江南岸の苗族漫水村竜王廟(盤瓠村とも)で龍舟行事を見る 帰途、天王廟、水中公園の神樹・神岩など見学

8月12日(日曜日)
湘西土家族自治州永順県に移動し県政府招待所に入る 鳳凰県の朝陽宮舞台(陳氏宗祠とも)を調査 夜、町に出て飲酒

8月13日(月曜日)
永順県達双峯村のマオグースーと「擺手舞」を調査 帰途、不二門公園、渓州土家族民俗博物館見学 夕食後、諏訪、民族文化講座講師 観光行政について語る

8月14日(火曜日)
森氏上海市に帰る 湖北省来鳳県卯洞(百戸址とも)へ移動 擺手舞・哭嫁を見る 来鳳県招待所泊

8月15日(水曜日)
湖南と湖北の境をながれる大河酉水のゴムボート下り 諏訪着衣の水泳の初体験 午後小山峡度仮村の仙仏寺摩崖仏調査 夕食後県の擺手堂調査

8月16日(木曜日)
370マイルの山路を12時間車で走って懐化市賓館にもどる

8月17日(金曜日)
10時過ぎの列車で貴州省凱里市に16時過ぎ到着 紅州賓館に入る 林河氏と同室

8月18日(土曜日)
中国凱里国際芦笙節と民族服飾文化祭を見学 4000人の少数民族参加の大イベント 夜、部屋で貴州テレビの長時間のインタビューを受ける 林河氏帰郷

8月19日(日曜日)
朝、関係者に別れ貴陽空港に向う 12時10分発の航空機で1時間後長沙着 林河氏と再会 湘江大酒店に泊 林河氏の案内で市立博物館見学 書店で書物購入 林河氏を招待して夕食

8月20日(月曜日)
朝、部屋に林河氏をむかえて氏の学説への質疑 李頴氏と別れ、長沙から上海へもどる 森氏と再会 上海賓館泊

8月21日(火曜日)
凌氏と別れ、14時10分発JALで帰国

鼓楼
鼓楼は長橋、涼亭などとならぶトン族を代表する建築である。その数は多く、一つの村で多いところでは十数座、すくなくとも複数座が存在する。各氏族がそれぞれ一座を建立するばあいが多いという。一般的には四本の大杉を主柱とし、その周辺に十二本の副柱をそえた楼である。伝説では、四本は四季の風雨の順調、十二本は十二ヶ月をあらわすという。四面、八面などの紡錘形で、頂上は傘の形をしている。層は三、五などから十七面までの奇数である。高さは八、九メートルから十四、五メートルに達するものもある。鼓楼は政治、軍事などの議事の場であり、祖先を祭り、娯楽の場所でもある。起源については大樹にたいする信仰から発生したかとする説がある(劉芝鳳『中国族民俗と稲作文化』人民出版社、一九九九年)。貴州省黎平県述洞村の五層の楼が一株の大杉から変化してゆく過程を確認したうえでの論で説得力がある。 塔は天上界をめざす人間の志向を表現するといわれるが、鼓楼をささえる基本信仰は、樹木、山、太陽の三つである。樹木の信仰はその原型が大杉であったという事実からも、柱が建築物の基本の骨組みになっていることからもあきらかである。山は鼓楼の形状から容易にみちびかれ、太陽は正面にきまって円形の鏡がかかげられ、頂点が太陽を象徴する傘の形をしていることから推測される。この鏡はまたトン族一般民家の玄関のうえにもかならずかざられている。

女神信仰
族のあいだに薩神とよばれる女神信仰がゆきわたっている。薩は族語で祖母の意味である。祖先の女神が薩神である。薩はまた薩歳ともよばれる。最高の祖母、亡くなった祖母の意味である。族の神話では水稲耕作をはじめた人物は薩歳の子孫の姜良姜妹(張良張妹とも)の二人だとつたえられている。天下に大洪水がおこり万物がほろんだとき、薩歳が送った瓜にのってたすかった二人が夫婦となって山川動植物を生み、族をはじめとする人類の祖先になったという。米や魚などもこの兄妹がつくりだしたものである。薩歳はまた隋唐時代の女英雄杏と習合させられる。伝説によると、ある村に杏とよばれる才色をかねた娘がいた。都から派遣された役人が租税として糧食だけではなく田地までもとりあげようとした。耐えきれない村人が反乱をおこし、杏はその先頭に立ってたたかい、役人を殺害した。皇帝は怒って、大軍を派遣し、杏はその軍をうちやぶったが、官兵がその村を焼きはらおうとしたので、杏は高い崖のうえから投身自殺した。後人は彼女を記念して祭壇をきずき神としてまつった。この杏が薩神と同一視されて崇拝の対象になっている。

太陽信仰
族が万物の神として崇拝の対象にしているのが太陽である。太陽にたいする信仰は、薩神信仰とならぶ族の二大信仰である。鼓楼、住居、正装した男女の服装、帽子などに円形の太陽の造型をみることができるし、年中行事のなかにも太陽崇拝が浸透している。また族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常に頻用する。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の機能があるとされている。
この太陽信仰と薩神信仰はふかい関わりがあり、族の人々は、両者を同一とみなし、太陽の光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえている(劉氏前掲書)。

日本神話と族神話
日本神話と族の神話には興味ぶかい類似または一致がある。『古事記』によるとイザナギ・イザナミ神話はつぎのように展開している。
1. イザナギ・イザナミの二神は、神世七代に男女対偶神として生成し、天上界にたいして国土の生成、始動にかかわる。
2. 天神の命をうけて、二神はまず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって成婚する。
3. 二神ははじめヒルコなどを生んで失敗するが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆく。
4. 黄泉の国訪問とイザナミの死。『日本書紀』はこの神話を欠いている。
5. イザナギは日向の橘の阿波岐原でミソギをする。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうことによって、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生する。

これに対応する族神話を劉氏の前掲書によって、かかげる。
1. 姜良姜妹の二神は洪水のさいに瓜のなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわる。
2. 二神は最高神の薩神のはからいで結婚する。
3. 二神は九ヶ月で一人の男子を生む。その男子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間であった。その身体が斬りくだいかれて民となり、手の指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土堤や田畑となり、歯牙が黄金白銀となった。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、人類などが誕生した。

この比較で、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたが、その身体から国土と人類が誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』の天神にあたる)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目される。
さらに薩神とアマテラスとのあいだにも以下のような一致点がある。

イ 民族の祖先の女神
ロ 太陽神でもある
ハ 稲作の神である
二 歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖神)と習合し祭壇がもうけられたトン族神話が日本神話
の直接の原型であると断定はもちろんできないが、稲作の源流地から稲作が日本へつたわったときに、その地の祭祀や神話もともにつたえられた可能性がかんがえられる。

抬官人とマオグースー

「湖南省土家族のマオグースー」
族社会でおこなわれている抬官人という芸能について、中国の学者は、来訪神儀礼の変型という認識はもっていない。貴州省でシリーズとして刊行されている民俗書『苗風韵』(政協貴州省委員会文史資料委員会等編、貴州人民出版社、1998年)では抬官人についてつぎのように説明している。
黎平県肇興郷一帯の族同胞の民俗行事で、三百年以前からおこなわれている。過去の社会現象と伝説を表現し、演劇的色彩が濃厚である。この民俗行事は、春節期間の「月賀」に挙行されるのがふつうである。月賀は族特有の伝統習俗で団体客をむかえる行事である。村の青年男女が数十人、または数百人で、歌隊や戯隊、芦笙隊などを編成して客をむかえる。べつに客を各家にまねいて琵琶歌や唱歌でもてなす。この行事は三日から五日間つづき、すくなくて数百人、多いときには数千人が参加する。抬官人は月賀が最高潮にもりあがったときに、その噂を聞いたべつの村が、官人に扮した人とその前後に隊列を組んだ人を派遣する行事である。相互の交流と族の団結をはかる効果をあげる。参加者は多く青年で、官人にはその一人が扮するが、ときには子供が演じることもある。官人は四人がかつぐ乗物に正装してすわり一言も発しない。まず四、五人の顔に化粧した先遣隊をおくり、赤い紙に貴塞の春節に祝賀の意をあらしに参上しました。
××塞 乞食軍
としるした札を貼る。三発の銃声、芦笙の演奏、爆竹にむかえられて官人の隊伍がくりこんでくる。前駆は楽器隊であり、そのあとに矛・戟・刀・剣などをもった護衛がつづき、官人とその夫人の乗物のあとには多数の随従人の列がしたがう。この従者の化粧、扮装は奇怪である。彼らは裸体にわずかな襤褸をまとうだけである。顔には鍋墨や石灰をぬり、身体には青龍や白虎をえがく。あるいは山賊や乞食、あるいは妖魔や鬼怪、あるいは男か女か不明、あるいは仏教僧でもなければ道教僧でもない、扮装をしている。彼らの隊がほかの村をとおるときには、かならずその村の鼓楼を三度めぐり、村人は爆竹を鳴らし、芦笙を吹き、茶や水の接待をする。官人は紅の紙につつんだ銭一封をわたして謝意をあらわす。月賀の鼓楼に隊が到着すると、その村の娘たちはならんで歌をうたいかけ、銭を官人からもらおうとする。そのやりとりで観衆はもりあがる。奇怪な従者たちは、滑稽な動作や多少の劇的な所作で爆笑をさそう。この官人の隊伍に派手な衣装に頭に羽毛をさした老けた娘たちがついてくる。彼女たちは、片手に花傘をもち、片手に炒めご飯・もち米の粽など食物のはいった竹篭をもっており、村の責任者にその食物を贈って祝賀の意をあらわす。官人が銭をほどこしおわり、娘の食物を贈呈すると、隊伍は芦笙の演奏と爆竹に送られて帰途につく。 この行事を変型の来訪神の儀礼と、私が判断する理由はつぎの三つの理由による。(1)従者の化粧と扮装、(2)食物のやりとり、(3)古代生活の再現、である。清代のころからさかんになった中央官吏の地方巡察を来訪神儀礼と組みあわせたものであったろう。 湖南省の永順県につたえられている来訪神儀礼のマオグースーは、一九九一年に私が調査したものに比較しても、マオグースーの性格がわすれられている、祖公・祖婆の役割が明確でない、裸体ではなく下に衣服をつけている、藁づくりの性器をさげていない、などの変質がすすんでいる。観光化の波は少数民族社会にもおしよせてきている。

4. 今後の活動予定

本プロジェクトは、2004年3月31日を以て終了いたしました。
ご協力下さった皆様に厚くお礼申し上げます。

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